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【意見表明】 新型コロナウイルスに負けた教育③ -和辻哲郎と日本型対応-


 今朝の散歩では、70%くらいの人がマスクをしていませんでした。
 昼間になると、30%くらいと大幅にマスクをしない人が増えていました。

 前回の「新型コロナウイルスに負けた教育② -客観的事実に出発する学問 カール・ポパー-」では、〔自然科学や知識に基づかない「空気読め」〕 について書きました。
 今回は、こうした日本型の対応は、そもそも日本語の特徴から生じる日本人の思考方法から生まれている、という風に考えました。哲学者和辻哲郎氏の文章を引用してご説明します。

 今回の新型コロナウイルス(武漢肺炎)の対応で最も驚くべきことは、1つの対象を、より普遍から、あるいは特殊から比較検討しない、ということです。前回の文章で述べたように、毎年肺炎で12万人死亡しますが、新型コロナウイルスでは年換算で2500人です。ですから、今後も引き続き注意喚起は必要ですが、他の病気、あるいは肺炎そのものへの対策が必須なのです。けれども、日本型対応では、こうした普遍という概念を用いて問題を分析しないことでしょう。大東亜戦争の敗戦原因であり、東日本大震災等での構造的欠陥というのは前々回に指摘してきた通りです。

 では、どうして概念による把握をしないのでしょうか。実践の対応ばかりになるのでしょうか(だからこそ空気が生まれるのですが。)

 和辻哲郎著『日本語と哲学の問題』 から「知る」について引用してみます。

〔 一般に「しる」ということが己れに「むかひ立つもの」と己れの内の働きとの合一関係であるという考えは、日本語には強くは現わされておらぬと思う。 (中略)
 そうなれはこの語によってGegenstand(高木注 ドイツ語 :主題 物 対象等)と同じ意味を現わすことはできぬ。一般に主観に対立するものとしての対象を現わす語は、本体の日本語には存しない。(中略)
 以上のごとく日本語には理論的認識への強い性向は現れておらない。(中略)
 しかしこの方面の未発達は日本語が全体として発達の度の低いものであることを示すものではない。日本語は情意的体験の表現において優れ、知的分別において劣っているのである。このことはまた日本語が一定の思想的立場によって硬化させられることなく、体験の表現としての新鮮さ、豊富さ、弾力性などを著しく保持していることをも意味する。もし近い将来に日本語のをもって思索する要求が現れてくるならば、日本語はその永い歴史の後に初めて体験の表現から概念への進展を体験することになる。〕 
                                                 26-28頁

 和辻氏は日本語そのもの特徴として、己と対象を強く区別し、対象を概念化しなかった、と述べています。もう1点、一定の思想的立場によって硬化させられない、とも述べています。

 新型コロナウイルス対策でマスクを着用する、というのは概念としては否定されていました。しかし日本人はこれまでのインフルエンザ対策や風邪対策の想い出からでしょうか、マスクを着用しています。多くの人は「コロナウイルスは小さくてマスクでは殆ど止められない」ということを知っているにもかかわらず、マスクをするのです。その反応はウイルスを概念として把握するのではなく、過去の想い出を懐かしむように情緒的です。和辻氏が「情意的体験の表現」と述べているのが思い起こされます。
 また、コロナウイルスは理論的認識をもって把握されていません。新型コロナウイルスはこれまで肺炎として分類されていたのであって、その肺炎そのものからすれば、約50分の一に過ぎない、という把握はされていないのです。
 加えて言えば、政府の緊急事態宣言を体験として、その体験を数々の商売や教育や多くの分野において体験化しているということが日本型対応の特徴でしょう。ロシアやアメリカなどでは、当該国の緊急事態宣言に反発する動きがでていますし、宣言に含まれない分野は全く対応していないからです。和辻氏は「体験の表現としての新鮮さ、豊富さ、弾力性」と指摘しています。

 以上の例から判明するのは、和辻氏が日本語の特質について指摘した内容が、新型コロナウイルスの対策の日本型対応とそのままである、ということです。

 とするならば、新型コロナウイルスの日本型対応は、言語の歴史や特徴から生じる根深いものであって、他国の対応は日本社会ではありえなかった、ということになります。

 
 ここで、「もう1点、一定の思想的立場によって硬化させられない」について書いていきます。

 挙国一致体制が成立してしまった今回の対応ですが、それが思想的立場によって硬化させられていない、ということも言えます。例えば、アメリカでは「中国共産党が今回の最大の責任者だ! 赤狩りだ!!」という思想的立場によって硬化が起っています。欧州各国やアフリカ諸国では「中国人殺害、迫害」が連日起っています。しかしながら、日本では、あるいは私の身の周りの中国人に対して、「中国人だから!」と暴行を加えられた、殺された、侮蔑語を投げつけられた、ということを聞きません。
 「中国人と中国共産党は違うから!」という理論的認識をはっきり根拠に挙げる人は少なく、あるいはそのような主張がテレビや新聞のCMなどで流れることさえありません。これも思想的立場が硬化していない証左であります。

 こうした対応もまた、新型コロナウイルスの日本型対応は、言語の歴史や特徴から生じる根深いものであって、他国の対応は日本社会ではありえなかった、ということになります。

 最後に、今後について述べたいと思います。

 和辻氏は先ほどの引用文に続けて、以下のように一文を書き上げました。

「それはドイツ語がゲーテやヘーゲルの時代に体験したことであった。日本語はそれに比して一世紀半遅れているのである。」

 今回の新型コロナウイルスの日本型対応について、芸術家、文芸家は理論や概念を用いつつ大衆芸術として流布することができるのでしょうか。和辻氏はそこに日本の未来を見ています。ですから「遅れている」と書いているのです。私は、日本語の特徴を変えるほどの芸術家、文芸家が出てくることの不確定さに未来を視ることはできないでいます。加えて、日本語は一万年前後の歴史を持つ古い言語のひとつであり、数多くの芸術家、文芸家(詩人や俳人など)が現在でも日本語を、理論的認識から遠ざけて、体験の表現としての新鮮さ、豊富さ、弾力性を積み重ねていると考えています。ですから、この重層性、現在性を覆せるとは思われないのです。

 で、あるならば、こうした重層性、現在性を対策の少数の実行者(政治家や行政)が認識した上で対応するしかないと考えざるをえません。

 そしてまた、これは教育の敗北でもあるのです。
 なぜならば、教育とは概念に基づいて知識の蓄積や新たな分野、方面、知識への展開を目指しているからです。それは決して言語の特徴によって左右されるべきものではないからです。左右されているという意味において、現在の新型コロナウイルスの対策は教育の敗北と言えるのです。

【意見表明】 新型コロナウイルスに負けた教育② -客観的事実に出発する学問 カール・ポパー-

 新型コロナウイルス(武漢肺炎)への意見は2点あります。

 1点目、「空気読め」で立憲主義を捨て去ってしまう
 2点目、自然科学や知識に基づかない「空気読め」が出来てしまうこと

 1点目は前回、前々回に意見を表明しました。

 今回は2点目の自然科学や知識に基づかない「空気読め」について説明したいと思います。

 今回の新型コロナウイルス騒動は自然科学や知識に基づかない、というのだけを読むと、「ほんまかいな?」、「この人は変な人だ!」と思われることでしょう。
 確かに免疫学等の専門家会議によって発表され、そして政府の方針が決められています。報道がそれに基づいて行われています。どうして自然科学や知識に基づかない、と言えるのでしょうか。

 学問は、「たくさんの事実から出発しましょう」、「反対意見も聞きましょう」が基本なのです。
 今回にように専門家会議の発表だけを事実とすること、反対意見をすべて否定する前提で聞くこと、は学問に反しますし、自然科学の学問の本質に反します。これは科学哲学者カール・ポパーの「反証可能性」が議論を重ねました。私は大学院時代、ポパーの思想を学びました。詳しくは私の論文「反証可能性と再現性」等をご覧ください。

 具体的にご説明します。今回の新型コロナウイルスに事実を少し足してみましょう。

事実1) 肺炎は新型肺炎の50倍危険

 2015年日本国内の肺炎の死者は12万3000人です。
 新型コロナウイルスの死者は年間換算で2500人です。 

 年間換算は2月から5月8日現在まで約3か月で死者が556人、12か月なので4倍して2224人=2500人としました。
 出典元は厚生労働省の「人口動態統計の年間推移(平成27年)」 の2頁目です。
 https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suikei15/dl/2015suikei.pdf

 新型コロナウイルスの50倍を通常の肺炎が殺している、という客観的事実があります。
 これについて「今後、増える」、「そうはいってもワクチンが、対策がまだだから」という様々な意見があることでしょう。しかし、それは多様な意見、分析の1つ(論拠)であって、万人共通の事実ではないのです。「通常の肺炎は新型コロナウイルスの50倍危険である(人を殺している)」という事実から、「だから、今回の政府の対応は極端すぎる(普遍性がない)」という意見が出てきてもいい訳です。また、この捉え方は事態全体を把握する客観的事実の志向にも沿うものです。もう1つ事実を足してみます。

事実2) 新型ウイルス発見は2,3か月に1回

 「1年に5種の新型ウイルスが発見される」

 国際ウイルス分類員会は全部で3万種のウイルスがあり、哺乳類と鳥類で650種としています。風邪を引き起こすライノウイルス1種は110のタイプがあります。そもそもウイルスへの対策は120年前の牛の口蹄疫ウイルス、ウイルスの推定、検出は50年前です。ですから、650種÷120年=5個 となります。ウイルス対策の歴史を見てみると「1年に5種類のウイルスが発見される」となるのです。もちろん、推定、検出を基にすれば「1年に11種類」となります。1年間に5種類平均で新型ウイルスが発見されていますので、2.2か月に1種類で発見されているのです。新型コロナウイルスは出てきて、5か月前後ですが別の新型ウイルスが2つ発見されているのが平均である、ということになります。すると、1つのウイルスのみに注目していることは、これまでの客観的事実として対応が十分とは言えなくなるでしょう。新型コロナに対応しつつも別種の新型ウイルス発見のための体制も整えておく必要性があるのではないでしょうか(私の論拠)。

 ご存知の方も多いかもしれませんが、ウイルスには数々のタイプがあります。アメリカでは1年に3回ウイルスに感染する、と言われています(アメリカ国立衛生研究所は「一生に200回位感染」と報告)。スペイン風邪が報道で引き合いに出されますが、これはウイルスが推定、検出前です。このように視点を広げる多くの事実を足してみると、現在の政府の対応や報道のあり方が遠くから観られるようになります。

 以上、事実1)と事実2)を加えてみますと、現在の新型コロナウイルス対策がどのようなものであるかが浮かびあがってきます。加えて、論拠を1つに絞り込むことの危険性が明確になります。ゆえに、「2点目、自然科学や知識に基づかない「空気読め」が出来てしまうこと」が示せるのです。


具体例での説明

 本日は令和2年5月6日ですが、千葉県のパチンコ屋に客が集まり、混乱したというニュースが報じられました。朝日新聞DIGITAL 5/5(火) 20:04配信

 「パチンコ店騒然、客と自粛派どなり合い 市職員は横断幕」  

 このニュースで私が最も憂いているのは、「政府が緊急事態宣言を出したから絶対に正しい」と盲信している(空気よめ)」ということです。
 確かに政府は法律を制定し対策を遂行します。しかしそれが絶対正しいと国民が思考停止に陥って良いのでしょうか。権力のチェックをしなければならない報道機関が、政府の方針や対策をチェックせず、具体的な施策を立てたり、批判しなければならないのではないでしょうか。私の日常では「マスクをしないと入店させません」という店が少しづつ出てきました。これは政府の緊急事態宣言は絶対に正しい、と信じているからでしょう。自分で考える力、具体的に考える力、反対意見に気が付ける力を失っていると私は捉えます。そしてそれらは教育が、あるいは学問の本質を失っている姿に映るのです。カール・ポパーの反証可能性の無い世界と考えるのです。事実1)と事実2)を見れば判りますが、絶対に正しい答え(ましてや対策)はないのです。そのうちの1つを行政が選んでいるだけで、他の可能性を見ない、という思考方法は、大東亜戦争の敗戦の原因、東日本大震災の法律無視の対策で繰り返されてきたのです。詳しくは前回、前々回をご覧ください。

 以上の意味で「新型コロナウイルスに負けた教育」と題しました。


付記 私は静岡市葵区に住んでいます。朝散歩で、神社に参詣する道に小さな社があります。約百年前の疫病で13戸しかない小さな村が隔離されたという来歴が書いてありました。今朝はこの文に目を通して想いが青空へと広がりました。百年後、現在の新型コロナウイルス対策はどのように観えるでしょうか。小さな社の周りは家だらけで、田んぼもあぜ道もなくなっています。疫病を乗り越えて、静岡市葵区が人の住まう場所になっています。今回の新型ウイルス対策では、人類の繁栄に貢献する視点を忘れないようにしたいものです。

【意見表明】 新型コロナウイルスと憲法違反

 以下の見解は私個人の見解であることを、念のため書き添えておきます。

 2月27日に安倍首相が「全国の小中高校に臨時休校を呼び掛ける対応」を求めました。
 私の身の回りでも、卒業式の縮小、イベント等の中止が起こり、首相の宣言に従うだけの方向に向かっています。

 私は首相の要請は憲法上の根拠がなく、かつ、憲法違反である、と考えます。

 と言いますのも、憲法には教育の義務があります。そして憲法には今回のような緊急事態等に関する条項がないからです。加えて憲法は最高法規と規定されているからです。

 私の論拠を書きます。

 憲法は最高法規であり、法律よりも優先されます。憲法と同等なのは憲法のみです。であるならば、教育の義務を犯すことは、首相の発表や、国内法ではできないのです。できるようにするには、憲法に条項がなければなりません。

 では背景を書いていきます。

 そもそも憲法改正を安倍首相は選挙等で主張してきました。その理由の一つが緊急事態条項であり、国会でも取り上げられてきました。ですから、今回の宣言において、安倍首相は「憲法違反ではあるけれども、緊急事態であるから」と国民に広く通知すべきです。

 しかし首相官邸のHPに根拠として以下のように示されています。

「何よりも、子どもたちの健康・安全を第一に考え、多くの子どもたちや教職員が、日常的に長時間集まることによる感染リスクにあらかじめ備える観点から、」

 根拠となる憲法、法律は一切示されていないのです。これは日本の法治主義に反するものです。これほど国民生活に重大な影響を与える事項を、首相の発表だけで求めてしまう、ということはあってはならないことです。マスコミもこの法治主義に反する首相の行為をどうしてチェックして、批判しないのでしょうか。さらに、野党は普段は「憲法を守りなさい」と言っているのに、新型コロナウイルスが怖いという空気が蔓延(まんえん)しているだけで、主張を引っ込めてしまうのでしょうか。

 歴史で観てみます。

 法律に基づかず、マスコミや野党による権力のチェックが行われず、空気が蔓延して、首相の発言だけで国政が運営されて大失敗した例が日本の歴史(国史)には、数々あります。その中で最も悲惨な歴史の一つが、大東亜戦争(略称 太平洋戦争)です。軍隊の暴走を、国民が支持し、マスコミがチェックせず、野党は機能せず、満州国を建国してしまい、国際的な孤立をし日本は悲惨な先の戦争へと突入しました。

 もう一つは、東日本大震災の対応です。当時は現在の野党が与党でしたが、法律に基づかず原発事故対策をし、その後も処理も法律違反の状態で続いています。国民が東日本大震災は悲惨だ、原発は危険だ、と一気に反転し、マスコミは東京電力とその社長を個人攻撃しました。私は講義で事故対策も多少取り上げますが、この事故対策が法律違反の状態、加えて憲法違反の状態(なぜなら、緊急事態条項がなかったので)であったと講義しています。

 日本人は、このような危機になると、空気に流され、マスコミは普段の態度を反転させ、野党は小さくなり、一つの方向に流れ出します。そして憲法や法律を無視していくのです。

 今回の安倍首相の宣言、そして身の回りで、その宣言を疑うことなく従っていく、学校や社会があります。
 日本の絶望を見た気がします。

 私は、教育の力を信じて、学生の皆さんたちとこの問題を解き続けていこうと決意しました。
 同時に、『論語』を始め、今後も学問の研鑽を積み重ねようと改めて思いました。

 ささやかなブログのご拝読に感謝いたします。

 令和2年2月28日
 

付記:首相官邸のHPには根拠として、「健康・安全を第一に考え」とありました。しかしながら、2月28日現在、インフルエンザの死者数が多いという疫学上事実との整合性が取れません。新型コロナウイルスの死者が高齢者や乳幼児、合併症等に偏っている事実と、小学校等の休校にも合いません。今回はこれらの自然科学(免疫学等)の問題は取り上げませんでしたが、認識はしております。

付記:校正2か所令和2年3月12日
「学生の皆さんたちとこの問題を」←「学生たちにこの問題を」
「今回はこれらの自然科学(免疫学等)の問題は」←「今回はこの問題は」

付記 同年3月13日、「新型コロナウイルス(武漢肺炎)」を新型インフルエンザ等対策特別措置法の対象に加える法改正が成立し、同月14日から成功されました。これによって国民の私権制限も可能となりました。
 つまり、これまでは法律上、不可能であった訳です。ただし、国民の私権は憲法で保障されているものです。憲法改正をしなければならないと考えます。

付記 同年5月3日 FNNPRIMEが 「“緊急事態条項”必要性訴えへ 安倍首相 憲法フォーラムで」 国内 2020年5月3日 日曜 午前6:29
 と報道しました。同内容は他の新聞等でも報じられました。内容は題名通りです。
 私は、「武漢肺炎(新型コロナウィルス)」への対応に憲法改正の文言を入れるべきであったこと、また、法的根拠、憲法上の根拠の無いことを国民に誠実に訴えかけるべきであったこと、事態を戦時と同等に扱うべきであったこと、はこれまで述べてきた通りです。
 戦時体制に各国がなっていっています。この事態の中、国権が私権を制限する方向へ向かうことでしょう。そういう中で、私権を担保すべき論陣や行動が求められていくことでしょう。それは敗戦時に私達の先祖が「お前は非国民だ!」と糾弾し、東日本大震災の時の反原発一色となったからです。
 今回も、とうとう、「マスクをしないと非国民」という空気が流れだしています。法的根拠に基づかない行動を国民が空気を読んで勝手に始めてまっています。私は、東日本大震災の後に「このようにリスクがはっきりしてきたのなら、一部の原発再開は賛成です」と述べた時の雰囲気を感じています。自然科学の知識、今回は免疫学の知識に基づいた知的判断を自由に論じられないことは、教育界の敗北だと考えます。(長くなりましたので、別記事とします)

質問回答「ギャンブルについて」

「もしよければ、先生がギャンブルについてどんな風に考えているか、をブログに書いて欲しい」

と最終講義に学生のから申し出がありました。折角、口頭で伝えられた疑問ですので回答します。

――――――――

 まず、事実から出発します。
ギャンブルには「控除率(こうじょりつ)」があります。ギャンブルをする際の手数料です。
例えば、競馬はCMをテレビで流していますが、そのお金が引かれています。加えて、建物を建て、職員を雇用していますので費用が掛かります。この費用を控除率として、掛け金から百分率(パーセント)で引いているのです。

競馬、競輪、競艇等は「25%」 
1000円掛けると750円が買った人に戻るように計算されて倍率が決定します。

宝くじは「54%」          
1000円掛けると460円が買った人に戻るように計算されて払い戻し金(と倍率)が決定します。

※ パチンコはこれまで店が勝手に台の釘をいじって控除率を決めてしまう、という状況でした。また、パチンコは「ギャンブルではない」という前提で運営されています。なぜならギャンブルは法律で公営しか認められていないので(色々な政治的要因があるのでしょう)、ここまでにします。
詳しく知りたい人は、『パチンコ「30兆円の闇」』 溝口 敦著 小学館文庫 をどうぞ。

控除率だけ見ると、競馬や競輪が良いように見えます。現実はどうでしょうか。

軍資金10万円あります(お金持ちですね)。

競輪、競輪は1日10レース、11レースあります。すると、1日の終わりには・・・

1レース目、10万円×75%=  7万5000円 
2レース目、7万5000円×75%=5万6250円
・・・
10レース目、7508円×75%= 5632円
11レース目、5632円×75%= 4224円

となります。つまり、10レースすると、10万円が5700円になり、9万4300円を取られるのです。
これは公開された情報を元に、電卓で計算したものです。
宝くじは、10万円で5万4000円しか取りません。4万6000円も払い戻してくれます。

これを体感で確かめてみましょう。
宝くじは、サラリーマンや主婦、老人から若者までやっていますし、身なりは普通の人が多いです。
競馬や競輪はどうでしょうか。中年から老年の男性が多く、身なりはボロボロの人が多くないでしょうか。

私は京王閣競輪場という東京の調布市にある競輪場の中でアルバイトをしていました。ですから、お客さんの身なりを実際に見てきましたので、こうした実感を持っています。この実感は、10万円の内9万4300円取られる、という確率計算と一致しています。

――――――
以上がギャンブルの事実の確かめです。これを踏まえた上で、私の考えを書きます。

 私は「人間には光も闇も必要である」という思想上の支点を持っています。

 タバコ、アルコールは人体に有害です。アルコールは大麻等の違法物質よりも依存症になりやすい物質ですし、最も人間を殺している物質(の1つ)と言えます。タバコの依存性質、人体への有害さは言うまでもないでしょう。また、スマホゲームなども全く役に立たないだけで時間の無駄です。課金をすればお金の無駄です。けれども、人間が人間らしく生きていくために、あるいは人間が個人を確立するために、このような闇(非合理)を内包する必要がある、と考えています。

 一所懸命勉強すると成果も出ますし、周りにも認められます。いいことずくしです。けれども、それだけしかしない人はホッとしないでしょう。行き過ぎると

 「これって本当に私だろうか? 周りの望む私を演じているだけではないだろうか?」

と思う人が出てくるという例があります。この時に闇(非合理)なものを求めるのだと私は考えるのです。個人によって闇は異なりますが(異ならないと困りますが)、必要なものだと考えるのです。

 その一つが、ギャンブルだと考えます。他に、ゲームであり、タバコであり、アルコールなどであると思うのです。
だから、私はギャンブル全否定はではありません。全否定は私の思想からして出来ないのです。これを思うようになったのは、アメリカの禁酒法や秦の始皇帝の焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)などです。よかったら調べてみて下さい。

 「ギャンブルは損をするけれど、全否定できるものではない」

 以上が私のギャンブルに対する考え方です。

―――――――
 以下は私個人とギャンブルの関りです。

 高校の時、学生服や私服でパチンコに何回か行きました。タバコが苦手だったのですが、何となく、あのうるさい雰囲気にひかれたのです。1回5000円(高校生には大金でした)も負けてもう止めました。競馬も違法だったですが何回かしました。負けたので止めました。競輪では京王閣でバイトをしたので内情がよくわかりました。通常の時給の倍近くあり、労働時間は1時間の内5分、10分と極めて好待遇でした。これは控除率で利益が高いからだと後から判りました(現在は厳しくなったようです)。

 こうした経験を通して感じているのは、「ギャンブルは損をする」ということです。仲間内でマージャンをすると、私が損をしても仲間の誰かが儲かります。私が損をするのは私の腕がないからです。他方、「ギャンブルは、自分が神様で普通の人と絶対に違うと思い込まないと(幻想)、必ず損をする。得をするのは知らない人」と学びました(大学はこういうことを調べる時間や場所があると思いますので活かしてほしいです)。

 知らない人にお金を取られるくらいなら、身の回りの人に贈り物をして喜んでもらう顔がみたい、と30歳くらいから思うようになりました。そうなると、ギャンブルをしたいという気持ちがどこかに行ってしまいました。

―――――――
 
 以上が「ギャンブルについて」です。
 何かありましたら、コメントを頂ければ、と思います。 

【倫理】世界情勢の技術者倫理からの観方 ─「情報の取得領域の自由」─ 

ーー「富士論語を楽しむ会」の会誌(同人誌)に投稿した内容です。ーー


 毎朝、新設のこども園の前でおじいさんが立っている。

 「おはようございます。」

 毎秒一人が通るような、賑わいと朝の忙しさの中で、全員に声を掛ける。明るく、それでいて一人一人異なる声色で頭を下げる。

 中学生か高校生男子が二人で自転車をぶつけてじゃれあっている。返事はしない。反対側の背の高い女子は全身ジャージに身を包み耳から音楽を聴いている。バスケット選手だろうか。

 同じ世界の位置にあって、取得する情報がこれほど異なるのか、と感じた。私は「今日も仏様に逢えた。ありがたい、ありがたい。今日もいい日だ」と感謝の念を抱く。高校生男子は自転車をぶつけあってけりあっている。友達からの気持ちや意図に気を配っていて、友達からの情報しか見ていない。ジャージの女子は耳からの音楽情報しか取得していない。二つともおじいさんは、あたかも居ないように振舞っている。
 このように同じ世界の位置にあって、取得する情報が広がっていることを、現代社会では実感するのである。特にそれはスマートフォンによって急激に拡大した。同じ空間にあっても、スマートフォンの向こうにインターネットがあり、数々のアプリができた。これまでメールやSNSなど人間相手だけ、あるいは決まった音楽を聴くだけであったのが、本、ゲーム、数々の学習、料理、同時性を持つLINEなどで増えた。これまでパソコンという部屋の中で固定された場所でしか取得できなかった情報が、どの位置でも取得できるようになった。それによって同じ世界の位置にあって、所得する情報が量だけでなく質(次元)が広がったのである。言い換えれば、「情報の取得領域の自由」が拡大したのである。十年前はパソコンや電話、など情報の取得する領域は、世界の位置(例えば、部屋、電話の前など)によって制限されていた。五十年前にはパソコンによる情報取得は文字だけであった。このように二十世紀を振り返ると、大きな流れがあったことに気が付く。それは政治の潮流としての民主主義の勝利ではない。むしろ、「情報の取得領域の自由」が、民主主義よりも強い流れである。この激流は二十一世紀になって、技術の影響力が社会を根底から支える様になって、より顕在化してきているのではないだろうか。

 冷戦崩壊後に台頭してきた中華人民共和国は民主主義ではない。その投票方法を観れば判るように権力は共産党に集中している。冷戦は民主主義の勝利で終結していない。アメリカ合衆国は経済が発展すればこの共産党独裁という権力の集中がなくなって民主主義に進むと考えていた。しかしそうはならなかった。政治の潮流としての民主主義の勝利という政治上の解釈では説明しきれないのが、二十一世紀なのである。
 他方、「情報の取得領域の自由」から説明可能である。確かに中華人民共和国では民主主義になっていない。しかし、「情報の取得領域の自由」は人民レベルでは拡大している。彼らはスマートフォンを持ち世界の数々の情報にアクセスできる。もちろん、グーグルやフェイスブックなど多くの情報の制限は掛けられているが、スマートフォンが認められることによって、過去の人民より拡大している。共産党や政府の介入によってインターネットに制限は掛けられているが、それはアメリカや日本の先進国との比較においてそのように映るだけであって、一人の人民を基準にすればスマートフォンのみならず、多くの機器によって「情報の取得領域の自由」が拡大している。独裁国家であっても二十年前より、一人の人民が受け取れる情報が拡大している、という意味である。この観点から眺めると、人民が求めるものは、民主主義に基づく自由な投票ではなく、「情報の取得領域の自由」と映る。それが彼らにとって不満や不安など大きな要素ではなかろうか。普段、彼らに接していると感じるのである。
 そしてこれはこれまでのヨーロッパ型の民主主義として解釈されてきた、「自由、人権、平等(あるいは博愛)」という基本理念とは異なる。そしてそれは技術に大いに由来する、という解釈も成り立つ。

 人類史に立てば、この解釈は一定の説得力を持つ。例えば、孔子の時代、鉄器の普及によって農業生産や商品の流通が増大し、周王室を頂点とする階級社会が崩壊し、一気に統一王権である秦が登場した。そこで、度量衡の統一によって各地域との貿易や移動が拡大した。そして黄河流域から長江流域、あるいは北部や西部へも王権の支配が及ぶことで、多くの民族や新しい商品などと触れられるようになった。これは技術の発展がもたらした「情報の取得領域の自由」の拡大と言える。
 孔子は古い周王室の階級社会の復権を探りながらも、支配階級以外から弟子を取り、支配階級へ送り込むという学団(学校)を作った。思想上は懐古主義でありながら、鉄器が階級社会を壊す中で、新しい優秀な才能を求めるという時代に適応したのである。孔子の弟子の多くは支配階級とは言い難く、孔子自身も低い支配層の出身であった。しかし、彼は国家の中枢の地位につき、弟子たちも支配層に入った。これは「情報の取得領域の自由」の拡大による恩恵なのである。そこには、全ての人間に生まれながらに「自由、人権、平等」があるのではなく、「優れた才能が優れた役職に就く」という意味での自由や人権や平等が見られる。
 これは明治維新に急激な技術革新が進み、その時代に福沢諭吉の『学問ノススメ』が現れたことにも見られる。明治維新では、階級社会が現代よりは色濃く残る時代ではあった。つまり、ヨーロッパ流の「自由、平等、博愛」を満たしいていない時代であった。他方、この時代には階級社会に囚われず、「優れた才能が優れた役職に就く」ことが満たされていた時代である。福沢自身が孔子と同じく低い支配層の出身ではあったが、彼は数々の偉業を成し遂げている。

 二十一世紀において、ヨーロッパ流の「自由、人権、平等」よりも技術革新に発する「情報の取得領域の自由」として世界を解釈することの重要さがここにある。そしてこの視点を用いると、現代社会とは、極めて自由が高くなった社会であると位置づけられる。今後の世界の展望において、技術革新に支えられる「情報の取得領域の自由」は、一定の重要性があるように思われる。
プロフィール

    名前:高木健治郎

科学技術者の倫理(令和2年度)
書いたもの 令和二年度
科学技術者の倫理(令和元年度)
書いたもの 令和元年度
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科学技術者の倫理(平成30年度)
書いたもの(平成29年度)
科学技術者の倫理(平成29年度)
哲学(平成28年度)
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哲学(平成27年度)
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哲学(平成26年度)
「科学技術者の倫理(平成26年度)
講義録「哲学」
書いたもの(平成26年)
書いたもの(平成25年)
論文(高木健治郎の)
講義録「科学技術者の倫理」(平成25年度)
高木ゼミ『銃・病原菌・鉄』
高木ゼミ全6回『ぼくらの祖国』
教養講座6回分(平成24年度)   講義録21~
講義録「科学技術者の倫理」(平成24年度)     講義録1~15
講義録「科学技術者の倫理」(平成23年度)
石上国語教室で行われた講演のレジュメです。哲学が足りなかったのが、福島原発事故の原因の1つではないか、と考えています。

「哲学のススメ2」レジュメ

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