スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

哲学のススメ2 「本質の求め方」レジュメ

(ある学習塾で企画され「哲学のススメ2 -本質の求め方-」を講演しました。事前予習と講演後修正入りメモです。
 科学技術者の倫理では、本質の求め方が1つの大きなテーマですので、ご参考になればと思い、公開致します。
 実際には半分くらいしかできませんでした。)


「哲学のススメ2 -本質の求め方-」レジュメ


 哲学のススメ「2」ですが、最初の1)~3)は前回の復習です。本質とは何か?についてです。
 前回の復習として、タイトルが「哲学のススメ」なのは、福沢諭吉(1万円札の人)の「学問のススメ」の次を考えているから。福沢の目指したものは、「学問をして、経済的にも精神的にも独立しよう(独立不羈、一身独立)で、その結果、国家が独立する」というものでした。現在の日本は、学問をすれば経済、精神共に独立でき、また、アメリカ依存が強いですが明治時代とは異なり、大分独立してきました。つまり、福沢の目指した状況を成し遂げている訳です。ですから、次に目指すのは、学問ではなく、哲学です。では、学問と哲学の違いはなんでしょうか?

1)「哲学」とは?
「学問」と「哲学」の違いは? (実際に配布したレジュメには問だけがあり、以下の文章は口頭で伝える内容です)

 「学問」は色々な定義があります。ですから、多くの人に発表してもらいます(実際に3名)。高木の考えでは先ほどの福沢の「学問」を念頭にしていますから、
答えの定まっている知識=学問
 答えの求め方を考える知識=哲学
となります。明治時代の学問は、西洋の知識、主に技術や社会制度などの知識を吸収することでした。まず、答えは決まっていた訳です。現在、日本の技術は世界最高水準に達し、社会制度も数々の穴はありますが、アジアで燦然(さんぜん)たる民主主義の国家です。対して、哲学は?というと福島原発事故後の事故対応を見れば明らかです。まだまだ未熟なのです。例えば福島原発に関わってきた人々は高校時代に学問の良くできる人々でした。東京大学などを卒業して答えの定まった知識については良くできる人々です。けれども、
「何が安全か?」
「どうしたら安全になるか?」
を考えるのは苦手な人々でした。同じく日本人の中に「東大出身など偉い人々に任せていれば大丈夫」と思いこんでいました。学問ができることと哲学が出来ることは違うのです。ですから、今後は哲学をススメようと考えています。
 世界を見渡してみましょう。フランスでは大学入学は全国一斉のテストで行われます。その中で、哲学があり、「言語は思考を裏切るか?」の問題を3,4時間で書きます。アメリカやイギリスにはディベートという論理性をゲームにした部活が多くの学校にあります。哲学の訓練がされていないという現状があります。
 前回の復習になりますが、日本の高校までの勉強は教科書の答えが決まった知識を吸収します。大学では答えのない、1つに決まらない知識に挑戦します。そこで問われるのは、答えの求め方で、ゆえに哲学が必要になってくるのです。

2)「哲学」とは?
「哲学」=「~とは何だろう?」
(高木に向けて)自己紹介を書いて下さい

 年齢が1つあがると、「あなた」は違う存在になりますか? なりませんね。ということは、年齢≠あなたの本質なのです。では、家族、名前、趣味もそうですね。実は「明るい暗い」もそうかもしれません。私は大学院時代にウツの症状がありました。その時の気分などで左右されることもあると思いますが、身内の死や強烈な体験をすると性格が変わることは珍しくありません。ですから、性格もあなたの本質ではないのかもしれません。
 「私とは何だろうか?」、「私の本質って何だろうか?」
考えて見ると中々難しいです。
 
3)「本質」とは?
なんで1人1人性格が違う? 死んだ後は?

 3)までが前回の復習です。「では、私の本質はあるのでしょうか?」と問いました。①ない。全ては関係性の中で出てくる(仏教)、②ある、体や心に依存しない魂は変わらない(キリスト教)、③ある、記憶を含めた私が私の本質である(日本の神道)、の全てが出てきました。仏教では死後、関係性を断ち切って仏になれます。関係性は苦しみの元なのです。キリスト教(本来はユダヤ教)では、地球を含む全てが壊れた後、イエスの前に魂が立ち、天国か地獄かを宣言されます。日本のお盆は死後数えの3年以内の人が個人で帰ってきます。お正月は3年より多い御先祖様が一緒に帰ってきます。記憶を持って各々の家に帰ってくるのです。哲学が難しいのは、無意識のレベルで日本人とキリスト教徒の考え方が違うからです。ギリシャ哲学を取り込んだキリスト教は、「あなた」の本質は神が創った、という前提に立っています。しかし、日本の神様はそんなことはしません。キリスト教では、天国に全ての本質があります。ですから、私たちが1つ1つ違う机を「机」として理解できると考えます。理性の根源ですね。机の本質が本質の世界(神の世界)にあって、その天国にいた時に魂は、完璧な机(机の本質)を見ているから、この世界でも机を理解できる、と考えます。しかし、日本では死後の世界も、神の世界も殆どこの世界と変わりません。神様が何人もいて、喧嘩もするし酒も飲む。人間の言う事も聞いてくれるし、良いことも悪いこともする。だから、お祭りで「わっしょいわっしょい」と神様と一緒に楽しむ。でも、キリスト教の神様はただ1人。人間と一緒に喜びもしません。この辺が全然違うので哲学は難しいのです。
 死んだ後も、今と変わらず働くのが日本、働く罰が許されて働かない天国に行くのがキリスト教徒です。

4)「本質」の求め方は?(本質は何だろう?という問い方)
どうやって相手を判断していく?(どこを判断するか、は1人1人違う)

 「あの人はどういう人だろう?」と疑問に思っても中々答えが出てきません。血液型や手相などなど答えが出てこないからありますが、大きく分けて2つの方法があります。どうやって相手を判断していくか、良いことも悪いことも両方見る「公平さ」が重要と前回述べましたが、どうやって見て行くかが今回です。
 まず、「あの人は優しい人だ」という答えがあったとしましょう。普段の日常生活はそれで問題ないでしょう。しかし、ちょっと考えて見てください。
「性格が優しい」という本質を持った人がいるでしょうか?
私たちが判るのは、ただ、その人の行動と言葉だけです。行動と言葉を見て「優しい」と推測しているだけです。「性格が優しい」というのは取り出せませんし、見えません。だから、本当は「優しい風に見えると得だからしている」という性格の人かもしれません。あるいは、たまたま優しい場面だけを見ていて、家の中ではとっても怖い人かもしれません。
整理しましょう。「本質」を求める時、2つの要素があります。①言動や行動(事実)、②まとめの言葉(説明、本質)です。この2つの要素を分けて考えて行くことが大切です。

5)「求め方」で本質が変わる?
社会の教科書と理科の教科書は同じ? (時代で教科書の内容が変わる?)

 求め方は、大きく分けると2つです。

「①言動や行動→②まとめの言葉」 :帰納法
「①言動や行動←②まとめの言葉」 :演繹法

 矢印の方向が「→」と「←」で違う点に注意して下さい。社会の教科書は、よく変わります。たった100年前と現在は大分内容が違います。アメリカが日本を占領した時、社会の教科書を特に変えました。今論争になっている「南京大虐殺」は1990年以降に問題になりました。あるいは、青森県の三内丸山遺跡など遺跡の発掘でも変わります。しかし、理科の教科書は変わっていません。同じ答えの定まっている知識=教科書でも、教科によって知識の確実さが大分違うのです。それを生みだしているのは、帰納法と演繹法の違いです。社会の教科書では、新しい発見に基づいて知識が変わるのですから、帰納法です。対して理科では基本的に、法則を実験で確かめる演繹法です。この2つの違いについて説明していきましょう。

6)演繹(deduction)と帰納(induction)の違いはある?
帰納:1つ1つ調べていく「求め方」(make an induction from the facts)と
演繹:決めてから調べていく「求め方」(deduced from the general principle)は違う?

 ここからが、今回の講義の山場になります。まず、帰納と演繹の英語を見て見ましょう。私は英語が苦手で苦労しましたが調べてみました。漢字がその成り立ちを覚えるとよく判ってくるように、英語でも大切です。
 帰納(「in」duction)
 演繹(「de」duction)
です。カッコをつけたのは、「in」と「de」です。後のductionは共通しています。「in」は「中に」の意味で、「de」は「外に」の意味です。先ほどのキリスト教の言う「本質の世界」と「この世界にある事実」の関係で見て見ましょう。
帰納法                 演繹法

「本質の世界」(説明、本質)     「本質の世界」(説明、本質)

↑(in)  ↑(in)   ↑(in)       ↓(de)  ↓(de)   ↓(de)

事実   事実    事実      事実   事実    事実

 つまり、帰納法             演繹法

   本質(説明)              本質
   ↑(in:中に)             ↓(de:外に) 
   事実                 事実   

 上のようにするとスッキリします。「in」と「de」にはギリシャ哲学のプラトンの考え方がはっきりと出ています。本質をプラトンは「イデア:理想:idea」と言います。日本語で「アイディア:idea」と言いますが、元々は本質の世界の説明に触れること=素晴らしいことを意味します。プラトンは、それまでとは違って本質が上、事実が下としました。キリスト教は後から本質=神様としました。 
 後ろの「duction」は、
英語で「duct:ダクト」で、送水管、植物の導管(根から水を運ぶ管)、暗渠(あんきょ:地下に埋設された導水管、排水や下水に利用)の意味です。元々は
ラテン語で「ducere:デューケレ」で、水、家畜、人、商品を別の場所へ導くことです。
不定形なので、例えば過去分子形は「dectum:デクトム」で名詞形の元になったのでしょう(ここだけ調べていません)。1人称は「deco:デコ」、2人称は「decis:デクス」、3人称は「decit:デキット」です。
大まかな意味は、何かを導くこと。「この世界にいる私たち」を理想の世界(神の世界)に導いてくれる、つまり完璧な(神のように)正しい理解に導いてくれる、という意味が込められています。
 
もう少し「duction」を英語で追ってみましょう。
前に「pro」+導く「duce」  →前に出す。生産する。「product」
元、後「re」+導く「duce」  →後ろに導く。減少する。「reduce」
外れて「se」+導く「duce」   →正道から外れる。悪に誘う。「seduce」
共に「con」+導く「duce」  →助ける。貢献する。「conduce」
中に「intro」+導く「duce」  →導きいれる。紹介する。「introduce」
外に「e(ex)」++導く「duce」  →教育する、訓練する「educate」
 最後の「外に導く」=「教育する」が興味深いですね。本来持っている本質を外に出す=教育という考え方が見えます。

7)演繹と帰納はどっちが論理として確実?

 次に、帰納と演繹を論理から考えてみましょう。言葉は、ギリシャ語で「ロゴス:λογοs(Logos英語表記です)」、論理は「Logic:ロジック」で深いつながりがあるのが表記から理解できます。言葉や論理は、宗教や文化などと深く結びついています。現在の日本では語られない、忘れられているのは少し悲しいことです。
 帰納と演繹、どっちが論理からして確実でしょうか? 「カラスは黒い」を「本質」として具体的に考えてもらいました。(さすがと思ったのですが、考えを聞いた2人とも別の言い方で1)を述べてくれました。)

1)帰納が確実
なぜならば、帰納は、「事実を認識した」後に行われるから。「事実を認識した」段階で、余分なものが排除されている。だから確実。言いかえれば先入観で事実を1回選別しているということです。
 これは、実は身の回りによくあることです。「あの人は優しい人だ」と思う人がいるとします。この人が「優しくない行動を取る(事実)」けれども、「たまたまだよ」と見ないようにしてしまう。あるいは、「何かあったんじゃない?」などでも良いでしょう。それは先入観で「あの人は優しい」と思いこんでいるからです。
同じことが原発でも起こっていました。「原発は絶対に安全」と言う人がいました。「2007年に、新潟県中越沖地震で柏崎刈羽の原発からで放射性物質が漏れました」が、「原発は安全」という先入観を優先するために、「漏れたけど大丈夫」と言いました。これまでは「決して漏れないから安全」でしたが、先入観「原発は安全」を守るために事実を認識しませんでした。
有名なローマの英雄ユリウス・カエサルは、「人は見たいものしか見ない」と言っています。次の8)の答えの先取りになりますが、論理が通じない時は実際にこういう時があります。

2)演繹が確実
演繹が確実、という答え方もあります。それは、帰納が導き出す説明と、演繹が最初に決めてしまう説明の性質が違うからです。10)さらに詳しく知りたい方に、③カール・ポパーの『科学的発見の論理』の原文コピーを見てもらって説明しました。
帰納が導き出す説明は、この世界の限りある事実を集めて導き出す説明です。この世の事実は、数に限りがあります。ですから、「数的に普遍な本質(説明)」なのです。これまでの過去の全てのカラスを調べて黒い、としても未来のカラスは調べていません。そういう点では不十分です。
対して、演繹が最初に決めてしまう説明は、「過去も現在も未来も全て」のカラスが黒い、という説明です。「原理的に普遍な本質(説明)」です。ですから、未来に反論される可能性が出てきます。6)の問題文を見て見ましょう。
帰納:1つ1つ調べていく「求め方」(make an induction from the facts)と
演繹:決めてから調べていく「求め方」(deduced from the general principle)は違う?
 帰納は、「the facts:沢山の事実」から作られるもの、です。
 演繹は、「the general principle:原理」から導かれるもの、です。
ですから、1)帰納が確実とは違う意味で、2)演繹が確実です。ゆえに当然ながら、演繹は反対の証明がされる可能性が出てきます。未来に「このカラスは白い」という可能性が演繹にあります。この可能性を、きちんと認めよう、というのがカール・ポパーの「反証可能性(Falsifiability)」です。さらに、ポパーは「確かめる前に、どうなったら反証なのかを決めておきましょう」という規範を求めます。後から言い逃れ出来ないようにです。物理学の「運動の原理は、F=ma」ですが、他にも沢山ありました。これ以外は全て反対の証明がされて捨てられて来ました。

8)論理が通じないのはどういう時?

 論理が通じないのは、先入観で事実を見ないようにする帰納の場合、反対の証明がされても受け入れない演繹の場合です。先ほどの柏崎刈谷の地震では放射性物質が漏れたので、基準を新しく作って再検査すべきでした。残念でなりません。ただ、免震重要棟を作るなど全く対策をしなかった訳でもありません。免震重要棟が福島原発構内にあり、作業の効率が上がりました。
 話を元に戻しましょう。「私の本質とは何か?」と考える時、自分の先入観で見ていないか? 過去の事実だけで判断していないか? という帰納を考えてみましょう。同じく、後から言い逃れ出来ないようにきちんと反対がされる場合も事前に想定しておきましょう、と言えるでしょう。
 そうすることで、よりよい見方になっていくのではないでしょうか。
 私たちが問題を考える時、本質を見つめる時、求め方も大切にしたいものです。そこを意識していくと、答えの定まった知識を覚える学問にはない良さが見えてくるでしょう。

9)あなたは考える時に大切にしているポイントは?

(時間が無くて出来ませんでした。ただ、感想で幾つも教えて頂きました。)

高木の考え(ここだけはプリントしてあります)
 カール・ポパーは「反証可能性」を大切にしました。それは「反対の証明がされる可能性を認めて、事前に考えておきましょう」という意味です。福島原発事故災害が生みだされた一因は「原発は絶対に事故を起こしません」や「原発の外に放射能を出しません」と言い続けてきた「原発安全神話」です。自然科学は幾つもの学説の反対の証明がされつづけて現在のように1つになっています。本質を求める時、求め方も問われてきました。
 答えが1つである学問と答えの求め方を問う哲学、両方が必要です。孔子は「学びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」と言っています。
罔(:モウ)は、衝立(ついたて)で目が見えないこと 殆(:タイ)は、あやうい、危ないこと。
 物事の本質を探る時、求め方と答えを両方考えていくのが大切です。そして前回「哲学のススメ」では、答えを肯定側と否定側の両方から考える「公平さ」の重要性をお伝えしました。これは、帰納と演繹という両方の求め方で大切です。
 哲学は難しいですが、人生を豊かにしてくれます。1度しかない人生、同時に、今の時間を大切にして下さい。
10)さらに詳しく知りたい方に
①はAamazonで497円でした。高校2年生から読み始めて10回以上読み返しています。
②は今年読んだ本の中で最も感動した本です。今の日本を「公平」に見れる本です。
③大学院時代に苦労して読んだ本。ノート5冊以上取った本です。難解です。
④拙い私のブログです。福島原発事故災害の中で何とか希望を見出そうと思っています。

① 五十沢二郎 『中国聖賢のことば』 講談社学術文庫 1986年 Amazonで497円
② 青山繁晴 『ぼくらの祖国』 扶桑社 2011年 1680円
③ カール・ライムント・ポパー 『科学的発見の論理 上』 1971年 3360円
④ 「高木健治郎のブログ」 :http://takagikenziro.blog.fc2.com/

 補足 その他で述べたこと(以下、補足なので講義前①や後②~⑥の内容です。)

①「哲学」は難しい言葉ですが、チャレンジして受講して下さって有り難う御座います。福島原発事故は日本の製造組織の問題を露呈しましたが、1年前の2010年「はやぶさ」は奇跡の帰還を果たしました。世界史に残る奇跡です。『「はやぶさ」式思考法』で川口淳一郎さんは、「背伸びするクセをつけよう」と言っています。「哲学」という馴染みのない言葉はチャレンジかもしれませんが、是非とも背伸びして下さい。

②ご紹介した本①『中国聖賢のことば』は、高校生の時に読んだ本です。最後に読んだのは37歳、10数回目です。なので一生読める本を1冊持つ、という意識を持って頂きたいです。私は本嫌いな高校生でしたが、(原文コピーを示して)日本語が判りやすいし、読む文章の量が少なかったので読んでみました。

③ご紹介した本②の『ぼくらの祖国』は、前回に『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」で引用した「自分のために生きるのは楽しくない」ということが具体的に書いてあります。(原文コピーを読みながら)琉球大学を出て警察官になるある学生さんの「自分は無気力に生きてきた」という文章に触れました。世間的に観れば、地元の国公立大学に入り難しい公務員になる、という立派な学生さん。でも、本人は「無気力」という。なぜなら、自分のために生きるのは楽しくない、からではないでしょうか。高校生の皆さん、大学にはなぜ行くのでしょう? 大人の皆さん何のために生きているのでしょうか? 多くの答えの中の1つが、「他人のため、社会のため」ではないでしょうか。私は、「自分のため」と「社会のため」の2つが必要だと思いますが、後者が義務教育、公教育の中で少なすぎると考えています。大学に行くのは、育ててくれた親に恩返しをするため、先生のお気持ちにしっかりと結果で答えるため、というのも1つの答えではないでしょうか。

④ご質問「 「本質を完璧とすると、ソ連のような国家が完璧としているのと共通では?」
高木返答:仰る通りです。国家の計画が完璧だからそれに従えばいい、民主主義は最終的に社会主義国家になるなどに論理的に反論したのが、実はカール・ポパーでした(『歴史主義の貧困)』。ポパーによると、出発点はプラトンであり、マルクスも対象となっています(『開かれた社会とその敵』)。奇遇ですし、慧眼だと思います。

⑤「完璧があるのは分かるが、その完璧は1人1人違うのでは?」
高木返答:まさにその通りです。実は完璧な本質(神)をどうやってこの世界で理解するかが大きな問題になります。言われるように1人1人能力が違いますから、理解内容も違ってきます。しかし、神様の直接の声がイエス・キリスト以来聞こえない。なので、神様の代理が必要になってきました。今残っているのはローマ法王です。このローマ法王が出した「こんな風に生きなさい。こんなことに気をつけなさい」ということが書いてある本がフランスで数カ月ベストセラーになりました。そうやって乗り越えようとしました。ただ、この点に気がついたのは素晴らしい気付きだと思います。

⑥「完璧な世界というのを考えるのは可笑しいのでは?」
高木返答:可笑しいかもしれません。ただ、それは日本人の理解からすると、です。ヨーロッパはずっと戦争を繰り返してきました。現在のフランス人はずっと東から来ました。元々いた民族を全て滅ぼして現在の場所にいます。ですから、戦争は民族浄化戦争です。負けたら全てお終い。その時、皆が心を1つにまとまる必要が出てきます。それをまとめるのはキリスト教の方が都合がいいんです。対して日本は関ヶ原の戦いを農民が山の上から弁当を食いながら眺めていた、ように滅びるのは武士だけで農民はどっちが勝っても生き残ります。戦争で民族が浄化されない戦争です。そうするとそれぞれで神様がいても大丈夫、となる訳です(宇宙の創造説と唯一神教の話は出来ませんでした)。

補足は以上です。

記入 平成24年4月9日 高木 健治郎
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール
哲学(平成28年度)
科学技術者の倫理(平成28年度)
書いたもの(平成28年)
科学技術者の倫理(平成27年度)
哲学(平成27年度)
書いたもの(平成27年)
哲学(平成26年度)
「科学技術者の倫理(平成26年度)
講義録「哲学」
書いたもの(平成26年)
書いたもの(平成25年)
論文(高木健治郎の)
講義録「科学技術者の倫理」(平成25年度)
高木ゼミ『銃・病原菌・鉄』
高木ゼミ全6回『ぼくらの祖国』
教養講座6回分(平成24年度)   講義録21~
講義録「科学技術者の倫理」(平成24年度)     講義録1~15
最新記事
講義録「科学技術者の倫理」(平成23年度)
石上国語教室で行われた講演のレジュメです。哲学が足りなかったのが、福島原発事故の原因の1つではないか、と考えています。

「哲学のススメ2」レジュメ

最新コメント
カテゴリ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。