南三陸町旅行記 自然と心の問題

(個人の旅行記です。福島原発事故を考える際に根本的な問題があると思い、掲載致します。
校正などをしておりませんので、誤字脱字、乱文ですがお読み下されば幸いです。)


 平成23年8月27日(土曜日)から平成23年8月29日(月曜日)まで、東北地方に旅行した。

 場所は、岩手県胆沢郡金ヶ崎町で母方のお墓参り、仙台市経由で宮城県南三陸町の福興市、同町ホテル観洋と三箇所である。

 きっかけは、本年度前期の「科学技術者の倫理」で福島原発事故を取り上げたこと、国際ことば学院で復興の祈りを込めた短冊を投稿し、この短冊を含めた展示をオープンキャンパス(7月31日)で拝見し、その後、仙台市の七夕まつりで短冊を披露したこと、最後にかみさんが家族旅行を希望したことである。

 同行者は、かみさんと赤ちゃん(1歳)。赤ちゃんは新幹線の床で寝るなど騒がずによくよくしていてくれた。

 旅行中メモをとり、以下に記す。また、筆記の途中で思いつくことを順次入れ込む。エッセイとして整えて切り取る前に、全体を書いておくことにする。

 エッセイのキーワード:「自然は平等ではなく対等である」、「被災地に境界はない」、「被災者救済方法は、日常の方法がそのまま現れている」を考えているが、一旦置く。

 メモから出発。

☆11:04AM やまびこ275号内

 8月27日午前8時過ぎの新幹線で東京へ、9時10分着、9時40分出発なので急いだが乗換口があり5分でホーム下に到着。やまびこ275号で出発、福島県郡山駅近辺で、100軒に2~5軒ほどの水色のビニールシートが目立つようになる。お米が真っすぐしっかりと育ち、鮮やかな緑色が広がる。ビニールシートの水色だけが、目に見える初めての違いであった。

「おっ・・・・・・おっ・・・・・」という感じ。

路線図で確認するとかなり福島原発に接近してきている。

☆28日 10:00AM前後のバスの中

 宿泊は仙台駅から徒歩8分の「スーパーホテル仙台・広瀬通り」で、夜ごはんは「利久」で牛たんを堪能。テールスープは絶品で大満足。お店の店員さん全ての気遣いも素晴らしい。朝8時半にチェックアウト。込むと予想して、(宮城県の)「県庁市役所前」に30分前につく。しかし待つ人は殆どなし。結局バスに乗り込んだ人は12,3名で座席の5分の1以下。9:15分発、「とよま総合支所」10:52分到着。バスは途中までなので、「福興市」の会場へと向かう。「福興市」は復興ではない点に気が利いている。場所は、南三陸町仮庁舎となっている、ベイサイドアリーナの「スポーツ交流村 多目的広場特設会場」である。

 バスの中のメモ内容。
「田の1つ1つの大きさ、そして田の手入れなどの行きわたり具合、凄く驚く。宮城県の農業の力、農業の豊かさ、悔しいぐらいである。田が実り、稲が垂れ、実に美しい。ただ、所々、田に草が生えている。それは田1つ1つ単位なので、農民の家の事情がうかがわれる。穿(うが)って考えれば被災者なのか、とも考えてしまう(思い返してみればそんなことはないだろう。そもそも田植えが出来ない)。また、イモか何かだろうか、少し作っている。海岸に近付くにつれ、道路が悪くなり、バスがジャンプし始める。震災を実感した。
 仮設住宅が見え始める。」

 しかし、普通の住宅地の外れにポコッとある感じ。別に特別な感じがしない。また、仮設住宅の横に運動公園などがあり、「仮設住宅の場所が無い」とTVで報道しているが、そんなことは無いのが良く分った。畑や田んぼの空き地なども結構あり、ここに仮設住宅を作れば良いのではないか、と現地に行って初めて分かった。
 もちろん、仮設住宅地はないのであろう。しかし、それは行政の持つ土地から探すからであって、民間の土地を政治家や行政職員が回って行って融通してもらう、あるいは土地の地権者が名乗り出ることでもっと被災地に近い場所に仮設住宅を作れるのではないか、と感じた。記憶では「岩手県に仮設住宅を作ったが、殆ど入居しない」と合ったが、実は、この実感を元にしているのではないか、と感じた。

 メモに戻る
「空き地は沢山ある。そして普通の家家の間にある。被災地と普通の家家がわかれているのではなく、95%の普通の家の中に仮設住宅がある、という感じだ。ガソリンは142円と静岡と変わらない。むしろ少し安い。
 バスに乗っている人も、被災地に行きそうな10名がいるが、3,4名は途中で降りた。現地の人で、これからも降りるかもしれないから被災地に行く人はもっと少ないかもしれない。古い家の多くは倒壊していない。少し拍子抜けしたけれど、これが大切。
 農業をしていない土地は沢山ある。国が買い上げればもっと大規模な仮設用地は得られた。集点近くに流れる川は北上川。昨日、お墓参りをした金ヶ崎町にも流れていた。」

 福興市というのでどれだけ賑わうか、と思ったけれど、バスの中は閑散としていた。TVの報道だけを見ていると、復興に対して全力で、という感じであったが、そういう感覚は持たなかった。さらに驚いたのは、仮設住宅近くのパチンコ屋の駐車場が満車だったことだ。もちろん、5ヶ月半経っているからだろう、無理な力は抜けている。ただ、復興と騒がれて3カ月を過ぎ、今後、10年単位で掛かる復興。福島原発は最低でも30年は掛かる。それまで、忘れないように、と願っている。東日本大震災の前の宮崎県の復興も同時に願っている。
 半年近くが過ぎて、復興に対する意識の変化を、パチンコ屋の満車に感じた。もちろん心の問題として、「これまでの日常を取り戻すことが個人の心の平穏を取り戻す上で重要である」ことを理解してでもある。仮設住宅の裏では、少年野球の試合が行われていた。
 被災地と普通の土地がまだら状になっている点は後で、重要なキーワードとして出てくる。

 福興市の感想
「とよま総合支所」から無料シャトルバス(小さなバスが満員に25名前後)が出ており、横には「ホテル観洋」の文字があり、少し安心する。今夜泊まるホテルである。会場であるベイサイドアリーナは、静岡市の市民文化会館よりも素晴らしい施設である。近代的で海を感じさせるデザイン、その横の砂利の運動場の上が、福興市の会場であった。ベイサイドアリーナと会場の間に、消防隊の司令部があり、ボランティアの指令所もあった。ベイサイドアリーナでは行列が出来ていた。最初は、宮城県歯科医師会や東北大学などの主催の歯科検診かと思ったが、そうではなく、(財)台湾佛教慈濟(ツーチー)基金会による「住宅被害見舞金支給」であった。単身世帯3万円、2~3人は5万円、4人以上は7万円であった。台湾は消防隊の指令本部も寄付しており、親日的な活動に頭が下がるのを感じた。
もう1つ、これはかねてからの持論であり、少し皮肉な言葉になるが、日本人を守るべき日本の仏教教団は何をしているのか、という思いにも駆られた。全国に7万社のお寺がある。同じ宗派の檀家(だんか)だけでも、お寺を中心にして被災民を受け入れることを検討し、また、GDPも圧倒的に多い日本の仏教教団がこのように被災民が一番必要としている現金を渡すことは出来ないのだろうか。死んだ後の人だけを救うのではなく、生きている人を救うことが、御仏の心に叶うことではないのだろうか。

 ベイサイドアリーナの中には被災地の写真があった。仙台駅の中にも展示があったが、説明をしてくれる人がいてくれ、少し質問や会話をさせてもらった。最初に現地で話した人であった。また、「かたり部の会」というのがあって、被災のことを多くの人の前で語る試みが行われている最中であった。TVの取材などもあったが、華やいだ雰囲気ではなく真剣に静かに聞かれていた。仙台駅では「可哀想」や「悲惨だ」という表情が見て取られたが、現地では淡々とした表情であった。横では子供が遊んでおり、ちょっと遠くでは見舞金支給に並ぶ人々が雑談をしていた。

 福興市の会場は、多くのテントが出店し、物産や食べ物を売っていた。そして奥には簡易の会場があり、そこで踊りや歌、吹奏楽が披露されていた。入口には、子供の遊び場があり、小さな子供向けの絵本などがあった。物産は被災地のもあり、各地の物もあった。食べ物は各県のものB級グルメ、力士の把瑠都(バルト)がチャンコを作り、静岡県からは浜松餃子も売っていた。日影が無く少し困ったが、かみさんが赤ちゃんを日影にして食べさせた。私はもっぱら買い出しで、最近食べれるようになった、そうめん(50円)と、ちゃんこ(100円)などなど何回か買いに行った。そうめんは特に美味しくて、長崎のものだったと思う。ちゃんこはお昼には売り切れて、後で全額寄付をするセレモニーもあった。人数は100名くらいで思いの外少なかった。もしかしたら見舞金も同時にあったせいかもしれない。ただ、これまで雨などで人数が少なかったと言われた福興市だが、規模としては少ないのかもしれない。私が福興市を目指して行ったのは、寄付などの行為は一通り済んだと考えるからである。また、復興復興という視点だけで、災害を捕えようとするのではなく、被災地の人々と一緒に楽しみたい、という気持ちがあったからである。楽しむという気持ちがないと、どんなことでも中々続かない。多くの人を巻き込む場合、楽しむ気持ちは大切である。だから、私は福興市で楽しみたい、と思ったし、実際、食べ物は種類は豊富で安くて美味しかった。浜松餃子、ホルモン焼きうどん(呼び名は違うかもしれない)、とろろそーめん、ちゃんこが特に。

 お土産に何か欲しいな、と思っていたら、地元の土地の名前が入ったバック(4500円)がありかみさんが気に入ったので購入した。するとおじさんが小さなバッグをおまけしてくれた。かみさんが美人だからだろうが、「いつもは10円もおごらないんだよ」と横から別のおじさんがチャチャを入れていた。おじさんは恥ずかしそうに「余分なことを言わなくてもいいのにねー」と現地の言葉で言っていた。夫婦で大笑いしたら赤ちゃんが最近覚えた拍手をして、また大笑い。
 私は、南三陸町のTシャツを2枚とタオルを10本購入。サッカーの日本代表の青色に近い感じで中々恰好良い。ブルーリボンバッチと同じで毎日使うものに言葉が入っていると中々忘れないものである。私は汗かきで大量にTシャツを使うので購入した。使い勝手が良ければ使いで購入しようと思っている。

 私は福興市を堪能したので、1,2時間だったが帰ることにした。タクシーを志津川観光にお願いした。「15分から20分で」ということだったので、10分前に出入り口に経っていたら既に正面玄関にいた。私たちがいないので諦めて降りてきたら坂の下の出入り口で出会った。このおじさん、おじいさんが素晴らしい人で色んなお話を聞かせて頂いた。かみさんは静岡県の人で中々訛りが分からなかったそうだが、私は小さいころから岩手の母方の実家によく言っていたので殆ど分かった。ただ、聞き落としもあるかもしれない。それではメモに戻る。

 メモ 1:30PM過ぎ ホテル観洋のソファーにて

「福興市から志津川観光のタクシーにのる。
 防災庁舎にいく。降りようとするとタクシーの運ちゃん80歳くらいの人が、眼鏡、薄い白髪、皺、日焼けの人が「時間が無いから」と帰ろうとする。不思議とは思わず、「5分くらい」と待ってもらった。直ぐにお参りする。タクシーに乗って、次に一番大きい神社は「八幡様と聞きましたが」と聞き、「そうだよ」と返され、そこに向かってもらった。その辺りから表情が変わり、直ぐに「実は・・・」と。

「観光地じゃなくて、神聖な場所なのに、コレだよ」

とピースを運ちゃんはした。2回もである。(南三陸町防災庁舎は何千人も救った三浦 毅さんと遠藤未希さんの防災放送が行われた場所なのである。


「何といっても、地元の人はみているから、実は早く壊して欲しい、という声もあるんだよ。どこかの大学の先生だかが残すと言うけれど」

かみさんは壊して欲しい、ということが書いてあった紙を見ている。その後、佐藤仁町長の話、片手の人が、小さい頃からだったから助かった話などを聞いた。タクシーの運ちゃんは、老人会(?)の副会長で、震災当時はレクレーションで300人でカラオケをやっていたが、介護士の人達が4階に上げてくれて全員助かった話をしてくれた。その会の最高齢は99歳、運ちゃんは震災後「いま一年頑張れ」と言ったら、「1年だけでいいのか?」と聞き返したそう。そして大笑い。私も笑った。「もっと生きるよ」と言ったそうである。
 その後復興のための張り紙を600枚作ろうとした所、そのおばあさんが名乗りを挙げて1日20枚ずつ作っていった。「肩がこる」などと言うので「ゆっくりやればいい」といったけれど、毎日きっちり作って完成させた。運ちゃんはTVに取材させてもらったらおばあさんは大変喜んだ。震災前はあまり付き合いがなかったが、今は、朝昼晩来るそうで、その時は昔懐かしいお菓子を持ってくる。また、それが良いそうである。

 今は、台湾の人が1人3万、2人5万、3人7万という義捐金の配布の日だそうで、それと福興市が重なったので駐車場が満車であった。
 私は公的な所への寄付も大切だけれど今後は魂の問題になると思う。今こそ、神社、仏教の出番だと思い、浄財をさせてもらった」
 以上がメモである。
「浄財をさせてもらった」は、八幡神社に多少の寄付をさせてもらったことを指す。また、公的な所、というのは赤十字や地元の地方自治体などを指す。それも大切だが、地元の人が地域の輪を取り戻す場合の中心はお祭りや正月やお盆の時だと思うので、是非とも神社に寄付をしたいと思った次第である。福興市での寄付は行わず、こちらで寄付をさせてもらった。

 防災庁舎、是非とも行きたかった場所である。
しかし、タクシーの運ちゃんにせかされた。その後のお話でせかした気持ちが良く分った。地元の人として、ピースをされるのは耐えられないだろう。私も自分に連なるお墓の前で、ヒースをされるのは忍びない。ましてや自分たちの命を救ってくれた人だから、タクシーの運ちゃんも防災放送で直ぐに家族が助かっている。墓に糞尿を掛けられるほどの屈辱だろう。だから、手だけ合わせてサッと立ち去った。八幡神社から降りる時、白く輝いた大地の上にポツンと防災庁舎があった。ゆっくりと時間を掛けてかみさんと一緒に手を合わせた。
 防災庁舎には机があり、観音様があり、手紙や花が添えられていた。三浦さんと遠藤さんは武士道の言う「武士道とは死ぬことと見つけたり」を体現された人である。この言葉は誤解されてきたが実は「武士道とは生きなさい。自分のためではなく他人のため、社会のために生きなさい」ということを言っている。仏教やキリスト教、イスラム教の根底にある部分と通じるこの考え方を実際に実行された方々である。他にも中国人留学生を救った人など多くの名もなき日本人が行動をした。私は全員について祈ることは出来ないので、一番最初に青山繁晴さんの動画で知った三浦さんと遠藤さんに祈りを捧げることにしたのである。
 その場所でピースをする人の無神経さは、ピースをする人だけを非難すれば終わる問題ではない、と私は考えている。それは、

 「自分の楽しみ」>「多くの人のことを考えること」

 ということは、日常生活の中で普通にあるからである。日本人は宗教の話をするのが一番のタブーというが、実はそれはアメリカの日本支配のための戦略である。それを日本人はズッと受け継いできた。「自分の楽しみ」を優先させる考え方は、公教育の中で訂正されていない。66年経った敗戦が今でも日本人の考え方を決めている。福島原発事故ではっきりしてきたのは、エリートが自分の保身だけを考えて、被災者を自分のこととして考えてこなかった、今も考えていないことである。それは「自分の楽しみ」を優先させれば、「自分の保身」に繋がり、「自分の責任が生じることはしない」となり、「全て政治家が悪い」と考えるようになる。今の日本政府の対応が悪い、とは言うがその政府を選んだ私たちが悪い、と考えられない人はそうである。「責任は他人に」という態度は、震災直後に日本政府を機能不全に押しやった。東京電力、原子力安全・保安院、原子力安全委員会、原子力を推進してきた専門家たちもそうである。
 本日8月31日にやっと「計測線量の積算マップ」が出てきた。チェルノブイリでは住民避難地区に指定される基準値の10倍以上の場所がある。しかも、それはセシウム1種類の原子に関しての計測だけである。
 誰か特定の個人を非難するだけでは済まない問題である。

  「自分の楽しみ」<「多くの人のことを考えること」

 という人間として基本的な考えを身につけてもらわなければならない。武田邦彦氏のようにエリートだけではなく、公教育の中で伝える必要があると私は思う。「科学技術者の倫理」は事故予防と再発防止を目的としている。その根本は「自分の楽しみ」<「多くの人のことを考えること」と考えている。私は、ピースをした人を非難するのではなく、そうした人々を生み出した現在の日本全体の問題だと想った。


メモから
8月27日 夜7時(7;:00PM) 御飯の後、1924号の部屋で
「フロに入る。
 プロが選んだ日本のホテル・旅館100選&和風の宿に掲載されるほど、絶景露天風呂。しかも、普通のホテルは1ページだが、ホテル観洋は2ページ掲載。日本一のホテル加賀屋も2ページ。富士山が無ければ静岡のホテルは全て負けであろう、と思うほど。深度2000メートルから掘削された深層天然温泉「南三陸温泉」は風呂上り後、体を重くしなかった。ちなみに、宮城県は3つ、岩手県2つのホテルだけ、一番多いのは新潟で14、静岡は2番目で12軒。
 男性風呂は50~60代が多く、
 女性風呂は20~30代が多い。
男性はリタイアした人という感じ、女性は茶髪の人も多く、独立した感じの人。人生の中で比較的、時間の融通のきく年代である。宿泊客で子供を連れているのは私たちだけ?の感じ。地元の子供がお天気キャスターによるお天気教室があったので一時的にあふれていた。
 料理はうに、あわび、かにが中心。地元の和え物、酢の物などが出た。私はうに、あわび、かには好きではないが食べれた。

 さて、このホテルにいる限り、ここが被災地とは全く思われない。台湾か中国か分からないけれど慰問団らしき人々が話していたり、元気なにーちゃん、ねーちゃんたちとすれ違うと、「ああ、ここは津波が来たのか」と思うほどである。
 実は、この体感が、現地に入って一番感じたことである。

 確かに市庁舎を中心に港は全て流され、今もガレキの中にある。酷い爪あとが残っている。他方、そこから1キロメートル、いや500メートルも入れば、何の変哲もない民家がある。屋根の瓦も、古い家も全てそのままで、草や、つた、木々までもそのままである。
 人の心の中は分からない。分からないから、前提として受け入れて考えると(つまり、外見だけからしか分からないので外見だけで判断すると)、「津波の被害は集中した」ということである。

 「津波の被害は集中した」→「自然は平等ではない」→「自然は対等である」

 という当たり前の事実を突きつけられた。そして「自然は対等である」と私は感じた。全員に公平に被害を与えない=平等ではない。1人1人の状況の違いを受け入れた上で被害を与える=対等である。という意味である。全員を公「平」に「等」しく扱うのではないく(平等)、1人1人の「対」して、「等」しく扱う(対等)に扱った結果が、「津波の被害が集中した」ということである。

 タクシーの運ちゃんが言っていた。
「海に近い人は直ぐ逃げたが、「まさか奥までは来ないだろう」と思っていた老夫婦は無くなった。息子がわざわざ奥地に引っ越させたのに・・・」
 まさに1人1人の対応の違いに対して等しく扱ったのである。少しだけ早く逃げた人、防災放送の鬼気せまる声で逃げた人、少しだけ高台に上がった人、僅かな違いである。

 南三陸町に来て分かった。私の1つの思い込みを壊してくれた。
 
 「被災地には被災民しかいない」

 という思い込みを。

 「多くの人々の中に被災民がいる」

 というのが正確な所で、被災民は全て手助けが必要であるが、
①実は手助けの必要な被災民と、被災地に住んでいるだけの人とは違う
②被災民と被災地に住んでいるだけの人は2つにばっさり分けられない
 ことが分かった。
 思い返してみれば、タクシーの運ちゃんは、海辺にあった家を流されたが、80歳ぐらいでも今日も立派に自分の手で稼いでいた。少なくとも彼に手助けは必要ないように思われた(心理学的に見るともっと深められそうだが)。

 私たちは被災民に手を差し伸べる時、公平に手を差し伸べるのではなく、対等に手を差し伸べるべきではないか、と感じた。それは「自然が対等に扱って被害を与えたから」である。今は外見だけを見て言っているがこれは、心の問題でも同じであろう。
 そしてその手段が何か思いつくといいと思うのだが中々、今の私には難しい。

 このホテル観洋でお金を落とすことは被災地の支援になるだろうと思う。しかし、もっとお金が緊急に必要ないるであろう、とも思う。私たちのような人間が多くなり
 「ホテル観洋は震災後立派になって・・・」
 というねたみも出てくるかもしれない。大震災で家族を失い、家を失なった人々ならば心が弱くなっていて、なおさらそう思うであろう。(この問題は、特定の場所だけに寄付をする、ボランティアに行くなどでも広く生じる問題である)

 その上で、ボーっと心に浮かんでくるのは(布団に寝っころがって書いている)、防災庁舎である。三浦毅さんと遠藤未希さんを始めとする、名もしらない方々が南三陸町のために命を捧げられた。

 自然は平等ではなく対等である、ということを受け入れた上での人間の、人類の回答であるおうに思うのだ。

 「ああそうですが、自然は僅かな違いで人を殺したり残したりします。それでいいですよ。私は私の死にこだわりません。死にますよ。自然を恐れて縮こまっているよりも皆のために精一杯生きて、死にたいのです。」

 と。

 その通りに生ききった方々。私は南三陸町だけではなく日本全体の希望であると考えている。私たちは私個人の死、社会的な死、貧困を恐れて縮こまっているのではないか、と。私のためだけに生きているのではないか、と。携帯電話やおいしい食事や広い家、快適な暮らしを楽しんでいるようでいて、縮こまっているだけではないか、と。
 
 「死者を病院という非日常的な場所に隔離したように、被災者を被災地という世界に隔離しようとしているのではないか」
 
 と。

 被災地に来て感じたのは、ホテル観洋が被災地とは感じられなかったように、所々にポツンポツンと仮設住宅があったように、郡山市で100軒に2~5軒が水色のビニールシートが掛かっていたように、被災地と私たちの住む世界はつながっている、ずーっと連続してつながっている、ということである。被災地と日常世界はばっさりと2つに区切れない、明確な一線は無い。それを私たち、現代日本人は「被災地と日常世界をばっさりと切って、自分たちは安全な世界にいる」と思い込みたいのではないか、と感じた。それは私が知らない内にそう感じたからである。被災地に来て、福興市を思いっきり楽しんで、防災庁舎に神社におまいりをして、タクシーの運ちゃんと話して、ホテルで風呂と食事を楽しんで、感じたことである。

 同じく、死者と被災者と私たちも同じ直線状にあってばっさりと切れないのではないか、と。この「同じ直線状にある」と見られるようになるのが、「自分の楽しみ」<「多くの人のことを考えること」という視点ではないか(恩師酒井健先生が『逃れゆくものへの問いかけ ジョルジュ・バタイユ「私たちが死んでいくこの世界」』『現代思想』7月臨時増刊号『震災以後を生きるための50冊』で死者と私たちの連続について別の視点で書いています)。

 仏教には「生死一如」という言葉がある。生まれることは死ぬことと同じである、という文字の意味である。詳細は省くが、生まれることと死ぬことを同じ直線状に並べている。生と死がばっさり別々にある、のではない。
 つまり、こういう物事の捉え方は大昔からの人間の、人類の智慧でもあるのだ。人間は大昔から家族や仲間をふるさとを失ってきた。だから、人口が現在の10分の1、100分の1で安定していた。その智慧を実感できた。同時にその被害の大きさが偲(しの)ばれる。
 さらに、大昔から今まで続いてきた私たちの命のつながりに、心のつながりを実感したのである。

 私はこのようにして、南三陸町の方々を始め、今回の東日本大震災の方々を心に刻(きざ)み付ける。いづれ、同行したかみさんとあかちゃんにも語って行きたい。また、機会が与えられれば多くの人に語っていきたい。

 」
以上が、布団に寝っころがって書いたメモである。

 「科学技術者の倫理」で、「自分の楽しみ」<「多くの人のことを考えること」を伝えてきた。これは現在、日本で最も欠けていることの1つである。今回も大活躍した自衛隊、原発の無責任体制、自主エネルギー確保が出来ていない点、冷戦構造が終わっても未だに「右翼、左翼」でしか見ないことなどなど。ここまでは指摘してきたし、折に触れ書いてきた。

 今回の旅で感じたのは、大震災に遭った時でも、同じことがある、ということである。最初はポツンポツンとある仮設住宅、楽しんだ福興市、タクシーの運ちゃんの話とバラバラだったが、書いていくとまとまったのである。「自分の楽しみ」<「多くの人のことを考えること」というまとめ方は私の考え方に引き寄せた、と言える。が、個人的な旅行記としては十分であろう。今後、この中から幾つかのエッセンスを取り出してエッセイにしたい。

 思いの外、メモがまとまっていた。ホテル観洋に午後1時半過ぎについて、海を眺めるロビーであかちゃんと遊び、3時にチェックイン、風呂に入り、晩御飯の6時まで寝たからだろう。普段の寝不足を少し反省した。ゆっくり寝れた楽しい旅行であった。


考えたいのは、「大震災の心の問題」ということです。

 5ヶ月半が経ち、ホテルの従業員さんもタクシーの運ちゃんも、義援金を受け取りに並んでいた人々も、死の陰に侵(おか)されたような表情の人はいませんでした。死の陰については、これまで「ターミナルケアにおける死」という講義で取り扱ってきましたから、そこに譲ることにします。

 考えたいのは、「大震災の心の問題」というのは「震災の不平等の受け止め方」のことです。

 生き残った人は、無くなった人を思い出すと「震災の不平等」を感じるでしょう。
 被害を受けなかった人は、被害を受けた人を思うと「震災の不平等」を感じるでしょう。
 その思い出しには、色んな人が色んな語り口で語っていますが、はしょって言うと「恨(うら)み、妬(ねた)み、嫉(そね)み、怒(いか)り」の源になります。その感情が心の中に出てくる(発露(はつろ))は、健全ですし、正常な反応です。それは「自分と他者を比べられる」くらい理性が戻ってくると起こる反応なのです。死の恐怖やショックが大きい時には起こりません。映画でも涙が出る時は、「自分と他者を比べられる」くらい理性がある状態です。身内の死などでは呆然自失(ぼうぜんじしつ)の言葉通り、「ぼーっとしてしまって何がしたいか、何をすべきかわからない」状態になります。「ホテルの従業員さんもタクシーの運ちゃんも、義援金を受け取りに並んでいた人々」は、自分の行う行動が理性で分かっているのですから、呆然自失から抜け出ています。

 折角旅行記なのですから、メモからいきましょう。
 メモ 場所時間は2と同じく、8月27日 夜7時(7;:00PM) 御飯の後、1924号の部屋で

「自然に平等さを求めるのは「ねたみ、怒りの元になる」と思う。
 理由を書く。
 私が今、ホテル観洋で美味しい料理を食べ、リラックスしている。それに対して「被害者に申し訳ない」とか、「もっと出来ることをしないとダメ」という気持ちがある。この気持ちだけに自分の心を染めてしまってはならない。確かにこの気持ちは失ってはならないが、それだけでも不十分である。
 マクロ経済でも説明できるが、今回は心理として書いていきたい。この気持ちだけになると東京にいる人には「自分だけ安全な所にいて」とか「東京は無関心である」とか妬み、恨みの気持に染まってしまう。あるいは東京や静岡の人は自己否定、周囲の否定につながっていく。「もっと寄付しろ、援助しろよ」や「暇ならボランティアに行けよ」や「野菜は東北産じゃないとダメ」など。
 これは震災のない日常生活でもあることである。特に、まだ心の発達していない子供時代、「なんで私は勉強が出来ないんだろう」とか「なんであいつは足が速いんだろう」とか「なんであの娘ばっかり可愛くて…」という気持ちになったことのない人はいないであろう。しかし、それを人それぞれで受け止めて(無視、無関心も含めて)、1つ1つ努力して自分を成長させていくと(本人は「努力していない」という感覚の日本人は多いが)、消えてくる。

 震災後は、心が弱くなるのが正常である。どんな立派に見える、あるいは社会経験を重ねてきた人々も、甚大な被害は初めてである。その時に、その気持ちに支配されるのではなく、実は「私は大人だから大丈夫」と言い聞かせるのも支配されていることである、私たちはその気持ちを受け止めて、1つ1つ努力して自分を成長させていくことが大切である。1つ1つ努力して自分を成長させていくことで「ねたみ、恨みの感情」が消えていくこと、あるいは昇華していく機能が私たち人間に備わっているのを忘れてはならない。

 タクシーの運ちゃんの話、99歳のおばあさんの貼り紙の話で教えてもらったことである。おばあさんは1つ1つ努力をした。自分の体を動かして、他人のために動いたことの大切さを語っているように私は感じた。同時に、大昔から宗教として伝えられてきた人類の智恵でもある。神社やお寺に自分の体を動かして参詣し、祈祷する。内容は神様や死んだ人、先祖のために祈るのである。大昔から大震災、飢饉(ききん)、大津波、火災などなど「自然の不平等さ」が私たちに降り注いできた。その時その時、心が弱くなったのだ。
 私たちはその気持ちを受け止めて、1つ1つ努力して自分を成長させていくことが大切である。私たちの子供時代からの成長と同じく、1つ1つ努力して自分を成長させていくことで「ねたみ、恨みの感情」が消えていくこと、あるいは昇華していく機能が私たち人間に備わっているのを忘れてはならないのである。

 そうしないと「ホテル観洋は大震災で儲けやがった」とか「同じ被災地なのに殆ど被害がなくてあの人はずるいなぁ」とか「被害がなくでむしろ申し訳ない」という気持ちに染まってしまうのである。自然は平等ではなく対等なのである。1人1人違うようにちょっとした違いで被害に差をつける。

 これを受け止めなければ被害者の立場でしか、今回の東日本大震災を語れなくなるのだ。それでは直接の被害者がいなくなれば東日本大震災が終わってしまう。


 以上でメモ終わり。
悩み苦しむ人々を思いやる時、苦しんでいる本人が肉体で行動して「気づき」が生まれていくように支援する、というのは「ターミナルケアにおける死」の講義で伝えてきた。仏教の話を引用していた。
 死んだ子を背負う母親が「生き返らせてほしい」と願っていた。ブッダは母親に「からし(インドでは普通にある調味料)のもらってきなさい。ただし死者の出たことのない家から」と伝える。母は必至で1軒1軒尋ねるが「どの家も死者がいた」のである。
 私はこの話を、ターミナルケアの観点から、「苦しんでいる本人が肉体で行動して「気づき」が生まれていくように支援する」と捉えた。この話は、仏教の最初の時に語られていますから、2500年くら前、つまり文字で書きのこされた最初からあった訳です。私は「自然は平等ではなく対等である」ことを受け止めるための、人類の智慧だと思っています。

 これから数百万人のベビーブーマーが亡くなる時代になります。その死を尊ぶ考え方を東日本大震災の方々から教えていただきたいと思っております。その際に、この人類がずっと語ってきた智慧を参考にして頂けたら幸いと考えています。

 メモに戻ります。
場所:29日 6:26AM ホテルの部屋にて 
朝早いですが、赤ちゃんが早く起きるからです。

「仙台市議会議員選挙の特集をNHKでやっていた。ある1人の議員の密着取材で
 「光は東北から・・・」
というフレーズがあった。この「光は」というのが、昨日の人類の智慧を日本に伝えることを意味するのではないかと感じた。別の言葉で置き換えれば
 「苦しんだ人ほど優しくできる」
になる。

 投票率が40%と低く残念だが、復興地出身の議員候補が前回より票を伸ばし、第3位であった。人類の智慧をまとったものが支持されるのを望む」


 以上でメモ終わり。
 仙台駅近辺は人々が日常生活を通常に行っていた。もし、
「誰に投票しても被災地は変わらない」
「自民も民主もダメだから、投票する気になれない」
「どうでもいいんじゃないの?政治家なんて」
 と思っている人が多く、投票率が下がったとしたら、本当に残念である。その心の態度こそが、戦後日本の最も悪い部分の1つだからである。その無責任さ、他人事、自分のことだけしか考えない「めんどうくさい」とか「ま、忙しいし」という考えが、尖閣諸島での中国漁船衝突事件、北方領土に今も帰れない日本国民、朝鮮半島から今も帰れない日本国民、福島原発近くに今も帰れない日本国民を生み出した態度なのである。先ほど、「被災地の人々のことだけを考えるのでは不十分である」と書いたが、「被災地の人々のことを全く忘れるのも不十分である」という意味である。

 それにしても、もっと1人1人の立候補者の情報を公開してほしい。そのように選挙制度を改正してほしい。例えば、現役の市議会議員なら、1つ1つの法案について、賛成、反対、棄権をした一覧が欲しい。政治活動の基本である「議員連盟」の参加情報も欲しい。もっと見やすくしてほしい。インターネットを利用して欲しい。
 今の選挙活動は私がかかわった経験からしても、選挙カーで「だれだれがきましたー」と名前を覚えもらう、握手をして顔を覚えてもらう、企業や組合、町内会などに割り当てて人を強制的に出してもらう、が主なのである。議員個人の政治的活動で評価してもらう制度ではない。政治家が政治活動で評価されないのは、教師がイケメンかイクメン(育児をする男性の意味)で評価されるようなものである。教師は授業や生徒指導などで評価されるべきである。福島原発事故がこれほど酷くなった根本的原因の1つは、「他人事の態度でもOK」であり、今も東日本大震災が復興へ向かわないのは、まさに政治的な理由なのである。

 メモに戻る
場所:29日 10:05A< 仙台駅行きのバスの中(ホテル観洋 10:00AM発)
 メモ
「チェックアウト時に、おかみさんが話しかけてくれた。赤ちゃんがいたからである。
「青山さんの動画を見て来ました」
というと
「青山先生は影響力がすごいですね」

「現地を見ないと分からないことがありますからね」
と言われた。

「一昨日も青山さんの動画をみてこられた方がいました」と続けられた。

 5か月以上も心身が大変な状態なので話しかけるのを控えようと思っていたが、このような話が聞けて幸いであった。バスに乗ると小さな漁村が、まだまだガレキがつまっていて被災地であることを思い出した。そして、500mも1kmもいくと古い家が残っており、田の稲穂がたわわについていた。
 その先を進むと道路はガタガタ。被災地と普通の世界をすぱっと2つに分けることは出来ない。被災地だけを隔離することは実態を見ていないから出来るのだと感じた。旅に出る前の私の無理解を改めて感じた。
 どこまで離れてもホッとできない。心のどこかに共有点をもっている。そこを無視して、見ないようにして、自分に関係ないものとして、東日本大震災をみない。被災地があり、私たちとは違う世界だと考える。それは他人事として片づけることである。

 都合のいい時だけ自衛隊
 都合のいい時だけ原発推進
 都合のいい時だけ地震対策
 都合のいい時だけ政治家批判


 以上メモ終わり。

 福島原発事故も東日本大震災の一部である。
津波や地震の被害を受けた、というだけでなく、戦後日本が続いているという意味で同じである。そして戦後日本は、外国人参政権問題、スパイ防止法問題、日教組の問題にも共通する。日常生活でも、「あの人は気が利かない人だなぁ」とか、人間として正しいこと、家族として大切なことを話さない、という日常生活にも共通している。

 被災地を旅行したが、66年間の日本が見えてきた。
 被災地を旅行したが、人類の智慧をかみしめた。
 被災地を旅行したが、自分の心の動きが文字に出来た。
 被災地を旅行したが、心の底から楽しかった。

 なんとなく格好良くまとまったので、ここで終わります。
 今後はそれぞれをエッセイとして切り取っていきたいです。
 長々とご拝読有り難う御座いました。
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