講義関連エッセイ 「講義全体の反省」

 テストも無事終わりました。
 そのテスト中に、講義全体で「過不足がなかったか」と反省していたのですが、1冊の本を思い出しました。その本は

 デューイ著 『学校と社会』 宮原誠一訳 岩波文庫 500円+税

 です。この本を足がかりにして、反省をしてみたいと思います。

 本年度はチャレンジをして「福島原発事故」を扱いました。チャレンジを受け入れてくれた大学と学生の皆さんには大変感謝しております。そして、私の講義の目標「公平さを身につけて学問の力から社会の、技術の問題を考えられるようになって欲しい」を正確に理解してくれた学生が数多く出てくれました。福島原発事故はたまたま目の前に起こった事故です。技術者倫理の目指す、事故予防と再発防止は、1つの事故の分析で終わりません。その意味で福島原発事故を取り扱う事が主な目的ではありませんでした。他方、地震による東日本大震災と福島原発事故が現在も継続中であり、その大きさが、学生の皆さんの真摯な態度に結び付き、数多くの学生の皆さんに伝わった、という面もありました。もちろん、私も勉強量が増えた、という面もありました。この意味では福島原発事故は大きかったです。同時に、この方向性を目指すことで、福島原発事故を何とか技術者倫理の中に位置づけようとしました。講義録15に出てきた「法治主義」と「人治主義」は、教科書にない内容ですが、それを取り入れたのも、何とか位置づけようとしたから結果です。
 「もっと、こうしていたかった」や「これを伝えたかった」という知識面や知恵の面での反省は大いに残っています。それは吉岡斉『原発と日本の未来』や武田邦彦氏関係の本を紹介することとしました。また、この講義は「技術者倫理の基礎概念を学ぶ」という講義ですので、あまり欲張らないように、と自分を諌(いさ)めました。多すぎる知識量は学生の皆さんの体や心に浸透しないからです。それは日本の大学界が「象牙の塔」と批判されている一面でもあります。「考えて学ばなければ浅い学問になる」という孔子の考えを学生の皆さんに紹介しました。そして福島原発事故の真の事故原因の1つは、多大な知識量の未消化が1つの大きな原因として挙げました。そう想い、知識面や知恵の面での反省を終えることとしました。
 ここまでは前提です。

 本題は「講義全体の反省」です。

 デューイから出発しましょう。
彼は、アメリカの繁栄を思想的に基礎づけた人として有名です。「プラグマティズム(功利主義)」という哲学を発表しています。講義中にも講義録4-1に「費用便益分析」として出てきます。これ以降は『学校と社会』の訳者宮原誠一氏の解説を大いに参考にしていきます。

 ①「デューイが、すべての観念は行動のための道具であり、思考は人間の環境と相互作用、環境を統制する努力の中から生まれ、かつ進化すると説く道具主義の立場に立つとき、かれの関心はアメリカ社会の実際生活向けられる」173頁

 とあります。私も講義で

 「「公平さ」は技術者倫理を達成するための観念であり、最終的な目標は実際の事故予防と再発防止である」

 という観念を貫いてきました。この点でデューイと似通っていますし、哲学は実際の生活のために再構築されるべきである、という点でもデューイと似通っています。私は今回の福島原発事故に関しても、事故以前の原子力政策に関しても、日本の科学哲学者、あるいは科学史家が取り組んでこなかったことについて、デューイと共感を覚えていました。そもそも、この本を高校の先生を目指している講義の中で紹介され、後に購読し「教育とは国家にふさわしい人材を育成するために行うのであり、だから義務教育である」という文には共感し続けています。これは『学校と教育』の第8章 初等教育における歴史科の目的 でも述べられています。

 「昔の神話や物語は、その当時の生産構造や規律などを説明した上で、人々を結びつける道具であった、あるいはそれが現代まで社会を結びつけている」

 という視点です。そこに「歴史科と理科の自然な「相関」がある」と162頁で書いています。日本の教育には、今回の福島原発事故で自衛隊の方々を始め多くの国民が見せてくれたように「人々を結びつける道具(観念)」がありました。これをデューイは学校で教えるべきである、と述べているのです。デューイは1900年以降アメリカの教育界を数十年に渡って影響を与えづづけたのですが、日本はアメリカの占領政策の影響なのか、デューイのいう「歴史科(道徳)」をついに現在まで65年以上、捨て続けています。その意味で日本の教育は、家庭教育や社会の中の文化や活動と通した広い意味での教育よりも小さいものと言えるでしょう。今回の福島原発事故が示した大きな点の1つは、

 「学校で教えなくても、多くの日本国民は公共心を持っていた」

 という点です。日本以外の先進国、多くの発展途上国でも公共心を教えているのにです。
 さらに、デューイとの共通点に行きたいと思います。
 
 ②「公共的な目的のために不断に改変されていく社会が大切であり、金銭的な利得よりも共同性を大切にする社会となって欲しい(意訳)」183頁

 私:「日本国民が幸せを感じられる社会になるように、悪い所を改め良い所を伸ばすように不断に改変される社会が大切であり、経済的な利得と共に倫理も大切にする社会になって欲しい」

 と共通しています。そのためにデューイは

 ③「社会の改造は、本質的に心的傾向の改造を意味し、つまる所すべては個人の生活の方法としての道徳の問題に帰着するのであって、それはすなわち教育的過程にほかならない」

 私:「社会の改造は、本質的に心的傾向の教育を意味し、つまる所すべては日本国民の判断力の育成に帰着するのであって、それはすなわち教育の価値にほかならない」

 さらに、

 ④「人間的要素をほとんどゼロにひとしくしてしまう型の社会理論」の「典型例」としてマルクス主義にたいする批判が展開されている」188頁

 私:「自然科学を思想で歪曲してしまう型の社会理論(カール・ポパー『歴史主義の貧困』の一部)」の「典型例」としてマルクス主義を捉えている」

 と共通点があります。もちろん、違う点も出てきました。共通点は、社会の改造は、日本国民の心の傾向の問題である、という認識です。その点を何とかしたい、という考えで講義に取り組み学生の皆さんに、「気づき」を大切にする講義を行いました。それゆえ、デューイの目指す教育内容、詳しくは『学校と教育』の中にありますが、共通点が多々あります。そうやって1人1人の心的傾向の改造によって、選挙行動が変わり、社会が変わっていくという方向を目指しました。講義全体としてデューイの目指す方向と一致していたのです。というよりも私がデューイに学び(真似び)、取り入れたと言った方が正確でしょう。

 その前提を踏まえて、デューイの教育哲学の欠点がなかったか、と反省しました。プラグマティズムについては多くの議論がありますので、デューイの教育論について述べていきます。デューイの教育論全体を要約します。

 「良い教育とは学校の中に小社会が出来ることである」→「しかし社会は悪い側面もあるので社会と一定の距離を学校は持つべきである」→「良い教育のためには社会を改造しないといけない」→「社会の改造は個人の生活方法としての倫理の問題である」→「個人の生活方法としての倫理の問題は教育の問題である」

 という「教育(学校)」→「社会」→「教育」という同語反復(トートロジー)になっています。どちらが優先して改造されるべきかが示されていないのです。もう1点は倫理という心の問題に解決方法を持って行ってしまいました。私はこれも欠点だと思っています。何故なら「倫理」の基準がキリスト教の中でも一致せず、ましてや世界中では一致しないからです。デューイの時代にはアメリカは科学と社会の進歩によって発展する時期でしたので素直に「倫理の統一」とその「倫理の統一」に合わせることが素晴らしい結果を産むと信じられたのでしょう。まとめると、

 欠点:⑤デューイの教育理論全体が「社会」と「学校」の同語反復になっている
   :⑥デューイの教育理論の根幹が「倫理の問題」であり、さらに「倫理の統一基準がある」と信じられている

 この点を意識しながら講義をしていたのですが、学生の皆さんの考えの中には、デューイと近しい考えを持つようになった人々がいます。それを否定するのではなく、私がそのように導いていなかった、と反省しています。というのは、⑤と⑥を明確に打ち出して講義し出しだのが、今年度からだったからです。福島原発事故を観ていて、強く感じたのは、

 「原発は絶対安全です。何故なら安全だから原発をしています」という考えですが、これはまさに⑤です。
 「原発を信じない人は悪い人(左翼)だ。原発を知れば日本国民全員が「原発推進が善」になると信じる」という考えですが、これはまさに⑥なのです。

 その点に気が付いて、私がこの考えと距離を取るように意識し出しました。
原発をきちんと学んだ最初は、「あれ?なんか可笑しいな」という感覚がありました。それは大学院時代にある先生から「風力発電は原発の代わりにならないか調べてもらえませんか?」というレポートの課題を頂いた時でした。火力発電にも風力発電にも反対運動がないのに原発にだけある。しかも、どうも政治運動と結びついている、と気が付きました。何故か、原発関係の本を読むのに私の中で心理的な抵抗を感じたのも覚えています。レポートは結局「風力発電は発電量が小さいので原発の代わりになりません」というものでした。他にも色々と題を頂いて、その中で「二酸化炭素による地球温暖化は自然科学的ではない」というレポートも出しました。「原発と地球温暖化説の共通点」http://takagikenziro.blog.fc2.com/blog-entry-72.html は殆どその時に調べたものです。戻りますと、

 反省⑦:デューイの持つ欠点に導いていないか、という反省

 をしました。もう1つ反省しているのは、④「人間的要素をほとんどゼロにひとしくしてしまう型の社会理論」の「典型例」としてマルクス主義にたいする批判が展開されている」に近い私の「自然科学を思想で歪曲してしまう型の社会理論(カール・ポパー『歴史主義の貧困』の一部)」の「典型例」としてマルクス主義を捉えている」という捉え方を伝えているのではないか、という点です。私の原発に対するスタンスは「脱原発:まず、原発を徐々に廃止していこう。安全がきちんと確保された時点で再検討しよう。」というスタンスです。コメント集にも書いたようにこの点について意見ももらいました。数々の意見を濃縮すれば

 「先生は「公平」を言いながらも「反原発」に導こうとしているのではないか?」

 という意見ではなかったか、と感じるのです。その出所が、私の心の中にある「反マルクス主義」という捉え方にあるのではないか、と反省しています。

 反省⑧:「反マルクス主義」で原発を考えていないか、という反省

 ということです。歴史的事実として日本を弱体化させる政策を取ったアメリカですが、その実行者はソ連のスパイでした。その後の学生運動(私は農村共同体を都市社会に持ち込む運動の1つ)や、いまだに自衛隊を軍隊にしないこと、北方領土問題を始めとする領土問題に目を閉ざしていることなどについて、反マルクス主義的な見方をしてしまうのです。それは

 反省⑨:歴史的事実、あるいは政治史の中で正しくとも、「科学技術者の倫理」という科目の中で正しいのだろうか?

 という問いです。同じく、原発にも地球温暖化問題にも「米ソ冷戦構造」がある=時代に合わず捨てなければならない、と主張しました。この私の主張をする根本にも、「反マルクス主義」という捉え方があると思われます。この反省については、どうも客観的に考えにくいので、反省はじっくりと続けていきたいと思います。

 以上の2つの反省を「講義全体」においてしたいと思います。


 最後に、デューイの教育理論と異なる点を箇条書きしておきます。先に私の主張を、次に対立するデューイの主張を書きます。

⑩:「観念は思考の道具である」が「実際生活」では有効性が確かめられない
デューイ:確かめられる、として実際生活に関心を向ける。
 実際生活の曖昧さと複雑さは、社会内が単一に近く、かつ同一の目標に向かっている時に見出しやすいが、そもそも根本的に実際生活は、文化や宗教、地域性などによって単一化されない、と考えている。そこに見出されるのは結果論としての蓋然性(たしからしさ)でしかなく、それは「因果関係」ではなく「相関関係」でしかない(「原発と地球温暖化説の共通点」http://takagikenziro.blog.fc2.com/blog-entry-72.html に2つの関係の違いを少し述べています)。そもそも社会科学で見出されるのは、自然科学の持つ「因果関係」ではない、というのが私の大学院時代からの主張です。ポパーに影響を受けています。

⑪:個人と社会の究極の決定因は、個人の精神だけではなく社会の共同的洞察を共有することである
デューイ:究極の決定因は、個人であり精神であり主観的観念論です
 講義の中で「民のかまど」や『葉隠』の「武士道」という日本人の共同的洞察を共有することが、技術者倫理では大切である、と述べてきました。ただし、デューイはアメリカ人にとってキリスト教の神を信じること=2つの聖書を信じること、その言葉を守ることが、「個人を成り立たせる」という前提があるならば、あると予測しますが、デューイと私の考えはさほど違わないことになります。また、そうであるとするならば、デューイの哲学がキリスト教神学の教育論への現代版の応用として捉えられることになり、アメリカ人に支持された原因の1つにもなります。またそれゆえデューイがローマ・カトリックとは少し違うテイストでアメリカ独自性として位置づけられたという原因にもなります。これは私の推論です。

⑫:初等教育において徹底的な暗記の必要性を認めます。また、学校での小社会は多くが両親を通じた社会全体の投影であると考えます。
デューイ:学校は暗記と試験による受動的な学習の場ではなく、興味あふれる活動的な社会生活を営む小社会でなければならない。
 私は学校と社会との距離を取ることは大切だと考えます。その割合が初等段階では大いに、高等段階に進むにつれて徐々に少なく、つまり社会との距離が縮まる方向へと考えます。また、徹底的な暗記の必要性を認めます。それは、知識を獲得した上で人間に近づくと考えるからです(詳しくは拙論『人間のあり様としてのネット社会』を参照のこと)。また、消化器系などの身体的に、視覚などの脳内においても完成するのが小学校の4~6年であるからです。完成した後、大人への第二次成長が始まります。それ以前と以後に生物学的違いがあるのですから、それに合わせる必要があると考えます。ただ、デューイはこうした生物学的知識を持ち合わせていなかったのかもしれません。持ち合わせていたら、現在の理論を打ち立てたかどうか興味ある所です。

⑬教育において、学問の力=理性と自分の心の声(感覚)の両面がそれぞれ別々の場面で大切である(論文作成指導で示しました。講義録8(http://takagikenziro.blog.fc2.com/blog-entry-17.html~11)などです。
デューイ:不断の改編が必要であり、最終的に個人の倫理の問題に行きつく。
 講義では「倫理が何よりも大切」という立場を「倫理絶対主義」として示し、デューイを始め技術者倫理でも多くの人々がこの立場をとることを示した。「倫理が経済や経営などと共に大切」という立場を「倫理相対主義」として示し、私の立場として示した。それぞれの長所と短所も合わせて。私はデューイのように人間性の信頼におくが(187頁)、しかし、絶対的な信頼は置かない。それは講義の最初で示したように、人間には善も悪も両方持ってしかるべきである、という立場をとるからである。もう1歩踏み込んで「善も悪もある統一判断がなければ統一されない」と考えており、その「統一判断」が成り立たない、と考えている。これは歴史的に観れば日本がロシアやアメリカなどと戦争をしアジア・アフリカの独立を成り立たせた後に、「全ての文化や民族は統一基準では図れない」や「西欧文明(文化)が最も優れた文化を持っているとは言えない」という文化人類学が獲得してきた成果を知っているからである。しかし、デューイの時代1900年は、西欧人支配の世界で「白人にあらずんば人にあらず」という世界であり、その世界は「キリスト教信仰」によって基礎づけられていた。そうした時代的限界がデューイに観られることはむしろデューイの理論の健全なる証拠である。私の考えもまた時代的限界を持っている。その中で、私は、理性と感情の両方に足を置き、デューイは倫理に足を置くのである。

 以上で終わります。長々とご拝読有り難う御座いました。
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