講義録15-3「日本の倫理 「法治主義」と「人治主義」の中間」

 「法治主義」と「人治主義」を併せ持つ日本ですが、それぞれの主義と同様に長所と短所があります。

 長所は、「総中流」と言われた平等感を殆どの国民が共有できたことです。これには経済的に、終身雇用制や年功序列制、「マイホーム」や「マイカー」などに全体が一心に向かったなど要因を付け加えなければなりませんが、「法治主義」の弱肉強食が当然、という倫理が浸透しなかった点が挙げられます。日本では「公平」というと「結果の公平」という考え方が目指されているという特徴があります。行きすぎた「公平」は小学校の徒競争で全員で手をつないでゴールする、などを引き起こしましたが、結果の平等は、私の考え方は死生観に遠因があります。菅原道真など生きている時には酷いことをされても死後のたたりを恐れて祀(まつ)られる。あるいは、「死ねば仏」と罪が許されるという死生観があります。しかし、「法治主義」のキリスト教では、死後に生前の行いで天国と地獄が決まります。神が予め決めているという考え方もあります。どちらも死後の許し、によって「死者は平等になる」という思想がありません。ここが遠因だと考えています。ですから、生きている間も

 「まあまあ、こうして謝っているのだから」

 と許しが出てくるのではないでしょうか。私は自動車の免許を持っていないので交通事故の実例に接したことはありませんが、ぶつかった時に「すいません」と謝ってはいけない、という話を聞いたことがあります。それは「すいません」というと自分のミスを認めたことになり、法律によって決められる交通事故の責任が大きくなるのだそうです。真実かどうかは確かめようがないですが、「法治主義」と中間の日本の考え方のズレを示す好例ではないか、と思い講義で紹介しました。こうした「結果の平等」は、もちろん、「民のかまど」にも見られる考え方です。日本は弱肉強食を支持する公平(あるいは民主制)を選択したのではなく、全員がご飯は食べられるという結果を支持する平等(あるいは民主制)を選択したのではないでしょうか。「民のかまど」は神話である、つまり実話ではない、という指摘もありますが、むしろ、神話として人々が語り継いできたこと、は全員がご飯は食べられるという結果を支持する平等を選択したと見なすことが出来ます。ヨーロッパやアメリカなどの民主制資本主義に基づく重工業で成功してきた国々の中で「平等感」が一番高い理由として、それは私たちが「結果の平等」になるように社会設計を目指す心があったからだ、と、やはり思想の力を重視したい私は考えてしまいます。
 もう1つの長所は、「人の心を大切にする」という点でしょう。よく、「空気よめ」や「根回し」が批判されますが、これにも長所はあります。というのは、民主主義の大きな特徴は、強力なリーダーが必要で指導していかなけれならないことです。
 河合隼雄『こころの処方箋』の中にある話しなのですが、アメリカの学校では、校長が立論(提案)をします。それに反対意見を出すのではなく、反対の立論(提案)をしなければなりません。そうしなければ投票にはならないのだそうです。投票は公平に行われます。
 一方日本では、何か議案があると、「そもそも学園祭は必要なのか?」のような全く生産的でなく、今問う必要のない疑問が認められます。あるいは「今の学生たちでは出来ないのではないか?」という思いやりという名の話しあいが行われます。大切なのは議案に対して「わだかまり」を持っている人は、その人が立論(提案)する能力がなくても全員がその意見に耳を傾けてくれるのです。全く民主主義にあり方が違うそうです。そして日本の、日本だけの民主主義は「人の心」この場合では「わだかまり」を全員が大切にする、ということです。いくら能力のない人でも「結果の平等」が受け入れられるのです。アメリカの民主主義は能力がない人は相手にしない、という「公平」さが見受けられます。悪い点を挙げたように読まれるかもしれませんが、こうして時間を費やすことで、なるべく多くの人を一体感を持っていくということが生み出されます。全員一致はアメリカなどヨーロッパでは殆ど考えられないことですが、日本では議論がある場合、全員に一致が基本です。

 欠点は、その裏返しになります。
「空気よめ」は、「出る杭は打たれる」になります。近年、日本人のノーベル賞受賞者の多くはアメリカの大学に所属しています。独創的な研究、あるいは能力があっても上位の権限を獲得できないなどの弊害です。この点は、後に青色LEDの中村修二氏の問題で取り上げます。
 他には、「お上に従う」という点も挙げられます。私はこの点は江戸時代に構築されたと考えていますが、詳論は控えます。今回の福島原発事故対応でも「海外なら政府に対して暴動や過激なデモが起きている」ということが言われていますが、それがありません。福島県では今でも法律違反の被爆を大人、150倍くらい被害が出る子供がしています。しかも、文部科学省は法律の許容値の20倍(20ミリシーベルト)でOKです、と述べています。野菜や牛肉、荒茶などの対応も大変矛盾しています。「お上」の欠点を改善していきにくいという意味で、欠点になります。

 長所と欠点、それぞれ2つ挙げたので日本の倫理を「法治主義」と「人治主義」の中間からざっと見てみましょう。まず、「法治主義」ではない点です。法曹界でよく言われるのは「2割司法」という言葉です。「3割司法」とも言われますが、社会の中のもめごとを司法=弁護士や裁判所が20%、あるいは30%しか解決していない、という意味です。つまり、弁護士や裁判所は日本社会にあまり根づいていない、という意味合いで語られる言葉です。何かもめごとがあると、知り合いやその道に詳しい人頼むことが多いでしょうか。実態として考えてみると、他人とトラブルに合った場合「知り合いなどに間に入ってもらって話し合う」ということは普通にあります。また、今回の福島原発事故でも、

 「原発はそもそもどんな法律に則って運転されているのか?」
 「事故対応に対する法律は?」

 という疑問が日本国民の中に生まれませんでした。それよりも、「誰が悪いのだ?」、「大丈夫か?」という「人治主義」的な発想が、TVや新聞を埋め尽くしました。原子炉の写真が映し出されて「事故原因」が分かってきても、「では原発を止めるための法律を民主党は出したのか?」とか「自民党は提案しているのか?」という視点に目が向いていません。ただ「菅総理が浜岡を止めた」ことは評価しています。しかし、人によって根拠なく止められたものは根拠なく再開します。根拠を社会的に与えるのは法律です。そうした思考にならなかったことが、実態として「2割司法」という言葉が指す内容でしょう。

 もう1つ加えておきたいのは、歴史的な経緯です。原発は世界最高水準の技術です。技術立国日本となった出発点は、明治維新です。この時に「日本は西欧社会の作った世界の中で生きていく」と決断しました。それにより、西欧諸国と同じく重工業社会と帝国主義を目指しました。その結果として自主エネルギー確保という命題が持ち上がってきて、満州帝国や東南アジアへと進出していきました。敗戦後もこの方向性を変えていません。この歴史の流れから見ると日本に「法治主義」が導入されたのは、明治維新です。西欧諸国の憲法を真似して大日本帝国憲法を作り、アメリカに現在の日本国憲法を作られ、現在まで続いています。「法治主義」が日本に実態として根付かないのは、その裏にある「個人主義」が確立していないことと同時に、「日本は西欧社会の作った世界の中で生きていく」という考えで、つまり目的としてではなく二次的に導入しているからなのではないでしょうか。もちろん、「法治主義」の持つ「公平」は、頭で理解できるでしょう。学生の皆さんに問を出しました。

 問1 今後、日本はそのまま、法治、人治のどれが良いと考えますか?

 この問の答えとして40%が「法治」、40%が「そのまま」、10%が「人治」、10%が「その他」となりました。とは言え現在の日本では「格差社会」という貧富の差解消が大きな政治的テーマになるほど「法治主義」のマイナス面に目を向けています。また、私は前に述べたように、こうした問題は選択できない、と考えています。しかし、あえて考えてみて気が付くことを大切にしていますので、学生の皆さんには「選択出来る」という観点から考えてもらいました。
 明治維新以前は、日本は「人治主義」の国でした。しかし、中国と異なるのは、「民のかまど」的な思想が行き渡っていたことです。上杉鷹山のような人が名君とされ、儒教でも中国のように「仁」ではなく「義」や「忠」などが重視されました。もちろん各大名が、法律や税金を取り立てることが出来ましたが、「押し込め」などの慣習によって「民のかまど」的な思想が、つまり「暗君は民のために取り換えても良い」という思想が見受けられました。国際的なビジネスマナーの本を読んでいた時に、「社長が社員と一緒にご飯を食べる」とか「社長が会社の入り口を掃除する」という日本ではあまり不思議に思われない行為が、海外では「してはいけない」と書いてありました。現在私は、静岡で色々な学校に行っていますが、校長が朝早く来て学校の前を掃除している、という光景を見ています。しかし、海外(中国など)では、社長が軽蔑され、社員の士気が下がるそうです。こちらの方は実体験していないのですがありそうなことです。東アジアからの留学生に幾つか聞いて確かめてみました。

 ざっと日本の倫理を眺めてみました。
こうした理由から、私は倫理は、倫理は統一していくものか、それともそれぞれの独立の上に成り立つものか、という問題に、それぞれの独立の上に成り立つものと考えています。それらを無視して、ある基準を設定して、ある事故だけを取り上げて非難する、というのは何も生み出さず、あるいは感情の対立を煽(あお)るだけだと考えます。大切なのは、それぞれの国の倫理にそった形で「工学的倫理」の具体策を模索していくことだと考えます。繰り返しになりますが、そもそも工学とは自然科学と異なり数値化できず、1つにまとめることが出来ないのです。その工学の生み出したものを倫理的にコントロールして事故予防や再発防止策を作りだすのが、「工学的倫理」なのですから、統一化出来ないと考えるのです。

 さて、それでは先ほど述べた青色LEDの中村修二氏の問題を取り挙げましょう。
講義では数字を誤って書いてしまいました。それは裁判の支払い金です。第1審600億円(200億円要求)⇒講義で300億円、第2審6億円強(遅延金を含め8億円強)⇒3億円強 としていました。先に訂正しておきます。

 青色LED裁判は、実は色々と複雑な問題があります。実際に使われた技術ではない、他の若い研究者が発明したものも寄与している、実は別に発明していた学者がいたなどなどです。昨年まではこれらの問題に触れながら考えてもらいましたが、今回は「法治主義」と「人治主義」に関わる点でのみ切り出しました。

 まず、第1審で600億円の対価が認められましたが請求額が200億円なので(請求するのにお金を預けなければならない制度なのです、日本の司法制度は)200億円となりました。

    第2審では6億円強の対価となりましたが、これは和解勧告によるものでした。

 また、第2審について中村氏は「日本の司法制度は腐っている」と発言しています。これは日本の「人治主義」を批判したものと解されます。日本の裁判の判決文には「社会を騒がせた罪は重い」という文章が載ります。しかしこれは明らかに可笑しいと私は考えます。何故なら「法律は法と証拠によって刑罰が決まる」からです。それなのに「社会を、つまり多くの人の心を騒がせたから罪が重い」というのです。人の心、あるいは人を沢山騒がせると罪が重くなる。これは「人治主義」の側面なのです。この極めつけの例がありました。尖閣諸島中国人漁船衝突事件です。「国際社会の状況を考えて」という「法と証拠」に一切基づかない行為を行いました。その後この事件は国民の判断で「強制起訴」(7月26日:最終講義日)になりました。この例は極端な例ですが、日本の司法では「反省しているようだ(悔悛の情)」という点も考慮されます(仮釈放の時の「改悛の状」とは異なり)。あるいは「社会通念に照らして(常識的に考えれば、世間で言えば)」という事もあります。
 中村氏の裁判は私も多少関心がありましたが、第1審が出た時に、大企業幹部、官僚、政治家が「高すぎる」と社会的圧力を欠けていたのを良く覚えています。その中に「技術者にこんなに対価を払わなければならなくなると日本企業はつぶれる」というコメントもありました。私はそれでつくづく「日本の技術者は偉いな」と感じました。というのは

 「技術者は好きなことをやっているから正当な対価はもらわなくてもいいだろう」

 という意味だからです。実際に『理系白書2』では、大卒文系の生涯賃金4億円に対して理系は3億5000万円と5000万円も低いというデータがあります(この本が現在の技術者の問題が述べられている素晴らしい本です。最近3がでました)。日本は資源もなく、銀行や金融でお金を儲けるのではなく技術立国であり現在の繁栄を手にしました。しかし、その技術者には金銭としては報われないのです。また、理系離れが顕著に義務教育でも一般社会でも現れています。中村氏の所属していた日亜化学は世界のLED部門(中村氏の技術が必要?)で60%を超えていました(2008年)。
 中村氏(1999年まで勤務)の主張によれば、会社からの対価は2万円だったそうです。
 日亜化学の主張は「出世した分があるので7000万円弱」だそうです。

 ノーベル賞級とも一時は言われた発明です。この発明は中村氏の、あるいは中村氏の中心とするチームの発明であり白色LEDに貢献して数百億円~数千億円の売り上げに今も貢献しています。この点を考えると「出世」という間接的な対価で数千万円というのは極めて低いと判断されると私は考えます。
 中村氏はこの後、アメリカの大学で教えましたが、ある大学の先生は「日本企業で引きとめたかった」と発言しています。私は東京大学や京都大学などの国公立大学で引きとめるべきではなかったか、と考えています。中村氏は「日本企業からは、待ったのだけれど1社もオファーがなかった」と語っています。内部告発にも捉えられる中村氏の行動は、「技術者は対価を求めるな」と「育ててもらった会社を裏切った人物は信用できない」という「人治主義」的側面を感じさせる事件となりました。これも実態としての日本社会の倫理の1つではないか、と捉えます。その後、中村氏は世界初となる半導体レーザーを発明したそうです。
 1つ付け加えたいのは、現在の技術の現状についてです。これまでは大企業中心で、東芝やパナソニック、ソニーなどが競争しながら技術を蓄積してきました。しかし、現在は宇宙開発などのように国家間、あるいは国家単位で資本を注入する技術開発に移りつつあります。例えば、液晶の次の技術と言われている有機ELという技術は、日本が世界最先端でしたが、中国や韓国に追いつかれつつあります。これまで日本は300億円の資金を投入してきましたが、そろそろ製品化するので資金を中止します、という態度に変えました。これに対して中国や韓国は税法上の優遇も含めて1兆円以上の資金を投入し、さらに投資する姿勢を見せています。同じ「法治主義」を持つドイツは「技術は国家単位になりつつあるという現状を踏まえて国家で資金援助をしつづけています。
 こうした現状にあって求められる技術者が変わってきました。

 「非常に優秀な技術者を極めて高い対価を払って優遇すること」

 が最先端技術では大切になってきているのです。これまでは

 「優秀な技術者を平均的な対価を払って優遇すること」

 でした。韓国メーカーや中国メーカーの発展の陰に日本の技術者を「非常に優秀な技術者を極めて高い対価を払って優遇すること」があったのは言うまでもありません。日本の大企業が、このシフトを移行していかなければ、最先端技術で優位を取る分野は少なくなっていくでしょう。日本の技術者は優秀ですから無くなる訳ではないと希望的観測を持っています。ただ、開発機器を持っている普通の技術者と、開発機器を持っていない優秀な技術者では前者が勝つのです。その開発機器が数十億から数百億と高額になってきているのは事実です。
 この技術の現状を踏まえると、青色LED裁判が与えた影響は、日本の技術者にとってマイナスであったと私は考えます。「頑張って技術開発しても正当な対価は日本では報われないのではないか」という疑念を、多くの技術者に与えたからです。もちろん、福島原発事故後に見た日本人の美しい心があるので、一概に技術開発力の低下につながるとは言い切れませんが、心理的にマイナスであったと考えます。これを勘案すると、「技術者にこんなに対価を払わなければならなくなると日本企業はつぶれる」というコメントは、目先の利益しか見ていない、日本の技術者の心を思っていない発言に聞こえました。完全に私見です。また、中村氏を受け入れたいという海外のメーカーはあったのに日本のメーカーに無かったという点も残念に思われました。「人治主義」の欠点だと思われます。

 
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