講義録15ー2「法治主義と人治主義」

 個人レベルの「個人主義と集団主義」に続いて、国家レベルの「法治主義と人治主義」について述べていきます。

 「個人主義」と「法治主義」の相互関係は大いにありますが、ここでは簡単に「個人に刑罰を国家が法律に基づいて科す」と考えておきましょう。この点は私はまだまだ勉強不足であることを補足しておきます。次に「集団主義」と「人治主義」の相互関係も大いにありますが、「集団に刑罰を国家が人にも基づいて科す」と考えておきましょう。日本語では「連座(れんざ)」という言葉がありますが、家族の内の誰かが悪いことをすると関係のない家族の社会的関係に影響を与える、というものです。日本では、家族の中に犯罪者(特に殺人者)が出ると、その当人が長い間会っていなくても、マイナスの印象を持たれる、ということが良くあります。マスコミも、殺人犯の両親にインタビューに行きます。これは「個人の責任」という法律ではなく、日本社会に「人治主義」があるからです。講義で取り上げたミートホープ事件では、社会的に称賛されるべき内部告発を行った赤羽氏の行為にしたいして、親類から「外を歩けない」などの苦情が寄せられた、と書かれています。犯罪などのマイナスではなく、法律によって守られた行為、あるいは社会全体について利益になる行為でも、社会的関係にマイナスの印象をもたれることがあります。これも「人治主義」の1つの形です。
 中国では県知事クラスの人が変わると、それの分だけ家族も追いやられます。私は中国の歴史書が好きなのですが、「権力を握っていた人が首になると、孫やおじさんおばさんまで全て斬首」という話が良く出てきます。現代では此処までの「集団主義」ではないですが、日本よりも高い「集団主義」であるようです。「法治主義」と「人治主義」を簡単にまとめてみましょう。


     「法治主義」       …日本…      「人治主義」

   社会のルールは:法               社会のルールは:「人」
   公平                        身内ひいき
   弱肉強食                     身内は平等
   全体の倫理を目指す               特定集団の倫理は守られる

 
 「法治主義」の長所は、工学的倫理に必要な「公平」が担保されることです。全ての人にとって平等という思想は実は中々珍しい思想です。現在でもこの「法治」を目指している国々が沢山ありますが、思想として人々が受け入れているのは、イラクやパキスタンを観ればはっきりしますが、部族社会なのです。これは「法治主義」と「人治主義」の二区分で割り切れないかもしれませんが「人治主義」に非常に近いと言わざるをえません。アメリカは元ブッシュ大統領の言葉「神の支持する自由を中東の広げる(意訳)」としてイラクに侵攻し、統治しましたが、イラクの人々はこの「法治主義」の考え方に中々同意しません。日本は、前回話した「民のかまど」の思想がありますから、「法治主義」に部分的になじみ、アメリカの占領政策が上手くいきました。この成功体験を未だにアメリカは見直していないのかもしれません。「民のかまど」は「人治主義」から「法治主義」の公平を目指す方向性があります。これは私の解釈ですので特に強調しておきます。というのは、この「民のかまど」を広めている青山繁晴氏(私も知りました)は私の知る範囲では述べていません、「民のかまど」は、権力者という人が全ての人と平等に生きよう、という方向性を持った話と解釈できるからです。つまり、権力者だから自分だけが得をしていい、という身内ひいき、自分ひいきを捨てた点があるからです。ですから、日本は西欧の民主制(あるいは民主主義)が来た時に容易に取り入れることが出来たのです。インド、インドシナ、タイ、中国や韓国などの国々よりも日本が速く理解し、定着させたのはこの話があったからでしょう。また、坂本竜馬がアメリカの民主制憧れたという話もここに種があったのではないか、と思われます。ただし、日本の宗教観は民族宗教ですから、「外人と日本人」という区分があります。留学生の就職セミナーでも「外人をひとくくりにする」という区分です。「あら、外人さんなのに日本語上手ですね」とか「外人なのに日本人の心が理解できていますね」という言葉が出てきます。
 私は日本の思想は、世界に通じる、つまり普遍性がある、と考えていますから、外人でも日本人でも真剣に取り組めば理解できると考えます。むしろ現在の日本人が、日本人の心を理解してようとしてない、と考えるほどです。武士道は良く言わるように初期のキリスト教の通じるものがあり、イスラム教の世俗面は日本人の100年前ぐらいの世俗面に近いものがあると考えています。「大切な女性は人に見せびらかすものではない」とか「子供や老人は大切にしましょう」とか「旅行者は大切にしましょう」とか「お水は皆のものですよ」などなどです。

 次は「法治主義」の欠点に行きましょう。イギリスもアメリカも極端な貧富の差があります。その理由がこの「公平」として挙げられます。つまり、人間は「能力は公平ではない」のですから、結果としての「貧富の差は当然」という風に肯定されます。「公平」を重視するのですから「結果の平等」を優先されません。日本では「そうはいっても・・・」という考え方が通りますが、「公平」さが担保されているかを大切にします。ですから、先週述べた「能力がある人が高い給料をもらうのは当然」という個人主義的な考え方も出てきます。終身雇用や年功序列の考え方とは一線を画します。「公平」を重視するならば、職場で20代の上司が居ても40代の人が「心のわだかまり」を感じないはずです。しかし、20代という「人」を重視するならば「心のわだかまり」が出てくるのです。
 また、貧富の差が固定化することで「貧富の差は能力の差なのだ」と考えて、人種差別的思想が生まれているのも否定できません。特に「アメリカが世界の覇権を失いつつある現在」は、アメリカの人種差別的思想が強まって来ています。近年で有名になったのは、浜松でも上映された「ザ・コーブ」という日本のイルカ漁の映画があります。この映画が24の賞を獲得し、特に「ドキュメンタリー賞」を取った事は人種差別の根深さ、そしてアメリカの危機感を表わしていると、私は考えます。「牛とクジラの違いはなんでしょうか?」、「イルカと豚の違いは何でしょうか?」。この映画の主張「イルカ漁は残虐だ」というのならば「現在の牛を人の手で作りだしたこと、帝王切開でしか生まれない牛を繁殖させること、食肉のために牛が育てられること」は残虐ではないのでしょうか。これはイルカでは行われていません。より自然に近いのがイルカなのです。人間のために生命を奴隷にしているのが牛なのです。さらに日本人はこうした行為に対して祈りを捧げます。記念碑を作る場合も多数あります。針塚まであり、無機物にさえ、製造物にさえ祈りを捧げ感謝します。これらを取り上げないで一方的に「イルカ漁は残虐だ」という点で「公平ではなく人種差別的である」と私は考えています。フランスではイスラム教徒の女性のスカーフが認められないにも関わらず、小さな十字架やユダヤ教のバッジは認められるなども例もあります。

 ただ、こうした事例は幾つか観られるようになってきたものの、全体の倫理を守るという利点も法治国家にはあります。これには宗教戦争を100年以上繰り返した欧州の歴史を反映して、政教分離の考え方が倫理として広くヨーロッパ社会の建前として、あるいは実態の場合もあるが、受け入れられています。フランスのイスラム教徒の女性のスカーフも、そもそもはローマカトリックからの国家への干渉を排除する目的で「公(教育)の場では非宗教であること」という考え方が受け入れられいます。そもそも他民族の共存する国家を作る時に、この「全体の倫理」重視する、という条件が出てきました。ナチスドイツは「アーリア人」という特定集団の倫理に偏り、特定の民族(ユダヤ教徒)を虐殺したことで現在でも非難されています。しかし、特定の民族の虐殺は、同時代の他の地域で、それ以後の時代でも他の地域で行われていますが、欧州ではないために批判の度合いが低いです。それは、それぞれの国による倫理が異なるのが一因だと私は考えています。

 次は、「人治主義」です。
「工学的倫理」からすると、「属人的組織風土」が出てくる、という側面があります。上の人が言えば「クロも白なる」ということです。善悪が人によって、人の権威や権力によって変わってくる、ということは「工学的安全」を考え難くなるというマイナス面があります。また、原因究明をしにくくなります。
 広く考えてみると、利点と欠点もある国家体制です。まず、カリスマ性がある人物や有能な人物が治める場合、極めて高い経済発展や成長、安定性が保証されます。現在、日本の1人当たりのGDPはトップ10から落ち、大分低くなりました。第1位はルクセンブルグ、で日本の2.5倍の約1000万円、次がノルウェーで850万円、第3位がカタールの760万円です。このカタールは王族支配の国ですが次期国王が優秀な人物で、一気に上昇しました。また、毀誉褒貶ありますが古代ローマのユリウス・カエサル、コンスタンティヌス、漢の武帝、聖徳太子など人物によって国家が経済発展、成長、安定性を獲得した事例は沢山あります。ビジネスの集団では特に顕著で、松下幸之助、本田宗一郎を始めとして集団主義のある日本でも強烈なカリスマが強い集団を発展させることがあります。
 とは言え、カリスマ性のある人物が血縁からは続けて殆ど出ないという歴史の実例が示すように、世襲制が弱点になります。古代ローマのユリウス・カエサルは血縁の遠い人物に自分の全権を与えます。彼が初代皇帝アウグストゥスでこの2代によってローマの繁栄が基礎づけられました。同様に、日本では女性に財産を継承し、優秀な奉公人と結婚させるという制度がありました。「人治主義」には、個人によるもの、部族によるもの、選抜されたものによるものなど多彩ですが、社会のルールとして人、集団という人の要素で統治するという特徴でくくられます。
 そして関係する身近な人々は優遇され、平等にある程度扱われます。例えば、原子力村、と言われますが「原子力は安全で推進すべきである」と考える集団では、その中で「機密情報の保持」という倫理は守られます。中国の縁故主義であっても、親類は優遇する、という倫理は守られます。その倫理が守られないと集団内から否定的評価を受けることになります。私たち日本国民はこの「人治主義」に対してマイナスのイメージを持ちがちですが、例えば、中国高速鉄道事故で事故車両を埋めるなどの行為に反感を持ち、さらに数週間後に再開されるであろうことに否定的なイメージを持つかもしれません。
 しかし、福島原発事故の後、私たち日本国民はどのように反応したでしょうか?(先ほどの繰り返しになりますが)

 「東京電力の社長はどうして謝らないのか?」
 「国民の代表として安全をチェックするはずである斑目委員長は全然駄目だ」
 「菅総理は被災地の人の心を考えたことがあるのか?」

 これらはすべて「人治」なのです。東京電力の社長、という人、斑目委員長という人、被災地の人の心、という人の要素を考えています。しかし、ドイツやイタリアは、国会や国民投票という「法」によって「福島原発事故」を受け止めました。私たち日本国民は、「人」の要素ばかりを考えて「法」の要素を全くないがしろにしています。中国高速鉄道事故と同じく地方幹部が粛清されて終わりになるかもしれません。いつの間にか(多分)中国の高速鉄道が走ってしまうように、原発が福島原発事故の事故原因と事故対策が行われる前に、そして法律がきちっと制定される前に再開されるのではないでしょうか。

 「安全だ」と国が保証したから「数字を示さなくても安全だ」

 というのは日本国内だけで通じる、つまり特定集団だけで通じるルール(倫理)なのです。この意味で福島原発事故の対応は「人治主義」と観ることが出来ます。私は前の講義録で

 「福島原発事故後1年くらい経って被災地の人々が選挙に(精神的にも少しは)行けるようになったら原発を推進するか停止するかという国民投票をすべき」

 と書いてきました。これは「法治主義」の「公平」として福島原発事故後の対応を考えた方が良いという具体的な案です。

 さて、「法治主義」と「人治主義」を併せ持つ日本ですが、それぞれの主義と同様に長所と短所があります。
長くなりましたので、15-3に続きを書いていきます。

 お腹ぺこぺこになりました。7月27日の午後7時50分です。
 
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