講義録15-1「個人主義と集団主義」

 前回は、工学倫理の可能性と限界について述べました。その中で問題になったのは、「果たして工学倫理」は統一されるか、それともそれぞれの国で異なるのか、という点です。倫理の「善」は、実は統一されていません。これが歴史的経緯です。しかし、製造物という具体的な物体に限った場合、また、再発防止という方向性が決まった場合に、「善」は統一されるのか、それともそれぞれの国で異なるのか、という問題です。私は、それぞれで異なる、という立場に立っていますが、「統一できたら統一した方がいい」と考えています。その意味で、今から述べていく倫理の見方は、現実に即した再発防止の考え方です。つまり、アメリカの再発防止策と日本の再発防止策はそれぞれ異なってしまうので、異なるのはしょうがないので、それぞれの出来る範囲でベストを尽くしましょう、と考えるのです。ですから、現実的な具体的な話から出発していきます。

 さて、チャートを見ましょう。

 「個人主義と集団主義」
  ↓
 「法治主義と人治主義」

 個人主義と集団主義は、個人レベルの捉え方です。個人レベルの倫理の捉え方で、法治主義と人治主義とは社会全体での倫理の捉え方です。まず、個人レベルに踏み込んでいきます。その前に1つ留意して欲しい点があります。それは、「グローバリズムによって統一的な標準に合わせる」という考え方をすると、引用した中国高速鉄道事故の事故対応のように、人治主義は「遅れた考え」や「劣った考え」という風になってしまう点です。これに対して私は、中国高速鉄道事故の事故対応は、工学的倫理からすると公平性を書くが、「劣った考え」や「遅れた考え」とは考えません。それぞれの国家では改善できない積み重ねがあるからです。その積み重ねの中から、各国に合った倫理的捉え方を発展させていけばいい、と考えます。ですから、個人主義と集団主義を比較しますが、どちらに優位、劣位があるという訳ではありません。法治主義と人治主義についても同様です。優位劣位の考え方は、イデオロギーに結びつきやすく、むしろ工学的倫理の再発防止を妨げることになりがちだからです。

 さて、個人主義とは、教科書に合ったように、また一般社会でも認められているように、アメリカやイギリスのような個人で判断してその責任を取っていくという考え方です。集団主義は、最近は中国(China:中華人民共和国)の縁故主義が教科書にも取り上げられているように注目されていますから、中国にしておきましょう。すると日本は真ん中に位置するというのは教科書に同意します。以下のような図になります。

 個人主義 :個人で義務や権利を負い、個人単位で考え、結果も責任を負う:アメリカ、イギリスが代表

   中間:日本、場合によって個人や家族や集団で義務や権利を負い、考え、結果も負う

 集団主義 :家族や親族などで義務と権利を負い、考え、結果も負う:中国が代表

 現在日本では、「もっと個人主義へ」という方向性が社会全体に広がっています。子育ては親、老後は個人資産を貯めて、就職も結婚も個人で判断して(親が決めたりお見合いや仲人はすたれた)、お金の管理も夫婦よりも個人で、夫婦別姓などの考え方も出て来ました。しかし、その欠点を多くの人たちは指摘していません。実態として1世帯当たりの平均人数は5人前後から半分の2.5人前後に減りました。一人暮らしや2人暮らしが半分以上になっています。そうした実態が「個人主義」を広めていったのかもしれません。理念として「もっと個人主義へ」と主張するならば、その欠点も指摘しなければならないと考えます。これは「映画「千と千尋の神隠し」はなぜ大ヒットしたか」という論文で書いたことなのですが、経済発展し製造物が日常生活を変えてきましたが、人間の産まれや死も変えたと考えています。病院という非日常の場所で産まれ、病院で死ぬ人が80%もいます。その意味で、私たちの日常には、自分を脅かすもの、自分の生きる意味を考える機会を失ってしまっている、と主張しました。その中で「もっと個人主義へ」と押し進めると、私たち日本国民は孤立してしまいます。自分の根源を、生きる意味を考える機会がなく、それでも

 「あなたが考えなさい。失敗したら自分で責任を取りなさい。よく考えなさい。あなたの人生でしょ」

 と言われる訳です。誰も支えてくれないのです。前にも書きましたが今期一番という呼び声の高い「あの日みた花の名前を僕たちは知らない」というアニメは、自分の根源や生きる意味を考えるアニメです。そうした自分の精神性を問うアニメが多くなってきています。一般社会で考えますと、うつ病やノイローゼが明らかに多くなり、自殺者も多くなっています。自殺の原因は経済的理由というのが主ですが、日本よりも経済的状況が厳しい国や地域は数えられないほどあります。これは自分の生きる意味や、根源を考える機会を失ったからだと考えます。簡単な言葉で言えば、「孤立主義」です。

 しかし、アメリカやイギリスは「個人主義」です。「個人主義」と「孤立主義」は異なります。アニメでもビジネスの場でも「自分を出して人に嫌われたらどうしよう」とか「相手に気を使わないと・・・」とか「皆のこと考えよう」という見方があります。しかし、アメリカやイギリスでは自分の主張は相手の感情に関係なくしっかりと口にします。そもそも「空気よむ」という考え方がありません。そういう考え方は否定されています。その理由はキリスト教です。キリスト教的世界観です。
 「孤立主義」と「個人主義」の根本的違いは、アメリカやイギリスでは、個人を神様が絶対的に肯定してくれるのです。ですから、社会の中で孤立しても「あなたは大丈夫。正しいことをすれば天国に行けるのだから」と肯定してくれます。さらに、キリスト教の考え方で言うと「この生きている世界は一瞬で、天国は永遠」です。ですから、一瞬、目の前の人に嫌われても、場所を変わればいい。その内に天国に行けるのです。そういう考え方で孤立ではなくなっています。「自分を出して人に嫌われたらどうしよう」とか「相手に気を使わないと・・・」とか「皆のこと考えよう」というのは、このようにして否定されています。気にする必要がありません。

 しかし、日本では、講義当日のTVで日本のビジネスマナーでは「宗教の話はNo.1のタブー」とあったように、宗教の話をしません。自分を、個人を支えてくれる最も大切な話題なのにタブーなのです。それに「自分は無宗教だ」とか「特定の宗派は信じていない」とか「宗教はちょっと」と思っている人が多くいます。それなのに、お盆やお正月をお休みする、祇園祭などに行くなどの宗教行為には何の抵抗も感じない、のです。これはこれで良いのですが、日本人(宗教的に日本教徒の人を指します)のスタイルですから、しかし、それでは「個人主義」ではなく「孤立主義」になってしまう。個人を絶対的に支えてくれる存在がないので、不安や不満、自傷行為に現れてしまうと私は考えています。この点を考慮すると、社会一般で言われているように、個人単位で全て責任を負わせていこうとする行為は大変な危険をはらんでいる、と考えますし、そもそも製造物が広がったことによって「孤立主義」に陥った日本国民への対応策が必要だと考えます。同時に、「個人主義」が標準であり、もっと西欧化しましょう、という倫理的な考え方に賛同できないのです。

 「恋人に裏切られた→あなたの判断が悪い」
 「友達に嫌われた→あなたが悪いことしたのでは?」
 「結婚に失敗した→あなたがよく考えていなかった」
 「会社で首になった→あなたの努力が足りない」

 「でも、誰も助けてくれないよ。あなたを肯定してくれないよ」

 を増やしていくことに私は賛同できないのです。

 「でも、家族が助けてくれるよ。あなたを肯定してくれるよ」というのが集団主義です。かつて日本では「でも、会社が助けてくれるよ」でしたが徐々に衰退していっています(私は技術発展を促した終身雇用と年功序列は素晴らしい制度で今でも通じると考えています。失敗しても再チャレンジ出来る点、安心して長期的な視野で技術開発出来る点からです)。中国では失敗しても家族が助けてくれます。先ほど、死後の話をしましたが、中国では家族でお墓に入ります。ですから、死後も家族は一緒なのです。しかし、キリスト教では「親が地獄でも自分は天国」というのは当たり前なのです。私は東アジアの留学生に数学とパソコンとビジネスを教えていて、翌日と翌々日の授業で、実際にこの話をして聞いてみましたが、キリスト教の学生もその通り、中国の学生もその通りと言ってくれました。もちろんそれぞれの違いに驚きを見せていましたが。このことは日本にキリスト教が伝わった時にも問題になりました。

 「なぜ、全知全能の神が1549年と遅く日本にきたのか?(日本の識字率の高さや文化の高さ、知能の高さは西欧以外では世界一と西欧人が認めていたので)」

 「キリスト教を信じれば天国、信じなければ地獄ならば、親やおじいちゃんおばあちゃんは地獄行きになる。自分を可愛がって育ててくれた人々が地獄で永遠に苦しむのに、自分は天国で永遠に楽しく暮らしてそれでいいのか?」

 これらの話は、新井白石が『西洋紀聞』にまとめてあるようです(私はまだ読んでいません。すいません)。大切なのは、上の問題、「自分を育ててくれた親や祖父母が地獄で永遠に苦しむ(キリスト教が正しいとすると)のに、自分だけが楽しんでいていいのか?」という問に、「それでいいのだ」と言い切るのが、個人主義で、「いやそれはちょっと」というのが集団主義ということなのです。多くの日本人(日本的な考え方を持っている人。必ずしも日本国民ではありません)は、死んだ後のことをあまり考えません。それは死んだ後と死ぬ前があまり変わらない、という世界観を無意識に持っているからです。キリスト教やイスラム教の人は死後のことが大変大きい問題です。ローマ人はそれを「生きている間から死のことばっかり考えているキリスト教徒」と言いましたが、日本人の感覚に近いかもしれません。ただ、それを装置としていて「正しくいきましょう」という点では共通していると考えています。

 さて、集団主義は、家族でお墓に入ることが出発点と言いましたが、現在の中国人、主に漢民族は、「だから生きている間も家族を大切にしよう」と考えます。この点は日本人とは違います。「だから生きている間も家族を大切にしよう」は、縁故(えんこ)主義と言われます。私が静岡県の県知事になれば、弟は静岡大学の学長になります。それから定年退職した叔父さんがいますから、静岡県の警察署長になってもらいます。すると、かみさん側にも定年退職した叔父さんがいますから、

 「おい!健治郎(私の名前です)。お前叔父さんを警察署長にしただろう。おれも叔父だから静岡県の総務部長にしろ!」

 と言ってくるのが当たり前なのです。「生きている間も家族を大切にする」のですから。これは、人間の世界は天から家族が預かる、という思想があるからです。そしてその預かったことが良ければ、龍が現れた、鳳凰が飛び立ったなどの「瑞兆(ずいちょう)」が現れ、悪ければ大地震や、大津波などの天災が出てくると考えます。面白いことに「宗教はアヘンだ」と否定した中国共産党の幹部の入れ替えの時に、こうした「瑞兆」が報告されたりしています。また、中国の学生に直接教えてもらったのは「中国では偉い人の言うことは正しい」と考えるそうです。日本人から見れば縁故主義として否定してしまいがちなこの考え方は、中国の中では全体として統一され調和のとれた思想の一部なのです。その一部だけ持ってきて批判するのはどうかと私は考えています。
 むしろ日本人は、

 「生きている間は「個人で責任を取りなさい」、でも死んだ後は「家族のお墓に入る」」

 というのですから、統一されてません。私が日本人は中間である、という点に同意した理由です。そして教科書にある「ヨーロッパ人と同じ中間」という点には同意できない点です。また、これは蛇足かもしれませんが、「個人」は独りでは出てこない、ということです。キリスト教では絶対の神様によって「個人」が出て来ます。中国では「家族」によって「個人」が出て来ます。しかし、日本では何によって「個人」が出てくるのでしょうか? 「やりたいこと」とは何でしょうか? 「やりたいことを見つけなさい」と言いますが、どうすれば良いのでしょうか? 現状では「他人」の書いた本を沢山読む、「他人」の話を聞くくらいしかないのではないでしょうか。しかし、それでは「神」や「家族」と結びつきが弱いですから、なかなか目立った個性が出てこないのかもしれません。

 もう1つ中国について述べておきたいことがあります。それは、中国、あるいは漢民族の統治についての特徴です。今回の中国高速鉄道事故を大々的に伝えたのは、国営新華社通信でした。現在の中国は、Googleが撤退した理由で分かるように、インターネットやマスコミは全て中国政府が管理しています。Googleが撤退した理由は、1つはGoogleを使って検索したキーワードの情報や個人情報の提供を迫られたから、中国政府によるハッカー攻撃が酷かったからなどです。キーワードの情報は無料で検索を提供する対価としてGoogleのビジネスを支える大きな情報ですから渡せませんでした。ちなみにGoogleは、自動車倉庫から約10年で日本を代表する企業であるTOYOTAを抜きました。人類史上これほど急成長した企業もなかったのではないでしょうか。そしてまた、物を製造する企業が物を製造しない、あるいは利用者から対価を取らないビジネスが成功する、という意味において、重工業社会から情報社会への社会構造の変化を示す出来事でもありました。他の大学では「コンピュータ科学」という講義を受け持っていましたので(本年度から削減)、余話となりました。

 さて、漢民族の統治ですが、それは天下を治める皇帝が、地方の県知事(日本国くらいの大きさです)を指名します。この県知事は出身地には就かせず、科挙(かきょ)という難しい試験で選ばれた人が付きます。その県知事に皇帝は、「一定の税金を納めること」だけを科します。その他は「県知事に任せる」のです。ですから、県知事は「自分で法律が作れますし、自分で税金も沢山取ってもいい」のです。日本では江戸時代に各大名が「自分で法律を作り、税金を沢山取ってもいい」でしたが、特に中盤から後半に掛けては地元と結びついた大名家が統治していました。そしてその大名家は世襲でした。この世襲が無くなり、地元出身ではない個人が県知事として赴任するのです。ですから、「なるべく自分を裏切らない家族を県の要職につける」という行為が行われるのです。むしろそれをしない人は、まったく関係のない地方に行ってその地方の地元の人々に騙されたり、いいなりなったりしなければならないのです。酷い時には殺されることもあるのです。このように見ると漢民族の縁故主義にも理解が示せるのではないでしょうか。また、中国政府が地方の色々な問題を解決できない、例えば違法コピーを押さえられない、汚職を無くせない、理由も見えてくるのではないでしょうか。

 そこでだいぶ前に述べた「国営新華社通信が伝えた」という点を思い出してください。これは現在の皇帝=中国共産党が、この事件を取り上げた、ということです。そこで地方政府のトップ(県知事)は、「責任追及>原因究明」と考えたわけです。このままでは地方政府のトップの地位が危うくなる、と考えて証拠隠滅のために動きました。ここで地方政府のトップが、中国共産党の上層部に強いコネクションがあればこのまま終了になることもありえますし、同時に海外でこれだけ大きく報じられ、中国皇帝=共産党の権威が低下すると判断すれば、事故原因究明となるでしょう。いずれにしても皇帝と県知事の綱引きによって今後が決まるでしょう。これは人によって決まる、という意味で人治国家です。統一のルールとしての法律によって決まる法治国家とは異なります。これは次に述べていきます。

 さて、皇帝と県知事の話をしましたので、民衆に目を向けてみましょう。現在は「人民」と呼ばれていますので統一します。中国の人民は、法律を県知事が自由に決め、税金を決めるので、「1年間の税金がどれだけ取られるか不明」なのです。日本では、国会での議決が必要なので予め決められています。実際に中国に農業指導で行き、農民と直接話を聞いてきた人の話をもとにすれば「県知事のおじさんの家を建てるから臨時に税金を取られた」や「橋を作る名目で税金を取られたけれど、いまだに何も工事していない」などが日常茶飯事であるそうです。また、中国では「全ての土地は国家のもの」ですから、農民や家を建てている人は「国家から土地を借りている状態」なのだそうです。ですから、駅前などで土地の値段が上がるといきなり「国に返せ」と県知事が言ってきて土地を取り上げられるのです。その土地を高額で売り払い巨利を得ているそうです。農民は先祖代々耕してきた土地が取り上げられ、近年は代替地が与えられたりするそうですが、僻地(へきち)、農作不可能地なので暴動がよく起こっています。また、戸籍(こせき)が農民と都市と二種類あり、農民戸籍では都会でホテルに泊まれませんし、職業選択の自由がありません。ですから、土地を取り上げられたり、不作などで農業が出来なくなった人々は流民となって都市に流れ込み、都市戸籍の人の何分の一や何十分の一かの賃金で働くしかなくなっています。この人々が中国での労働賃金を引き下げている、というのは各経済紙や各方面で指摘されています。このように「人民」が抑圧されてきたのは、現在の中国共産党時代に限ったことではなく過去の時代から続いてきたことです。それは中国が肥沃で文化も高く生産性も高いので人口の自然に増大していくという基礎条件があるからでしょう。極寒の生存の厳しい土地ではこのような政策を取れば、国家の体を失ってしまいます。また、北部はチンギス・ハーンなどの騎馬民族に侵略され続けたのも、肥沃で文化が高く生産性が高かったからでしょう。文化大革命や農業政策の大失敗で何千万人が死んだとしても膨張を続けていけるのもこうした基礎条件があるからでしょう。ここから先は地政学の分野に進みますが、こうした要素が、各国ごとの歴史、文化、習俗としての積み重ねとなってきたことを指摘して終わりたいと思います。そこから生み出される倫理が統一されるという考え方に賛同できない理由もであります。生存の基礎条件が異なり、それぞれで倫理観が作られたのを受け入れているのです。

 15-2は「法治主義と人治主義」になります。
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シズガク出身の

健治郎様

御無沙汰しております。
「高木健治郎」はあの健治郎様でよろしいのですか?わら
もし、別人でしたら本当にすみませm(_ _)m

先生にお手紙を送りたいのですが、住所が分からなくなってしまい…
良かったら、私のアドレスに住所などなど教えてくださぁい!
お返事お待ちしております!

Re: シズガク出身の

こちらこそ、ご無沙汰しております。

メールしますね。

書き込み嬉しいです。こういうご縁もあるんですね~ブログやっていてよかったです。

追伸:送れません

メールがYHAHOOから送れないようになっているのか、エラーで返ってきてしまいます。

MIXIかパソコンメールでメール下さいね。

高木先生の哲学・文章が心に響きました

    高木健冶郎先生
 突然のメール失礼します。
私は、徳島で進学塾を開いている衣笠と申します。
以前より、青山繁治先生の考え方によく心をひかれ
映像、御著書とも触れられる限り繰り返し拝見させていただいておりました。
昨日、高木先生の講義のことが青山先生のブログで紹介されていましたのでさっそく読ませていただきました。
学生時代、文学や仏教を中心とした思想関係に興味を持ち少し勉強していました。
今も進学塾で生徒の成績を上げる仕事をしていますが、本当の願いは塾生に人生を後悔なく生き抜く「哲学」をもってもらえる手伝いをすることです(成績UP指導は仮の姿として[笑])
青山先生のことは、名前を伏せてよく紹介しています。もう少し、自分の塾が地域の信頼を勝ち得て、青山先生の主張をはっきりと生徒に伝えられることを目標の一つにもしています。
「僕らの祖国」を読んで、どうしても我慢できなくなり、今年の1月に一泊二日の強行日程で南三陸町に行ってきました。その時の様子を、遠藤美紀さんを紹介するテレビ二ユースとともに生徒に語りました。
今回高木先生のブログを読ませていただき、大変新鮮な心の高鳴りを感じました。
「文学」「哲学」というと高貴な香りはするけれど、ともすれば改革のエネルギーに乏しい印象を持たれています。
しかし、高木先生の文章には「未来を切り拓く哲学」としての可能性と強さを感じます。
ぜひもっともっと熟読させていただきたいと思います

最後に、勝手なお願いで申し訳ないのですが、高木先生のブログで学んだ内容・言葉を授業や保護者会で伝えること許可いただけないでしょうか。小さな塾ですがホームページができたところなので、それを見ていただければ、塾のだいたいのイメージはお分かりいただけると考えます。

勝手な申し出で申し訳ありませんがよろしくお願いいたします。
先生のこれからのご活躍、心から願っています。
(アマゾンで高木先生の御著書を注文しようとしたら、手違いかもしれませんが該当するものがありませんでした。すみません)

                                 碩学ゼミナール 衣笠邦夫





拙い文章をお読み下さり有り難う御座います

 衣笠邦夫先生

 拙い文章をお読み下さり有り難う御座います。また、過分なお言葉を頂戴し恐縮しております。重ねてお礼、申し上げます。

 碩学ゼミナール様のHP、拝見致しました。素晴らしい結果を実績を拝見致しました。また、青山繁晴さん(ご本人が「さん」とご希望されいているので失礼ながら)をご紹介されいるご様子をお聞きしました。知識とともに心の鍛錬も受けられる学生さんは、幸せだと感じました。青山さんの『ぼくらの祖国』は、私自身が高校生、いや小学生の時に読みたかったなぁ~と想う本ですので。

 私のブログは、殆ど打ちっぱなしで乱文ばかりですが、もしお役にたてるのなら、幾らでもお使い下さいませ。少しでもお役に立てれば嬉しい限りです。

 衣笠先生ご自身のお話を聞かせて下さり、とても明るい希望を抱きました。同じ日本人として誠実な方がいらっしゃることを知り前向きな気持ちになります。お忙しい中、南三陸町に行かれた行動力は素晴らしいです。徳島で板野郡藍住町といえば、「藍住町歴史館藍の館」で藍染めの歴史を個人旅行で見に行った記憶があります。豊かなお水と暖かな日差しを感じました。衣笠先生のお言葉で藍住町の素晴らしさを思い起こしました。

 南三陸町へは私も、青山繁晴さんの動画を見て居ても立っても居られずに旅行しました。お読みくださっているかもしれませんが、右側の項目の下の方にある「講義録一覧(平成23年度)」に「南三陸町旅行記」があります。ご参考になることがあれば幸いです。

>アマゾンで高木先生の御著書を注文しようとしたら、手違いかもしれませんが該当するものがありませんでした。すみません

 こちらこそ、失礼致しております。私は論文は幾つかあるものの、本は1冊も出しておりません。少しでも祖国のためにお役に立ちたいと思っておりますが、まだまだ未熟ですので本を出していません。今後は是非とも本を出したいと思っております。嬉しいお言葉有り難う御座います。

 何かお気づきになられたこと、ご疑念、ご批判等御座いましたら、是非ともお教えいただきたいです。

 文末となりましたが、衣笠先生の今後のご活躍とご健勝を願っております。
 有り難う御座いました。
 
プロフィール

    名前:高木健治郎

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哲学(平成28年度)
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哲学(平成27年度)
書いたもの(平成27年)
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「科学技術者の倫理(平成26年度)
講義録「哲学」
書いたもの(平成26年)
書いたもの(平成25年)
論文(高木健治郎の)
講義録「科学技術者の倫理」(平成25年度)
高木ゼミ『銃・病原菌・鉄』
高木ゼミ全6回『ぼくらの祖国』
教養講座6回分(平成24年度)   講義録21~
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