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【哲學】プラトンの男女観Ⅱ ―結婚観― 

 前号で「プラトンの男女観」について書きました。今号はその続きです。恋愛に続いて、今号は結婚についてを書いていきます。

前号のまとめ
 プラトンの恋愛では、ホモセクシャリティ(男性同士の恋愛 日本では「衆道(しゅうどう)」)が注目されてきました。それは「少年愛(ペデラスティ)」はプラトン哲学の核心であるイデア論と結びついているからです。
 これに触れつつ、プラトンの男女の恋愛について述べました。その要点を三点にまとめました。

 1 動物を根拠として人間を考えること。
 2 男女の差は体力の強度の差でしかなく、本質は同じであること。
 3 本質が同じであるから教育も同じにしなければならないこと。

 二千年を超えて欧米、日本など多くの国で男女は同じ教育を受けています。当時のギリシャでは男女が異なる教育を受けていました。プラトンの洞察力に驚くばかりです。時代や地域を飛び越える大きな翼が、哲学の面白いところです。

プラトンの結婚観
 それでは前号の最後の引用箇所から始まります。

 『「これらの女たちのすべては、これらの男たちのすべての共有であり、誰か一人の女が一人の男と私的に同棲することは、いかなる者もこれをしてはならないこと。さらに子供たちもまた共有されるべきであり、親が自分の子を知ることも、子が親を知ることも許されないこと、というのだ」』
               三百六十一頁

 婦女子の共有という現代では全く見られなくなった主張が記されています。広く一般社会ではどうであったかを見てみます。一夫多妻婚や一妻多夫婚などは複婚(ふくこん:ポリガミー polygamy)」と言い、人類史では通常の婚姻制度で、殆どの社会で広く認められてきました。有名なのはイスラム教の「妻を四人まで持てる」です。日本でも貴族階級や武士階級に一夫多妻婚が認められてきました。逆に少ないのは一妻多夫婚で、ネパールのある民族などにしかみられません。多様な複婚の形式が文化によってありました。
 ですから、歴史から観るとプラトンの主張はとんでもない思いつきではないのです。ただ、プラトン自身が以下のように書いています。

 『「妻女も子供も共有であることが、もし可能でさえあれば、最大の善であることを否定するような異論は起こらないだろう。しかし、それがはたして可能かどうかという点は、最も多くの議論の的となることだろうと思う。」』
               三百六十二頁

 つまり、プラトンも実現の困難さを知っていました。プラトンが貴族階級に属していた都市国家アテナイでは、議論が巻き起こるほど通常ではなかった、ことが推察されます。これを受け入れた上で議論を進めます。

 『「ひとまず可能であると仮定しておいて、そのことが行われる場合の、支配者たちがとるべき実際の措置はどのようなものとなるかを考察し、そしてそれが実行されたならば、国家にとっても守護者たちにとっても、何にもまして有益であろうということを示すようにしたい。」
               三百六十三頁

 プラトンの発想は、隣国のスパルタで実行されていた結婚(複婚)と似ています。スパルタ教育で有名な都市国家スパルタでは、男女共に青年期から長い軍役を課され、優秀な兵士だけが結婚で優遇されます。プラトンのように赤子の時代から両親と引き離すのではないですが、軍役時代は男性のみの集団、女性のみの集団で個人の財産を殆ど認めない点で、プラトンの主張する結婚観に似通っています。

国家が結婚に介入するプラトン
 スパルタのように国家が結婚に介入するのをプラトンが主張します。その具体案を引用します。

 「最もすぐれた男たち(後に優れた軍人と主張)は最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない。(中略)
 結婚の数については、これをわれわれ支配者たちの裁量にまかせることになるだろう。(中略)
 そうなると、思うに、何か巧妙な籤(くじ)が作られなければならないだろう。そうすれば、それぞれの組合せが成立するときに、先述の劣ったほうの者は自分の運を責めて、支配者たちを責めないことになるだろうからね。」
         三百六十七から八頁

 動物を基準にして、優れた者とは軍人であり、彼らを増やすことが国家(集団)を強くすることと考えています。このような思想は文明国家であれば全ての国家で見られてきた、と言って差し支えないと思います。特に障害者や完治しがたい病気にかかっている者などはその対象でした。日本では人種でこのような政策を行った形跡はありませんが、ユーラシア大陸で広く見られてきました。
 むしろプラトンの思想は当時としては博愛に近い思想です。というのも、動物では結婚(生殖)のコントロールとして、去勢(きょせい)が一般的です。去勢とは生殖器の切除で完全に生殖能力を取り去ってしまいます。動物の去勢は現代日本では一般的で、私が北海道の農業体験のために二週間お邪魔した「三親(さんしん)牧場」で、

 「去勢は雄牛の肉を軟らかくするためにするんだよ。」

 と教えてくれました。私達は去勢された雄牛の肉を「黒毛和牛」として美味しく頂いています。加えて、人間の去勢は、宦官(かんがん)として国家の役職を担っていました。支那大陸の漢人王朝である「漢」、「宋」でも、女真人の王朝「金」、「清」などでも宦官が国の制度として採用されていました。また、トルコやヨーロッパでも受け入れられていました。文明国家をもった地域で宦官を国の制度として採用しなかったのは、日本国だけであると言えるほどです。ですから、現代日本人である私達からすると、

 「国家が結婚を管理するのはおかしい。」

 となりますが、広く見ますと、

 「国家が去勢をしないで結婚を管理して、民衆に知らせないように気を使うのは、人間のまごころに沿っている。」

 と考えられます。さらに付け加えるならば、プラトンは子供の教育として軍隊に仮入隊をさせ、優秀な者を軍人とします。そうでないものは以下のように後に述べます。

 「『配置された部署を放棄したり、武器を捨てたり、あるいは何かこれに類する卑怯な振舞いをした者は、これを何らかの職人なり農夫なりに、格下げしなければならないのではないか?』
 『ええ、たしかにそうしなければなりません。』」
               三百八十九頁

 つまり、プラトンは生まれた人間には生きる権利があることを認めているのです。
 他方、生まれるまでの胎児、赤子はどうでしょうか。

 「すぐれた人々の子供は、その役職の者たちがこれを受け取って囲い(保育所)へ運び、国の一隅に隔離されて住んでいる保母たちの手に委(ゆだ)ねるだろう。また他方の者たちの子で欠陥児が生まれた場合には、これをしかるべき仕方で秘密のうちにかくし去ってしまうだろう。」
               三百六十九頁

 身体障害以外は生きる権利が与えられるのです。そして、これもスパルタと同様です。スパルタでは生まれた子供が病弱や身体的欠損があるなどの弱者は殺すことが認められ、むしろ推奨されていました。
 また、驚かれるか知れませんが、現代のアメリカ合衆国でもこれを認めています。西暦二千二年の「嬰児保護法(Born-Alive Infants Protection Act)」では、出産後の嬰児殺しを一定の障害等によって認めています。もちろん、反対運動も起こっています。この点でもプラトンはスパルタに似通っており、同時に教育と同じく現代まで続く思想を打ち出していたのです。

孔子との違い
 また、ここには孔子と同じ点と異なる点が表れています。

 同じ点
 ④支配者(君子)が国家運営を担当すること。
 ⑤支配者(君子)が有益(最善)を引き出せること。

 異なる点
 家庭生活を国家が管理するプラトン、しない孔子。

 「投票による民主制度が最善である」と考えるのが古代アテナイの民主主義です。市民はそれを支える五倍から十倍以上の奴隷によって支えられていた点が現代の民主主義とは異なりますが、「投票による民主制度が最善である」という点は同じです。対して、プラトンはこれを否定し、⑤支配者(君子)が有益(最善)を引き出せること、としています。プラトンがこのように考える理由があります。
 『ソクラテスの弁明』という有名な本をプラトンは書きました。実際にソクラテスは民衆の代表である裁判員の判決によって死刑となりました。この経験でプラトンは「民衆の愚かさ、自分の利益しか考えない、理性ではなく感情で判断する、判決の後非難されると言い逃れをする」など、市民の実像に触れたのです。それを受けて書かれた『国家』は、

 「民衆の愚かさを受け止めつつ、どのようになれば良い国家となるか。」

 をテーマとしています。このテーマに沿って恋愛や家族が語られているのです。ですから、自由気ままな恋愛や市民に家庭生活を任せたら、ソクラテスの毒殺と同じ結果になる、と考えたことでしょう。家庭生活を国家の管理が最善である、と考えたのです。逆に孔子は、家庭生活と公の生活をきっちり区別して、家庭生活については特に厳しさを求めませんでした。
 
結婚観の根拠と動機
 それでは、プラトンが国家が結婚に関わるべき、という根拠を引用します。それは前号の男女の恋愛と同じ根拠(①動物を根拠として人間を考えること)です。

 『「では君は、全部(猟犬や血統のよい鳥)同じように子を生ませるかね、それともできるだけ、最も優秀なのから子をつくるように心がけるかね。」
 「最も優秀なのからです。」
 「ではさらに、いちばん若いのからかね、いちばん年取ったのからかね、それともできるだけ、壮年(そうねん:三十から五十歳ごろ)の盛りにあるものたちからかね。」
 「そのようにして子づくりをしないと、君の鳥たちも犬たちも、種族として、ずっと劣ったものになって行くと考えるわけだね。」
 (中略)
 「親しい友よ、そうするとわれわれの国の支配者たちたるや、何とも大変な腕利きでなければならないことになるね---もし人間の種族についても事情は同じだとしたら。」
 「むろん同じです。」』
            三百六十五から六頁

 このように、動物と人間が同じ、と書かれています。次に目的について短く引用します。

 「それでは、この年齢(男性三十から五十五歳、女性二十から四十歳)よりも年を取った者にせよ、若すぎる者にせよ、公共のための子づくりの禁をおかすようなことがあれば、その過ちは神の意にも人の正義にも反するものであると、われわれは言うべきであろう。」
                三百七十頁

 ゆえに、プラトンの結婚観の根拠が見えてきます。それは「公共のための結婚管理が必要」という視点です。
 プラトンの生まれる四年前から始まったペロポネソス戦争は約三十年続き都市国家アテナイの敗北で終わります。投票による民主主義で国家運営を続けるアテナイは、民衆の愚かさに翻弄され、戦争を継続して、祖国アテナイを滅亡の危機にさらしていたのです。こうした時代背景からか、プラトンは国家、よりよき国家を目指していました。そこには大きなテーマがあったのです。それは、祖国を滅亡の危機にさらし、尊敬すべきソクラテスに無関係の戦争責任を押し付けた民衆の愚かさです。
 ですから、プラトンが「公共のための結婚管理が必要」と考える動機がここにあります。また、同時に『国家』の中で理想の国家として、スパルタを真似ながら唯一真似なかった、哲学者による国家統治を言い出す動機もここにあります。

 「哲学者たちが国々において王となって統治するのではないかぎり」
                 四百五頁

 反語で書かれていますので、「哲学者たちが国々で王となって統治となることを理想とする」というのがプラトンの意味です。そして哲学者の意味として、「どんな知恵でもすべて要求する人(四百九頁)」や「真実を観ることを持つ人(四百十頁)」などと説明されています。
 
プラトンの結婚観
 少し入り組んできましたので、プラトンの結婚観をまとめてみます。

 ①相手を選ぶ権利は認める。
 ②しかし、国家は優れた軍人同士が結びつくように動く。
 ③結婚は公共のための側面が強いと考える。
 ④男女愛、男性同士、女性同士の恋愛も認める(三百七十二頁)。
 ⑤子供は生後すぐに保育所で親から離れて育てる。
 ⑥結婚後、男女共に労働すべきである。

 こうして箇条書きで書いてみると、②と③と⑤だけが現代日本と異なるように思われます。ただし、②は日本でも欧米でも言われることです。プラトンが生まれてから戦争時代であったことを思い起こせば当たり前でしょう。
 プラトンの結婚観の核心、あるいは特徴としての⑤について述べたいと思います。これは、この小論の最初の引用文に返ることにもなります。また、公共のための結婚の文脈で理解できるものです。

子供や女性の共有について
 目的は国家の維持です。そのために、プラトンは支配者と国民との苦楽の共有が必要である。なぜならば、苦楽の共有によって国民が一体となり、国が分裂しないから、と述べています。引用します。

 「『およそ国家にとって、国を分裂させ、一つの国でなく多くの国としてしまうようなものよりも大きな悪を、何か挙げることができるだろうか? (中略)』
 『できません。』
 『では、楽しみと苦しみが共にされて、できるかぎりすべての国民が得失に関して同じことを等しく喜び、同じことを等しく悲しむような場合、この苦楽の共有は、国を結合させるのではないからね?』
 『まったくその通りです。』と彼。
 『(中略)この苦楽の私有化は、国を分裂させるのではないかね?』
 (中略)
 「だから、一般に、最も多くの国民がこの【私のもの】や【私のではないもの】という言葉を同じものに向けて、同じように語るような国家が、最もよく治められている国家だということになるね。」
            三百七十三から四頁

 苦楽の共有を支配者と国民が成し遂げられる、とした後に、プラトンは子供や女性の共有に踏み込みます。

 「『そうすると、人々を助け護る人にある者たちの間での、子供と妻女の共有ということは、国家にとって最大の善をもたらす原因であると、われわれに明らかになったわけだ。』
 『ええ、間違いなく』と彼。」
               三百七十九頁

 加えて、以下のことも付け加えます。

 1)土地も家も財産も全ての持ち物は共有。
 2)全ての年長者が親かもしれないから道徳に沿った行動をするようになること。
 3)葬儀は国がとり行うこと。
 4)全国民が戦場へ赴くようになること。

 プラトンの結婚観のまとめは以上になります。プラトンが子供と妻女の共有を主張するのは、国家の統治という目標からというのが明らかになりました。

プラトンの結婚観に関する議論 
 プラトンの結婚観に対しては、直感として「妻女の共有などできない」が挙げられることでしょう。これは女性らしい指向(女性性)の強い人ならば特にそうでしょう。誰か全員に守ってもらうのではなく、誰か一人に守ってもらいたい、と言い換えられます。プラトンの政治改革が二回も大失敗に終わっていますが、その原因が、一般大衆の欲望の強さを推し量れていない点にあるように思われてなりません。つまり、プラトンは、頭の中で完璧な人間を作ったが、現実の人間とは全然違った、ということです。
 
 「プラトンは中二病。」

 と呼ぶのはこのためです。そもそも苦楽の共有などできるのでしょうか? 

 対してプラトンの議論で現在日本で価値がありそうな議論もあります。それは③「結婚とは公共のため」という議論です。
 現代日本では、老人へ国費(税金)を投入しすぎる、との反省から乳幼児から児童などに国費を投入するようになっています。
 平成三十一年現在、静岡市では病院に行って診察を受けると五百円で、薬は無料になっています。成人男性の私は診察料や薬代は通常です。子供に国費を投入する理由は、少子化対策であり、それは将来の税金を納めてもらうためでもあるのです。少子化も将来の納税者も「公共のため」という目的であるのには変わりありません。
 しかしながら、現代日本では結婚において「公共のため」という議論がほとんど行われていません。戦争時代には「産めよ増やせよ」という時の政権に都合のいい、一面的な公共性で結婚が語られてきました。結婚することは善いこと、子供を産むことは善いこと、という狭い公共性です。
 他方、「結婚をして社会的責任を実感した」という言葉を聞くように、結婚によって地域社会や互助会、保育園や幼稚園、小中学校等との公共性を帯びた組織との関わりが増えてきます。これは多くの場合、結婚と出産によって関わりが出てきたものです。
 こうした状況で、「公共のため」という視点で結婚を議論するのは、大切なことだと思います。一人の国民としても、公益性を考える行政としても、国史(日本の歴史)としても、伝統文化の位置づけとしてもです。
 全てに議論を展開することは、この小論の目的ではないので、一人の国民として結論だけにします。
 結婚することで公共性を帯びた組織に関わることで、結婚の「公共のため」を意識するようになります。それは実は、不安定な個人の精神を安定させることにもなるのです。
 離職、離婚、離散などは人生においてつきものです。そうした時、自分が「公共のため」として何かの関わりがあれば不審、苦悩、不安定になりにくいのです。私自身の体験にも沿っています。こうした「公共のため」と結婚を結びつける議論を起こしていく土台として、プラトンの結婚観をとらえられると想われてなりません。
 そしてこれは、「いかなる国家が最善の国家であろうか」を考えたプラトンの意図にかなうと考えます。
 以上が「プラトンの男女観Ⅱ ―結婚観―」です。

 参考文献 
 プラトン著  藤沢 令夫訳 『国家〈上〉』 岩波文庫 千九百七十九年
 斎藤忍隨著 『人類の知的遺産 7 プラトン』 講談社 昭和五十七年
 サイモン・ブラックバーン著 木田元訳 『プラトンの「国家」』 ポプラ社 二千七年
 山本光雄訳者代表 『プラトン 国家他』 河出書房新社 二千四年
 田中美知太郎訳者代表 『プラトン』 筑摩書房 昭和四十七年

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