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【論語】五十沢二郎氏の「子罕第九」の八つの訳文


 今回は、現在読み進めている「子罕第九(しかんだいきゅう)」を五十沢二郎(いざわ じろう)先生が抜き出して訳された文をお読み下さい。これまで、五十沢先生は、仏教によりながら論語を訳されている、と解釈してきました。さて、今回はどのような訳文が出てきますか、楽しみです。

 五十沢先生は文章を自由自在に訳されますし、文章の一部だけを切り出されます。そして、順不同です。五十沢二郎著『中国聖賢のことば』の訳文の順番に沿って書き出していきます。書き下し文は五十沢先生により、章の番号は『仮名論語』によります。訳文は、これまで通り伊與田覺先生と宮崎市定先生を並べます。

①第十九章後半抜粋

 書き下し文
 「譬(たと)えば山を為(つく)るが如し。未だ成らざること一簣(いっき)を覆(こぼ)すと雖(いえど)も、進むは吾が往く也。」

 五十沢先生訳
 「たとえば、土を運んで山を築くようなものだ。
 もう一杯というところでも、やまえてしまえば、それで完成したとはいえない。
 あるいは、また山を崩して地をならすようなものだ。
 たとえ一杯ずつでも、休まずに運びつづければ、いつかはきっと完成するものである。」

 伊與田先生訳
 『〇先師が言われた。
 「修行というものは、たとえば山をつくるようなものだ。もう一もっこ(土を入れる籠のこと)で完成するのに止めるのは、自分の責である。又窪地(くぼち)を平らかにするのにたとえ一もっこでもあければ、それだけ自分の仕事を進めることになる。」』

 宮崎先生
 「子曰く、学問は譬えば、山を造るようなものだ。あと簣(もつこ)に一杯の土で出来上がるときでも、そこで止めたらその人の仕事は未完成のままだ。学問はまた地面の凹みを埋めるようなものだ。簣に一杯の土をほうりこんで埋めただけでも、一歩進めば、その人一歩だけの進歩があったのだ。」

 高木解釈
 五十沢先生は窪地や凹みとせず、敢えて「山を崩す」と対比になるように訳されています。また、簣(もっこ)という土を入れて背負う単語も訳されていません。伊與田先生は修行に、宮崎先生は学問に、それぞれの心のお立場で訳されています。

②第二十六章

 書き下し文
 「三軍も、帥(すい)を奪う可(べ)し。匹夫(ひっぷ:普通の男性)も、志を奪う可からざる也。」

 五十沢先生訳
 「大軍を攻めて大将を奪うということは、不可能なことではない。
 が、一人の人間の志を奪うということは、およそ不可能なことである。」

 伊與田先生
 『〇先師が言われた。
 「大軍でも、その総大将を捕虜にすることはできるが、一人の平凡な人でも、その固い志を奪い取ることはできない。」』

 宮崎先生
 「子曰く、一軍団の大将が虜になることは起こることかも知れない。男一匹の魂は奪われてはなりませぬぞ。」

 高木解釈
 全文の文意は同じです。五十沢先生は「匹夫」を「一人の人間」と訳されました。人間に上下はない、という仏教的解釈からでしょう。また、飲み込みやすくするためでしょう。伊與田先生は「一人の平凡な人」と辞書通りに訳されました。宮崎先生は「男一匹」と卑下するように訳されました。それは文末に「なりませぬぞ」と教訓を強めるためにでしょう。奪い取られないためには、本人の強い自覚がなければならない、という教訓を込めて訳されました。宮崎先生の覚悟が読み取れました。

③第二十三章

 書き下し文
 「後世畏(おそ)る可(べ)し。焉(いずく)んぞ来者(らいしゃ)の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞くこと無きは、これ亦(また)畏るるに足らざる已(のみ)。」

 五十沢先生訳
 「次の時代をつぐ者こそはおそろしい。どうしてあとに来る者が自分たちにおよばないなどと考えられよう。
 だが四十五十になっても自覚を得ないような者は、それこそ取るに足らない者である。」

 伊與田先生訳
 『〇先師が言われた。
 「青年は畏れねばならない。将来彼等が今のわれわれに及ばないと誰が言い得ようか。ところが四十五十になっても謙虚に学ぶことのないような者はもう畏れるには足らないよ。」
 ※聞く 問学求道をいう。又聞ゆるとよんで、世に名の聞こえるという説もある。』

 宮崎先生訳
 「子曰く、若い学徒に大きな期待を持つべきだ。どうして後輩がいつまでも先輩に及ばないでいるものか。しかし、四十歳、五十歳になって芽のふかぬ者には、もう期待するのは無理だろう。
 後生は単なる若者ではない。先生に対する後世であって、学問に従事する後輩であろう。」

 高木解釈
 五十沢先生の書き下し文の冒頭「後世」は校正ミスの誤字かもしれない。伊與田先生、宮崎先生は「後生」としている。
 四十五十になって何が必要とするか、
 五十沢先生は「自覚を得ること」
 伊與田先生は「謙虚に学ぶこと」
 宮崎先生は「芽のふくこと」
 としている。一般には自覚を得て、謙虚に学び、芽がふいてくる。ハードルの低さ、高さがが異なっている。私達は何歳までにどのようなハードルで他人を見るべきであろうか。悩ましい。

④第十四章後半抜粋

 書き下し文
 「君子之に居る、何の陋(いや)しきことか之れ有らん。」

 五十沢先生訳
 「文明人の行くところに野蛮などというものは存在しない。」

 伊與田先生訳
 『〇先師が言われた。
 「君子がそこに住めば、だんだんと野蛮でなくなってゆくよ。」』


 宮崎先生訳
 「子曰く、諸君がいっしょに居てくれたら、何のむさくるしいことがあろうか。」

 高木解釈
 短いですが全く異なりました。
 五十沢先生は「私が行くところは世界のどんな場所、どんな人が住んでいようとも文明がある。私が文明そのものである」と訳されています。つまり、本人の自覚次第である。場所のせいに、他人のせいにするな、という意味です。
 伊與田先生は「立派な人がいれば徐々にその人に多くの人が影響されてよくなっていく」という性善説に立つ訳文です。『論語』全体に沿う意味です。
 宮崎先生は「人は友や仲間と共にあることが文明の基盤である」という訳文です。野蛮、を、むさくるしい、と訳されていて面白いです。
 日本語を喋らない人が住む島に住むとしたら、どうしますでしょうか? 
五十沢先生は自分がいるから大丈夫とお答えになり、伊與田先生は教えあいながら生活していくでしょうとお答えになり、宮崎先生は先生や学生と一緒に移り住んで勉強をしますとお答えになりそうです。

⑤第五章

 書き下し文
 『子、匡(きょう)に畏(い)す。曰(いわ)く、文王既に没して、文茲(ここ)に在らずや。天の将に斯の文を喪(ほろ)ぼさんとするや、後に死する者斯の文に与ることを得ざらん、天の未だ斯の文を喪さざるや、匡人(きょうじん)其れ予(われ)を如何にせん。

 「匡」は、地名です。「畏」は、囲いの仮借(かしゃく)、「かしこまる」と訓(よみ)みましょう。」

 五十沢先生訳
 「孔子があるところで暴徒にかこまれたことがあった。そのとき、孔子は言った。「古(いにしえ)の聖賢はすでにほろびでしまったけれど、真理はほろびない。もし天が真理をほろぼすものならば、自分のごとき後生が、どうして真理をうかがいえよう。だが、天が真理をほろぼさないものだとしたならば、たとえかれらにころされようとも、自分の生命は真理の名において不滅であろう。」

 伊與田先生訳
 『「〇先師が衛から陳へ行かれる途中の匡の町でおそろしい目にあわれたときに、先師が言われた。
 「聖人と仰がれる文王はすでに死んでこの世にはいないが、その道は現に私自身に伝わっているではないか。天がこの文(道)をほろぼそうとすると私(後死の者)はこの文(道)にあずかることができないはずだ。天がまたこの文(道)をほろぼさないかぎり、匡の人たちは、絶対に私をどうすることもできないだろう。
 ※匡に畏す かつてこの地で乱暴をはたらいた魯の陽虎に間違えられたのが原因。』

 宮崎先生訳
 「孔子が匡という地で災難にあった。その時曰く、周の文王が死んでから以後、文化の伝統は私の身にあるではないか。天がその文化を滅亡させる気ならば、恐らく私をここで亡ぼして、後輩が文化の何ものであるかを知らぬようにしてしまうだろう。しかしもしも天が文化を保存する気があるならば、匡の人たちが私に危害を加えようとしても何ができるものか。

 孔子は平常には謙遜でめったに豪語したりすることはないが、生命の危機に暴(さら)されたこの時に、思わず発した本音がこれであったのだろう。なお百六十九(述而第七第二十二章)に、非常によく似た文句が出ているが、恐らく同一事が誤って二つの場所のこととして伝えられたものであろう。」

 高木解釈
 ここでも面白い違いが出てきました。
 五十沢先生は「殺される可能性を認めています」、伊與田先生は「殺される可能性は絶対にない」とし、宮崎先生は「文化の伝統という根拠を挙げて殺されない」と言っています。
 加えて、五十沢先生は「真理」、伊與田先生は「文(道)」、宮崎先生は「文化の伝統」としています。天の意思に真理がある、と考えるのはやはり仏教に近しいです。仏陀や阿弥陀様は天の意思の具体化なのですから。伊與田先生はやはり『論語』全体から文(道)という訳にされました。宮崎先生は現代語で近い単語を探し、「文化の伝統」と訳されました。現代語で「真理」と言えば、自然科学の用語です。物理法則などです。天の意思や匡人の個人の意思に作用しないのが現代語の「真理」の意味です。
 宮崎先生が、普段は謙虚だけれども、本心では強烈な自負があるのが孔子、と孔子像を示されました。宮崎先生には孔子がありありと心の目で見えており、会話もしていたのでしょう。

⑥第十三章

 書き下し文
 「子貢曰く、斯(ここ)に美玉有らんに匱(とく)に韞(おさ)めて諸(これ)を蔵(かく)さんか、善賈(ぜんか)を求めて諸を沽(う)らんか。子曰く、之を沽らんや、之を沽らんや、我は賈を待つ者也。」

 五十沢先生訳
 『「もしもここに宝玉があるとしたならば、箱におさめてしまっておくべきでしょうか。それとも買い手をみつけて売るべきでしょうか」と、子貢がたずねた。
 「売るべきだ。まさに売るべきだ。自分はその買い手を求めている一人なのだ」と孔子は答えた。』

 伊與田先生訳
 『〇子貢が言った。
 「ここに美しい玉がありますが、箱におさめて大事に保存しておきましょうか。それともよい買手を求めて売りましょうか」
 先師が答えられた。
 「売りたいなあ。私はよい買手を待っているのだ」
 ※善賈 物の値打ちが分るすぐれた商人。』

 宮崎先生訳
 「子貢曰く、美しい玉を持っているとしましょう。箱にいれ鍵かけて、しまっておきましょうか。それとも目の利く商人を探してうりましょうか。子曰く、そうだその売るほうだ、売るに限る。私は目の利く商人を待っているのだ。
 (注略)」

 高木解釈
 三先生が同じように訳されています。ただ、他に「高く買ってくれるなら、という利益追求をしている孔子」という訳もあります。

⑦第十二十七章後半抜粋

 書き下し文
 「忮(そこな)わず求(むさぼ)らず、何を用(もっ)て臧(よ)からざらん、子路終身之を誦(しょう)す。子曰く、是の道や、何ぞ以(もっ)て臧しとするに足らん。」

 五十沢先生訳
 『他人の生命を尊重し、自己の運命に従順なる、かかる者に祝福がないということはない。
 子路は、このことばを愛し、いつもくりかえし口にしていた。
 と、あるとき孔子が言った。
 「だが、それがなんの祝福にあたいするというのだ」』

 伊與田先生訳
 「詩経の『有るをねたみてこころやぶれず、無きをはじらいこころまどわず、よきかなや、よきかなや』を子路は喜び、たえず口ずさんでいた。
 先師が言われた。
 「それ位では、まだ充分ではないよ」」

 宮崎先生訳
 「詩経の中に、人は人、我は我。比べないのが一番いい、という句がある。子路はこの句が好きで、いつも口癖のように唱えていた。子曰く、そのくらいの事で、何が一番いいものか。」

 高木解釈
 五十沢先生の孔子は祝福、伊與田先生の孔子は修行の充分を、宮崎先生の孔子は競争心があるように映ります。祝福を期待するのは、民衆であり、修行を考えるのは求道者であり、競争に励むのは現世での上昇を考える者です。これは、④第十四章後半抜粋、高木解釈での、

 「日本語を喋らない人が住む島に住むとしたら、どうしますでしょうか? 
 五十沢先生は自分がいるから大丈夫とお答えになり、伊與田先生は教えあいながら生活していくでしょうとお答えになり、宮崎先生は先生や学生と一緒に移り住んで勉強をしますとお答えになりそうです。」

 と共通していると感じます。一貫した姿勢で三先生が訳されているのが伝わってきます。
 また、私自身は、形骸化を危険視する禅宗寄りの言葉を本に書き残していました。

⑧第三十一章

 書き下し文
 「〝唐棣(とうてい)の華、偏として其れ反(ひるがえ)れり。豈(あ)に爾(なんじ)を思わざらんや、室是れ遠ければなり、〟と。子曰く、〝未だ之を思わざるなり、夫(そ)れ何の遠きことか之れ有らん。〟」

 五十沢先生訳
 「なれは南枝のあかきはな
 われは北枝のしろきはな
 香にこそおえわが思い
 へだて遠きをいかにせん
 この詩をよんで孔子が言った。
 「本当に思っていない者の嘆(なげ)きだ。ほんとうに思っている者にとって、どうして遠いということなぞありえようか」
 (注略)」

 伊與田先生訳
 『〇古い民謡にこういうのがある。
 ゆすらうめの木
 花咲きゃ招く
 ひらひらと
 色よく招く
 招きゃこの胸
 こがれるばかり
 なれど遠くて
 行かりゃせぬ。
 先師は(この歌について)言われた。
 「それはまだ本当に思いつめていないのだ。本当に思いつめておるなら、なんの遠いということがあろうか」』

 宮崎先生訳
 「詩に、にわうめの花びら、ひらひらとひるがえる。とわに変わらぬわが思い、汝の室に届くまじ、あまりに道の遠ければ、とあり。子曰く、その思いはまだ本当の思いではない。道が遠くて届かぬようでは。」

 高木解釈
 詩の訳文が全く異なるので感服しました。三先生の詩の才を実感しました。

まとめ
 三先生の訳文の違いが、詩のみならず、短い文でも出てきました。また、ほぼ同一の訳文もありました。それぞれが味わい深く感じ入りました。

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