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【歷史】『貞観政要』の太宗は名君か暗君か


 理想の政治指導者として読まれてきた『貞観政要(じょうがんせいよう)』の主人公、太宗(たいそう)は、実際はどのような人物で、名君(素晴らしい政治家)であったのか、暗君(ダメな政治家)であったのか、の実像に迫りたいと思います。
 と言いますのも、『貞観政要』を読み、太宗が理想化されていると感じましたし、太宗自身が自分を理想化している、と読めたからです。先に一つ挙げますと、『貞観政要』は太宗の死後、四、五十年たってから書かれています。また、内容が道徳ですから、この二つの点で『論語』と共通しています。そして、『論語』に登場する孔子は、これまで述べてきたように理想化が行われていました。

理想化と現実の例―野口英世―
 理想化が悪いわけではありません。日本でも野口英世は努力を積み重ねた理想の研究者にされていますが、地元の借金を踏み倒した側面もあります。また、野口は研究者として恥ずかしい行為をしています。梅毒研究(細菌学)では「発見していないものを発見した」と主張しました。彼の医学上の業績は、病理学の分野、例えば「ガラガラヘビの毒の血清(どくを消す薬)をヤギで生成できるようになる」で認められています。梅毒のように大きな四つの論文偽造があったにも関わらず、野口英世記念館は、彼の故郷、福島県に立っています。理想のことばと現実の行動には差があるのが通例です。

理想化と現実の例―太宗―
 『貞観政要』の太宗を見習った政治家は数多くいますが、日本では北条政子、徳川家康、上杉鷹山、明治天皇が挙げられます。北条政子は、首都の権威と権力を分離した点で日本の政治上の特性を打ち立てた偉大な人物です。次に徳川家康は、法治主義を導入し、道徳と政治を結び付け、優れた経済政策を導入した人物です。明治天皇は、日本に議会制民主主義を導入しつつ、日本の伝統文化と近代化を融合させた人物です。以上の三人は、国内のみならず世界の研究者の中で高く評価されています。また、上杉鷹山は、『貞観政要』の理想とする道徳と政治を実践し成功させた数少ない人物です。
 以上のように大きな影響を与えた『貞観政要』の内容ですが、現実の太宗を映し出しているのかどうかを、『貞観政要』の本文から読み解きたいと思います。それは本文中の教訓ではなく、事実に注目することによります。

理想とする内容―道徳―
 現実と突き合わせる前に、『貞観政要』の理想とする道徳を、訳者守屋洋氏の「文庫版あとがき」から引用します。一部読みやすくします。

①平穏な時代ほど危機の時代を思いなさい。
②率先垂範:わが身を正しくしなさい。
③部下の諫言(かんげん:耳のいたい忠告)に耳を傾けなさい。
④わがままを通さず自分をコントロールしなさい。
⑤態度は謙虚に、発言は慎重にしなさい。
        二百五十四から二百五十五頁

 そして守屋洋氏は、現代の経営者を意識した視線で書いておられるので、以下のように訳書をまとめられます。

 「現代のトップリーダーもこのことを自覚できれば、出所進退を誤ることもないし、それぞれに有終の美を飾ることもできるであろう。今、『貞観政要』に学ぶことがあるとすれば、このあたりにあると言ってよい。」
               二百五十六頁

 守屋氏は『貞観政要』に書かれている理想を、現代の経営者たちが、「そのまま」受け取るべき教訓である、と読まれています。

現実としての内容―上杉鷹山公解釈―
 では、『貞観政要』の内容をそのまま行ったら、現実にはどのようになるのでしょうか。数少ない成功例である上杉鷹山公を挙げてみます。

 「大体において、(江戸時代の大名は権力が重臣にあったので、大名自身の)独裁権の確立とスパイ政策の二つを加味して、儒教の精神を行うのが、江戸時代の名君といわれた人々の行き方であったと見てよいと思います。
 ところが、ただ一人、上杉鷹山(ようざん)は違います。純乎(じゅんこ:全く混じりけのないさま)として純なる儒教の方法でつらぬいています。いろいろな事情であってそうならざるを得なかったとも言えますが、珍重すべきであることには相違ありません。」  百八十四頁

 海音寺潮五郎著『覇者の条件』の一文です。ちなみに、スパイ政策と儒教精神を合わせた名君の実例は、肥後熊本藩六代当主細川重賢(しげたか)公、加賀藩五代当主前田綱紀(つなのり)公、八代将軍徳川吉宗(よしむね)公が前文で挙げられています。三公の業績を探してみますと、細川重賢公は、「天保の大飢饉」を金融政策によって乗り越えています。
 前田綱紀公は、荻生徂徠(おぎゅうそらい)が、

 「加賀藩のお救い小屋(生活困窮者を助ける施設)を設けて以来、乞食(こじき:食べ物を乞う人=ものもらい)なし。まさに仁政というべし。」

 と高く評価し、新井白石(あらいはくせき)は、

 「加賀藩は天下の書府(しょふ:図書館)」

 と絶賛しています。
 徳川吉宗公は江戸中期に徳川幕府を根本から立て直した名君として有名です。米、商品作物、金融、学問、土木、治水、金融、捕鯨、被災者対策、人材登用など多くの分野の改革を行いました。
 以上の三公は、いずれも重臣の反対や反発に対してスパイ政策を用いることで収攬(しゅうらん)し、行政改革を成功させたのでした。これに対して、上杉鷹山公だけはそうではない、というのです。では、その現実の結果を引用します。

 「鷹山の政治は、純粋に儒教の方法により、奇手を用いませんから、時間はずいぶんかかっています。完全に財政の立直しが出来たのは、文政六年(西暦千八百二十三年)でした。すなわち、鷹山がなくなった翌年です。五十五年かかっています。」

 五十五年という長きに渡ってしまう理由は、道徳(儒教)が心の内発的動機に関わるからでしょう。つまり、子供時代についた内発的動機=自分の世界の観方、世界とのかかわり方から生じる自分の生きる意義とやる気は、換えられないのです。五十五年はおじいさんから孫という二世代が交代する世代ですから、鷹山の示している世界の観方、世界とのかかわり方を子供に伝えるのに十分の時間だと推測します。
 私は現実主義者(リアリスト)でありますから、この内発的動機が道徳によって取り換えることは出来ない、と人間を見ています。対して、守屋氏は、道徳によって企業の社員の内発的動機を替えられ、なおかつスパイ政策も用いなくとも大丈夫である、と述べています。これは理想主義者(リベラリスト)の捉え方です。両者の考え方の違いが、これから検討する主軸となっていきます。

「③部下の諫言(かんげん:耳のいたい忠告)に耳を傾けなさい」と「④わがままを通さず自分をコントロールしなさい」
 『貞観政要』で太宗は、「諫言をしてくれ、それが自分のためでもあるし、国のためである」と臣下に何度も語り掛けています。では、実際はどうだったのでしょうか。

 『(太宗の結婚相手の)文徳皇后が臨終を迎えたとき、房玄齢(最上位の臣下)は太宗の機嫌をそこねて邸(やしき)にひきこもっていた。皇后はそのことにふれて、「よほどのことがないかぎり、玄齢ほどの名臣を遠ざけてはなりませぬ。」(後略)』
                 二十六頁

 と書かれています。この場面は文徳皇后をほめたたえる文脈で書かれています。前文に、

 『「牝鶏(ひんけい:メスの鶏)の晨(あした:時を告げる)するは、これ家を索(つ:もとめるの意味)くるなり」(女が出しゃばるのは家を滅ぼす元)といって、ついに答えようとしなかったという。皇后としての分をわきまえていたといえよう。』
                同二十六頁

 「皇后としての分をわきまえていたといえよう」は守屋氏の解説ですが、現在まで続く伝統文化を説明しています。
 文徳皇后を称賛する文脈に、太宗が諫言によって部下を押し込めていた、つまり、諫言に耳を傾けない、自分をコントロールできずに機嫌を悪くしていた事実が記されています。しかも、政治に口を出してはならないという文化土壌の中で、皇后の死にゆく言葉の中の第一に挙げられているほどなのです。
 ここから推察されるのは、「よほど長い期間」であり「原因は太宗」であり、「他の臣下が房玄齢を戻すように諫言していたことに耳を貸さない」という三点です。ですから、最後の最後の手段として、文化土壌を破ってまで遺言で皇后が諫言をしたのでしょう。つまりこの文脈から、現実の太宗は諫言に耳をかさず、機嫌を悪くしていたのが読み取れます。
 このように文脈(前後関係)から、太宗の諫言に耳を傾けない、自分をコントロールできていないのでは、と推察される箇所はいくつもありますが、一つだけ挙げます。

 『長孫無忌(ちょうそんむき:太宗に父兄を殺すクーデターを勧めた人物。太宗の重臣)、唐倹(とうけん:太宗の軍の中心人物。同じく重臣)以下の者が口をそろえて答えた。
 「天下に太平がもたらされたのは、ひとえに陛下のご聖徳によるものです。陛下のなさることに、何ひとつ、間違いなどあろうはずがございません。」
 門下省(太宗の命令を審議し文章にする役職)次官の劉洎(りゅうき)が答えた。
 「陛下は乱世をしずめて泰平の世を開かれました。その功たるや、まさしく無忌らの言うように、わが国の歴史に燦然(さんぜん)と輝いております。しかしながら、近ごろの陛下の態度には、いささか首をかしげざるを得ません。たとえば、臣下が上書(じょうしょ:上司〔太宗〕に文章を提出すること)するとします。その上書に少しでもあやふやなところがあると、陛下はその者を呼びつけて激しく叱責なさいます。上書した者こそいい面(つら)の皮、ただただ恥じ入るばかりでございます。これでは、あえて諫言する者などいなくなってしまいましょう」
 「よくぞ申してくれた、さっそく改めるとしよう。」』
             九十から九十一頁

 劉洎は太宗の命令を審議し文章する役職でしたから、現実の政治の場面で毎日、太宗に接していました。つまり、太宗のことば(理想)ではなく、太宗の行動(事実)をよく見ていました。その人物が「太宗の叱責する態度では諫言を受け入れていないことになります」と言っています。臣下ですから、ミスの責任は上書したものになっていますが、果たして現実はどうでしょうか。もし本当に上書した者に責任があるのなら、劉洎は太宗に態度を改めるように言うでしょうか。
 また、長孫無忌や唐倹らは、軍事クーデターで功績を上げた人物です。軍事では上司の命令は絶対であり、疑いをもってはなりません。その意味で、彼らは政治から見れば「ごまをするだけの人物」になりますが、軍事から見れば「優秀な軍人」となるのです。彼らは太宗の臨終の際、国家の重臣としての地位を占めています。
 他方、劉洎は、本文中に以下のように本文の注に書かれています。

 「貞観十八年、侍中(門下省長官)となり、民部尚書(みんぶしょうしょ:内務大臣)に栄進したが、翌十九年、失言問題がわざわいして、死を賜った。」
                 九十一頁

 実際に政治の場で太宗に接する二人の重臣は、遠ざけられる者、死を賜る者に分かれました。遠ざけられる者は皇后の遺言によって、何とか許されたのです。もし、皇后の遺言がなければ、どうなっていたでしょうか。ですから、重臣たちの前では「③部下の諫言(かんげん:耳のいたい忠告)に耳を傾けなさい」と「④わがままを通さず自分をコントロールしなさい」を心がけることばを出しますが、実際の場面ではなかなか理想通りに行かなかったようです。
 加えて、「②率先垂範:わが身を正しくしなさい」と「⑤態度は謙虚に、発言は慎重にしなさい」も、ここに大枠で含まれると考えて、最初の①を取り上げることにします。

「①平穏な時代ほど危機の時代を思いなさい」―太宗の二つの失敗―
 守屋氏は太宗に二つの大きな失敗がある、と解説されています。要約します。
 一つ目は、後継者選びです。『貞観政要』の中では理想の教育を与えられている長男の承乾(しょうけん)はドラ息子で、最後には謀反を企てるのです。次男泰(たい)は策謀好きで皇帝につくと、長男以下を全て殺すであろうと推測して、ごく平凡な三男治(ち)を皇帝にします。しかし、その治が高宗として帝位につくと、皇后である武氏(則天武后〔そくてんぶこう〕)に国を奪われてしまいます。則天武后は中国史上唯一の女性皇帝であり、唐に替わって武王朝を建てました。また彼女の極悪非道な話はここに書けないほどで、中国史上の三大悪女の一人とだけ書き記しておきます。また、もともとは太宗の正式な妃(きさき)であり、その後息子の高宗と皇后となったのです。つまり、彼女は太宗の権威と自身の恐怖政治によって武王朝を建国したのです。振り返れば、太宗の儒教を中心とした政治は、彼の正式な妃によって完全に破壊されてしまったのです。太宗の理想と現実の差にたまったエネルギーを則天武后が、恐怖政治で一気に洗い流した、と言っても良いでしょう。この視点は近代史では度々語られてきました。二十世紀初頭のワイマール共和国(ドイツ)が、人種や性別を超えて平等や民主主義を中心におきました。その理想と現実の差が、ナチスドイツによる恐怖政治と極悪非道な政策を生みだし、推進したという捉え方です。
 守屋氏の後継者問題への解説を見てみましょう。

 「(高宗を含めて三人の)この太子の教育の失敗を、太宗の責任に帰すのは、あるいは酷な見方かもしれない。なぜなら、息子の問題は、親の責任は免れないとしても、しょせん息子自身が責任を負うべき問題であるからだ。まずは、名君の悲劇というべきであろうか。」
                百四十一頁

 守屋氏は、「名君の悲劇」として、高宗が国を滅ぼしてしまった最悪の責任がないと述べられています。私は家族による皇位継承について批判するつもりはありません。この点で守屋氏と一致します。
 ここで理想のことばに注目します。太宗は『貞観政要』の中で、理想の名君として、堯(ぎょう)と舜(しゅん)を挙げています。堯は行いの良くない二人の息子をあきらめて天下のために、親孝行な舜に帝位を継がせました。彼の理想は「愚かな息子ならば秀でた部下に帝位を譲る。なぜならば、それが天下の平穏のためである」なのです。つまり、理想のことばと、現実の行動の差がここにはっきりと表れてきます。天下を譲るべき優れた部下は、房玄齢を始めキラ星の如く集まっていたのです。けれども、太宗は理想に徹しきることが出来ませんでしたし、天下の平穏を第一にすることが出来ず、結局親の子煩悩さに負けてしまったのです。それゆえ、私は太宗を名君とは見ることが出来ません。むしろ、戦争の勝利に徹することができたのですが、理想のことばに徹することができません。太宗の心は小鹿のように弱々しく見えてしまいます。
 以上の点で、「『名君』の悲劇」とする守屋氏とは解釈が異なります。
 そしてその根本原因が「①平穏な時代ほど危機の時代を思いなさい」を徹せられなかったからだと考えます。軍事とは勝利によって全てを得る分野です。ですから、大将や元帥に世襲はありません。危機の時代は何よりも軍事が優先され、勝利による天下の平穏が最優先されるのです。それゆえ、家族の子煩悩さは排除されます。太宗は優秀な軍人でありますが、平穏な時代に平穏さになれてしまい、理想とする堯と舜に徹することができなかったのでしょう。いうなれば、思想の不徹底です。核兵器と長距離ミサイル、テロに脅かされている現代日本(紀元二千六百七十八年、西暦二千十八年)にも必須ではないでしょうか。

太宗の二つ目の大きな失敗―高句麗遠征―
 守屋氏がもう一つの大きな失敗として取り上げているのが、朝鮮半島の高句麗(こうくり)遠征です。守屋氏の解説を引用します。

 「高句麗遠征が原因で国を滅ぼした隋(ずい)の煬帝(ようてい)の失敗に学ぶところがあったからだ。その太宗が晩年になって、あやうく煬帝の二の舞を演じそうになったのである。むろん、高句麗遠征にさいしても、長孫無忌、褚遂良(ちょ すいりょう:政治家、書家、後に左遷され客死)、房玄齢らの重臣が中止を諫言している。しかし、太宗は聞かなかった。」
               二百三十七頁

 唐は隋を滅ぼして建国されました。建国者太宗は煬帝の贅沢ぶりをこっぴどく批判し、「慎言語編」で全否定しています。しかし、国家の安寧を願いながらも、煬帝と同じく高句麗遠征の三度失敗しています。この失敗について守屋氏は、

 「太宗のような名君にしてこの失敗ありということは、太宗もまたけっして完全無欠な人間ではなかった。名君にたりえたのは後天的な努力の結果であったという意味で、なんとなくホッとさせられるエピソードである。」
              同二百三十七頁

 と感想をつけられています。私は客観的事実から読み解きたいので、太宗は名君である、とは考えられません。他方、守屋氏の解釈は『貞観政要』が校正に多大な影響を与えたことに立脚する解釈であると考えもします。
 煬帝と太宗は実は非常に似通っています。父と兄をクーデターで取り除いて帝位に軍事力で就いたこと、クーデター直後は名君となったが、その後は諫言を聴かず、暗君に近づいて行ったこと、最後に無理な外征によって国を滅ぼしたこと(太宗は息子の代ですが)などです。また、思考が直線的であり、同時に、一つの観点でしか物事が考えられません。一つの観点でしか物事か考えられない、と相手を全否定するか、全肯定するか、しかなくなってしまいます。太宗に全否定された代表は、秦の始皇帝、漢の高祖や武帝であり、全肯定は堯、舜、孔子などです。
 例えば、「神や仙人は妄想でしかない」という根拠で秦の始皇帝、漢の武帝を全否定します。しかしながら現実世界は複雑であり、民は合理や道理では動きません。ですから、

 「なぜ、民は神や仙人を信じるのか?」
 あるいは、
 「民が信じるのを止めないなら、よりよき社会のために利用できないか?」

 と考えるのが政治上の優れた思考なのです。孔子が弟子ごとに導く言葉を換えたように、民に合うように導く言葉を換えるのが孔子の説く政治なのです。けれども、太宗は「孔子は素晴らしいのだ。孔子が神や仙人を否定しているからダメなのだ」で止まってしまうのです。私は、房玄齢などの名臣が、「民のため」の諫言の真意が、太宗が理解できなかったと推測します。なぜなら、民の非合理さや複雑さ、などが理解できなかったからです。

名君の時期、迷君の時期、暗君の時期
 ここから推断されるのは、太宗が名君を目指して、諫言を名臣に求めていた時期(名君)と、諫言を理解できずに嫌になってきた時期(迷う君主)と、最後には諫言が嫌味にしか聞こえなくなってしまった時期(暗君)、の三つに分けられることです。
 ですから、クーデターで己の権力を確立し何とか権力維持、権力強化に励んだ前半、諫言を受けるけれども、実際はそれを聴かなくなった時期、これは先ほど書いた劉洎という名臣ならば諫言に耳を傾けた時期です。そして最後は三度の無理な高句麗遠征、劉洎に死をたまわった時期、諫言が嫌味にしか聞こえなくなった時期、という意味です。

『貞観政要』の読み方
 そこで、私は『貞観政要』の読み方として提案したいのは、

①太宗の性格を聖人として読まないこと
②太宗は年齢で異なる人柄になること

 に留意することです。①は理想主義者(リベラリスト)の守屋氏ではなく現実主義者(リアリスト)の私の観点から生じます。①と②のこの根拠として挙げたいのが、名君の演出、についてです。

名君として自分を演出した太宗
 中国の王朝は皇帝の記録を国史として記してきました。最も有名なのは司馬遷(しばせん)著『史記』です。そして歴代皇帝はこの国史を観たり、改編したりすることは禁じられてきました。実際には王朝が交代すると全王朝を否定する内容に書き換えられることもなくはないのです。
 しかし、太宗は「自分の記録を示した国史を、将来の戒めのために見せろ(本文二百三から二百五頁」と「文史篇」で命じています。さらにこの命令に基づいて、房玄齢らは国史を編纂してしまったのです。『高祖実録』、『太宗実録』で各二十巻です。学術のルールを破った太宗の行動を、諫言すべき門下省長官の魏徴は、

 「ただ今、陛下は、史官に、表現の修正を命じられましたが、これこそまさに公平無私な態度と申せましょう。」

 とおべんちゃらを言っています。単純にこの行為を現代から眺めると、論文偽造であり、国史の明確なルール違反になります。太宗は暗君であり、名臣とされる房玄齢、魏徴はおべんちゃらを言うだけの保身政治家になってしまいます。
 京都学派の中心人物の宮崎市定(いちさだ)先生は、『高祖実録』、『太宗実録』について誇張されていると書かれています。宮崎先生は敗戦後日本を代表する東洋史家であり、訳本である『論語』は、宮崎論語と呼ばれるほど、論語にも精通されています。

太宗と二人の重臣の魂の叫び
 他方、私は根拠があると思いますし、太宗と房玄齢と魏徴たちの努力が透けて見えると解釈します。私は先ほど太宗を三つの時期に分けました。『貞観政要』には年代が記してあります。この歴史改編は、貞観十四年です。私の推測では、名君から迷う方の迷君に入った時代です。この時期は、太宗自身が、諫言の意味内容がわからず、どのように政策を行ったら善いのか、に苦しんでいる時期です。ですから彼は、前王朝の国史を読んでいますし、そして自分がどのように記されるかに自信がなくなっているのです。苦しみ迷うどん底の中で、ふと浮かび上がってきたのが、「自分の評価」だったのでしょう。それゆえに、自分の行いの誇張を命じたのです。最も長く従ってきた重臣である房玄齢にです。最も親しい臣下に国政を投げ出させてまで、編纂を命じたのです。国政よりも自らの不安を優先させた太宗の現実の行動は、彼の巨大すぎる不安と苦悩を映し出しています。そして同時に、国政を優先させていた名君の時代から、不安や苦悩に取りつかれて視界が狭まって行く迷君の時代への移行期だと判別します。
 私は房玄齢がこの命に従い、魏徴がおべんちゃらを言ったのは、太宗の苦悩を見抜いており、同時に、太宗の末期を危ぶんだからだと思います。太宗が諫言の意味を理解できないこと、政治上の優れた思考である二つ以上の思考を一人の頭の中でバランスをとれないこと、を重臣二人は理解したでしょう。そうした人間がどのような末路をたどるのかは、隋の煬帝、太宗の父、太宗の長男であった太子を見れば、明らかです。太宗の周りにたくさん転がっていたのです。このままでは、太宗は重臣の諫言に耳を貸さず、快楽にふけり、得意な軍事で自己満足させて、国家を疲弊させる皇帝におちいってしまいます。重臣二人は、太宗の「どのようにしたら善いのか」という叫びを聞き、国史のルールを破ってまで受け止めようとしたのでしょう。同時におべんちゃらを言ってまでも受け止めようとしたのでしょう。それが国家の安寧のためならば、と苦渋の決断をしたのでしょう。
 歴史は繰り返す、の言葉通り、太宗は諫言をした重臣を処刑し、遠くに左遷し、快楽におぼれ、高句麗遠征という無謀な戦争を引き起こしたのは、述べてきた通りです。ですから、「国史編纂」のエピソードが私には、太宗と重臣二名の魂の叫びと読めるのです。リーダーの孤立と名臣の支えが胸を打ちます。そしてこれは太宗の理想のことばを見る理想主義者(リベラリスト)と、理想のことばと現実の行動を合わせる現実主義者(リアリスト)の違いから生じます。現実主義者(リアリスト)の私は、太宗の政治的資質は平凡が本質である、と解されます。では、平凡な人物の政治記録が、誇張されたにしてもどうして長年読まれてきたのでしょうか。最後に残った課題を論じます。

太宗は名君か暗君か
 宮崎先生は「太宗を中国史上有数の名君の一人」と数えています。また、北条政子、徳川家康、上杉鷹山、明治天皇など数多くの影響から名君としての評価は固まっています。本文では名君とは言い切れない部分に着目してきました。ですから、バランスを欠いていました。太宗の名君と暗君を決める前に、太宗の業績の一端を記します。
 イ)徳治主義と法治主義の導入
 ロ)科挙制度を始め広い人材登用制度の確立
 ハ)国史の編纂や推進
  :三蔵法師がインドより仏典を持ち帰り漢
   訳

 業績と人柄を合わせて読むと、太宗像が浮かび上がってきます。つまり、人柄は不安症であり、単純な思考を持つ人物です。他方、積み重ねることを続けた人物です。そもそも軍人肌ですが、軍事は勢いによってどのようにでも弱くなってしまうことに不安を感じて、学問や書の世界に強い興味を示しました。そこで積み重ねて数々の名臣と諫言によって貞観の治と言われる平穏な時代を生み出したのです。その葛藤を引き受けたことは称賛に値します。同時に業績は偉大です。他方、諫言と名臣を信じ切れなくなり、国史の改編や後継者選び、高句麗遠征など晩年を汚してしまいました。不安症の太宗は、最晩年まで悩み苦しみ続けたのではないでしょうか。であるからこそ、吹っ切ろうとして軍事遠征を行い、後継者選びでは自殺まで考えたのでしょう。太宗は私達と、かけ離れた人物ではなく、身の回りにいる人間の弱さを持っています。そしてそれが『貞観政要』の説く、道徳と政治という側面ではない、人間的な側面での魅力のように読みました。人間の弱さをあばきだした面が読み継がれてきた理由の一つです。例えば、『古事記』や『聖書』は、これでもか、というほど人間や神の弱さ、いじきたなさ、苦悩を書き込んでいる書物です。
 外征に失敗し、後継者選びで見苦しい態度を見せた人物、軍事の天才であり明るさを持つ人懐っこい人物は日本では誰でしょうか。私には太閤秀吉その人が想い出されました。彼もまた、後継者選びに失敗して息子の代で王朝を閉じています。晩年の太閤秀吉を褒める人はほとんどいませんが、彼の弱さも含めて、現代でも大人気の人物です。
 『貞観政要』は太宗が名君でないからこその魅力にもあふれています。北条政子や徳川家康たちも己の弱さを自覚し、太宗の強大な不安や苦悩を共感しながら読んだことでしょう。太宗は政治上は凡人でした。けれども、積み重ねるのを心がけて民の平穏を成し遂げようとした希望の人物なのです。

参考書
〇海音寺潮五郎著 『覇者の条件』 中公文庫 二千十一年一月
〇呉兢著 守屋洋訳『貞観政要』 ちくま学術文庫 二千十七年四月 
〇宮崎市定著 『大唐帝国』 中公文庫 千九百九十八年九月
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