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【随筆】人間の愚かさと世の中の面白さ


 「前に教えたことが出来ていないなぁ。」

 小学校のミニ・バスケットの練習で思った。

 とっくん(七歳一か月)が、ミニバスを始めて早くも五か月に入ろうとしている。火の玉のように燃えていて、五時間の練習や丸一日の試合も含めて、全ての練習に参加している。通常、小学校一年生は集中力が持たないので、一時間だけの練習参加、試合の日は欠席となる。なぜなら試合会場で遊びだしたり、駄々っ子になったりすることが多いからである。とっくんも最初の一か月は、練習を四時間すると、駄々っ子になり、私の膝にお尻を乗せようとしてきた。
 さらに、火の玉が炎の玉になりそうである。チームに四年生がおらず、三年生は一人というチームの特殊事情と、練習に対する気持ちが評価されて、四年生以下のチームを組むと、レギュラーになりそうなのである。これを聴いてとっくんは、

 「ミニバスの練習絶対休まない! 熱が出てもオレはいくよ。休まない!」

 と言い切った。

 そんなに燃えているのだけれども、「前に教えたことが出来ていないなぁ」となるのである。

 少し丁寧に考えてみます。本人にやる気があっても失敗を繰り返す、という経験は、身の回りにあふれており、日常茶飯事ではないでしょうか。大人で本人にやる気があるのに、ちょっとしたミスを繰り返す。「あれれ、またやってしまった」と、トイレの中蓋(なかぶた)を下ろしたまま小便をしてしまう。職場で「あ!」っと心の中で言いながら、前に怒らせてしまった言葉を言ってしまうのです。どうしてなのだろうか、と思っても、おやつに手が伸びてしまう。「しまう」と三つ繰り返して、本人の戸惑いと嘆(なげ)きを表現してみました。

 この戸惑いと嘆きは、言うならば「人間の本性としての愚かさへの戸惑い」です。今回は、人間の愚かさと対応について考えてみたいと思います。

二つの人間の愚かさ
 人間の愚かさには大きく分けて二種類あります。一つは教えたれたことを忘れてしまうこと、あるいは出来ないこと、です。

最近の記憶理論と愚かさ
 最近の記憶の理論に沿って考えてみます。そもそも人間の記憶は、繰り返すことで確定します。最近の理論では、「人は覚えられないのではなく、思い出せない」と考えられています。
 通常、人間は一度聞けば脳内に入り記憶されるのだそうです。ですが、思い出すのが難しいのです。ですから、思い出そうとした時に、その記憶の場所にたどり着き、引っ張り出すという作業を繰り返すことでいつでも思い出せる記憶となるのです。年を重ねて小学校や中学校の時の記憶が思い出されるのは、その時代に記憶を引っ張り出す、という作業を繰り返したから、だそうです。
 この思い出しの作業を何度もしていない記憶は、思い出せない記憶として脳内に留まったままになります。ボケというのは、思い出し作業を集中して何度も繰り返していないことから生じる、という説もあります。以上のように、覚えられない、のではなく、記憶したものを思い出せないのです。
 子供はこの思い出す訓練が少ないので、教えられたことを忘れている、ように見られてしまいます 。とっくんも、直前に教えたことを、「えっとなんだっけ?忘れた」と言います。これは思い出す訓練をしていないからです。小学校高学年、中学校と学業を修めることで無くなっていきます。小学校や中学校の勉強が暗記中心であるのは、記憶の思い出し作業にとって大いに意義があります。また、全ての年齢で素読という暗記は有効だと言われています。さらに、高校、大学になると日常生活と関わりなく、経験をしたことがない抽象的な法則や原理なども覚えるのですから、高度な思い出しの訓練になります。
 以上をまとめて考えてみると、思い出しの訓練を積んでいない愚かさ、あるいは拒否するという愚かさが人間には確かにあります。私も人の名前が覚えられないのは、何度も思い出す作業をせずに、さぼっているからです。

判断を放棄する愚かさ
 もう一つの人間の愚かさは、自ら判断しないという愚かさです。バスケットの練習では幾つかの型があります。パスの型、シュートの型、足運び(ステップ)の型、相手を抜く型などです。こうした幾つもの型を、練習を何度も繰り返すことで選手に教え込んできます。先ほどの記憶を思い出す訓練と同じで、繰り返すことで定着していきます。いわゆる「言われたことをやる」という作業です。
 次の段階は、型を使う段階になります。バスケットでは、人間を相手に試合をします。ですから、相手の人間によって状況が変化します。その状況に合わせた型を使えるか、という判断をしなければならなくなるのです。そうしないと、相手にパスをカットされ、シュートはブロックされ、ディフェンスされるなどして、相手ボールになって試合に負けてしまいます。ここで問題になるのは、「型はなぜ必要なのか」と「型はなぜ今使うのか」という理由を選手自らが、その瞬間で判断しなければならない、という点です。
 相手の身長が大きく手が長ければ、パスの型よりも外側に出して、カットされないようにしなければなりません。相手が小さければ、パスの型より内側でも良いのです。味方の選手と相手選手の上手い下手なども考えながら、瞬間、瞬間で判断しなければなりません。個人種目ではないですから、全員が上手いチーム、いわゆる型が身についているチームが必ず勝つ訳ではないのです。そこがバスケットの魅力です。つまり、勝負を決するのは選手の判断の積み重ねなのです。
 それは職場や社会でも同じではないでしょうか。なぜなら、人間相手であり、状況が刻々と変化するからです。例えば、「お元気ですか?」というのが挨拶の型です。けれども、相手にご不幸があったとき、自ら判断して「ご愁傷さまです」と言葉を替えるのです。この「ご愁傷さまです」をお逢いする何回目まで続けるか、は本人の判断になります。刻々と変化する状況を判断する点で、職場や社会、バスケットは共通しています。

型を教えるだけの指導
 しかしながら、自ら判断する、というのを放棄するという愚かさを人間は持っています。
 バスケットで、型を教え込むだけの練習があります。それは初心者にとっては大切です。けれども、型を教えるだけの練習しかしない指導者が多いように感じます。なぜなら、小学生は自ら判断する力がない、と指導者が考えているからでしょう。そして試合に勝つには、型を繰り返し教えることが近道、というのがあるのです。もちろん、それは教えられる側が、自ら判断することを放棄している人が多いからです。ミニバスケットだけではなく、テレビや新聞の偏向報道の根源に、視聴者が自らの判断を放棄している点があります。プラトンは、この人間の愚かさについて、「洞窟のたとえ話」で述べています。事実無根の報道が指摘され、非難されますが、その責任は全て報道するテレビや新聞にあるのではありません。本当どうかを判断するのは、視聴者であり国民なのです。責任の半分は少なくとも私達にあるのです。
 型を教え込むだけの指導はミニバスだけにとどまりません。中学校、高校でも基本単語の暗記だけ、配布プリントの暗記テストを行うだけの授業をする先生もいます。それは、学生には理由を教えても、自ら判断することを求めても 、ほとんど無駄であった、という経験をしてきたからかもしれません。私はそうした声を何度も聞いてきました。それは教えるクラスの全体の平均点を上げるには手っ取り早い方法です。私自身、高校で教え始めた時は、基本用語の暗記、試験のパターン解析を中心にしていました。
 ここではその指導方法や指導者と学生の質について踏み込みません。ただ、数年後に、人間の愚かさに直面して、そこに指導者が負けてしまっている、と思うようになりました。

人間の愚かさへの対処
 ここからの問題は、自ら判断しないという愚かさが、人間の根源にある、という事実を前提とします。そして人間の愚かさに対してどのように対処してきたのか、ということを分類していきたいと思います。

①人の愚かさ(自ら判断放棄をする人々)を受け止めても訴えかける人々
 :相手が言葉や行動で理解していなくとも教え続ける人々がいます。現在の私はここにあります。例えば、教えている国語教室には、毎日のように新しい生徒がきます。私はその教え子が継続して塾に入る(お金になる)かどうか、ではなく、その生徒にとって必要だと感じたら、言葉掛けは当然ですが、プリントや本を進呈します。そして入塾してもらうためだけの言葉掛けや行動はとりません。(ですから塾経営には向きません)。実際、本年も十冊以上本を進呈していますが、半分は入塾しませんでした。それでも良い、と私は考えています。生徒が大学に入学した後、あるいは不合格で働き始めた後、何かのきっかけで手に取って役に立つと私が考えたからです。私は私の判断を信じます。同時に生徒が学びだしてくれると信じているのです。
 近年は、高校野球で二つのタイプの指導が強豪校で見られるようになってきました。伝統的な型を教えるのが多い指導と、もう一つは高校生が自らの判断を取り入れる指導です。例えば、監督抜きでチームのキャプテンを決めさせることや、練習メニュー、集合時間など数多くの点を高校生に決めさせるタイプの指導を中心とした強豪校が出てきました。「高校生だけれども」、判断を日常生活の場面から任せて、それを試合の判断力の強化につなげて勝利を目指すのです。また、野球は選手の判断力が勝敗を決するスポーツの一つです。ですから、型を教える伝統的な指導でも、選手自らが判断力を養う練習もあります。対して水泳や陸上のように身体に練習をしみこませることが勝負を決するスポーツでは、優れた型を教えることに比較すると重きが置かれます。
 人の愚かさを受け止めても訴えかける人々は、教師や教育の現場で多くみられます。

②人間の愚かさをなくせると信じ続ける人々
 全ての人が自ら判断する能力を発揮できるようになる。なぜなら、それが人間に与えられた本性だから、と考える人々がいます。多くの偉人の言葉が心を打つのは、この前向きな信念が現実との差を気が付かせてくれるからです。

 「与えられた場所で咲きなさい。」

 という言葉に感動するのは、現実にはそうなっていないからなのです。加えて、その奥底には「与えられたと判断する本人」がいなければなりません。また、全員が「与えられた場所で咲ける」という考えに基づいた名言なのです。

 「孟子の四端説:全員に仁義礼智のもととなる感情がある。それを伸ばしなさい。」

 も同様です。全員に人間の愚かさをなくして仁義礼智を習得できるという考えに基づいた名言なのです。同じく、仏陀は「人には仏陀になる本性がある」と言っています。イエス・キリストは私達を「迷える子羊(判断を迷う愚かなる者)」と言い、そして神の愛によって救われると最後の晩餐で説いています。
 人がどのような頑固者になっても、ボケてしまっても、必ず救ってくださる、必ず救われると信じることの偉大さの根源には、人間の愚かさをなくせると信じることがあるのです。
 私が介護士を目指す専門学生に「ターミナルケアにおける死」という授業を教えるに際、以下のように言われました。

 「(介護施設や養護施設の)利用者は、現状維持が最も良くて、いかに落ちていくのを食い止めるかが課題です。ですから、暗い未来に向き合う覚悟が介護士には必要なのです。」

 小学生は教えればどんどん知識を吸収し、体も大きくなり足も速くなります。つまり、明るい未来があるのです。対して利用者には暗い未来がある。この現実を受け止めることは厳しいものがあります。それでも、暗い未来ではなく全員が明るい未来に向かっている、あるいは向かえると信じられる人々がいるのです。
 教師でも「悪い学生ほど可愛いし、指導したい」という先生がいます。「いい学生、普通の学生は放って置いても大丈夫。悪い学生は教師が手間暇かけて信じてあげることで必ずまっとうになる」という言葉を、私は何度聞いてきたことでしょうか。そして感動に胸を震わされたことでしょうか。それは心の底では私が信じられないからこその感動なのです。

③人間の愚かさはなくせない(本人の責任なので)と考える人々
 ②からの続きですと聞こえは悪いかもしれませんが、世の中は③を前提としています。バイトの面接で採用する際に②のように「悪い子ほどバイトに採用したい」としていたら会社は倒産してしまいます。
 実際の授業でも、集中しない学生、最もできない学生に合わせてしまうと、一年間の授業で教科書の半分も終わらないでしょう。相手が自らの愚かさに向かい合うかどうかではなく、実際に出来るか出来ないかで判断するのを世の中は前提にしています。
 古くは孫子やマキャベリのような現実主義者は、「人は愚かなものがいるのだから、それを受け入れてこちらの対処を考えよう」と主張しました。そこには「人間の愚かさはなくせないという前提」が含まれています。孫子の「兵は詭道(きどう)なり」とは「相手に自分の判断を教えない」という意味です。それは愚かさを含めて自分がどのような判断をするか教えず、相手にとって不気味な存在者でありつづけることが大切である、という考え方です。現代の日本が、中華人民共和国の行動様式が解らないのは、まさに「兵は詭道なり」なのです。現代日本の中国分析者の何人かは、「中国は軍閥がいくつもあって実際にはその中で何が起こっているか全くわからない。」と分析します。つまり、日本から見れば愚かなことも愚かでないこともする状態にあることで相手に自分の判断をつかませないようにする、それが最も戦略上最も有効である、と主張するのが孫子の「兵は詭道なり」の本質なのです。何をしてくるか判る相手、何を考えているか判る相手に勝つというのは、さほど難しくないのです。
 教師では、生徒が何をしてくるか判らない状態に毎時間合わせていては教科書が終わりません。ですから、ひたすら暗記を強要するのが、実際に点数を底上げすることになります。

人の愚かさと向かい合う
 以上のように人の愚かさとその対処法について書いてきました。書いてきて感じるのは以下のことです。

 「世の中は人の愚かさが中心にある。」

 「人間の愚かさが活力のもとである。」

 全員が学び続け、自分で判断し続けていったらどうなるでしょうか。熱血教師が「やればできる。自分で考えよう」をずっと全員が続けたら、どうなるでしょうか。私は将棋のコンピュータソフトがその未来を示している、と考えています。将棋のコンピュータソフトは、過去の棋士が残した棋譜を覚えているのです。ですから、「過去の正しい判断の全ての蓄積」が将棋のコンピュータソフトの土台なのです。そうするとコンピュータソフトは似たような手を指すようになっていきます。けれども、そこには間違いも、愚かさゆえに広がる多様な形がなくなっていくのです。なぜなら最適な回答は数多くないからです。学問の世界でも、特に物理学は法則が一つです。ですから、全員が学び続け、自分で判断し続けていったら、回答が数多くない形にまとまっていくことでしょう。
 そうなれば、タバコもお酒もない世界になるでしょう。お酒は最近、お酒を分解したアセトアルデヒドの毒性が主張されるようになりました。胃がんなどの多くのがんの原因である、と実証されてきました。政治でも経済の世界でも愚かな行為を繰り返しています。であるからこそ、適度な刺激や幅が出てきているのです。子供が大人のように正しい判断を学んで行動したら「子供らしくない」となるでしょう。
 冒頭で、

 「前に教えたことが出来ていないなぁ。」

 と書きましたが、全員の子供ができたとしたら、指導しても面白みがありません。そしてミニバスの試合は、いかに身長が高いか、いかに練習時間を費やしたか、いかに生まれながらの運動能力が高いか、だけで決まってしまいます。すると、試合をする前からコンピューターシミュレーション(コンピュータによる結果予測)で結果が判断出来てしまいます。これでは試合をする面白みがなくなります。ですから、ギャンブルも宝くじもなくなるでしょう。尺八や詩吟のような伝統文化も同じです。私達は教えられてもなかなかできないものです。ですから、色々な結果が出るのです。そこに面白みがあります。面白みを生み出すという意味で、世の中の中心に人間の愚かさがあるということなのです。

 個人の視点で考えてみましょう。相手が愚かだからこそ、どのような行動をとるか判らないものです。見知らぬ相手と会話するときに緊張します。それは相手の反応がどのようになるか判らないからです。それゆえ意思疎通できた時には嬉しくなります。
 反対に、相手が愚かでなければ反応は正しいものであり、予想可能です。コンピュータにプログラムされた人形が、いつでも同じ反応をするようなものです。自動販売機の前に立つと「いらっしゃいませ」、購入すると「ありがとうございました。またどうぞご利用ください」と音声を出しますが、何も面白みがありません。そのような反応では嬉しくなく、活力が出ません。人間には愚かさがあり反応が千差万別だからこそ、緊張し楽しいのです。旅行に行っている最中も楽しいけれど、旅行に行く前のどきどきとした楽しさは、どのようなことになるか緊張するからこその楽しさなのです。
 
 子供のミニバスで、ふと思った感想から、人間の愚かさまで風呂敷を広げてしまいました。またまだ、穴だらけですが、一つの気づきが得られました。感謝いたします。


 付記:同号の別の掲載文に書きましたが、本文の内容は、国立国会図書館へと向かう一泊旅行で思いついた内容です。
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