【随想】哲学とーちゃんの子育て 十九 ―ドラえもんと老いて朽(く)ちず― 


 「おまえ~ 鬼な~。」

 体の大きなAくんが、線の細く小さなCくんに言います。一緒にいるBくんは動きが速く、

 「鬼だ~追っかけてこいよ~。」

 Cくんは何も言いません。彼は、一所懸命追いかけていってフラフラになりながら、Aくんにタッチをします。

 すると、Aくんは、即座にタッチし返すのです。そして逃げます。Cくんの足では追いつけません。続けてBくんが

 「追いかけてこいよ~。」

 と言います。Cくんが追いかけていってタッチをすると、また、Bくんが即座にタッチし返して、

 「おまえ、鬼!!」

 と逃げていきます。

 Aくんがジャイアン、Bくんがスネ夫、Cくんがのび太のようでした。
 平成二十九年六月末日の晴れた朝です。小学校が始まって三カ月になろうとしています。初々しい一年生もお互いが知り合い、人間関係が固定してくる頃になりました。そこに、とっくん(六歳十か月)が入りました。さて、とっくんは私の見ていない小学校でどのような人間関係を築いたのでしょうか。興味津津で、黙って見ていました。
 とっくんは最初逃げる方でした。そして、Cくんにタッチされると、Aくんにタッチしたのです。なるほど。
 しかし、元の木阿弥(もくあみ:元通りの意味)。

 AくんがCくんにタッチして、また、Cくんが鬼になりました。

 「お~い、鬼だぞ! 追っかけてこいよ~。」
 「こっちだよ~。」

 ドラえもんは、実際の小学生が起こす行動そのものなので、子供たちの心を捉えて離さないのだ、と実感しました。大人になり、輪の中に入っていないとよく見えるものです。
 どうしたら良いでしょうか? と考えました。

 というのも、ここにドラえもんは居ないからです。ジャイアンを強く叱り飛ばしましょうか。それとも、こうした中で人は成長するのだから、と放って置きましょうか。適当に「ダメよ~」などと声を掛けましょうか。いろいろな正解があると思います。

 心理学者の河合速雄先生は、「百パーセントが必要な時がある。普段は六十パーセントでよいけれども。」と仰られました。
 私は百パーセントを目指してまずは、Aくんの横に立ち、Cくんから逃げる進路に立ちました。すると結果、Aくんの体は私の手に触れて、Cくんがタッチしました。しかし、タッチし返して逃げていきました。次に、

 「一人がずっと鬼で楽しいの?」

 と目を合わせないで声を掛けました。横並びなので、声が強くならないからです。聞く耳を持ちませんでした。少し見ていましたら、Cくんは疲れて走らなくなってしまいました。Aくん、Bくんは相変わらず「追いかけてこいよ~」と言っています。私はとっくんに、

 「とっくん、ここに来なさい。」

 「は~い。」

 私は左ひざをついて目線をとっくんに合わせました。

 「とっくん、さっきから、ずっと一人が鬼だよね。これって楽しいの?」

 「ううん、楽しくない。」

 楽しくない、の言葉を聴いて安心しました。一つは、力の強い子に遠慮しなかったからです。その場の人間関係より公正さを優先できたのです。もう一つは、きちんと状況把握を言葉にできたからです。小学校一年生では、お友達の性格や実力などに関心がなく、ぼーっとしている子がいます。こうした子供は、周りの状況が把握できにくいのです。授業中に走りだしたり、友達にきちんとお返事が出来なかったりします。そして、心身が成長することで状況把握が出来るようになっていきます。力の強い子と弱い子を客観視できたのです。これは、先ほど、Cくんにタッチせず、力の強いAくんにタッチしたことでも判ります。

 ドラえもんの面白さの一つの要素は、のび太がきちんと状況把握ができていないことにあります。自分は弱いのに、ドラえもんの道具を使って、強いと錯覚して、限度をわきまえず失敗します。さらに、ジャイアンやスネ夫、しずかちゃんの性格を見抜けないで、失敗を大きくするのです。そこをドラえもんが、

 「しょうがないなぁ~のび太くんは~・・・(ドラえもん似の声で)。」

 と言って色々と後処理をしてアニメが終了します。

 しかし、私の目の前にドラえもんは居ません。ゆえに、失敗をなんとかしてくれる人がいないのです。

 そこで私は以下のように考えました。私はジャイアン、あるいはジャイアンのようなAくんが悪い、と非難するつもりはありません。Aくんは小学一年生です。ですから、彼は全く悪くなく、周りの大人の人間関係を真似ているだけなのです。スネ夫も、スネ夫のようなBくんも同じです。「子は親の鏡である」と昔から言います。

 「子は親の鏡である。」

 は通常の意味と、もう一つの意味があると考えます。それは、

 「子しか親は変えられない。」

 という意味です。「親が変われば子が変わる」が通常の意味です。加えて「親が変わっても他人の子は変わらない」の意味があると考えます。言い換えれば、私は、AくんもBくんも、そしてCくんも変えられない。変えられるのは我が子だけである、という風に考えました。
 ですから、最後には、とっくんにだけ声を掛けました。以上の意味を古典に探してみましょう。

 毎回、富士論語を楽しむ会、の冒頭で発声している「聞学起請文(もんがくきしょうもん)」に以下の名言があります。

 「一斎(いっさい:佐藤一斎)先生曰(のたまわ)く、少(わか)くして学ぶなら壮(そう:中年)にして為(な)すあり。壮(そう)にして学ぶなら老いて衰(おとろ)へず。老いて学べば死して朽(く)ちず。」
 『言志四録』 その四十二

 意訳します。
 「江戸時代の三大教育家、佐藤一斎先生は、若い時に勉強すれば中年になって役に立つ人になる。中年の時に学べば老年になって衰えない。」

 ここまでは多くの訳が一致します。最後の「朽ちず」には訳者らしさが現れ、数々の訳があります。

 「老年になって学ぶなら、死んでも人望が朽ちない。」
 「老年になって学ぶなら、死後も業績が次の人に残っていく。」
 「老年になって学ぶなら、人生を虚しく終えたことにならない。」
 「老年になって学ぶなら、その学ぶ姿勢が人々に受け継がれていく。」

 ①は個人の名声が継承されること、②は仕事の業績が他人に継承されること、③個人の死の不安をなぐさめてくれること、④は困難に立ち向かう姿勢が継承されること、に焦点が合っています。

 私は④と読みました。そして、今回はとっくんに「一人だけが鬼である」ことを敏感に感じ取り、「その不健康さに立ち向う姿勢」を身につけて欲しいと感じました。なぜなら、「不健康さに立ち向かう姿勢」は、私の死後もとっくんの中に残って欲しいからです。
 憲法に定められた国民の三つの義務は「教育の義務」、「納税の義務」、「勤労の義務」と解釈されています。「教育の義務」とは、親「が」子供を教育する義務です。親「が」、知識を身につける知育、身体の発育を促(うなが)す体育、道徳を修(おさ)める徳育を子供に施(ほどこ)すという意味です。ドラえもんのような場面は、とっくんに徳育を考えさせられる場面である、と感じました。そして、佐藤一斎先生の教えに従いますと、「徳育を大切にする姿勢」が、私の死後も、とっくんを通して残る、と考えられます。
 このような貴重な場面をもらえたAくん、Bくん、Cくんに感謝しました。晴れ渡ったいつもと変わらない様な登校時間でした。そんな風に空を眺めていると、

 「ううん、楽しくない。」

 と、私の問いに、とっくんは答えました。そんなやり取りをしていると、聞こえたのでしょうか、私の右側にいるとっくんの反対側にCくんが来ました。私ととっくんが歩き出すと、彼は私ととっくんと並走して歩き出しました。とても嬉しかったです。そう思っていると、

 「うん。」

 と自分に言い聞かせるようにとっくんは、急にダッシュで前にいるAくん、Bくんの方に向かって駆け出しました。そして、二人の向かって大声で、

 「じゃあ、鬼は二人ね~とっくん鬼になるよ~。」

 と走っていきました。AくんもBくんも走り出しました。Cくんもゆっくりと歩き出し、私の方へ軽く顔を向けて、直ぐに駆け出しました。とっくんは、Aくん、Bくんのやりたい鬼ごっこを否定せず、Cくんがやりたくない鬼を否定せず、自分とCくんが鬼になることを自分で考えました。鬼が二人になれば、Cくんは鬼のままでも鬼ごっこが続けられます。そしてCくんは鬼のままでも平気になります。鬼ごっこは、Aくん、Bくん、とっくんで行われることになるからです。

『論語』を受け継ぐ人は「死して朽ちず」

 四人の後姿を見送りながら、大切な道徳を少しだけ伝えられたような気がしました。『論語』を振りかえって見れば、孔子の徳育(仁の心)は、石田梅岩先生、佐藤一斎先生など多くの人に受け継がれました。先ほど挙げた「死して朽ちず」とは、一斎先生ご自身のご実感だったのではないか、と感じました。つまり、「孔子は死にましたが、孔子の徳育は私(一斎先生)に受け継がれ、朽ちていない」という一斎先生の心の中のご実感です。加えれば、その一斎先生も「死して」、私達の時代となりました。本日、命がある私達は、時に『仮名論語』を声に出すことで、時に遺書に書き起こすことで、時に何気ない小学校の登校時に、時にささやかな集 まりの場(例えば、富士論語を楽しむ会)で、受け継げるのでしょう。『易経』「乾:けん」に、
 
 「すべての物は、天から与えられたそれぞれの性命(善の本性と肉体の生命)を正しく実現する」

 とあります。最後の「正しく実現する」とは、先人の徳育を色々な時、場所で受け継ぐことを指します。石田梅岩先生は『都鄙問答(とひもんどう)』の冒頭に、この『易経』を引用して、

 「何と面白いことでしょうか。これに代わるものはありません。」

 と述べられておられます。徳育を実現させる性質を私達全員が受け継いでおり、今日の命を頂けたことに感謝でき、そしてそれを受け継いでいくことが、何よりも面白い、と仰られます。
 私自身は、アニメのドラえもんのような小学生の世界に触れて、心の底から面白がることが出来ませんでした。「Aくん、Bくんはいじわるだ」と思ったり、「どうして子供はいじめを止めないのか」と怒ったり、自分が声を掛けると、「とっくんが仲間外れにされたらどうしよう」、と不安になったりしました。他にも色々と未熟な処がたくさんありました。それら全てをひっくるめて、私が徳育(仁の心)を修めたいと想えるようになりました。

 小学校で学ぼうとする四人の後姿を見て、職場へ向かうために方向を変えました。私はこの年齢で学ぶべき道へと進みたい、と想い、自転車を漕ぎ出しました。


参考図書
 :『言志四録』 佐藤一斎著 講談社学術文庫
 :『仮名論語』 伊與田覺著 論語普及会
 :『都鄙問答』 石田梅岩著 致知出版社
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