エッセイ「【歴史】 北条政子の成した偉業 ―日本らしい国家運営へ― 」


 北条政子の第四回目になります。これまで通り藤枝木鶏クラブでミニ講和をした内容を、少し整えて書き残します。
 今回でまとめになりますので、振り返ります。第一回は北条政子の大きな特徴として信仰心を挙げました。また、他の長期政権を打ち立てた権力者の三人の妻と比べました。特に、淀殿との違いを、政治権力の基盤から述べました。第二回は危機に立った時に政子が筋を通して、関東武士を守ったことを述べました。政子の優れた心の態度は、公平さに通じるものであり、宗教政策に大きく表れています。これが平氏との差を決定したと解釈しました。第三回は政子のトラブルは自分が乗り込んで解決する政治手法をいくつかの事件で述べました。
 以上のように、政子を優れた政治家として観て、その根拠を見てきました。政子を政治家ではなく、権力者のか弱き妻として、あるいは女性の自立として観られてきました内容とも比較してきました。最終回は、政子の全人生をかけた偉業を見ていきたいと思います。先にまとめを挙げます。

 まとめ:北条政子は、「皇室が権威を、民の代表が権力を」という日本らしい国家運営の基礎を築いた。
 
北条政子の家族は

 これまで述べてきませんでした、北条政子の家族について焦点を当てます。後に出てきますし、他の資料で家族のみの年表が見当たらなかったからです。

北条政子の親と兄弟について

 父:北条時政、三人の兄弟、長女の政子、姉妹四人の八人兄弟。

北条政子の家族年表

 二十一歳:頼朝と結婚。
 二十二歳:大姫誕生か?
 二十六歳:頼家(よりいえ)誕生。

 三十六歳:頼朝が征夷大将軍 実朝(さねとも)誕生。
 三十八歳:乙姫誕生か?

 四十一歳:大姫(二十歳)死す。木曽(源)義仲の子息と婚約したのを貫き通した。
 四十三歳:頼朝死す(五十三歳)。落馬と言われる。近年は脳出血とされる。
 四十三歳:長男頼家征夷大将軍。
 四十三歳:乙姫死す(十五歳?) 頼朝の死後、急速に悪化した。
 四十七歳:実朝征夷大将軍。
 四十七歳:父時政を追放。後妻におぼれたため。
 四十八歳:頼家修善寺で死す。

 六十三歳:実朝、頼家の遺児で実朝の猶子(ゆうし:義理の子供)公暁(くぎょう)に殺される。
 ――夫、実子、血縁は「竹御所」以外全て死亡――
 「竹御所」は藤原頼経(ふじわらのよりつね)と婚姻。
 六十三歳:征夷大将軍に公家を向かい入れることを決断。藤原頼経の後見となる。
 六十九歳:何度かの失神後、死す。

 政子は当時としては遅く二十一歳で結婚し、三十六歳、三十八歳の高齢出産をしています。父の力を背景にして長男を追放します。その様に、鎌倉政権の初期を安定に導くうえで父を頼りにしながらも、最後にはその父でさえ追い出してしまいます。その決断は、政治家として国家の安寧と家族の安心とを天秤にかけた上での決断でした。それでは家族の安心を引き換えに政子は何を成し遂げたのでしょうか。

北条政子の成した業績

これまで述べたこと
 鎌倉政権の宗教政策を担当する。
 :(伊勢の)神宮の内宮、外宮、園城寺、興福寺などの支援 → 平氏との差別化、優位を保持。

 公家の内紛争い=税金の奪い合いから、関東武士(農園主)の農地確保に。
 :合議制民主主義の確立。 → 長男頼家、次男実朝は公家化したので排斥。

 大都市鎌倉の建設
 :鶴岡八幡宮や伊豆山神社を政治の中心にする。 → 東国一の大都市に発展。

 鎌倉政権に順序と公平さを導入。
 :亀の前事件に見る正室と側室の区分け。 →  政権の安定(豊臣政権は不安定化して崩壊)。

今回述べること

鎌倉政権に公平な政治を導入 ―エコひいきなし―

 :征夷大将軍が頼家から実朝に代わるとき、領地を二分しようと決定しました。これに不満を持った反乱を父時政に知らせて鎮圧しました。頼家が心細くなり、エコひいきをしようとしても止めたのが政子なのです。さらに、その後、父時政は執権でしたが、後妻の愛におぼれて、後妻の子を征夷大将軍にしようとしました。これもエコひいきです。これを止めたのが政子でした。
 実朝が、頼家の息子で実朝の猶子であった公暁に殺された時も、権力を皇室に戻そうとする動きが出ました。承久(じょうきゅう)の乱です。承久の乱のきっかけは、上皇が愛人(側室)の領地の地頭を追い出すことを鎌倉幕府に求めたことがきっかけです。上皇は領地に地頭に置くことを認め勅許(ちょっきょ: 天皇の命令)を出していたのです。ですから、エコひいきをしたのは上皇だったのです。そこで承久の乱で、政子は以下のように言っています(意訳です)。

 「皆、最後の言葉をよく聞きなさい。頼朝公は朝敵を打ち、鎌倉幕府を創り、御家人たちを大切にしてきた。それに対する感謝の念が軽くていいのだろうか。けれども、今、逆臣の讒言(ざんげん:嘘と悪口)によって誤った勅許が下された。今こそ逆臣を討ちとり、恩を返す時である。ただし、上皇につくものは、今すぐ申し出なさい。」

 政子は、上皇の勅許を「誤っている」と言い切っています。エコひいきをしているからです。
 つまり、政子は「公平さ、公正さ」を基準に判断しました。それは、皇室への盲従を超える目を政子に与えたのです。「皇室の命令(勅許)ならばすべて正しい」という前提は、当時の日本を長い戦乱に陥れていたのです。政子の優れた点として、最愛の我が子頼家、実朝も、実の父時政も、上皇さえも政治を司(つかさど)るものとして許しませんでした。
 他方、家族内の母としては、それを求めませんでした。頼家の蹴鞠(けまり)遊びを見学しましたし、「竹御所」以外の血縁者がいなくなってから、恵まれない子供たちを養子にとるなどしていました。

初めての征夷大将軍、執権制度の確立 

 政子が存命中、

〇征夷大将軍が四代
 頼朝→頼家→実朝→頼経 
 
〇執権が三代
 父時政→弟義時(よしとき)→甥泰時(やすとき:義時の子) 

 の交代を経験しました。ほぼ全ての交代で大きな反乱がありました。なぜなら、それまでは公家の原理によって力あるものが権力を得る=正義、という時代だったからでした。そこに公平さを導入して征夷大将軍、執権制度を確立していったのです。特に、政子は自身の大きな軍事力(武家集団)を保持している訳ではありませんでした。ですから、普段から、その人物がどういう長所や欠点があるか、危機の時にどのような行動をするのかを読み切っていたのです。
 例えば、承久の乱後、鎌倉政権は対外上は盤石になりました。しかし、執権が義時から子泰時に移る時、反乱の気配がしました。義時には泰時と母が異なる政村(二十歳)がいたのです。この政村は母と共に北条氏に並ぶほどの三浦氏を巻き込んで政権を握ろうとします。
 そこで政子は、政村とその母伊賀の方の屋敷ではなく、三浦氏の屋敷を訪ねて言います。

 「もしかして泰時を除いて、反乱しようとしているのではないか? お前は政村とは親子同然だから相談に乗っているはずである。反乱を起こさないように忠告しなければならない」

 と。すると三浦義村は「何も知らない」と言い逃れをします。政子は義村の性格を見抜いて以下のようにいます。

 「政村について反乱の陰謀に加わるのか、泰時を助けて無事生き延びるのか、どちらか、今!ここで!はっきりせよ!!」

 三浦義村の「事なかれ主義」で「現状維持を第一とする考え方」を見抜いて、強く出るのです。もし、三浦義村が陰謀の主役であれば、政子は人質になってしまったはずです。ですから、政子は陰謀の主役が伊賀の方と政村であることも見抜いていたのでした。
 
鎌倉政権を全国政権に ―「皇室が権威を、民の代表が権力を」―

 承久の乱に勝ち、約三千か所の領地を没収しました。そして東日本だけでなく近畿、西日本を含めて全国に地頭を置くことになりました。鎌倉政権が全国政権になったのは頼朝の時代ではなく、政子の時代だったのです。そして、地頭は十町ごとに一町が免田として所領を得ることができました。これによって、日本全土の土地に鎌倉政権の行政権(裁判権、警察権、徴税権)が及んだのです。つまり、

 日本の歴史上初めて、土地の実質的な支配者が、皇室から民の代表に移ったのでした。それは政子が公平さを導入して成し遂げた偉業なのです。

北条政子の業績への評価

 北条政子の評価を、『吾妻鑑(あずまかがみ)』は以下のようにしています。

 「前漢の呂后(りょこう)と同じように天下の政治を行った。または、神功(じんこう)皇后の再来であり、我が国の皇基(こうき:皇室が国家を治める基礎)を擁護したのである。」

〇渡辺保先生の評価【よくわからない】:政子の業績は、大江広元(おおえのひろもと)のお陰であり、「(評価に喜んだかわからないが)政権を長続きさせたことを頼朝に報告できることをひたすらに喜んでこの世を去ったことと思う。」

〇田辺泰子先生の評価【否定】:「皇基の擁護」とは、政子の天皇家に対する一般的な尊敬の念をいっているのであると解釈したい。承久の乱の、院(上皇)と対戦したという事実経過からすれば、けっして「皇基の擁護」とはいえないからである。」ただし、天下の政治を行ったのは正しい評価と思う。

〇高木の評価【肯定】:政子の正当な評価だと考えます。以下図にします。

 「皇基の擁護」:「民は大宝である」と「平和を愛する」とが皇室が国家を治める基礎です。
 これは神武天皇の建国の詔(みことのり)と、仁徳天皇の「民のかまど」に沿います。

 承久の乱の原因は、上皇個人のエコひいきにあります。そのエコひいきで民は苦しみ、平和が何十年もの間失われ、戦乱が続いてきました。だからこそ、政子は「誤った」勅許と言い切ったのです。政子は自身の神格化や迷信によって民を苦しめることを嫌った話が残っています。「民は大宝である」と「平和を愛する」ことを政子は神仏に祈り、そして政治の場で実行したのです。政子は事あるごとに、鶴岡八幡宮などで祈祷、祈願を頻繁に行っています。以上の実績が認められて、鎌倉幕府の正式な歴史書『吾妻鑑』で評価されていると考えるに至りました。

 長きに渡りありがとう御座いました。
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