エッセイ「【歴史】北条政子が大都市を築く ―宗教政策を担当―」

「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した原稿です。
 読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。以下本文です。


 北条政子の三回目になります。初回は北条政子の優れた政治力、前回は北条政子の秀でた心性を書いて来ました。今回は、当時の史実に基づいて、実際に担った政治役割を挙げていきます。それは、これまでの研究者が目を向けていない宗教政策です。当時の史実『吾妻鏡(あずまかがみ)』を下調べしていて、「これはワクワクする!!」と感じました。

要約

 まず、冒頭に要約をつけます。

(1)政子が宗教政策を担当

 北条政子は初登場から神社(お寺)を人並み以上に敬う。
  ↓
 源頼朝と結婚後も神社を敬い、政策も担当する。
  ↓
 源家は神社を敬うので御家人たちが信用して鎌倉に移り住んだ。
  ↓
 鎌倉は東国一の都市に成長し、鎌倉政権の基盤となった。

(2)政子のトラブル解決方法

 北条政子はトラブルの時、自分で乗り込んで行って丁寧に話し合う。(初登場から:高木発見?)
  ↓
 話し合いの基準は宗教に基づく義理である。
  ↓
 その基準に反した時、長男頼家さえ権力から外す。
  ↓
 ただし、肉親の情は大切にし、母親として頼家を可愛がった。[頼家の遊び(蹴鞠:けまり)は参観している。]

北条政子とは

 最初の方もいらっしゃるかと思いますので、政子の経歴を挙げます。初回、前回と同じ内容です。

 北条政子(ほうじょうまさこ):保元(ほうげん)二年誕生、嘉禄(かろく)元年没す。六十九歳歿(ぼつ)、西暦千百五十七年~千二百二十五年。

 ○現在の静岡県出身(伊豆の国市韮山駅近辺の「北条」という地名の場所)で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。

 ○鎌倉幕府を安定した政治体制に導いた。他方、平氏は、兵庫県神戸市に政治体制(福原京)を開こうとしたが計画倒れとなる。

 ○「政子」は西暦千二百十八年に命名されたものであり、それ以前の名前は不明。

 ○通称は、鎌倉幕府樹立後「御台所(みだいどころ)」、夫の死後に尼になり「尼御台(あまみだい)」、藤原氏から将軍を迎えた実権を握ったので「尼将軍」と変わる。

 ○頼朝との恋愛話や嫉妬深い悪女、高い政治手腕など数々の評価がある。


北条政子は主婦であったのか? 頼朝の死以前

 今回の内容が始まります。まず、これまでの歴史研究を挙げます。「史実に基づく正確な伝記シリーズ」として有名な吉川弘文館の人物叢書(そうしょ)シリーズがあります。北条政子を担当される渡辺保先生は、頼朝の死前後の北条政子の政治役割について以下のように書かれています。

 「これ(頼朝の死)で頼朝の妻としての政子の生活は終わり、あとに十八歳の頼家(よりいえ)と十五歳の乙姫(おとひめ)と八歳の実朝(さねとも)とをかかえた政子の、母としての生活が始まるのである。」
 『北条政子』 渡辺保著 吉川弘文館 八十五頁

 渡辺先生は、北条政子に政治力という視点を当てておりません。頼朝を家庭で補佐する立場(妻)として政子を描き出し、頼朝の死によって、仕方がなく母の役割を担ったと解釈しています。
 同じく、同著百七十九から百八十頁の「あとがき」には以下のように書かれています。

 「これらの事情(政子が悪妻の評価を受ける事情)を考えながら、先入観を去って史実に当たると、やはり政子は普通の女性からあまり離れてはいない。時勢の流れに押されて波瀾ある生涯を送り、それも決して幸運とばかりは言えない一生だった。…(中略)…どれも不自然ではなく非人間的でもなく、その場にあたって当を得た態度だったことは、本文に書いた通りである。ただありきたりの凡愚な女性にはできなかったであろうことを、政子はなし得た、という結論になると思う。」

 北条政子は妻として幸せな生活に満足していたけれども、頼朝の死によって仕方がなく政治の表舞台に立たされ、最低限の政治役割を果たした女性である、と評価されています。積極的に政子に踏み込んで政治力から光を当てようという姿勢ではありません。
 確かに『吾妻鏡(あずまかがみ)』を読みますと、政子は初期に殆ど出てきません。例えば『現代語訳 吾妻鏡』 五味文彦・本郷和人[編]では、九十五頁の頼家懐妊までは四か所ほどです。一見すると妻として家庭内で満足していた、と読めます。

確実な歴史資料『吾妻鏡』に登場する政子
 初回に後世になって北条政子の悪妻の評価などが派生したことを渡辺保先生などが指摘されています。そこで政子と同時代の人物が書き残した確実な歴史資料『吾妻鏡』に登場する政子を引用します。まずその四か所を挙げて考えてみたいと思います。
 高木は北条政子が初期から政治力を持って鎌倉政権を支えていた、と観て解釈していきます。日付などから新しい発見がありました。

北条政子登場の四つの場面
 最初は場面説明、①~④が本文と西暦の日付、考察がつきます。

 一番目
 頼朝が毎日の勤行(ごんぎょう:毎日の読経や礼拝)が戦場に向かうので出来なくなってしまうと心配していた。

 ①「そうした時に伊豆山に法音と号する尼がいた。これは御台所(政子)の読経の師匠であり、一生不犯(ふぼん)の者だという。そこで毎日(頼朝が)行っていることをその尼に命じてはどうかと(政子が)申されたので、すぐに目録を遣わしたところ、尼は了承したという。」 
 千百八十年八月十八日

 考察:政子も頼朝も読経を行う習慣を持ち合わせていたこと、また、政子がより一生不犯の師を仰ぎ本心からであり、頼朝より熱心なことが判ります。

 二番目
 頼朝の御家人たちが行き来して狼藉(ろうぜき)が見られるので、走湯山(そうとうさん:現、走湯山権現。同、伊豆山神社 静岡県熱海市)の衆徒が訴えて来たので、世情が安定したら土地の寄進を約束した。

 ②「これによって衆徒はみなたちまちに怒りをおさめた。晩になって御台所(政子)が(走湯山の)文陽房覚淵(もんようぼうかくえん)の坊にお渡りになった。(藤原)邦通と(佐伯:さえき さいき)昌長らが御供をした。世情が落ち着くまで密かにここに寄宿されるという。」
 千百八十年八月十九日(翌日)

 考察:地元の大切な神社と頼朝の新しく来た御家人たちのトラブルは避けられないものです。そのトラブルは治め方が政治です。頼朝ではなく、政子自身が乗り込むことでそのトラブルを見事に納めています。後年、頼朝の死後、十八歳の若い頼家と大人(頼朝の重臣達)の御家人とのトラブルも同じく、政子が相手側に泊まり込むことで治めています。リーダー同士の腹を割った話し合いは、京都に直接乗り込むなど政子が生涯を通して続けていきます。その最初がさりげなく書いてあります。つまり、政子は己の政治の形を若い時代から身につけていた、という視点で捉えられるのです。

 三番目(状況説明は省きます。)

 ③「御台所(政子)が伊豆山から秋戸郷(場所不明 伊豆の国内)へとお移りになった。」
 千百八十年九月二日(約二週間後)

 考察:約二週間後に先ほどの紛争の場所から移動しています。つまり、事態収拾に約二週間をかけています。日付に注目することで政子がじっくりと腰を据えて解決したことが浮かび上がってきます。例えば、二、三日では人の気持ちが落ち着きません。後々、不満が噴出(ふきだ)して紛争が蒸し返されることは、よく見聞きします。逆に、二、三ヶ月も寺に滞在していては紛争当事者の片方とだけなれ合っているように取られてしまいます。この二週間と言う長さは政治家として見事だと思いますし、現代でも同様だと想います。政治力を見出そうとして浮かび上がったのは、この二週間という時間の掛け方でした。では、紛争は治まったのでしょうか。

 四番目

 ④「卯の刻(約早朝五時から七時)に御台所(政子)が鎌倉に入られ、(大庭:おおば)景義がお迎え申した。昨夜伊豆国阿岐戸(あきど:秋度)郷からすでに到着されていたものの、日柄が悪かったため、稲瀬川辺の民家にお泊りになっていたのだという。
 また、走湯山の住僧である専光坊良暹(せんこうぼうりょうせん)が、(頼朝の)兼ねてからの御約束により、鎌倉に到着した。良暹と武衛(ぶえい:源頼朝)は長年にわたり祈禱の師と檀那(だんな)の間柄である。」 
 千百八十年十月十一日(約一か月後)

 考察:本文に続けて、同日、走湯山の僧の到着が記されています。つまり、北条政子と一緒に鎌倉まで旅をしてきたのが推察されます。紛争が十分収拾して、伊豆山と良好な関係を築いたのが読み取れます。
 また、現代語訳の本文には「(頼朝の)兼ねてよりの御約束により、」とありますが、その根回しをしたのは政子でしょう。以上の二点から政子は事態の収拾だけでなく、地元の信仰篤い神社とも人間関係を築いたと判別できます。その期間僅かに一か月。けれども、「機を見るに敏」の諺通り、仲良くなって信頼を得て次の段階に進むのに一か月です。絶妙の時間というべきです。

 以上が、政子と同時代の人物が書き残した確実な歴史資料『吾妻鏡』に登場する政子です。

補足:『吾妻鏡』を読み面白かった点
 また、『吾妻鏡』に目を通しますと、以下のことが判って面白かったです。

 A) 源義経(よしつね)が幼い頃からわがままで筋を通さない人であったこと。 四十九頁
 つまり、頼朝が政権を握りたくて無実の義経を排斥したのではなく、義経の方にも筋を通さないという責任が浮かび上がってきました。

 B) 源頼朝が公平な裁定を行った例として、浅羽庄司宗信が挙げられていること。八十六頁
 静岡県の元浅羽町の由来になった浅羽さんのご先祖様でしょうか。

北条政子と宗教政策

 『吾妻鏡』に登場する北条政子は、全て宗教に関することで記録が残っていました。この線で『吾妻鏡』を読むと引っかかる場所が出てきます。

 「(頼朝は)走湯山の僧侶である禅睿(ぜんえい)を鶴岡八幡宮寺の供僧(ぐそう)ならびに大般若経衆(だいはんにゃきょうしゅう)に任命し、鶴岡の西谷の地に免田(めんでん:役目の替わりに年貢を免除する田)二町(だいたい百㍍×二百㍍位)を賜る旨の御下文(みくだしぶみ)を与えたという。」 九十二から九十三頁
 千百八十一年十月六日(ほぼ一年後)

 ④からほぼ一年後に地元の神社から鶴岡八幡宮に僧侶を迎えて重要な役割を担わせたのです。宗教勢力を引き入れるのに約一か月、その人物を信頼するのに約一年を掛けているのが判ります。伊豆山を取次(担当)したのが北条政子なのは、④で判っていますので、政子の人を見る目が正しいこと(慧眼)が察せられます。
 次に宗教そのものから観てみます。走湯山は「権現=日本の神は仏の仮の姿」と考えており、八幡神は起源については諸説ありますが、清和源氏の守り神でした。それぞれ別の神や仏なのです。このように考えると、上記の一文は、大和らしい「宗教宥和(ゆうわ)政策」と読むことができます。
 政子と宗教政策を追ってみると、さらに、幾つもの記述が浮かび上がってきます。それは北条政子も源頼朝も宗教=鶴岡八幡宮へ何度も何度も参拝し、何度も何度も寄進をしているのです。例えば、頼朝が後年、奥州藤原征伐の際、政子は鶴岡八幡宮にお百度参りをしています。

 また、頼朝は(伊勢の)神宮の内宮や外宮の所領安堵や治安維持、奈良の東大寺再建供養などなど数々の宗教勢力の保護を努めています。そもそも『吾妻鏡』の第一巻は、御家人の話と宗教政策で殆どの頁が占めています。

北条政子と宗教政策の持つ意味

 鶴岡八幡宮は海辺にありましたが、頼朝によって現在の山側に移されました。長子頼家の誕生の際にまっすぐな道に直しました。頼朝は、この鶴岡八幡宮を大切にすることで数々のことを成し遂げました。それは以下の通りです。

イ) 先祖と共に自ら関東の土地に根を下ろすという決意表明

 頼朝の父義朝(よしとも)は関東武士を引き連れて京都で権力争いを行い、敗れて部下に殺されました。関東武士からすれば自分達に寄り添ってくれる政治権力を欲しており、それを満たす意味があります。

ロ)神の前で政治の公平性を誓うこと

 権力者に近ければ優遇される政権(公家)は、前回述べたように全国から税金が入る京都ならば合理性があります。けれども、関東武士の求めるものは、政治の公平さによる安定です。それによって農作業に集中でき、豊かになるからです。ちなみに、発足して間もない鎌倉政権は、権力争いを繰り返す公家政権に、何度も助けられました。

ハ) 関東武士の求める土地の確保

 京都の公家政権(藤原氏、平氏)による土地の担保がなされていませんでした。特に関東平野では不明確で裁定者がいませんでした。その裁定者としての役割を担い、農作業に集中する必要が政治機構として求められていました。

ニ)東国一の都市へ発展
 イ)~ハ)を見た御家人たちは続々と鎌倉に屋敷を立てて、またたく間に東日本の中心地になりました。なぜなら、鎌倉政権の安定によって土地問題が解決し、結果として安心して豊かな生活を送れるからです。つまり、関東武士たちは鎌倉政権を「おのれの命を懸けて守る」という意気込みを持ったのです。「一所懸命」や「御恩と奉公」という言葉が残っています。その根源が宗教政策であり、神の前で誓う公平性なのです。「一所懸命」も「御恩と奉公」も権力者の依怙贔屓で左右されないことを含意しています。
 つまり、鶴岡八幡宮を大切にすることで、関東武士=支持基盤を確保することになるのです。宗教政策は鎌倉政権の根幹を支える要素となりました。それを率先して行ったのが北条政子なのです。また、先ほどの引用した二番目から四番目に挙げたように具体的な行動として調整を行ったのです。
 他にも数々ありますが、一つだけ別の例を挙げます。

 不行き届きがあり身柄を拘束されていた長尾新六定景という者が「法華経を大事にして、毎日転読(てんどく:見て読む、覚えて読む)して決して怠ることがなかった」として「すぐにお許しになられたという」(八十五頁)とあります。神仏への帰依を政権の判定基準に中心に据えていたことが判ります。

 対して平氏は、平清盛が頼朝に味方するだろうと考えて(実際には反乱していない)、園城寺(おんじょうじ:三井寺 滋賀県大津市)と興福寺(こうふくじ:奈良県奈良市)を攻めました。そして全ての建物が燃やされました。(五十九から六十四頁) 
 阿修羅像だけは持ち出せたのでしょう、奈良時代から現存していますが、それ以外は室町時代のものです。

宗教政策の持つ政治性

 渡辺保先生は源頼朝と北条政子の政治役割について以下のように書いています。

 「いわば貴族性と土豪性(どごうせい:土地の小豪族)とを調和させるところに、源頼朝の役割があった。そして彼自身は、どちらかと言えば前者の色彩が濃いし、またそれを好んだのであろうが、しかしあくまでも後者の性格を失わなかったところは、北条時政・政子の存在がその働きをつとめたと言えよう。」
 『北条政子』 二十四から二十五頁

 渡辺先生は歴史解釈の通例通りです。これに、高木は第三の要素を加えたいと考えます。つまり、貴族性(源氏の血塗られた歴史とスケールの大きさ)と土豪性(関東武士の家族愛と土地への執着)を調和(接合)する第三の要素としての宗教性です。その根拠は先程書いたイ)~ニ)の政治力です。同時に、平氏との対立を鮮明にして政権の正統性を確立するなどの役割も、鎌倉政権の宗教政策は果たしています。その宗教政策を当初から担い、表に裏に活躍したのが北条政子なのです。

貴族性としての頼家と宗教性としての政子
 頼朝は落馬で死にました(脳卒中とも)。十八歳で長男頼家が鎌倉政権の頭領になりました。しかし、イ)~ハ)に反して頼家は貴族性が強く出てしまいます。
 ①自分の側近五人だけしか会話をしない。(公平性に反する。)
 ②依怙贔屓(えこひいき)をする。(頼朝の重臣を軽く扱う=御恩と奉公に反する。)
 ③部下の側室(妾)を寝とっておいて疑心暗鬼になり殺害しようとする。(義に反する。)
 ④蹴鞠(けまり)遊びばかりする。(一所懸命に反する。)

 などです。

 当時、北条政子は、長女大姫、夫頼朝、次女三幡(さんまん)を失ったばかりでした。また、頼家自身も病弱であったと言われています。しかしながら、頼家が貴族性に浸り、公家政権のような政治をしようとした時、政子がそれを止める事件が起こります。
 言い換えれば鎌倉政権の支持基盤が関東武士にあることを無視して、頼家が現実逃避をするのを何とか止めようとするのです。③部下の側室を寝とっておいて疑心暗鬼になり殺害しようとする事件です。要約して簡潔に述べます。

 「安達景盛は自分の国である三河国(愛知県)へ事件解決に出立しました。その間に頼家は側近に命じて景盛の妾を強引に連れ出して寵愛しました。以前に何度も手紙を送って断られていました。頼家のある側近の家に置き、側近五人以外は接近禁止にしました。一か月ぶりに安達景盛が帰ってくると、『怨みを持っているに違いないと思い込み(実際には反乱していない:平氏の宗教政策と同じ)』、兵を動かして殺してしまう命令を出しました。鎌倉は合戦前の雰囲気になったのです。
 政子は、先ほどの側近が押し寄せていた景盛の父蓮西の家に自分が乗り込みました(冒頭の走湯山のトラブルと同じ解決方法)。そして頼家に手紙を出します。

 頼朝が亡くなり、次女三幡もなくなったばかりです。今戦闘を好まれるのは乱世の源です。頼朝は景盛を信頼し可愛がっておられた。彼に罪があるなら私(政子)が尋問して成敗しましょう。事実も確かめずに殺してしまうのはきっと後悔するでしょう。それでもなお彼を罰せようとするなら、まず私にその矢を向けなさい。

 翌日も父蓮西の家にいて、景盛に「後々野心はありませんと起請文を頼家に出しなさい」と政子は言います。その手紙を頼家に渡しながら、政子は頼家に手紙を書きます。

 昨日のことは乱暴の至りで、義理を欠きます。国内(日本か鎌倉か判りません)の防備は整っていないし、政治を嫌悪し民の苦しみを考えていない。他人の妾を楽しんで反省しなかったことに原因がある。また、側近達も賢い人とはいえない。源氏が政権を作り上げたのに北条の力が大きかった。それなのに北条を大切にしていない。周りの人を下に見て本名で呼んで馬鹿にしている(通常は官職名で呼ぶ)ので怨みを残すと言われている。それであっても今回のことを冷静に対処すれば、合戦は起こらないでしょう。」

 以上が、頼家が貴族性に傾いた事件の顛末です。政子は宗教の持つ公平さに立って、裁定を下しています。そして結局頼家は権力を奪い取られ、頼朝の重臣の合議制に権力が移るのです。

政治権力強化としての宗教性
 政治から考えれば、権力者が他人の妾に手を出すのは古今東西の権力者の常です。ですから、一般人の道徳ではなく、政治から観てみますと、以下の点が浮かび上がってきます。

 ア) 側近から公平な助言がない
 イ) 政権が権力者に近い人々で独断される
 ウ) 過去の実績が失われ信頼関係が不安定になる

 どれもが権力の融解(ゆうかい)の原因になります。北条政子はしっかり全ての点に釘をさしています。そして最後には、実子で数少ない長男頼家をお飾りの将軍としてしまいます。対して政権の権力を強固にするために、十三人の御家人の合議制を制度化するのです。そして権力を継続させます。
 もし、わが子が可愛いと母として政治を行ったとしましょう。すると、京都の公家政権と同じく不安定になってしまいます。現代では権力が融解している典型例はシリアです。十万人近くの虐殺、数百万人の移民、難民が発生しています。権力の融解が、悲惨なことを巻き起こすのです。政子が頼家から権力を奪い取らなければ、現在のシリアと同じく、関東平野では虐殺、移民、難民が発生していたでしょう。
 関東は公家政権の権力が強固ではないので、凄惨な殺し合いを続けてきた土地だったことが思い起こされます。北条政子は頼朝の父義朝(よしとも)が、関東に下ってきて混乱を引き起こしたのが頭にこびり付いていたのかもしれません。歴史はこの権力の融解と強固の繰り返しで、無益な人々が殺され続けてきたことを教えてくれています。

 同じ合議制を制度化した豊臣政権ではどうだったでしょうか。五大老と五奉行を持った豊臣政権は、淀の方が五奉行の石田三成だけを依怙贔屓して、権力を融解させてしまいます。つまり、合議制を制度化しても実行力が伴わなくなってしまったのです。鎌倉政権も、その後、数々の反乱がおこります。けれども、権力の融解は起こらず、約百五十年続きます。

まとめ
 今回は、『吾妻鏡』から北条政子の最初の四つの登場を引用しました。宗教政策にかかわり、自ら乗り込んで問題を解決する姿勢が明らかになりました。また、頼朝の貴族性と鎌倉武士の土豪性を鶴岡八幡宮の宗教性で結びつける大きな役割も担っていました。その結果として関東武士は安心して鎌倉に集まり大都市となったのです。その陰に、政子を含めた鎌倉政権の宗教の融和政策や宗教の公平性があったのです。政子は前回指摘したように支持基盤は殆どありませんでした。その意味で驚嘆すべき政治力です。二代目でつぶれる会社や政治権力の多い中、政子は継続させることができました。政子の政治力の大きさを一つ見ることができたと思います。


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