エッセイ「【歷史】北条政子の秀でた心性 ―自分の弱さから広い視点へと― 」

「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した原稿です。
 読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。以下本文です。


 前回に引き続き、北条政子を取り上げます。まず、前回「亀の前事件」を「豊の前」と誤っておりました。訂正致します。
 前回は、北条政子の優れた政治力として、権力に必要な上下関係をつけた事件として、「亀の前事件」を考えました。
 今回は、その「優れた政治力」を生み出した北条政子の秀でた心性=心の態度、に迫りたいと思います。その事件として、義経の側室静御前が、頼朝と政子の前で義経を想う舞をまった事件を取り上げます。これまでは、政子は女性らしい感情から静御前をかばった、と考えられてきました。また、ある女性史研究家は「権力者に対して堂々と意見を言った姿」と考えました。私は、北条政子の支持基盤の弱さと源氏の過去の歴史から静をかばった、と考えます。
 そのためにまず、政子の支持基盤の弱さを述べます。つまり政治判断を問われた彼女の最初の危機を見ていきます。「危機に立った時、その人の本性が現れる」と思いますので、そこに政子の秀でた心性が現われていると思うのです。
 最初の方もいらっしゃるかと思いますので、前回の繰り返しになりますが政子の経歴を挙げます。

北条政子とは

 北条政子(ほうじょうまさこ):保元(ほうげん)二年誕生、嘉禄(かろく)元年没す。六十九歳歿(ぼつ) 西暦千百五十七年~千二百二十五年です。
 ○現在の静岡県出身(伊豆の国市韮山駅近辺の「北条」という地名の場所)で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。
 ○鎌倉幕府を安定した政治体制に導いた。他方、平氏は、兵庫県神戸市に政治体制(福原京)を開こうとしたが計画倒れとなる。
 ○「政子」は西暦千二百十八年に命名されたものであり、それ以前の名前は不明。
 ○通称は、鎌倉幕府樹立後「御台所(みだいどころ)」、夫の死後に尼になり「尼御台(あまみだい)」、藤原氏から将軍を迎えた実権を握ったので「尼将軍」と変わる。
 ○頼朝との恋愛話や嫉妬深い悪女、高い政治手腕など数々の評価がある。

危機に立たされた時、人間はどうするか?

 北条政子の秀でた心性を理解するために、そもそも危機に立たされた時、人間はどのような態度を取るのか、㋑から㊁の四つに分けてみます。

危機に立たされると

㋑自分で手一杯(感情のままにふるまう)
  :混乱、事実否認、一つの観念に凝り固まるなど。

㋺自分の外を見る(周りを見わたす、自分の小ささに気づく。)

 危機に陥るとその瞬間は、誰もが「㋑自分で手一杯」になります。そのまま㋑に留まっていると、状況の整理ができず、事実否認や事実誤認が起こります。原因の全否定や全責任を押し付ける、などです。日常世界でも政治の世界でも、自然科学者の世界でもよくあることです。
 そもそもこの世において、原因が己に一切なく相手にだけ悪があり否定される、ということはありません。私達が『論語』を学ぶのも、相手だけに責任を押し付けるのではなく、自らを反省することを勧めるからです。かみさんと喧嘩をすると甘えてしまって、相手にだけ責任を押しつけたくなってしまうのですが。
 話を戻しますと、事実の整理や責任追及をしない「有効な」対応策の検討に手をつけることで、㋺自分の外を見る段階に進みます。そうすると、自分の立ち位置や幾つかの重要な要素が浮かび上がってきます。そして何らかの対応策が見えてきてきます。こうして「㋑自分で手一杯」から抜け出せるのです。
 このままの状態を受け止めることもできますが、次の段階にも移れます。

㋩心細くなる
 :グループで固まる、あるいは特定の個人に依存する

 人は二歳頃からでしょうか、特定の個人と仲良くなっていきます。単純な喜怒哀楽のままに保育園で過ごしていた二女「おとは」は、二歳頃から特定の友達とだけ遊ぶようになったようです。小学校では男女の差こそあれ、グループで固まるようになります。特に思春期は不安定な時期ですから、グループを作ったり、特定の個人に依存したりという動きが強くなります。それは家族を含めると死ぬまで続きます。さらに、権力は孤独を要求しますから、権力者はより心細くなります。ですから、派閥を作り、その争いに終始することも起こってくるのです。洋の東西、時代、文化、民族を超えて、権力者、あるいは権力周辺は派閥争いが止まらないという歴史的事実があります。ですから、「㋩心細くなる」、そしてグループで固まるのは通常の心の動きなのです。しかし、人間はここで留まらない人も出てきます。その一人が北条政子です。

㊁より広さへと向かう
  :正義や公的規範、普遍的なルールに向かう

 『論語』の中には、しばしば孔子が苦しめられる場面が出てきます。けれども、孔子は正義や道徳などの普遍的なルールに沿うかどうかと考えます。目先の危機回避だけに捉われないという心の態度、つまり、秀でた心性に読者は感動するのではないでしょうか。北条政子も同じです。目先の危機回避だけに捉われず、普遍的なルール、頼朝の支持基盤の持っているルールへと向かいました。また、後年は、合議制を制度として採り入れるなど普遍的なルール作りを具体化し、実行するのです。カントは『実践理性批判』の第七で、

 「あなたの意思の格率が、常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しるうように行為せよ。」

 と述べています。「格率(かくりつ)」は「個人が決める習慣などのルール」です。例えば、朝起きたら直ぐに歯磨きをする、です。少し柔らかく訳してみます。

 「あなた一人が決める毎日の習慣があるでしょう。その習慣が、どんな時でも誰でも同じ習慣を行っても大丈夫なように決めて下さい。そしてその習慣を行いなさい。」

 カントが伝えたかったのは、自分の正義が全員に当てはまるかどうかを反省しながら、そして行動する、という点です。この一点において、カントは『論語』の孔子と共通していると思います。北条政子も同じ心性があったと思います。制度化は後年に実権を握ってからになりますが、頼朝が引き連れてきた千葉県や東京などの武士の心をつかんだのは、政子が有力な武士をえこひいきせずに、全員の武士に同じ

















ような公平さで接したからでしょう。

北条政子が「㋺自分の外を見てる」と気がついたこと

 以上の視点から北条政子の業績を見通すと、二点が見えてきます。

①権力基盤(兵士の数)が弱く、正室の座は危ない

 北条政子の出身母体である北条氏は、現在の韮山周辺の小さな土地しかありませんでした。つまり、同じ伊豆の豪族の中でも最大ではありませんでした。次に触れますが、北条氏は三百騎(歩兵である郎党は含まず)も集められませんでした。対して、千葉県(安房)などで頼朝は千騎、十倍以上の三千騎を集めた豪族をいくつも従えてきました。

 さらに悪いことに北条氏の兵士数はほぼ全滅してしまいます。源頼朝の初陣「石橋山(いしばしやま:小田原の少し南)の合戦」では、平家方三千騎に対して北条氏、とその他五氏を合わせて三百騎でした。ここで完全に敗北して兵を失ったのです。
 頼朝自身は命が終わろうとした時、敵方の梶原景時が裏切って助かります。兵士数壊滅によって伊豆の権力基盤を失った頼朝は、政子に連絡せずに千葉県に渡り兵を集めたのです。この千葉行きは頼朝の人気があった話として残っていますが、政子から見れば、権力基盤である兵士を殆ど失った、と観ることができます。そしてそれゆえに捨てられた話でもあるのです。
 同時代の風俗からすれば、権力のない家の正室は捨てられ、権力のある家から新しい正室を迎えることは、常にある時代でした。政子は最後まで正室として頼朝からも、頼朝の死後も御家人たちからも支持され続けました。それゆえ、この権力基盤の弱さは見落とされがちです。

②源氏は身内で殺し合ってきて、政権そのものが危ない

 次は頼朝も含めた武家政権の権力基盤の弱さの一つを観てみましょう。それは公家に使われてきた武士の本質の変化にも関わる点です。
 そもそも公家の使用人として勢力を拡大してきたのが源氏です。源氏は、公家の争いに巻き込まれ、身内が分裂して父と子、兄と弟が争い殺し合ってきました。例えば、源頼朝の父、源義朝(よしとも)は、家族の内紛で都から逃げました。頼朝と同じく、①東国に逃げて御家人を集め、②都に戻り、③父為義(ためよし)を倒しました。その後、また公家の争い(平治の乱)で平清盛に敗れます。そして尾張(愛知県)で家人(部下)に裏切られ殺されました。頼朝自身も弟義経(よしつね)を倒し、その赤子を処刑しました。また、親戚では源義仲(木曾義仲)を滅ぼしています。
 このように源氏は血で血を洗う凄惨(せいさん)な殺し合いを続けていたのです。なぜ、身内で血で血を洗う争いを続けるのでしょうか。中学時代に『まんが 日本の歴史』を読んで浮かんだ疑問が、今回の記事を書くことで消えました。
 血で血を洗う争いは、京都のように全国から税金が入ってくる場所だから成り立つのです。つまり、家族が憎いという感情が主な動機ではなく、全国から莫大な利益が入る京都の利権をより多く握るために争っている、という意味です。関東(鎌倉)の武士たちとの違いを箇条書きしてみます。

京都
○働かないで税金が入ってくる 
  ↓
 税金の権益を多く得るために家族でも争う

関東(鎌倉)
○家族で働いて自然の実りを頂く
 ↓
 食べていくためには家族仲良く

 京都を中心として考えている頼朝からすれば、家族で争うのは、結果として自分の利益になることでした。他方、関東の鎌倉政権を支える武士たちは自分達で畑を耕す農園主でした。武家政権を支える御家人(農園主)からすれば、家族で争うことには大いに抵抗があったのです。家族で争うのは結果として自分の利益に反するからです。この視点から観ると、「北条政子が家族を大切にする」=「武家政権の権力基盤を強固にする」の意味が出てきます。
 一つの事件を取り上げます。

頼朝の前で義経への思いを込めた舞う静御前

 文治二年(西暦千百八十六年)、義経は頼朝に追われており、義経の側室静(しずか)は捕えられて鎌倉にいました。鶴岡八幡宮に頼朝・政子夫妻が参詣し、静に舞を舞わせることにしました。そこで静は、

 「よし野山 みねしら雪ふみわけて いりにし人のあとそこいしき」

・吉野山の峰の白雪をふみわけて姿を消した義経の後ろ姿が恋しい。

 「しつやしつ しつのをたまきくり返し 昔を今になすよしもかな」

・しず(倭文)の布を織る麻糸を、まるくまいた「おだまき(糸を巻きつける木具:画像)」から糸がくり出されるように、絶えずくり返しながら、どうか昔を今にする方法があったなら(義経様に逢えるのに)。

 と舞いました。訳文は高木です。

 舞に対して頼朝は「八幡宮の前だから源氏を讃える歌を歌うべきだ」と不快感を表しました。
 政子は「私も最初は父に反対されても、夜道を迷いながら雨の中あなたの所へ行きました。あなたが何も言わずに千葉に行ってからは心淋しかったのです。今の静と同じです。ですから、彼女は貞女(ていじょ:夫を大切にする女性)です。」と誉めました。その後、頼朝は機嫌がよくなりました。

 この舞について三つの解釈があります。

 政子は嫉妬深いがこの時は、自分の身と同じだったので同情した ―従来の解釈―
 「それゆえ、頼朝の政治的な見識が素晴らしい。大勢の前で感情的な女性と争わないのは政治家として大物である。政子は感情的な性格である。」という解釈です。

 政子は頼朝よりもはるかに人間味を感じさせる ―田端泰子先生の解釈―

 「・・・頼朝批判の歌を歌い、堂々と舞を舞う、その勇気にも感心させられる。政子も静も情勢に屈せず積極的に自分の意志を表現できる人であったことがわかる。」
『幕府を背負った尼御台 北条政子』四十二頁

 「人間味=権力に屈しない」という意味であり、現代の女性史研究者らしい解釈です。田端先生は鎌倉政権前後の女性の地位の高さ、男女平等であったという視点から北条政子にせまっています。つまり、北条政子を通して当時の女性の地位を描き出すことが目的であり、北条政子個人の持つ資質に焦点があっていません。

 政子は頼朝よりもはるかに政治力を感じさせる ―高木健治郎の解釈―

 私は北条政子個人の資質に着目してみました。
 そもそも、政治力の根源はその支持基盤を確保することにあります。先ほど述べたように、鎌倉政権の支持基盤は農園主の御家人たちであり、家族仲良く、は動かしがたいほど強固にしみついていました。彼らの前で頼朝が鎌倉政権を褒めないからという理由で義経と権力争いをしたらどうでしょうか? もちろん、権力安定のために義経排除は必要です。しかし、正室ではない側室の静まで罰してしまっては・・・。単に「むかつくから近い立場の弱い者をいじめる」と受け取られるでしょう。それは鎌倉政権の支持基盤を弱くするものです。なぜなら、頼朝に近づいても「むかつくから近い立場の弱い者をいじめる」が、いつやってくるか判らないからです。言い換えれば、求心力の低下です。
 御家人たちは頼朝を冷酷な人物と断定し、信用しなくなります。そうなってしまうと、父義朝のように最後には裏切るかもしれないのです。政子は、そこを正確に見抜いていたのでしょう。だからこそ、自分の思い出を持ち出し温かい言葉を静御前にかけるのです。その後の静の母、静の赤子と静自身への手厚い心配りも一貫しています。
 まただからこそ、鎌倉政権の正式な歴史書『吾妻鏡』に政子の反論まできちんと載せているのでしょう。政子が静への手厚い心配りが御家人たちの心をつかみ権力基盤を強固にするという政治力を見ぬいたから書き残されたのでしょう。歴史書には、殆どの出来事や発言は書き残されないのです。ですから、歴史書に書き残された内容というのは、なぜ、書き残されたのか、に大いに理由があるのです。

北条政子の秀でた心性

 以上をまとめてみます。

 元々、政子の政治基盤(北条氏)は小さく、「石橋山の合戦」でほぼゼロになりました。
  ↓
 政子の秀でた心性は、自らの権力基盤(兵士数)の少なさを、自覚します。
  ↓
 危機に立った政子は、「㊁より広さへと向かう」を選びます。
  ↓
 権力基盤である御家人(農園主)たちと武家政権の断絶を認識する。
  ↓
 家族を大切にすること=御家人たちを大切にする、という政治的メッセージだと理解し、権力基盤を強固にする。

 同じく安定した長期武家政権を打ち立てた徳川家康と比較してみます。
 徳川家康も、家族の問題で苦悩しました。一度家を出た結城秀康は二男で優秀な君主でしたが徳川家を継がせていません。家を継ぐ公的ルールを確立するために、三男の徳川秀忠としたのです。家という考え方に公的ルールを入れ込んだのです。
 また、徳川家康は国内一の優秀な兵士を質と量で持ち、広大な領地も支配していました。この点、家康は安定した政権になりました。
 対して北条政子は少ない兵士数しか持たず、広い領地も持っていなかったのです。ですから、政子の死後、有力な御家人の足利氏などが内紛を何度も引き起こします。こうした歴史的事実は、北条氏の権力基盤が弱小であった証左です。そうなると北条政子が亡くなるまで御家人達の絶大な支持を受け続けるのは異例なことと考えられるのです。
 それゆえに、北条政子の権力基盤が土地や兵士数ではなく、その秀でた心性にあったことが判明します。

まとめ

 頼朝は静の舞の事件に見るように、「貴人に情なし」の面があります。それゆえ、関東の武士達の求めるものを受け止められない面がありました。もちろん、優れた面として、東北の藤原氏を滅ぼし全国を統治し、貴族の荘園制を廃止していくなどの視野の大きさをもっていました。しかし、それも権力基盤の関東武士を強固であればこそです。その関東の武士を受け止めたのが北条政子であり、そう考えると、夫婦相唱和していたのが頼朝・政子だったのです。静の舞で政子の忠告後、頼朝の機嫌が直ります。これは単に頼朝個人の問題でなく、夫婦で権力基盤である御家人達にメッセージを出したという政治の問題と読めるのです。
 この点を鋭く見抜き、分かりやすい恋愛話で語りかける北条政子の心の動きは、秀でている、と言って差し支えないと考えます。

《参考書》
 五味文彦・他編集 『現代語吾妻鏡⑴-⒃』 吉川弘文館
 田端泰子著 『幕府を背負った尼御台 北条政子』 人文書院
 渡辺保著 『北条政子』 吉川 弘文館
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