エッセイ「【歷史】北条政子の優れた政治力 「豊の前事件」 」

「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した原稿です。
 読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。以下本文です。


 明けましておめでとう御座います。本年も宜しくお願い致します。
 今回は北条政子の話になります。藤枝木鶏クラブで北条政子の希望を頂きました。年始に彼女の本を何冊か読んでいましたら、新しい解釈が想いつきました。そこで「北条政子と他の女性たち」と題して、政子と同じ地位に上った女性たちと比べつつ、迫りたいと思います。北条政子の政治力は夫源頼朝を超えていた、という少々強い結論になっています。

北条政子とは

 まず、彼女の経歴を簡単に述べます。

 北条政子(ほうじょうまさこ):保元(ほうげん)二年誕生、嘉禄(かろく)元年没す。六十九歳歿(ぼつ) 西暦千百五十七年~千二百二十五年です。
 ○現在の静岡県出身(伊豆の国市韮山駅近辺の「北条」という地名の場所)で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。
 ○鎌倉幕府を安定した政治体制に導いた。他方、平氏は、兵庫県神戸市に政治体制(福原京)を開こうとしたが計画倒れとなる。
 ○「政子」は西暦千二百十八年に命名されたものであり、それ以前の名前は不明。
 ○通称は、鎌倉幕府樹立後「御台所(みだいどころ)」、夫の死後に尼になり「尼御台(あまみだい)」、藤原氏から将軍を迎えた実権を握ったので「尼将軍」と変わる。
 ○頼朝との恋愛話や嫉妬深い悪女、高い政治手腕など数々の評価がある。

北条政子と他の女性

 北条政子は、日本の歴史(国史)で輝かしい人物です。一つには、長期政権を確立した武家の正室だからです。特に北条政子は鎌倉政権を安定化した人物として、室町時代まで高く政治手腕を評価されました。その後、単に嫉妬深い女、や、悪女という評価が江戸、昭和などに出てきます。現代では北条政子は、良い面と悪い面をもった人物としてイメージされます。今回は、当時の資料『吾妻鑑(あずまかがみ)』と『愚管抄(ぐかんしょう)』を基に、政子と他の女性たちを比較していきます。

 比較する女性は長期政権を確立した武家の正室三名です

①鎌倉幕府:源頼朝の正室:北条政子
 西暦千百五十七年~千二百二十五年 静岡県出身

②室町幕府:足利尊氏の正室:赤橋登子(あかはし とうし)
 西暦千三百六年~千三百六十五年 神奈川県(鎌倉)出身

③江戸幕府:徳川家康の正室:築山殿(駿河御前、瀬名姫、鶴姫とも)
 生年不詳~西暦千五百七十九年 静岡県出身

 驚くことに、三つの政権の正室二名は静岡県出身でした。言われてみれば・・・そうでしたという感じです。ではまず、築山殿と北条政子を比べてみましょう。共に後世、悪女と言われています。


 学者の中で一致している歴史的事実

築山殿:息子信康(のぶやす)と共に殺される。
   :家康の本拠岡崎では別居させられる。
   :家康の重臣たちと対立する。
   :政治権力に関われない。

    VS

北条政子:頼朝よりも長生きをする。
    :頼朝の本拠鎌倉で同居する。
    :頼朝の重臣たちとよく相談する。
    :政治権力を担う。

後世に出て来た通説(嘘?)

築山殿:側室おまんを裸でしまって放置した。本田重次が発見して保護した。
   :武田の家臣と不倫し内通した。
   :僧侶や踊り手、侍女の無益な殺害。

    VS

北条政子:妹の夢を買って頼朝と結ばれた。 
    :伊豆山権現に頼朝とのがれて強引に結婚した。

 もう1人、長期政権の正室となった赤橋登子(とうし)は、資料が少ないのでよくわかっていません。ただし、実は「よくわかってない」という点が重要で、登子が政治権力を持っていないかったことが判明します。

赤橋登子:夫の死に殉じて出家した(らしい)。
    :享年六十歳。
    :側室の子を虐待した冷酷な女性であったとの評価もある(通説?嘘)。

 以上から、「北条政子だけが長期政権を打ち立てた夫と同じ政治権力を握ったこと」が判ります。

北条政子の政治を表す話

 次に、北条政子が夫と同じ政治力を握っているのがよく伝わってくる話に移ります。この話には政子が、後に鎌倉幕府を永続させていく政治力の根本があると高木は考えます。

 「亀の前事件」

 「治承四(じしょう:千百八十)年、頼朝は千葉県で武士を集めつつ、本拠を鎌倉に定める。すると、北条政子は鎌倉に移った。頼朝が鎌倉に戻ると、病の床に臥(ふ)せてしまう。すると、新参の武士たちも政子の容体を心配して屋敷の集まったのであった。政子が武士たちに敬愛されていた御台所であったのが伝わってくる。病は妊娠のつわりと判る。後に長子頼家を出産する。政子の前に頼朝と結婚し子を儲けていた伊東祐親(すけちか)の娘があった。伊東祐親は娘を無理やり離婚させ、子供を松川に沈めて殺してしまった。その伊東祐親に恩赦を与えたが、自殺してしまう。彼は平家方としての意地を通した。また、政子と頼家のために、頼朝は鶴岡八幡宮の参詣道をまっすぐ通す工事などを行った。
 お産が近付いたので、別宅に移った。取り仕切るのは梶原景時であり、お産は武家政権の重要な公的政務だった。ちなみに梶原景時は頼朝の死後、政争に敗れて静岡市まで逃走して自害した(梶原山に名前が残る)。長女に続き頼家の妊娠で、夫頼朝は周りの女性にラブレターを送り、また、他の女性たちと「密通」をした。と鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』が記している。実際にはどれほど女性と遊んだかは判らない。
 政子の出産は八月十一日であったが、この時、屋敷のまわりに御家人が集まり、献上品があった。乳母なども定まった。政子は頼朝の側室「亀の前」を知り、彼女の住まう伏見広綱の屋敷を「破却(破壊)」させた。翌々日訪れた頼朝は、破却を実行した御家人・牧宗近の髻(もとどり:ちょんまげを束ねた部分)を切りった。頼朝は、

 「御台所を大切にするのは重要だが、このようなことは、どうして私に相談しなかったのか。」

 と言った。牧一族は、その後鎌倉を去り、伊豆に引き上げた。亀の前は元々の近くの屋敷に戻ってきて、頼朝はまた通うようになった。その後、頼朝は伏見広綱を静岡県の遠州に流す罰を与えて事件を終わらせた。」

 以上が、「亀の前事件」です。これまで、以下のように解釈されてきました。

「亀の前事件」の三つの解釈

 従来の解釈
 ㋑北条政子の嫉妬深い話=女性の嫉妬は悪である=政子は悪である=築山殿と同じ

 田端泰子氏の解釈
 ㋺北条政子の処分権の話=政子が頼朝と同じ処分権を持っている

 「もし、嫉妬ならば亀の前自身を処分したはずである。また、頼朝が『御台所を大切にするのは重要だが』というのは北条政子の処分権=頼朝と同じ権力を持っていることを認めている」とします。
 ただし、田端氏はまとめとして「この事件は政子が頼朝の多情さに対して憤(いきどお)りを爆発させ、さまざまな点で反省を求めようとする実力行使に出たと見るのが、本質を突いているように思う。(『幕府を背負った尼御台 北条政子』二十八頁)」としています。従来の解釈も「憤りを爆発させ」と引き継いでいます。

 高木健治郎の解釈
 ㋩北条政子の政治力の話=政子が持つ政治力が鎌倉政権を支えている

 何冊か本を読むことで私なりの解釈が立ちました。
 注目すべきは、側室亀の前が戻ってきた時、別人の屋敷を「破却」させていない点です。つまり、頼朝は二、三カ月我慢しただけだったのです。政子が嫉妬の、あるいは子供を守るという感情にとらわれるだけの女性ならば、別人の屋敷を「破却」させたでしょう。あるいは頼朝に嫌味を言い連ねて仲が悪くなり、築山殿のように別居させられてしまったことでしょう。しかし、そうはなりませんでした。つまり、政子は個人の感情から「破却」させたのではないと解釈できるのです。

 では、政子が「破却」させた理由とは何でしょうか?

 それは正室と側室の上下関係を明確につけることでしょう。武家政権にとって最も危険なことは、古今東西変わりません。それは後継者同士の争いによって武家政権が内乱になり、崩壊することです。それは、後継者同士争い=当主の子供たちの上下関係がついていないことによって生じるのです。鎌倉時代は江戸時代のように長子相続が確立していませんし、古代は末子(ばっし)相続でした。正室と側室の上下関係も明確ではありませんでした。同時代の藤原氏、平氏も同様でした。政子が意図したのは、側室である「亀の前」と正室である政子の上下を関係付けることなのです。頼朝の寵愛がいくら「亀の前」にあろうとも、政治権力としての上位の位置は政子にある、という決定打を「破却」によって示したのです。
 そのためには、頼朝の御家人である牧宗近によって行われなければなりません。もし、政子の家来によって行われれば、それは政子の単なる嫉妬に基づく私的制裁に過ぎなくなってしまうのです。同じ行為が公人によって行われるか、私人によって行われるかの決定的な違いについて、政子は熟知していたのです。現代で言えば、お隣のお家が汚いから、と言って壊してしまえば、財産権を侵害したとして警察に逮捕されてしまいます。それは私的制裁だからです。けれども、市役所立会いの下で、市役所からの委託された会社が壊したのなら、公的任務であり、社会から認められます。この違いを認識し、「破却」を行った政子は優れた政治力を持っていた、と解釈できるのです。

 同時に、頼朝も政治力の根源が、この上下関係による命令から生まれることを理解していたのでしょう。

 「御台所を大切にするのは重要だが、」

 と最初に言います。けれども、男女の愛に狂ってしまったのでしょう頼朝は、気持が治まらず、

 「このようなことは、どうして私に相談しなかったのか。」

 と政治力に欠けた発言をします。つまり、嫉妬に狂って取り乱しているのが政子ではなく頼朝の方なのです。それゆえ、重要な御家人である牧一族が離反してしまいます。この点で頼朝は政子よりも政治力が低いのです。

 つまり、高木は「亀の前事件」とは、

 「①政子の嫉妬深い話」ではなく「③政子の政治力」を表す事件であると考えます。
 この事件によらず、その政治力は主人である源頼朝をも超えていたのではないか、とさえ思える話がもう一つ、隠れていました。それは頼朝の集めて来た新参の御家人の心を直ぐにつかんでしまったことです。築山殿は重臣達の支持をえられず、また家康の生みの母親とも対立し、息子の嫁とも仲違いをしてしまいます。このように比較して観ますと、北条政子のカリスマ性が浮かび上がります。

正室と側室の上下が武家政権永続にとって重要な実例 豊臣秀吉

 政子の正室と側室の上下をきっちりとつけることが武家政権の永続に必要不可欠である例を挙げます。豊臣秀吉です。秀吉は織田信長の武家政権を受け継ぎ全国を統一して、形式上は貴族(太閤:たいこう)として全国を取りまとめました。彼のカリスマ性、外交力、内政力等々はここで述べるまでもありません。けれども、正室と側室の順序をつけることで大失敗し、結果、豊臣氏は政権を徳川氏に奪われてしまいました。

 正室:高台院(こうだいいん):別名 北政所(きたのまんどころ)、おね、ねね、ねい 
  VS
 側室 :淀(よど)の方:別名 浅井茶々(あさいちゃちゃ)、淀殿(よどどの 後世)

 正室北政所は、北条政子と三点が同じで、似ています。低い武士の生まれで、親の反対を押し切って恋愛結婚しています。また、政子と同じく、政治力があり豊臣政権の朝廷との交渉を一手に引き受け、人質として集められた諸大名の妻子を監視する、名古屋から大坂への通行の管理などの行政権も行使しました。また、小田原征伐の際の留守居役として政子が鎌倉を守ったのと同じ役目を果たしています。
 しかしながら、正室北政所は、嫡子である豊臣秀頼(大坂夏の陣で自刃)を手元で育成していません。秀吉は子育ては淀の方、政治は北政所と役割分担とし、二者の上下関係を明確にしなかったのです。秀吉の死後、豊臣政権の混乱の原因となり、崩壊に至ります。
 一般社会では「平等」や「対等」は理想とされますが、権力維持において現実の「平等」や「対等」は混乱の元になりやすいのです。では、豊臣政権が事実上崩壊した関ヶ原の陣の陣容を見てみましょう。

 豊臣政権の正室北政所派 :福島正則、黒田長政、小早川秀秋、池田輝政など。

 豊臣政権の側室淀の方派 :石田光成、毛利輝元、宇喜多秀家など。

 関ヶ原の戦いを決定づけたのは小早川秀秋ですが、彼は北政所を実母のように慕っていました。また、北政所は徳川家康と大変仲が良く、「家康を頼るように」と言われていました。ですから、関ヶ原の戦いは、いわゆる石田光成と家康との戦いではなく、実際には豊臣政権の北政所派と淀の方派の混乱が、言いかえれば豊臣政権の家臣はどちらに従うかの一本化がなされていなかったのが真の戦争の原因なのです。小早川秀秋は最後まで迷いますが、それは秀秋自身の優柔不断さではなく、「北政所と秀頼のどちらが豊臣政権なのか?」という問いなのです。これは秀秋以外の武将、福島、池田なども迷っています。豊臣政権が上下関係をつけていない混乱をうまく利用したのが徳川家康だったのです。関ヶ原の戦いはどちらが勝っても、豊臣政権の影響力が低下する戦いでした。
 実戦を見てみましょう。関ヶ原の戦いで、徳川家康の直属の部下たちは一切戦っておらず、豊臣政権の家臣の福島正則、黒田長政、小早川秀秋と同じく家臣の石田光成や宇喜多秀家などが激突して戦っているのです。
 正室と側室の上下関係を明確にしなかったことで、関ヶ原の戦いが生まれてしまい、どちらが勝っても豊臣政権崩壊に向かう道となりました。

北条政子の偉大さ

 源頼朝の血統は北条政子の生きている時代に絶えてしまいます。けれども、武家政権は永続しました。豊臣秀吉が執着した血統は秀頼につながりましたが、豊臣政権は途絶えてしまいます。これらは北条政子の政治力の大きさを示しています。このように歴史を高い視点から眺めてみると、「亀の前事件」は単に北条政子の嫉妬話ではなく、平和な国を作るために上下関係を明確にしなければならない、という政子の決意が伝わってくる話と読むことができます。
 
 さらに、合議制を制度化するなどによって北条政子が永続させた鎌倉政権は、元寇を見事に防ぎました。また、徳川家康が江戸に開府する際にも、明治天皇が江戸の皇居に行幸される際にも、大いに参考とされたのです。北条政子が鎌倉政権で政治権力と首都の分離を成し遂げなければ、現在の日本の形ができていないのです。世界の諸外国において、首都と政治権力が分離しているということを成し遂げた国は殆どないのです。この意味において、日本の歴史(国史)に与えた影響の大きさは計り知れないものがあります。また、女性という枠をつけるのがおこがましい程に、偉大な人物であると考えるに至りました。


引用書
 『幕府を背負った尼御台 北条政子』 田端泰子著 人文書院 二千三年 初版一刷
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