講演原稿「 石田梅岩の思い出話 」

 講演原稿です。

 平成28年7月2日(土曜日)午後、30分ほど、ミニ講演をする機会がありました。4回目になります。石田梅岩先生を少し勉強しており、梅岩先生の実際の行いが素晴らしいので、まとめてみました。梅岩先生の思い出話(実際の行い)を私が読み上げた後に、皆さまからご意見、ご感想、ご検討やご質問を頂いて、話し合いました。貴重なご意見を頂き、石田梅岩先生への理解が一層深まったと想います。また、お話が盛り上がりまして、実際には最初の2つのお話、「○御自身の生き方のお話:中年時代3」、「○御自身の日常生活のお話、老年期の話1」を取り上げる形になりました。

 お読みいただく皆さまも、少し足を止めまして、思い出話を味わっていただけたら幸いです。




平成28年7月2日(第4回)
石田梅岩の思い出話
発表者 高木健治郎
 
 今回から石田梅岩先生の話となりますが、最初に思い出話を致します。と言いますのも、梅岩先生のお話は、とても判り易く、具体例を皆で話し合う形式だったからです。それに倣(なら)い、まず、梅岩先生ご自身の思い出話を取り上げたいと思います。皆さまのお考えをお聞かせ下さい。

1.石田梅岩先生とは

 石田梅岩:貞享(じょうきょう)二年誕生、延享(えんきょう)元年没す。西暦1685年~1744年です。
     五代将軍綱吉のバブルの元禄時代からデフレの享保(きょうほう)時代を生きる。
      京都府西側、亀岡市南部の山間地出身。林業農業の家に生まれ、分家、次男。
      現在の9歳で小さな商家に丁稚(でっち)奉公、14歳で郷里に帰り、再び23歳で豪商に奉公し42歳奉公停止、その頃、初講義、60歳死去。

○ 唯一、説いた徳目は「孝」です。
○ 「明治維新の時、なぜ日本が近代化できたか?」の理由として欧米人が梅岩先生を挙げている。
○ 「どの宗教でもいいよ。心が美しくなれば」と言い切ったのが素晴らしい。(渡部昇一先生談)


2.梅岩先生の思い出話

○8歳の頃のお話:子供時代1 (梅岩先生を梅岩さんとします)

現在の8歳の頃、梅岩さんは、山へ遊びにいきました。すると、隣の山と、自分の家の山の間に栗が落ちていました。梅岩さんは、5,6個拾って、お昼ご飯に出しました。父親に「この栗を山で拾ってきました」と何気なく言いました。すると、父の権右兵衛(ごんうべい)は、「栗はどこに落ちていたのだい?」と尋ねました。梅岩さんは、「隣の山と、うちの山のちょうど境に落ちていました」と答えたのです。父は、「うちの山の栗が生えている場所からは、境に落ちていかない。けれど、隣の家の山の栗林からは境に落ちる。その栗は、隣の家の栗である可能性が極めて高い。それなのにお前は何も考えずに拾ってきたのか!」と怒りました。そして、お昼ご飯を途中で止めさせて、「直ぐに山の境に栗を持って行きなさい」と言いました。梅岩さんは「申し訳ありませんでした。」と言って、すぐに山の境に栗を戻したのです。

 どのように想われましたか?
 


 梅岩先生の幼年期の唯一残っているお話です。そして梅岩先生の家庭環境が伝わってくるお話です。また、天才や偉人の話にありがちな、「小さい頃から優れていました」という話ではないことが心に残りました。梅岩先生は有名になった後も、小さい頃を美化しなかったのでしょう。

○9歳から14歳の丁稚奉公の頃のお話 子供時代2

 梅岩さんは次男でした。当時の次男の習慣通りに父親の友人の勧めで、京都の商家に丁稚奉公に出かけました。分家は十石からという決まり、農村では勝手に商売はできない決まり等がありました。当時の習慣では、奉公先から、盆暮れに着物や沢山のお土産を持たせて里帰りをさせていました。それが半年の給料だったのです。しかし、梅岩さんは何も持たされずに父母の元へ帰ってきていました。父母や友人に不平不満をこぼすことはなかったのですが、母親が近所の手前、「どうして新しい着物をもらえないの?」と問いました。梅岩先生は、むにゃむにゃと言ってはっきりと答えませんでした。そして里帰りが終わり、丁稚先に仕事へと向かったのです。
その後、父の友人が訪ねてきた時に、梅岩さんの話が出ると、父の友人はびっくりして、驚きました。そして友人は父親に大変深くお詫びをしたと言います。そして友人は「そういう仕事先は直ぐに辞めて、もっと裕福な商家で仕事をするように」と勧めたのです。父親は友人のことばを聴いて、「それなら、家の帰ってきて手伝いをするのがいいだろう」と言ったのです。
 家に帰ってきた梅岩さんは、9歳で家を出た時に着ていた、垢まみれで汚れた着物で帰ってきました。母親はその姿をみて「かわいそうに」と思わずもらしてしまいました。そして「どうして、そんなに不自由でひどい所なのに、何も言わないで我慢していたんだい?」と聞きました。すると、梅岩さんは、「丁稚奉公に出る時に、『(実の父母から)くれぐれも、商家の主人夫婦を、お前の父母と思って一生懸命がんばりなさい』と言われたので、守ったのです。実の父母と想えば、不満があっても他人に訴えることは善くないことだと思いました。」と答えたのです。

如何でしょうか。



 梅岩さんの父親が梅岩さんを家に戻したこと、終始梅岩さんに何も言わなかったことに、感じ入るものがありました。

○豊かな時代の着物のお話:青年時代1

 23歳から再び奉公に出ましたが、裕福な商家でしたし、丁度バブルのような豊かな時代となっていました。重役(番頭)に出世していた梅岩さんは、ご主人のお母様に聞かれました。「お前は、番頭さんなのに、どうしてみすぼらしい縮緬(ちりめん)の羽織(上着)を着ているんだい? みんなは上等な絹の羽織を着ているというのに」と。すると梅岩さんは、「それについては気が付いているのですが、私には1枚しか上着が無いのです。買い替えると余分にお金もかかりますから、申し訳ないのですが、そのままで来てしまいました。」と答えたのです。ご主人のお母様は、「それなら、そのみずぼらしい羽織も、上等な絹の羽織と同じですね」と認めて下さったのです。

○豊かな時代の生き方のお話:青年時代2

 同じバブル時代でした。梅岩さんは、ゴミ箱に紙ごみは入っているのを見ると、黒ずんだりゴミのように汚れたりしていても紙ごみを取り出し、紙のリサイクル箱にいれました。
また、当時は野原などで大小便をするのも当たり前でした。しかし、梅岩さんは30年間、なるべく厠(かわや:トイレ)で用を足すようにしました。外出して厠がない場合は、田畠の中で用を足したのです。というのも、大小便を肥料にしたいと思っていたからです。梅岩さんはリサイクル箱に入れるのはお金を稼ぐためではなく、「利用できるものが捨てられることを何とも思わない心を身につけたくないから」と言っています。「身分相応の倹約です。」という言い方もしています。ちなみに、自分の才覚でお金を節約して大金持ちになろう、というのは井原西鶴です。




○ご自身の先生と対話のお話:中年時代1

 梅岩さんは35歳ごろ、初めて自分の先生に出逢います。小栗了雲(おぐりりょううん)先生です。了雲先生は気難(きむずか)しい面もありましたが、いよいよ死が近づいた時、御自身で註(ちゅう)を加えた全ての本を「梅岩に譲る」と言われました。しかしながら、梅岩さんは「辞退いたします。」と答えました。了雲先生が驚いて、「なぜか?」と問うと、「私は何か疑問に思うことや、大変なことに出会ったら、その都度、勉強を致します」と答えたのです。その答えに了雲先生は、にっこりとほほ笑まれました。

 


○講演でのお話:中年時代2

 梅岩先生が、講席(こうせき:講演)を42,3歳の頃、始められました。家の前に

「○月○日開講です。入場無料、紹介は必要ありません。誰でも自由にお聴きになれます。どうぞ御遠慮なくお聴きください。」

 と紙に書いて張り出しました。しかし、梅岩さんは誰かに学問を習った訳でもなく、支援してくれる人も全くいませんでした。初日は誰も来ませんでした。二日目は本を置く台に向かって話をしました。三日目になって、外からこっそりと覗いている、肥溜(こえだめ:大小便入れ)を棒で担いでいるお百姓さんを見つけたのです。梅岩さんは、強引に中に入れて講演をしました。その後も、聴く人は少ないままでした。そんな中、門人(もんじん:弟子)が一人しかいない時がありました。その門人が「今日は私しかいませんから、休講にしませんか?」と言うと、「いやいや、今日は本を置く台を相手に話をするつもりだったのです。だから、あなたが一人でも聴いてくれるのなら、嬉しくてしょうがない。」と答えて、講演を始められたそうです。

○御自身の生き方のお話:中年時代3
(お話は晩年のお話ですが、お心掛けは中年期なのでそのようしました。)

 梅岩先生は、二冊の本を出され有名になりました。すると、梅岩先生の生きざまを直接見ていない人々、例えば熊本県などの人々が訪ねてくるまでになったのです。その一人、行藤(ゆきふじ、ゆきとう)さまは梅岩先生に問いに来ました。

行藤さま「梅岩先生が妻を迎えることがないのは何故でしょうか?」
梅岩先生「私は道を広めようとしています。妻子に心ひかれて不十分になるのを恐れたのです。」
行藤さま「妻子と共にあるのは確かに大変ですが、その大変さを引き受けてこそ道なのではないですか?」
    「先生は正しい道を説きながら、御自身では道に反する人生なのではないでしょうか」
梅岩先生「妻子と共に正しい道を行えるのは、孔子の最高の弟子である
顔回(がんかい:顔淵[がんえん]とも言う)くらい優れた人でしょう。私にはとてもとても・・・」
    「また、私には兄がいて、甥もいます。ですから、先祖のお祭りを絶やすことはありません。」
    「加えて言えば、道を広めることに加えて、子孫に祭ってもらうのを願うのは贅沢なことだと思うのです。」

行藤さまは感服されたそうです。




○御自身の日常生活のお話、老年期の話1

 梅岩先生は、終生独身でおられたので、薪(たきぎ)を割り、水をくむ下男を1人召しておりました。というのも、晩年になって足腰が弱くなっても、ただお一人で全ての家事をなされていたからです。弟子達が気の毒に思い、お世話をしました。しかし、この伝助、ふらりと外へ遊びに行く癖があり、留守番さえ十分にできません。梅岩先生は不満をこぼされませんでしたが、弟子たちは気がついて、もう少し真面目な下男をお勧めしました。次の下男は、人柄は柔和でしたが、少し知能が弱く、ひとりで帯を結ぶことができませんでした。梅岩先生は毎朝、下男の帯を結んでやりました。冬になると足には沢山の皸(あかぎれ)が切れました。梅岩先生は心を痛めて、薬(や薬の代わりに飯)などを塗ってやりました。下男として召したのに、返って梅岩先生の手をわずらわせたと弟子たちは暇を出しました(辞めさせました)。その後は、梅岩先生の希望通りに、下男を召すことはなかったということです。




 付記:梅岩先生の日常生活は質素すぎる程で、弟子たちがあれこれと気を使ったそうです。現在残っている手紙の多くは、弟子たちからの食べ物や贈り物に対するお礼状だそうです。

○貧しい人に対してのお話:老年期の話2

 56歳の頃、お住まいの京都は不作になり、米の値段が高騰しました。貧しい人々の中に飢え死にする人々も出てきました。その様子を見聞きして、梅岩先生はお米やお金を集められ、12月28日から毎日場所を変えながら、食べものを与えだしました。年が明けてから、梅岩先生たちを見習って、食べ物を与える人々が出てきました。梅岩先生の死後、弟子たちが飢饉のたびに、お粥などを与え続けたのです。その後京都では、被災者を救済する「民間救恤(きゅうじゅつ)事業」が根付いていきました。また、京都で大火事が出た時も、罹災者のために急いで、おにぎりを先生ご自身で握って与えられたそうです。

○普段の何気ない暮らしぶりのお話

 梅岩先生は、普段の生活をとても大事にしておられました。以下のようなことを言われていました。

イ)外出や旅行では行き先を教えておけば家族が安心する、から仁(じん)です。さらに帰り道も伝えておけば、何か心配ごとがあった時に迎えに行く人と行き違えない、から仁です。仁は大変難しいので、普段から心がけて何気ない行動を大切にしましょう。

ロ)傘には印をつけておくのもよいですが、きちんと名前を書く方がよいのです。名前なら100人中100人が判ります。けれど、印やマークでは100人中90人は判らないでしょう。誰のだろう?と発見した人の心を煩(わずら)わせて(使わせて)しまうのは、仁ではないのです。

ハ)街中で道を歩くには、誰でも日陰を歩きたいものです。だから、夏に私は、人の歩きたがらない日向(ひなた)を歩くようにしています。同じく、冬に日陰を歩くようにしています。

 なかなか堅苦しい、窮屈なお話です。しかし、梅岩先生は、40歳を過ぎる頃に、あまり気にならなくなったそうです。



 如何でしたでしょうか。以上が、石田梅岩先生の思い出話です。
 次回は梅岩先生と門人たちが実際に話し合われた内容を取り上げたいと思っております。

(最終校正 平成28年7月20日)



同内容を学生向けに問いをつけた文章を、若干の誤字脱字などを修正して、後日再掲載します。(付記:平成28年7月20日)
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