エッセイ「【随筆】哲学とーちゃんの子育て 六  」



 「富士山こどもの国」(富士市桑崎)から帰りの自動車の中で聞いてみた。

 「とっく~ん。」

 「なに?」

 「とっくんは何が一番楽しかった? 雪の丘のそり遊び? らーめん食べたこと? 小さな体育館でサッカーやバスケしたこと? 壁のでこぼこで横に動いたこと? 雨の中で走ったこと?」

 「うーんとね、ゆき合戦かな。」

 「そっか~よかった~。」

 「じゃあ、まなちゃんは何が一番楽しかった?」

 「うーん、ぜんぶー!!」

 「そっか~よかった~。」

 平成二十八年二月二十九日、四年に一度しかない二月二十九日に息子「説治郎(とくじろう)五歳六カ月」と娘「まない三歳八カ月」とこどもの国に行ってきた。月曜日、午後から雨の予報であったが、年度末の成績付けなどひと段落したのと、「雪遊び」の約束があったからである。
 夜寝る前の「おやすみ、また、プール行こうね」が「おやすみ、また、こどもの国いこうね」に替わる程楽しかったようだ。
 午前九時開場だったが、車は四台しか停まっておらず人影は見えない。本当に開いているだろうか、と恐る恐る入口に近づいた。受付にチケット売りのおばちゃんが一人だけいて安心した。午後から大雨というのと寒波が来ていたお陰で、雪の丘のそり滑りは三組しかいなかった。雨が降り出した十時半には八組になった。寒い小雨の降る中、こどもの国は霧に包まれた。美しい幻想的な風景であった。

 「とっくん、このもやもやした白いのは何だかわかる?」

 「もやもや、って何?」

 「そうだね、たき火をしたときに出る白い煙みたいのがいっぱい出ている感じだよ、わかる?」

 「うん。」

 「じゃあ、このもやもやした白いのは何だかわかる?」

 「・・・わかんない。」

 「そっか、きりっていうんだよ。」

 「きり。」

 「きりってきれいだね~。」

 「そうだね、きれいだね。」

 その後、雨が降って霧がはれて、

 「とっくん、きりはれたよ。すごいね。すぐに無くなるね。」

 「そうだね、なくなるね。」

 雨の日は雨の楽しみがあり、美しさがある。子供と一緒に楽しんだ。
 帰りの車の中で、とっくんとまなちゃんは五分も経たずに寝てしまった。

家族五人で
 その週末、かみさんにも楽しい雪遊びを体験させたいと思って、おとは(一歳八カ月)と共に再び富士山こどもの国に行った。前回と同じく午後から雨の予報、九時到着でも、四十三台も停まっていた。雪の丘では既に六組以上がおり、十時半には二十組近くになっていた。かみさんとは一緒に乗らなかったがそり遊びを一緒に楽しんだ。その後、美味しかったらーめんを食べ、巨大な網の上で遊べるクモの巣のような遊具で、レンガなどの迷路で、小さな体育館でサッカーやバスケット、ブロックをして遊んだ。とても楽しい時間を過ごした。

こどもの国にした訳
 こどもの国にしたのは思いつきではなく訳がある。当たり前のようだが、息子と娘に遊びに行きたい処を何回も聞いたら「雪で遊びたい」が多かったからである。幼児のみならず人間は思いつきで、ポンポン、としたいことを口に出す。それは悪いことではないが、その通りにしていると大分不都合が生まれる。子育てなら、我儘(わがまま)な子供になってしまい、将来、親を殴るような子供になってしまうだろう。
 だから、親がこどものポンポンという思いつきを取捨選択してあげる。だから何度も聞いた結果で判断する。
 同時に、他の要素も勘案して取捨選択をする。「プールに行きたい」という思いつきも何回も聞いた。けれども、現在の静岡市のプールは二箇所が改修中で、晩春や初夏でも楽しめる。もう少し時期をずらしても良い。しかし、雪遊びは三月中旬までで一カ月程しか時間がなかった。
 また、清水港からフェリーに乗って富士山を眺めて温泉に入るという計画もあったが、二日間とも雨の予報であった。当然、富士山は見えにくいであろう。こうしたことを子供は思いつきにくい。だからこそ、子供にきちんと説明して身につけてもらおうとした。

 「とーちゃん、お船にのって富士山がみたい。」

 「そっか~とっくん、フェリーで富士山を見るのは無理だよ。」

 「え?(本当に驚いた顔)」

 「だって雨でしょう。だから見えないよね。」

 「ああ、そっか。」

 子育てで気をつけているのは、「大人なら当然判ることは子供に判る」という思い込みである。

 「みんなの前で騒ぐと恥ずかしい。」
 「行儀よく食べるのは当たり前。」
 「人がいるところで迷惑をかけない。」

 は、子供には判らない。判ってもすぐ忘れるし、判っても行動できない。大人でも当たり前を全て行うのは難しい。ましてや子供ならなおさらである。だから、こどもの国にした訳を子供に説明した。

『孟子』のことば
 今回のことについて孟子(約二千三百年前)は以下のように述べている。

 「養(やしな)うというばかりで、愛をもたなければ、豚を飼うのとかわりはない。
 愛するというばかりで、良心をもたなければ、犬を飼うのとかわりはない。」

 食事を与え立派な服を着せても、理由を説明しなければ、本当は豚と同じ扱いをしているのだ、と孟子は言っています。礼儀作法を教えても、子供の成長を願って、善悪の判断をもたなければ、犬の躾(しつけ)と同じだ、と孟子は言っています。私の子育てはどうだろうか、と反省しました。孟子は反省を求めるだけではありません。

 「いかなる愛の表現も、愛情の自然の発露(はつろ)が、内から深く人のこころを揺り動かすにまさるものはない。」

 先ほどの子育て論の出発点として「愛情が自然に出てくることを大切にしなさい」と言っています。あれこれと悩むのも大切ですが、まずは心の奥底から子供を愛すること、そしてそれを自然に子供に伝えることを教えてくれます。
 子育てをしていると時々疲れます。それは、

 「子供の楽しみのためだけに、親は苦労をしている。親は疲れる。」

 という想いに身を包まれるからです。私はテレビを見たい。私はゲームをしたい。私はどこどこへ行きたい。けれど、子供のために我慢する。我慢してやっている、という想いです。
 富士山こどもの国に行くのが「子供が行きたいから」だけだとを考えるのです。孟子は、

 「富士山こどもの国にいって、あなたも本心から楽しみなさい。楽しんで楽しんで、その想いを自然に子供に伝えなさい。それがまた、あなた自身のこころを揺り動かしますよ。」

 と言っているのです。

 「きりってきれいだね~。」

 と想った時、「子供はきれいと思うかな?」や「子供のために言わないでおこうかな」も大切だけれど、自然に伝えることも大切なのですよ、という意味でしょう。孟子はさらに言います。

 「心のよろこびにならない努力は、かえって生命を畏縮(いしゅく)させる。」

 子育てをして親が喜んでいないと、かえって子供の成長を畏縮させるのですよ、と言うのです。親の喜ぶ姿を誰よりも楽しんでくれるのは、伴侶とともに子供なのを忘れてはならないのです。子供とは本当にありがたい存在なのだと実感します。親が子供を育てるのですが、子供も親を安心させてくれながら育ててくれるものなのです。当たり前ですが子供にもきちんと心があり、判断力があるのです。周りを見る目や取捨選択の経験が足りないだけなのです。この点について、孟子は面白い例え話をしています。

 「ある男が、苗(なえ)の育ちの遅いのを気にやんで、ひとつひとつをひっぱって歩いた。そして帰宅して家族に言った。
 『今日ほどくたびれたことはない。なにしろ苗をすっかり伸ばしてきたんだから……』
 子供がかけつけてみると、苗はすでに枯れてしまっていた。」

 苗は、種をまいて出てきた稲の子供の状態です。
 子供が伸びない、成長しない、出来ない出来ないと言って、無理やり押し付けると枯れてしまう、と言うのです。稲の種が発育する力をその中に備えているように、子供も大人になる力をそのうちに秘めています。
 その力を無理やりひっぱらずに、何とか育てたいのです。色々と思い悩んで、会話を通して子供に聞く。聞いた結果を積み重ね、周りを見る目を教えていきたいです。
 もちろん、この方法を何時でも、どの子供でも大丈夫と過信しないようにしながらです。そして最も大切な、「愛情を自然に子供に伝えること」を出発点にしたいと思っています。
 今後も、かみさんと子供達と一緒に話しながら生活していきたいです。

 引用文は、五十沢二郎著『中国聖賢のことば』を参考にしました。
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