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エッセイ「 【學問】五十沢二郎著『中国聖賢のことば』の新しい読み方 」


 白木蓮の穏やかさが日差しに溶け込んでいる。春分、満開の桜が心躍るように待ち遠しい。
 前号で伊與田覺先生訳、吉田堅抗先生訳と共に五十沢二郎先生訳を比較した。三者の訳を通して、全て書ききった、という感覚がなかった。どろどろ、とした塊が残った。今号では『中国聖賢のことば』を読み返し、「これだ!」という感覚を持った。書きまとめておきたい。それは従来の解釈と異なるようである。

五十沢二郎先生訳文の従来の解釈
 五十沢先生は、大東亜戦争の敗戦のどさくさの中、四十五歳で自殺しておられます。依頼を受けて幾つかの出版にあたった佐藤春夫氏は『中国聖賢のことば』のまえがきで、五十沢先生と商売上の付き合いだけで、親しく交友しなかったことを振り返っている。同時に「顔面蒼白(そうはく)で神経質げのいわゆる精神家型の清潔な感じを他に与える一介の青年」と外見を評している。学問については「公田連太郎翁(おう)の門に出入りして教えを請うている」と記している。さらに、五十沢先生の訳文について、高い評価が与えられていることを伝えている。
 同著のあとがきで伊澤巨萬夫氏は、高村光太郎氏、斎藤茂吉氏などの高尚な評価を伝えている。また御自身の評を、

 「この書は読んで楽しい本である。…(中略)… それは我々をがんじがらめに呪縛(じゅばく)している訓詁(くんこ:古い言葉の字の意義を解釈すること)の法則を全く超越して、羨(うらや)ましいほど自由無碍(むげ)な立場で論語を読んでいるからである。時にはこの方が本当の論語の読み方ではないかと感心させられることがある。」

 と書き残している。私達の時代に合うように、学問の細かい点に捉われないで文学として訳すのが五十沢二郎先生の訳である、という解釈である。これは五十沢先生自身の訳者注からも読み取れる。同著百二十頁 『孟子』

 「ある者は、最後の一人をも洩(も)らさないような世界をつくるために働く。また、ある者は、最後の一人の力も世界のために役立つように努める。前者は、世界の意志を実現するものであり、後者は人類の意志を実現するものであるといえる。 〈梁恵王下〉

 〈付・著者新注〉 もと「隣国と交わるに道あるや」という問に答えたことば。したがって「大」と「小」とは、大国と小国でなければならない。ここでは故意にそれを忘れて、むしろ文字通りの意味に訳出したのである。」

 伊澤氏のあとがきでは、同じ意味の引用文として別の箇所をあげている。このように五十沢二郎先生訳は、訓詁学のがんじがらめに捉われない、という面を評価しながらも、他方では、ややもすると自由すぎる、という評価を呼びそうな解釈である。しかし、それは五十沢先生の意図をくみ取っているのであろうか。

五十沢二郎先生訳文への新解釈
 確かに五十沢先生の訳文は、「仁」を「愛」に置き換えるなどの特徴がある。しかし、前号で指摘したように孔子自身が弟子ごとに、「仁」と言い、「一」と言い、「仁と知と勇」と言い、「礼楽(れいがく)」と言っている。孔子の真意をくみ取れば、訳語の自由な選択は許されている。孔子自身が対機説法を用いているので、弟子ごとに自由な選択で言葉を換えているからである。それゆえに、「自由すぎる」との評価を下せない。むしろ、訓詁の呪縛は孔子の言葉に反する可能性がある。
 これまで私は五十沢先生訳について「仏教よりである」としてきたが、今回はさらに一つの解釈を加えたい。

 「訳文全体を通して孔子の思想の全体を再構築している。」

 である。つまり、五十沢先生の訳文の抜き出しには、全文を通して筋道が込められており、その点に訳文の最も大きな価値がある、という解釈である。従来の解釈では、五十沢先生の訳文の一文一文に着目して、その訳し方が、「高尚」、「自由無碍」、「文学」などと評していた。これに対して、全訳文の全体の構造に注目するのである。

 私は『中国聖賢のことば』の「愛と知について‐『論語』‐」を通読して、全体が一体であり、かつ平易な前提から始め、終盤に真へと迫っていくと読み解いた。
 まず、全体の構成に着目する。五十沢先生訳は、訳文が『論語』の本文の順番を無視し、本文を途中で抜き出したものを、羅列してある。一見するとそこに何の意志も込められていないかのようである。しかし、五十沢先生の真意が込められていると解したのである。単に字の意味に拘(こだわ)る訓詁からの飛躍ではなく、孔子が実際に話していたであろう「ことば」に迫ろうとしたと考える。
 根拠は以下の通りである。まず、『論語』が孔子自身のことばではない点が挙げられる。孔子自身のことばでは繋がっていたであろう全体像が門人の中で切り刻まれて再構成されたのが『論語』なのである。
 次に、五十沢先生の記述から。「愛と知について‐『論語』‐」の書き出し冒頭にて、

 「『論語』は孔子(前五五二~前四四七)の言行をその死後、門人の門人が論撰(ろんせん:議論を経て選び出すこと)編集したものです。」

 と書いてある。わざわざ、冒頭に記述する点に五十沢先生の意図が読み取れる。つまり、門人の門人の残した『論語』を、五十沢先生は孔子自身の分かりやすい「ことば」通りに戻したかったのだと推測できる。
 順番を元に戻すという意図を本文引用から確かめたい。現代文だけを抜き出す。前後の意味が通じるかどうかに着目して欲しい。同著二十四から二十九頁である。

①「心の高い人は、ひとに歓(よろこ)びをわかつことは好むけれど、自己をうらない。
 心の卑(いや)しい人は、たやすく自己を売るくせに、ひとに歓びをわかつことは知らない。」

②「罪悪は、いつも、人の私情に基因(きいん)する。」

③「楽しみにも、自己を奪われないことだ。
 哀しみにも、自己を失わないことだ。」

 高木注記:①では日常生活で分かりやすく説明している。②は①の原因を心の中に踏み込んでいる。③では心の原因を規範に置き換えている。このように①から②、③とつながっている。続ける。

④「君子だって困るときがある。しかし……小人は、困るとおのれを失う。」

⑤「真に生きる道を知りさえすれば、肉体の死ごときは、もはやなにものでもありはしない。」

⑥「真の生命愛に生きる人々は、肉体への執着(しゅうじゃく)のゆえに生命の愛を犠牲にしたりすることはない。
 むしろ、生命への愛のためには、おのれの肉体をも犠牲にして悔いないものである。」

 高木注記:④は③で述べた規範を身に付きた時の実際の行動である。③は心の規範へ、④は行動の規範へ移している。⑤は④の段階まで来た人が、感じられる感覚である。『論語』では前後の関係から、⑤の意味を読み解くことはできない。⑥は⑤の段階の感覚から実際にどのように行動するのか、という具体化である。⑤を普通の人が当たり前に持つ肉体への執着と、生命の愛を比較して分かりやすく説明している。続ける。

⑦「ある者は生に執着し、ある者はこれを嫌悪して死を求める。が、生を欲するということも、また、死を求めるということも、ともに一つの迷妄(めいもう)である。」

⑧「真理について語りながら、しかも衣食のことをわずらう者は、真理について語る資格のない者である。」

⑨「いわゆる道徳家なる者は、じつはしばしば真の道徳の敵でさえあるものである。」

⑩「外面(うわべ)を巧みにつくる者ほど、良心的には無恥(むち)なものである。」

 高木注記:⑦は⑥の生に死を加えてまとめて説明している。迷妄は「惑(まど)い也(なり)」であり、孔子のことばである。⑧は⑦を生活で分かりやすく説明している。⑨は⑧で人物を見分ける時の注意事項を挙げている。⑩は道徳を持った人と持たない人の見分け方のみならず、さらに広い分野で人を見分ける時の注意事項である。
 『論語』の本文で比較してみたい。

⑨は「郷原(きょうげん)は、徳の賊なり。」 〈第十七章/陽貨〉

⑩は「巧言令色(こうげんれいしょく)、鮮(すくな)し仁」 〈第一章/学而〉

 であった。一見別々で関係のない⑨と⑩を並べ、五十沢先生は、孔子自身のことばを推断して並べたのである。⑨と⑩を並べることで奥行きが出る。

 「いわゆる道徳家なる者は、じつはしばしば真の道徳の敵でさえあるものである。外面(うわべ)を巧みにつくる者ほど、良心的には無恥(むち)なものである。」

 このように並べることで現れる奥行きは、①から⑩でも感じられる。そして訳文が、一貫した意図を描きだそうという点も読み取れる。
 『論語』は門人の門人が議論して撰別した本という点に五十沢先生が着目し、孔子の「ことば」を再構成しようとしたのであろう。『中国聖賢のことば』に書かれている「自由無碍」などの解釈を踏まえつつ、全体の構造に意味がある、という新しい解釈が出来る。

『論語』を再構成する意義について
 五十沢先生について、あるいは『論語』について浅学非才(せんがくひさい:知識も才能もないもの)が、大胆な仮説を広げた。今後、研鑽を積み重ねなければならないが、五十沢先生の『論語』を再構成する意義を抜き出すのならば以下のようになる。

イ:孔子が弟子ごとにことばを換える意図に沿うこと。

ロ:孔子の真意を探ろうとする関心が喚起されること。

ハ:読者自身を通して孔子を洗練していくこと。

ニ:読者同士の再構成を通して、さらに高い学問を目指せること。

 イについては、先述した通りである。孔子がことばでは現わせない部分までも伝えようとしていた、という意義に沿う。
 ロについては、門人の門人が議論し撰編した『論語』から生み出される。『論語』の後半部分は孔子のことばではない、と主張したのは伊藤仁斎先生である。その真贋(しんがん)は置くとしても、『論語』が、イスラム教やキリスト教の聖典のように一字一句削ってはならない書物ではないから可能な解釈である。こうした『論語』の持つ広がりは読者の想像力を刺激せずにはいられない。刺激された創造力が、新たな挑戦を生み出すのである。
 小林秀雄氏は「伊藤仁斎が『論語』を最上至極宇宙第一」と讃えたこと」について、宇宙第一かどうかは別としても、その心意気が素晴らしい、と述べている。一つ一つの字の意義を知って学んで得るのではなく、全体の意味を頭の中で想い描いで得るのが重要、という心意気である。
 ハについては、五十沢先生が愛と知について‐『論語』‐」に抜き出さなかった文章に基づく。『論語』の本質に迫ろうとする過程で、どのような文章を取捨選択していくのか、という思考の訓練は、孔子の思想の深い理解を促進する。ロの続きでもある。全体の意味を頭の中で想い描いたあと、取捨選択していくか、が問われるからである。伊藤仁斎先生が『論語』の評価について、「最上至極宇宙第一」の文字を書いては消しを繰り返したことを同じである。
 ニについては、ハに基づいて孔子を深く理解した読者同士が議論して、さらに幅広さを身につけることである。伊藤仁斎先生が、『論語』を門人達と同じような立場で議論を続けたことと同じである。五十沢先生が『論語』の読者の一人であることは間違いない。いつか五十沢先生と読者同士の議論が出来ることを願いとしたい。

三者の訳文列記

 最後に実例を用いて五十沢二郎先生が並べ換えられた効用を見てみる。引用文③から⑦である。③は「八佾第三 二十章」、④は「衛靈公第十五 二章」、⑤は「里仁第四 八章」、⑥は「衛靈公第十五 九章」、⑦は「顔淵第十二 十章」。意を伝えたいため著者注を省く。訳文が意味を持ってつながっている点に注目したい。

五十沢先生訳文列記

 「楽しみにも、自己を奪われないことだ。哀しみにも、自己を失わないことだ。
 君子だって困るときがある。しかし、小人は、困るとおのれを失う。真に生きる道を知りさえすれば、肉体の死ごときは、もはやなにものでもありはしない。真の生命愛に生きる人々は、肉体への執着(しゅうじゃく)のゆえに生命の愛を犠牲にしたりすることはない。むしろ、生命への愛のためには、おのれの肉体をも犠牲にして悔いないものである。
 ある者は生に執着し、ある者はこれを嫌悪して死を求める。が、生を欲するということも、また、死を求めるということも、ともに一つの迷妄(めいもう)である。」

伊與田先生訳文列記

 「関雎(かんしょ)の詩(詩経周南の詩)は楽しみても過ぎることなく、哀しみても傷つくことがない。
 君子とてむろん困るさ。だが小人は困ったらすぐにみだれて何をするかわからないよ。朝に人としての真実の道を聞いて悟ることができれば、夕方に死んでも悔いはない。仁に志す人と成徳の人(志士仁人)は、命を惜しがって仁徳をそこなうことはなく、時には命をすてて、仁徳を成し遂げることもある。
 愛しては、いつまでも生きるように願い、憎んでは、早く死ぬように願う。さきには生きることを願いながら、また死ぬことを願う。これこそ迷というものだ。」

吉田賢抗先生訳文列記

 「関雎(かんしょ)の音楽は、いかにもうきうきとして楽しいところがあるが、さればといって、度をすごして本心をとり乱すことがない。又、悲しみ哀れみの情も流れているが、さればといって、哀切(あいせつ)極りなくて心をいためるということもなく、まことに調和を得たよい音楽だ。
 君子だってもとより困窮することがある。窮達(きゅうたつ:困窮と栄達)は天命で、何とも致し方がない。ただ小人は窮迫すると、取り乱してどんなことでもしたいほうだいになるものだ。君子は持するところがあって、そうはならない。そこが君子と小人の異なるところだ。もしも朝方に我々が当然行わなくてはならぬ人たるの道を聞くことができたら、かりにその晩に死んでもよろしい。志士・仁人というような人は、命が惜しいからとて、仁の徳を害するようなことはしない。むしろ反対に、自分の身を犠牲にしても、仁道を成し遂げるような場合がある。
 人の感情の一番甚(はなはだ)しいのは憎愛の情であるが、人を愛しては、その人がいつまでも生きんと欲し、人を憎んでは、その人の死なんことを願う。元来、人の生死は天命で、人力ではいかんとも出来ないにも拘わらず、その理をわきまえず、愛した時には生きればよいと願った人を、憎むようになると、また、死んだらよいと考えるようになる。このような心の状態を惑いというのである。この点に気がつけば、おのずから、惑いというものはどんなものか、はっきりすることができるだろう。」

 まず、伊與田先生と吉田先生の御著書を抜粋し本意に沿わない点をお詫びします。
 三人の先生の訳文を列記すると、五十沢先生の訳文が前後関係に注目して訳すのが明確になる。
 前後関係に注目して抜き出したのは、孔子の高い目標を五十沢先生ご自身が描き出そうとしたからである。それゆえ、五十沢先生は、『論語』の全体の構成から離れ、各文章のつながりから離れ、必要な箇所を抜き出したのである。訳文列記で明らかになった。 
 繰り返しとなるが、『論語』は孔子の著作ではなく、門人の門人の議論と撰別を経た著作である。五十沢先生の意図は、孔子の生きた言葉を現代に著作として蘇(よみがえ)らせることと考えられる。

五十沢二郎先生について
 最後に五十沢先生が孔子の生きた言葉を著作として蘇らせようとしたのは何故であろうか、という問いをまとめておく。
 そもそも、孔子本人の行動などは残っていても、孔子自身の言葉は殆ど『論語』でしか残っていない。また、五十沢先生の生きた昭和初期、孔子の生きた言葉を新しく蘇らせる試みとして新しい資料がない状態であった。では、なぜ、敢えて踏み込まれたのか。敢えて、というのは、「公田連太郎翁(おう)の門に出入りして教えを請うている」と『中国聖賢のことば』の冒頭にあったからである。正統な解釈を学びながら、敢えて踏み込まれたのか。毀誉褒貶(きよほうへん)相半(あいなか)ばするのは解りきっていたのである。
 そこで、思い当たるのは、当文の書き出しに挙げた

 「大東亜戦争の敗戦のどさくさの中、四十五歳で自殺しておられます。…(中略)…出版依頼を受けて出版にあたった佐藤春夫氏は「顔面蒼白(そうはく)で神経質げのいわゆる精神家型の清潔な感じを他に与える一介の青年」と外見を評している。」

 の箇所である。純真一決の熱き心情が五十沢先生の中に満ち満ちておられたのが察せられる。この純真一決が孔子の言葉を再現したい、孔子の言葉を多くの人々に伝えたい、伝えることは善いことである、という信念になったのであろう。『中国聖賢のことば』の「愛と知について‐『論語』‐」の最初に五十沢先生が

 「わが国には百済(くだら)の王仁(わに)によって伝えられて以来「宇宙第一の書」と称(たた)えらて、凡そ千七百年読み続けられています。」

 と書いている。歴史上の事実として「宇宙第一の書」と称えたのは、江戸時代の伊藤仁斎先生であり、その説を敢えて採ったのである。さらに、日本の学問の伝統の中で『論語』は単なる一つの系統でしかなかった。日本の学問の本流は『古今和歌集』の解釈であった。であるから、伊藤仁斎先生の説を採るという冒頭のことばは、五十沢先生の純真一決の表れなのである。まるで、伊藤仁斎先生が『論語』を「最上至極宇宙第一」とした心意気を受け継がれた如くである。この延長線上に、人類の不平等解消、植民地解放を謳(うた)った大東亜戦争、そしてその敗北を受けとめられた五十沢先生の心情と行動が浮かんでは消えていく。
 裏を返せば、それだけの純真さで『論語』を読みこまれたのであろう。敬服致します。
 今後も、五十沢先生、伊與田先生、吉田先生など先人の学恩を心にして、読み進めていきたい。
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