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高木の哲学的立場Ⅳ 絶対的自我の3種類の説明

 私の哲学上の立場を「高木の哲学的立場Ⅲ 基本事実と全体」に続き書きます。
 http://takagikenziro.blog.fc2.com/blog-entry-472.html

 私の哲学上の主題は「絶対的自己」です。

 3種類の説明です。


1) 分かりやすい説明

 人は自由な心があります。けれども、不自由な肉体によって心が左右されます。睡眠、疲労、究極は肉体の死です。死によって心が無くなります。心は無限でありながら、有限な条件によって縛られているのです。縛られているのがテーマです。「絶対的自我」と定義しましたが、自然科学の方法論から思いつきました。そこで私達の自我のあり様が観えてきました。


2) 簡素な説明

 私の哲学上のテーマが「絶対的自我」であることは述べてきた。科学哲学から出てきた。
「哲学の知識は1つにまとまらない。何故なら方法論が洗練されていないからである。」 自然科学の知識は、誤差や近似値などの方法論に基づき具体的事実を理論的事実に置き換え、帰納と演繹を両方あわせもち、かつ、その条件に再現性などを求める。それゆえ、当がない人文科学や社会科学と知識が異なる。同じ自然物(存在者)を対象としながら、自然科学が西暦19世紀以降に技術革命を起こせた。歴史や哲学を研究しても、携帯電話や自動車などを作り出せない所以である。
 その地点に立つと自然科学の知識の限界が観えてくる。量子力学の観測問題に類似している限界で、自然科学の知識を生み出す方法論に観測者が関わっている点である。人文科学や社会科学は人の心理的要素を排除できない。それゆえ、知識は拡散し収斂することはない。哲学では一応プラトンを唯一の哲学者としているが、プラトンの哲学に全ての哲学を包括することはできない。同時に、他の哲学でも同様である。この問題が自然科学でも起こる。知識の可知性の問題とも言える。方法論的洗練の限界で間の心理的要素が出てくる。
 この地点で問題が3つに分岐する。1つは、観測者に知識が依存する問題。これは以上述べてきた通りである。もう1つは、観測者に依存するのが限界を持つ問題。これは自然科学の方法論の洗練によってさらに深めていくことはできるが、最終的に1つの形にならない問題。哲学では客観性の問題に類似する。宇宙の全てを理解できる存在だけが想定されるが、その地点に人間が立てない、という問題である。『聖書』のいう無からの創造神、デカルトのいう世界の原理を理解しうる理性神、あるいは多数の神が持つ人格神とは異なる神の想定である。言うならば観測神であろう。自然科学の法則、つまり存在論的法則が蓋然的な扱いしかできない、と言い直せる。
最後の1点は、自然科学の方法論全体が私達の心理的要素の上に乗っている問題である。2点目から派生する問題で、私達が観測神の立場に立てないがゆえに生じうる。例えば別の宇宙人の心理的要素によって人間の知識とは異なる想定が可能になる。つまり、心理的要素によって自然科学の方法論全体が改変可能性を持つ、という意味を指す。何故ならば、自然科学の知識そのものは規約ではないが、方法論的要件、近似値の取り扱いや再現性などの基準は規約だからである。
「絶対的自我」とは以上のような認識の基づいた概念である。私達の知識の限界が、私達を人間の諸条件から突破することを許さない。自然科学の知識で私達は豊かを享受し、反映し、もしかしたら衰退するかもしれないが、その限界が常に与えられている、という概念である。それは人間が心理的要素によって幅広く知識全般を理解しつつ、その限界が定められている点に着目すれば、人間の生命全般も、その限界が定められているその表れに目が向くのである。言いかえれば、私達は如何に睡眠や疲労や肉体上の脆弱性や、その究極である肉体の停止によって心理的要素が規定されている、というその表れに目が向くのである。これらを「絶対的自我」と呼び、詩で表現している。


3) 引用を多用した哲学上の説明

 福沢諭吉は、孔子とニュートンを尊敬して大聖人とし、遠い未来に全員が大聖人になる、という遠大な理想(イデアであるが)を打ち立てた。江戸時代に孔子を最高の聖人とした伊藤仁斎との時代上の限界を感じる。その福沢諭吉の時代上の限界は、西暦20世紀の技術革命の考察で外すことができる。つまり、哲学を古代ギリシャのプラトンにのみ求めるのは、あるいは、ニュートン、伊藤仁斎にのみ求めるのは、時代上の限界に囚われる。その点で西暦19世紀に始まる技術革命を考察した科学哲学が未熟でありながらも、その意義は大きい。
 他方、時代上の限界に囚われない点もある。例えば、夏目漱石の『道草』は、主人公の男性が妻と養父のどこにでもある日常のごたごたに引きずられ、やらなければならない学問の道から道草を食っている内容である。一見すると社会的制約の囚われのようであるが、その制約を高所から眺めている「視点」が描かれている。時代上の限界が社会的制約としての現れを洗い流していく「視点」である。プラトンが『国家』で人間の諸条件として衆愚性を透徹しながら描きだす、その「視点」と酷似している。
 高い高い透徹した「視点」は、科学哲学者カール・ポパーに道縁として結ばれている。ポパー自身が述べるように古代ギリシャの哲学を引き継いでいるのである。ポパーは「反証可能性」を科学か非科学かの境界設定の基準として提示した。そして西暦20世紀に猖獗(しょうけつ)したマルクス・レーニン主義の歴史法則を根源から批判した。私は彼の「科学」は独自の定義で一般用語としての自然科学ではなかったが、加えて私は「反証可能性」自体が複雑ではあるが同語反復である点を論じた。また、トマス・クーンが米国の科学政策の申し子であり、特定の時代以前の自然科学について論じないように、ポパーもまた、時代的制約を抱えていた。自然科学は、方法論的要件として、近似値や誤差などによって具体的な事実(単称言明)を理論的事実に置き換え、帰納と演繹の相互の繰り返し、再現性などを必要とする。ポパーの境界設定を自然科学に寄せていくならば、少なくともこうした方法論的要件が必要になる。実際、こうした厳密な提示の多くは他の学者によって行われていた。
 そこで、将来提示されうるであろう厳密な提示の意義を考察することにした。高い高い透徹した「視点」によって、見通される意義は、知識の可知性であった。カントが大筋を示しポパーが受け継いだ境界設定を自然科学に洗練していくと、その限界に人間の知識の可知性が現れてくる。方法論的洗練の度合いによって人文科学、社会科学、自然科学のように異なる知識の蓋然性を持つ。デカルトの情念論のように、自然科学優位ではなく、知識と対象との関係においての蓋然さである。蓋然さ、とは人が心理的要素を排除して、宇宙全体を観測し全てを一元として理解する存在者(神)と比較した蓋然さである。自然科学の法則が数学的体系で現せるのかどうかを人間は可知できない。数学的体系で蓋然的に表記したのが自然科学の法則なのである。それはニュートン力学が量子力学等への厳密な定義に置き換えられている科学史から支持される。
 科学史は自然科学の発展を示すものであり、自然科学の法則には普遍性があることを明確に示している。見方を変えるならば、心理学的要素を限りなく排除の方向性を持っている。例えば、再現性とは時代、個人、社会、器具等に依存しないという要件であり、心理学的要素を限りなく排除する方向ゆえの方法論的要件なのである。あるいは、「人間とはどこまで知れるのだろか?」という可知の方向は、『道草』の道を示している。アリストテレスに始まると称される学問が目指す普遍性の果てに、心理学的要素が逆説的に現れてきた。量子力学の観測問題のように、観測者と対象との依存関係が立ちはだかっている。もちろん、この観測問題は計器の発達、理論の洗練によって昇華されうるが、自然科学の法則の蓋然性そのものは依然として残り続けることとなる。

 依然として残り続けるもの、はヴィトゲンシュタインと言語ゲーム論とは異なっている。それは方法論的洗練を経た後に初めて立ち現れる点である。日常経験の中に埋没していては決して現れえない、ポパーの言うような「白い烏」問題のように観測に何も方法論的要件を求めない日常経験では決して現れえない問題なのである。

 別の視点から述べると、自然科学法則を発展させてきたのは心理的要素である。その要素を極小まで追求可能であっても、絶無とは出来ない。なぜなら、自然科学の法則を観測する存在者が必須だからである。自然科学の法則の進歩も存在者の個別性にも依存している。時代の限界に囚われない計器の発展によって存在者の個別性がいくら少なくなろうとも、依存するのである。

 このように自然科学の方法論的洗練によって示された知識の可知性は、幾許かの逆説を含んでいる。この逆説を、福沢の透徹した「視点」で眺めてみると現れてくるのは、生命の成り立ちである。私達人間のみならず生命は、物質的諸要素によって有限に構成されている。他方、心理的要素は無限に近く構成されている。情念、理知、芸術、哲学、ゴシップ、情報等は時代の制約を課されながらも、生命そのものは奔放な創造性を持っている。その創造性を発揮して、赤子の状態から自然科学の法則まで至ることさえできる。その創造性によって人は個別性を獲得し多様な実態を持っている。それゆえ哲学が1つにまとまらず、また、自然科学の法則の多様な観測者を通して発展させるのである。

 物質的諸要素と心理的要素の関係は、対等あるいは公平などではない。物質的諸要素が絶対的優位である。空腹、睡眠、疲労、最終的に肉体の死によって心理的要素を破壊する。この絶対的優位な関係によって規定される生命の諸条件を「絶対的自我」と呼ぶ。この「絶対的自我」はデカルトの方法的懐疑のように全てを規約によって疑うという視座が必要である。また、物質的諸要素が心理的要素、特に抽象化された諸要素を破壊するという構図は、ニーチェを引き継ぐジョルジュ・バタイユの「聖なるもの」に類似している。バタイユはより人間の根源条件として提示したが、私は技術革命による物質的諸要素、それを根底から支える自然科学の法則から、生命のあり様を捉えたのである。

 繰り返したい。
 福沢諭吉が楽観主義に基づき大聖人を語った。その意図はプラトンのイデア論と同じで現実世界の改善にあり、現実化ではないとしても、その方向性の限界が、自然科学の哲学的考察によって現れて来たのである。自然科学の普遍性の内包する限界は、人間の知識の可知性に規定されている。こうした可知性から眺める世界の実相は、物質的諸要素が心理的要素に絶対的優位な規定を示している。
 抽象化された世界を奔放に逸脱する際の「聖なるもの」を取り上げたバタイユの如く、物質的諸要素の絶対的優位へと逸脱する際の何かしらのものの追求が、私の哲学的断片である。
 私の哲学的断片は、自然科学の包括的理論化を待つがゆえに、断片的な詩にまとめられている。
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