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哲学14-1 哲学の終わりとは

 皆様、こんにちは。

 この2日、冷え込んできました。北海道や東北、北陸では大荒れの天気になり、静岡でも冷え込んできました。沖縄から帰静した学生は「静岡は本当に寒い」と言っていました。息子は、大荒れの吹雪を見て、雪遊びがしたい、と言います。よく言われることですが、日本は多くの気候を含む国家である、ということに、改めて気付かされます。この豊かな気候を持つ日本が1つにまとめあがっていること、へと気持ちが行きました。同じく西欧も複雑な地形、気候が西欧哲学によってまとめあがっていきます。キリスト教と古代ギリシャ哲学を合わせた西欧哲学が、自由や人権、平等、法の精神などに結び付いていくのです。その1つの形が、国際連盟であり、EUになっています。まじめな入りになりましたでの、講義内容で続けるとして、地域や時代や民族を超えて人々が結び付いていくもの、という側面も哲学の持つ豊かさだと、朝起きてつけたニースに思うのでした。

 それでは本文に入ります。

配布プリント
:なし


 --講義内容--

 「近代哲学(西欧哲学)=プラトンの哲学+キリスト教」と「哲学(古代ギリシャの哲学)」の違いを踏まえておいてください。さらに、+する際には、古代ローマに対する西欧人の解釈が大きく影響している点も前回までの復習になります。
 
 今回は、西欧哲学の崩壊を述べていきます。崩壊、といっても一切なくなった訳ではありません。現代数学は「全宇宙は簡単な数式で表せるはずだ」というプラトンの哲学そのものが、学問の動機になっています。弦(げん)理論、あるいは「ひも理論」の提唱者でノーベル物理学賞受賞者の南部陽一郎先生がその代表例です。あるいは、世界は数値が本質であり、それらを普遍数学として体系化できる、としたデカルトの意図もプラトンの哲学そのものです。現代の物理学や化学で数値化されてないものは対象とされません。人文科学のみならず、むしろ自然科学の分野でプラトンの哲学は、根源にあり続けているのです。

 しかし、思想の発展、という意味での哲学は崩壊してしまいました。今回ニーチェの「神は死んだ」という言葉の後に続くのは、狂人が「お前たちはそれで不安にならないのか?大丈夫なのか?!」という西欧の憂いと、その問題を正面から受け止めようとするニーチェの深い愛です。
 キリスト教の正統から破門され、それでいてローマ・法王の正式名称に多神教が入り、技術面では古代ローマ帝国19世紀になるまで道路技術などは追いつけず、拝借して劣化版しか建てられないでいる。政治面では結局自分たちが滅ぼした古代西ローマ帝国ほどの平和と安定を21世紀の現代まで持つことができず、統一政権さえもてないでいる。ローマにあこがれながら、それを滅ぼして追いつけない、という西欧人の深い悲哀です。その地点に戻ってしまって「お前たちはそれで不安にならないのか?大丈夫なのか?!」という西欧を相対化する視点です。
 
 しかし当時の西欧人は、世界中に植民地を持ち、200年を超える搾取によって豊かになっていました。経済的繁栄を謳歌する西欧人にニーチェの悲哀は届きませんでした。彼らは

「キリスト教の神がいらっしゃるキリスト教国同士では大規模な戦争や起こらないし、理性が存在するのだから、野蛮なことはない」

 と考えていました。しかし、ニーチェの死後、第一次世界大戦が勃発し、同じキリスト教国同士がよくわからない戦争で900万人の死傷者、1000万人の民間人まで殺害してしまうのです。この大ショックが現代まで癒えていないのです。この反省から、西欧哲学へ疑念が生じて、数々のバラバラな思想が生まれていきます。そのバラバラな状況が現在の思想界の状況なのです。芸術の世界でも、写実主義からバラバラな方向へと、抽象化の方向へと向かっていっています。写真が発明され、提供されるようになると、では芸術とは何か?という答えが1つにまとまらず、混沌とした状況になっていっているのです。これは、プラトンの哲学の前のソクラテス以前の哲学の1つ相対主義に近い考え方でもあります。もちろん、哲学の残骸が残っており、なんとか修理しようとする思想家や、原始仏教や日本仏教、禅宗や多神教を取り込もうとする思想家も出てきています。
 その1つが科学哲学です。全体ではなく、科学だけを考える、という哲学です。しかし、クーンは科学者集団の動き、だけを科学哲学にしてしまいました。彼は第二次世界大戦後のアメリカ礼賛の動きに影響を受けて、科学哲学の代表者となりました。しかし、その内容は、世界観を構築するような、科学の本質に迫るような思想ではありません。ポパーは自然科学が持つ本質として「反証可能性」を提示しましたが、私の論文では「自然科学」ではなく、ポパーが定義した「科学」の可能性です。再現性や対象の数値化などの点を取り込んだ議論が不十分です。科学哲学の本質について詳しくお知りになりたい方は、小林道夫著『科学哲学』をどうぞ。

 話を元に戻しましょう。
 第一次世界大戦前の西欧は、現代の日本、そして古代アテナイに非常に似ています。経済的繁栄を謳歌して、自分たちの国は「悪いことをしない」と疑いもせずに信じていて、さらに「悪いことをするのは他国だ」と思い込んでいる点です。そして選挙による民主制であるにも関わらず、民衆は自分の利益だけを考えていて、国政を国際的な視点で見れていない、という点です。北朝鮮による拉致事件、従軍慰安婦の問題や東支那(シナ)海の尖閣諸島問題、米軍基地問題などで全て「悪いことをするのは他国だ」と思い込んでいるのではないでしょうか。あるいは、その問題を見ないように避けているのではないでしょうか。

 この問題を見つめるためにも、どうして西欧は第一次世界大戦を引き起こしてしまったのか、という視点を持ちながら、哲学の終わりまでも述べていきたいと思います。次回は、では私達の祖国は、今後どのように生きていくのが善いのか、を考えてもらいたいです。外国人籍の学生も日本と共に祖国の行く末を考えてみてください。それでは前回残ったデカルトの「方法的懐疑」からです。

 --(昨年度の講義録より抜粋)--

―方法的懐疑

 デカルトの有名な「方法的懐疑」があります。これは今まで述べてきたように「物体は数値で現せる」のための手段です。学生の皆さんも人生の中で方法的懐疑を行っても良いかもしれません。「自分の親は自分よりも早く死ぬか遅く死ぬかで言えば、遅く死ぬ方が確率上少ない」ので「働かなければいけない」などです。親の存在を「疑ってみる」というのです。私の世代はバブルの余韻が残っていましたから「日本企業がつぶれる」など「疑ってみる」ことさえしませんでした。だから公務員になるのは好まれませんでした。倒産しないので公務員も企業も同じだったのです。現在は「ブラック企業はつぶれやすいから、企業が倒産するかどうか疑わないといけない」となったのです。同じように色々と「疑ってみる」のも大切でしょう。ゼミに入る時に「この先生大丈夫なのか?」と疑ってみるのです。

 方法的懐疑ですが、「方法」を決めて「疑ってみる」という意味です。その方法は「疑わしいものは全否定する」というルールです。そして以下のようにしました。

①外界を疑ってみる。太陽とか犬とか・ ・・・・人によって違うし怪しい  ⇒全否定
②肉体的なものを疑ってみる。色とか暑いとか・・どうも同じではない怪しい ⇒全否定
③理性(数学)的なものも疑ってみる・・・・・・・どうも怪しい       ⇒全否定

 疑ってみると全てが疑える。だから全否定になった。
その状態で「疑えないものは無いか?」と考えてみた。
すると、「疑っている私が存在する」のだけは確かだった。否定できなかった。

 だから、「疑っている私が存在する」を成り立たせている、「明晰判明な認識」が疑えないし、否定できない。逆に寝ぼけている私は「明晰判明な認識」がない。

 そして、ここからがデカルトの本領発揮ですし、日本人には不思議な所ですが、「明晰判明な認識」とは「神」であり、「神」から与えられた精神的なもの、生得的なもの、となります。デカルトは順番を入れ替えたのです。

言いたいこと: 神⇒理性(明晰判明な認識)⇒私
方法的懐疑 : 神←理性(明晰判明な認識)←私

 具体的な説明では、赤いチョークを取り挙げました。朱色のチョークと赤いチョークを2本上げて、朱色のチョークを「赤いですか?」と聴きました。赤いと手を挙げた学生さんが3割、赤くないと挙げた学生さんが4割でした。このように色は人によって違ってくるので疑いがあるのです。デカルトはこういう色を全否定しました。他に、戦争や交通事故で手を失った人が、無い手が痒(かゆ)い、という感覚を持つそうです。感覚も全否定になります。デカルトは戦争中に冬で休戦している時に方法的懐疑をしたのです。少し付け加えると、デカルトはある王室の女王に朝5時から講義を行っていてコロンとなくなってしまったそうです。朝寝の習慣があるデカルトには強いストレスだったのでしょう。

―近代哲学と近代科学の違い

 「イデア(数学)  ⇒   物体」

 が哲学の原理として示されました。物理学の原理とは全く違う原理ですが、原理と呼びます。

 「数学化していく物体」を探求するのが近代科学
 「数学から観るイデア」を探求するのが近代哲学

 と分かれたのです。
科学哲学の分野で一般的に言われるのは、この近代科学と近代哲学をごちゃ混ぜにする議論です。プラトン主義がなければ近代科学が出てこなかったでしょう。しかし、プラトン主義を理解しなければ近代科学が理解できない、という議論や、西欧が近代科学を生み出したから優れている、という議論は誤っていると高木は考えています。しかし、文系の人々でそういう人々がいるのも事実です。これに対しては、「では、日本人はプラトン主義を理解していないけれども、自然科学で画期的な発見を行っている」、「では、日本人には自然科学が充分に理解できていないのですか?」という反論があります。もう整理すれば、

 「物体を数値で現す」

 とは宗教的動機であって、その結果は誰でもが利用できる、という言い方になります。サンピエトロ寺院は宗教的動機によって装飾されていますが、その美しさはローマ・カトリック以外の人々も感動を呼び起こしますし、中に入って休憩することも出来るのです。

-デカルト以降の略図

○デカルト(プラトン主義)
   長所:時間と空間を数で現す近代物理学の原動力となる
   主張:神→人間→世界 (演繹) 理性が神と人間と世界をつなぐ
   欠点:独断論であり、現象ではないものに適用する:例、天使や悪魔が存在する (中二病)

 ↑批判

○英・経験論(アリストテレス主義) ヒューム、ロック、バークリ
   長所:実験の重視、現実的な効用を基礎づける。社会科学で大きな影響
   主張:神←人間←世界 (帰納) 因果関係は近接しているだけ
   欠点:懐疑論であり、数学や物質科学の否定になる

 ↑批判

○カント(プラトン主義)
   長所:デカルトと英・経験論の調停として「限界ある理性」
   主張:神の理性に比べて人間の理性は限界があり、矛盾する
   短所:二世界論の継承とイデアを物自体に置き換えたこと


 ↑批判

○ヘーゲル(アリストテレス主義)
   長所:カントのカテゴリー批判を通して人間の精神の可能性を図る
   主張:他者と自省によって精神の無限な可能性を主張
   短所:あまりにもフランス革命を賛美してしまった

 ↑批判

○シェリング(反プラトン主義)
   長所:「悪の問題:善なる神の創造したこの世に何故悪があるのか」の指摘
   主張:ヘーゲルまでのプラトン主義はイデアに還元できない現実(この世)を無視してきた
   短所:反プラトン主義がキリスト教へと向かう

○キルケゴール(反アリストテレス主義)
   長所:哲学を自己の存在で考えた
   主張:「この私」が存在していることへの疑い
   短所:あまりにも自己の問題意識に囚われていた

○マルクス(反プラトン主義)
   長所:ヘーゲルの弁証法を具体的「労働」として考えた
   主張:資本主義体制で労働者が商品化されている。だから共産主義体制がよい
   短所:現実的な意識に囚われ過ぎていた

○ニーチェ(反プラトン主義)
   長所:イデアなど人間の願望に過ぎないと指摘
   主張:神は死んだ、この虚無(ニヒリズム)に立ち向かうべき
   短所:イデアに続く提案が不十分である

 以上がデカルト以降の略図です。最後の4名は、多様な思想が出てきている時期に当たります。支那や日本と同じく社会全体の構造が不安定化し、新しい状態に移行する時、多様な思想が花開きます。あるいは多様な思想が社会で受け入れられます。
 
-デカルトについて

 前回の復習になります。デカルトは理性主義と言われます。これに対するのが英・経験論の経験主義です。第2回の講義で演繹法と帰納法を説明しました。デカルトは「神(概念、イデア)→世界(事物)」の方向ですから、演繹法を取っています。神と事物をつなぐものが理性です。理性は、神が世界を創造した原理なのです。その理性を追い求めて近代物理学の原理の探求とデカルト平面(XY平面)での事物の数値化が行われました。このことを持って、プラトンとデカルトがなければ近代物理学が成立しなかった、と主張する人がいます。高木は全く同意できません。というのも、中学校でXY平面を習ってキリスト教徒でない人々、プラトンもデカルトも理解していない人々が、利用できるからです。プラトンやデカルトはその原動力を提供しただけであって、デカルトがXY平面を発見していなくとも別の人が定義していたことでしょう。技術史を鑑みると、こうした事例だらけです。

 「演繹」は「de」+「duction」です。神から「外へ(de)」管(duct:ダクト)を通って事物に至るのです。その管としてつなぐものが理性なのです。

 欠点としては、理性が現象として存在しないものに適用してしまうのです。具体的には天使や悪魔です。実際に存在しないけれど『聖書』に書いてあり、明晰判明な認識を支える神が創りだしたものです。ですから、これらが存在するという一種幻想に陥ってしまいました。「俺が想像できるから存在するんだ」という独断論に陥っていったのです。ローマ・カトリックでは正統なキリスト教で内からでしょうか『聖書』を絶対視する傾向がありました。『聖書』に書いてあるから、それを疑い人は悪魔だ!殺せ!という訳です。西欧のみならず、アメリカでもこの理屈で何百万、何千万人の人々が相手を悪魔!と罵り殺し合いをしました。映画「クルーシブル」は実際にアメリカであった魔女狩りの話です。県の副知事が出てきて魔女狩りの裁判官を行う訳です。日本では魔女狩りに近いことが数百年前に終わっていた時代です。200名が魔女として告発され19名が絞首刑になりました。現代でも、映画「コンスタンティン」のように、悪魔と天使が出てくる映画がハリウッドなどで作られ続けています。皆さん、「悪魔っていると思いますか?」と聴かれて、「存在する分けないじゃん」と言えば死刑!ということがあったのです。

 現代日本で言えば、「中二病」です。

 「俺がイメージしているから存在しているんだ!」

 俺はなんとかフレイムマスターだ!と言うアニメがありました。確か「中二病でも恋がしたい」というタイトルだったような気がします。皇紀2673年、平成25年の昨年だった気がしますし、第2期が皇紀2674年、平成26年1月に始まる気がします。

-英・経験論について

 その「中ニ病」は可笑しいだろう!と批判したのが、英・経験論です。どうしてそうなるか、と言えば「俺が想像できるから存在するんだ」と考えるからだ、という訳です。ですから、「観念は五感で手に入れられる経験的なもの」としたのです。実際に目で見て、触れるものから作られたものだけが重要なのだ、と言ったのです。先ほどの演繹を逆にしたのです。
 
 「帰納」は「in」+「duction」で、神(概念)の「中に(in)」事物から管(duct:ダクト)を通ってに至るのです。

 では、概念と事物をつなぐ「理性」はどのようになったでしょうか。ヒュームの因果律批判では「因果関係は単に近接しているだけである」と主張します。このブログを読むと頭が痛くなる、としましょう。「ブログを読む」と「頭が痛くなる」は単に近接しているに過ぎない。一定の固定した原因と結果の関係ではない、とヒュームは主張するのです。社会科学の分野では、大いに有効なこの指摘も、自然科学、物質科学の分野では役立ちません。「物を手から離す」と「物が落下する」が原因と結果の関係ではない、というのです。しかしながら、常に「物を手から離す」と「物が落下する」のです。数学や物理の否定になる、という欠点があるのです。一時はやっていた複雑系も因果性を多様に観ていこう、という立場ですから、現代でも自然科学の分野で因果性に注目する動くがあります。他方、高木は社会科学では極めて有効だと考えています。「安倍総理の支持率が消費税増税後に低下した」という説明は、実は「安倍総理の支持率」と「消費税増税」との原因と結果の関係にあるとは言えない、からです。調査する対象が毎回変わるなどの根本的な問題もありますが、そもそも、人間の心という基礎要素として数値化出来ていない分野では、因果関係を(厳密に)主張できない、と考えています。ですから、この点を指摘したヒュームの因果律批判は有効です。

 現代日本で言えば、「心配性」です。

 「俺は本当にこれでいいのかな? 体験してみないとはっきり判らない」

 心配性になりすぎて、確実なものも否定してしまったのです。周りにもいませんか? 「ほんとう?ほんとう?とマイナス思考な人」です。「何時何分何十秒?地球が何回周った時?」という台詞が小学校との時にありました。他人を困らせようするための台詞でしたが、「えっと・・・」と真面目に答えてしまう人でしょう。

-カントについて

 今度はフランス(デカルト)と英国からドイツに移りました。カントです。フランスと英国の仲裁をしました。それぞれの問題点を綺麗に整理したのです。カントは出生地を生涯動かず毎日規則正しい生活を送ったそうです。「生真面目な人」になるでしょう。カントの仲裁の方法は、「理性は神と同じではなく、人間の理性は限界がある」と「時間と空間はやっぱりイデアである」という点です。
 例えをまたまた、机にしましょう。神様ならば机の全ての性質や形などが100%全て理解です。もちろん、創った人だからです。しかし、人間の理性は限界があって全ての性質や形などは実験などをしないと理解できないし、しても5%くらいしか理解できない、と言うのです。その証明として、人間の理性同士が矛盾すること、を挙げます。哲学用語では『二律背反(にりつはいはん)」と言います。100%観えていないからこそ、1つにならず、2つ以上になって矛盾する、という証明の方法を取りました。『純粋理性批判』という本に書いてある例を学生の皆さんに考えてもらいました。ちなみにデカルトの理性は神と同じ理性ですから、100%です。このブログ(講義)も、皆さんが眠気などの肉体の欲求を抑えられれば、内容を100%理解できる、と考えるのです。しかし、カントは、どんな人も100%は理解できないよ、と言うのです。人によって理解できる場所が違うのです。
 私はある高校の物理の先生をしていました。職員室の横に座っていた同じく理科の先生が「私の教え方はクラス40人の中でやる気のある出来る3人位を中心に教えている。やる気のないやつ、ゲームを隠れてするやつ、寝るやつは放っておいている。その3人の中から東大にでも入れば私の株もあがるし、伸びる。」と言っていました。私は「出来る子は放っておいても塾に入ったり勉強するので大丈夫。それよりも、全体の平均辺りにいる大勢の学生を教えていくか、という授業をしています」と言いました。その先生は学生を注意する時も「うるさい。静かにしろ!」です。私は「聴いてくれ。考えてくれ」という言葉掛けの違いになります。この相手の理解度に注目して考えるのは、教育界のみならず、普通のサラリーマンがどうやって部下を育てるか、どうやって仕事をこなしていくか、の時でもありえます。この辺もヒントにしてもらえれば、嬉しいです。続けます。
 
問1 宇宙に果てはありますか? 

 ビックバン理論では宇宙が広がっているのだそうですから、広がっているその境界はあるのかないのか?でも同じです。境界があれば宇宙の果てがある、果てがなければ境界はないのです。現在の量子論による解釈はまた異なると思いますが高校までの知識で考えて見て下さい。皆さん中学校2年生くらいの時に、「宇宙の果てはどうなっているのか?」を考えたのではないでしょうか。カントの「二律背反」を参考にしながら書いてみて下さい。

 カントは、「ある」と書きました。「ない」と書きました。人間の理性は限界があるのですから、矛盾するのです。ですから、両方書くのです。神様の理性は全能なので「ある」か「ない」を決定できますが、人間の理性は限界があるので1つに決定できないというのです。これが「二律背反」です。
 ある:物質は存在しているから必ず果てはある。物質によって果てがきまる。
 ない:物質によって果てが来ますが、その果てまで行って手を出せば果てが広がる。そしてさらに手を出していけば果てが広がり続けていくから、果てがなくなる。
 カントは片方に決められない、と主張したのです。科学技術者の倫理の講義で「公平」を大切にしているのもカントからです。「原発はいいね」だけでは不十分なのです。「原発は悪いね」だけでも不十分なのです。なぜなら人間の理性には限界があるからです。それゆえ、賛否の両側から自分で考えて見て、それを合わせて意見を出すのが大切なのです。片方だけの意見を聞けば、必ず人間の歪みが生じますよ、と言いました。
 日本のマスコミは中国共産党がいいんだー!という主張を繰り返しています。大東亜戦争の時は同じ新聞が「中華民国は悪いんだ!」と主張して日本国民に歪みを生じさせました。ですから、ニーズウィークというアメリカの主張、ニューヨークにある反中国共産党系のネットテレビ、ムスリムのアルジャジーラなどを合わせて見ることで公平さを担保すればよいのです。現代の日本を考える際にカントの「限界ある理性」は大切です。
 ですから、カントは、ローマ・カトリックと科学を分離させたのです。少し踏み込むと理性神を原理に置き換え、創造神を非創造神に置き換えたのです。

-ヘーゲルについて

 ヘーゲルは、限定された理性を受け入れながら、精神は完成するよ、と主張しました。アリストテレスの可能態から現実態になりいつかは完成する、と同じです。精神の完成の方は「労働が必要である」として近代の色を帯びています。カントの自分の頭で考える自己反省(理性反省)ではなく肉体を通した自己反省です。

「労働(実践:アルバイトという言葉)」で異物や他者を反省しながら自分に取り込むこと
 弁証法  合           = 反  +  正

 意味内容は難しくないと思います。労働とは例えばこの講義やおじいちゃんやおばあちゃんの農作業の手伝いです。労働はアルバイト(Arbeit)と言いますがお金をもらわない行為も含まれます。農作業では自分の意のままに動かない自然が相手ですから、異物になります。こういう異物を反省しながら自分に取り込むことで精神が成長する、とヘーゲルは主張しました。他にもアメリカ人、アフリカ人、中国人、朝鮮人など日本とは違う文化や思考を持つ他者を触れ合いながら、自分に取り込むことで精神が成長すると考えます。今日は外が寒いですから、服の上のジャンパーやコートを着ている人が多いです。私は、蛍光の水色のダウンジャケットを着ています。蛍光の水色は工事現場のブルーシートの色です。工事現場では電気がないことが多く、薄暗い中でも見える色として蛍光の水色が経験上使われてきました。ですから、事故防止のために、蛍光の水色を使っているのです。若い時は、「安いジャケット」や「派手で格好いいジャケット」を着ることもありました。しかし、それでは自己の拡大でしかなく、自分とは異物や他者を反省しながら取り込むことではないのです。私が事故に合いそうなことがあったのです。ガードマンのアルバイトをしていた時に、道路で旗を振っていました。その時に事故に合いそうになったので、目立つ色を工事現場で探したのです。弁証法は「合(労働)」=「反(異物)」+「合(自分)」の動きです。
 ヘーゲルはフランス革命という異物や他者をドイツの中に取り込もうとしたのです。しかしながら、フランス革命後に独裁主義に陥ったりナポレオン皇帝が出てきたりして色あせていきました。

-シェリング 西欧哲学の根本的問題の指摘

 古代アテナイは5倍以上の奴隷に基づく民主制国家でした。アリストテレスは奴隷になるのには奴隷に向く性質の民族がいる、という風に言っています。プラトンもまた、イデアと質料の結びつきで生得的に優れたものと劣ったものがいることを肯定しています。さらには、洞窟のイデアで影に騙され続ける人々を救済しよう、という手段を放棄しているように読めます。それよりもプラトンはイデアを理解する哲学者が統治者になり国家全体を善くしよう、という手段を取ります。生産構造が奴隷を前提としていた時代の話しですが、奴隷や知識や智慧から遠い人々を見ないようにしてきました。また、ローマ・カトリックもまた同様の問題にぶち当たります。「

 悪の問題:世界を創造した神様は善い性質なのに、なぜその世界に悪が存在するのか」

 この問題の解決方法として、仏教などの各宗教は「神の創造の業は人間理性では理解できない」として解決してきました。しかしながら、神の創造を前提として神を探求するローマ・カトリックと哲学は、文字や数式によって人間が理解できる、という前提に立っています。ですから、どこまでも「悪の問題」を解決できないのです。現在でもこの問題を解決できていません。ですから、この問題に悩まされ続けています。この点に眼前と立ち向かったのがシェリングです。日本では親鸞(しんらん)が悪人正機説「善人は救われるが、悪人はさらに救われる」という解釈を出しました。このことによって「悪の問題」は日本人にとって大きな問題ではなくなりました。「なみあみだぶつ(南無阿弥陀仏)」と捉えることで「悪の問題」を解決しているのです。

-高校生に教えられた真・善・美

 講義でも考えてみましょう。一生懸命教えていても、どれだけ熱心に予習しても、講義を聴いていない人、理解できない人が出てくるんです。「ダメなやつは考えなくていいんだ。見捨てて良いんだよ、だってダメなんだもん」という考え方の人がいることを先ほど指摘しました。私はどうもそういうことが出来ませんでした。私は高校の物理を非常勤で教えていました。1日に3時間くらい授業があるのですが、朝の8時15分頃には学校にいました。というのも、保健室にさえいけない学生が9時頃、やってくるからです。職員室(主に非常勤の部屋)の横に更衣室があり、ソファーがありました。そこで自主勉強をする学生がくるのです。10分休みにちょこっと話に来る学生もいてくれました。お昼休みは5人以上来てくれることもあり、お昼ご飯を食べることが、退職する前には出来なくなっていました。大変有り難いことです。放課後は質問に来てくれる人が何人もあり、もちろん担当していない学生も半分くらいしました。東京大学などを受けたい学生が問題を持ってきてくれると、その予習もあり、帰るのは6時前後でした。日本の大学の世界は論文や本で点数が決まります。いくら教育熱心にしても、公の場で評価されることはありません。ましてや高校生を熱心に教えても、何にもなりません。けれども、私は大学の先生になりたい、のではなく、自分の生きざまを考えたいのだ、と思いました。いや、むしろ学生さんの熱意に私が影響を受けた、教えてもらったのが実態だと思います。私は、多分、そこに「より善く生きる」を見出そうとしたのでしょう。私のそうした生活は美しい、とさえ感じられました。その高校が方向性を転換して規模を縮小する、と学校長から説明がありましたし、物理の教授法も確立したので退職を申し出ました。今でもその時の高校生には感謝しています。現在も哲学の講義が終わった後に、わざわざ話すためだけに学校に来てくれて雑談をする学生がいて、2時間程度話をしています。

-キルケゴールについて

 シェリングの「悪の問題」を自分自身の問題として捉えたのがキルケゴールです。この自分自身の生き方の問題として考える、というのを哲学用語では「実存(じつぞん)」と言います。キルケゴールは身体障碍者で、虚弱でした。2人の兄と3人の姉の死を父のせいにしていたのです。それは先妻の死後父が、実母を暴力で犯した結果キルケゴールが産まれたからです。キルケゴールは父が貧乏だったころ「神を呪った」という言葉にも躓(つまづ)きます。彼は、「自分が存在していること」を納得して受け入れられなかったのです。しかし、彼はそこから何とか希望を見出そうとしていきます。キルケゴールと比べるとシェリングの指摘は、まだまだ頭の中で考えているだけの、自分の生き方の問題として考えていない、という風に捉えられてしまいます。シェリングは一般の話、キルケゴールは自分の話なのです。

-マルクスについて

 ヘーゲルの人間精神の限界がない、労働で完成するのだけれども、資本主義体制の下、資本家が搾取するから邪魔をすると指摘しました。自分が働いた分が自分のものにならない、と指摘しました。日本でも60年代の学生運動などは、大学の教室に入って来て授業妨害をするのです。「知識を蓄えて資本家になるから邪魔をする」というのです。本来はマルクスの名前を借りた下劣な手段なのですが、根本的に資本家と労働者という2つの区別しかもたなかったマルクスの欠点でもあります。資本家と労働者の闘争によって平等な階層が出来ると主張したのです。現在では中間層の拡大が社会全体の発展に欠かせないことが明らかになっています。マルクスは社会運動として20世紀に最も影響を与えた思想家の1人ですが、それがヘーゲルの立場を継承していることや、反プラトン主義=アリストテレス主義として解釈できる点を挙げておきます。マルクスは西欧哲学の流れの中にあることを理解して下さい。
 現在の日本で、サラリーマンが正社員で1万円稼ぐと約2000円もらえます。アルバイトなら1万円の内約1000円です。しかしながらマルクスの時代では、1万円の内、100円程度しかもらえなかったのではないでしょうか。それだけ厳しい労働者の環境を改善したい、というマルクスの想いは伝わってきます。
 ただし、ソビエト社会主義共和国は独裁国家になり、貧富の差が激しくなりました。その後崩壊しました。現在の中国共産党の下の中華人民共和国では、世界で最も貧富の差が激しい国家の1つです。ですから、マルクスの目指した理想というのは現実には完全に死滅してしまったのです。

-ニーチェについて プラトン主義の終焉(しゅうえん)

 西ヨーロッパの哲学、道徳、宗教も全てプラトン主義である。
 しかしながら、プラトン主義の言うイデアは願望に過ぎない。=イデアはない
 
 イデアはなかったのだ、と言いました。その典型的な言葉は

 「神は死んだ」

 です。街中でいきなり「神は死んだ!! 神は死んだ!!」と叫びだします。その後、「神は死んだのだ。みなはその不安に耐えられるのか!」と続けます。

 日本は自然的存在論で死を受け止めてきました。「人は先祖から生まれる」だからお正月やお盆に先祖をお迎えすること死の不安を受け止めてきました。
 
 西欧では絶対的な創造神とイデアを結び付けて、「人は神から生まれる」だから死後の世界も大丈夫、と死の不安を受け止めてきたのです。

 その「神がいない」のですから、西欧人は死の不安を受け止められのでしょうか? と問うたのです。神は死後の保証です。現代の日本人がお正月やお盆の意味を知らずに、「自分だけで生きる」という「先祖とのつながり」を見ないようにしてきて、不安にさいなまれ心の病が増加してきたのです。ニーチェの指摘が現代の日本でも当てはまっています。現在は、癌など治療でで長期の休職よりも、心の病気で休職する人の方が数倍にもなっています。これは論文「なぜ、映画「千と千尋の神隠し」は大ヒットしたか」で指摘しました。

 皆さんは、自分が死んだらどうなるんだろう?と中二の頃に考えなかったでしょうか。

 その時の空しさ、不安、を日本では「もしあなたがたった独りで死んだとしても、親やご先祖様とつながっているから独りの人はいないのですよ」と慰めてきたのです。しかし、西欧は神が死ぬとそれが出来なくなります。現在でも西欧の社会では絶対的な神がいる、という前提で社会が動いています。英国では国歌で出てきますし、アメリカでは裁判などの時、その絶対的な神に誓いを立てるのです。

 ニーチェは、イデアが願望に過ぎないと、気が付くと、そこには虚無がやってくる、と言います。虚無とは空しさ、や虚脱感のことでしょう。そしてその虚無(ニヒリズム)を乗り越えようとしなければならない、と言います。

最初:世界が無意味、無価値であることに気が付くこと:「消極的ニヒリズム」
次に:原因のイデアに気づき積極的に否定すること  :「積極的ニヒリズム」
最後:ありのままを認めると自然に回復する

 ニーチェは優しいですね。破壊するだけではなく西欧人を救おうとしているのです。
 
 具体的に説明しましょう。私は第一志望の大学の落ちて、センター入試の結果で有利になる大学を滑り止めて受けていたのでその大学に行きました。「本当は行きたくない、どうでもいい大学」に進学しました。すると、大学生であることに無意味、無価値を感じていました。受験に失敗した時に「俺ってなんで生きているんだろう」とか「俺って無価値なんじゃないか」とか「生きていても意味がないなぁ」とさえ感じてました。ニーチェは徹底っていして知ればいいのだ、というのです。気分転換しなさい、などと言わないのです。自分の無価値さを知りなさい、というのです。恋愛で好きな人に告白して断られた時にも「自分はあの人に似あわない無価値な人間なのか~・・・」と落ち込むという場合も同じです。
 次に、積極的に否定していくことになります。「あの大学の行けていればなぁ・・・」という想いの原因を探ります。「偏差値が高かったから」だとしたら、「そもそも偏差値って上下するし、その大学よりも偏差値の高い大学がある」と考えるのです。「学費が安いから」だとしたら、「そもそも学費が安いのは大学に行かないことであり、放送大学などの大学もある」と考えるのです。自分で勉強すればいいのです。「現在友達がいない」からかもしれません。「でもあの大学に進学していたら友達が出来ていたかな?」と考えてみます。自分が積極的に関われなければ友達は出来ないのです。だとしたら、この大学でも友達に積極的に関わればいいことになります。こうやって考えていかないとイデア(理想)を否定できないよ、とニーチェは言います。
 ニーチェは進化論に影響を受けたと言われていますが、以下のような言葉を述べています。

 「真理とは1つの価値、設定された1つの目安に過ぎない」

 まさに、自然存在論的な日本でそのまま通用する考え方です。また、ソクラテス、プラトンが否定しようとしたプロタゴラスの「人間は万物の尺度(真理とは相対的である)」の考え方と似ています。ここに回帰しています。

ー哲学の崩壊後

 ニーチェ以後は、それを継承しようとするバタイユなどが出てきましたが、決して西欧哲学界の主流ではありません。むしろ崩壊した哲学を何とか立て直そうとしています。構造主義、言語ゲーム、実存主義、現象学等々です。しかし、これらはこの世界を超越しうるもの、普遍化されるものを設定しようという試みではないでしょうか。ヴィトゲンシュタインの言語ゲームにおける「語りえぬもの」がその典型だと、高木には読めます。私はこうした西欧特有のキリスト教を内包した問題設定と意図を学ぶ必要さが低いと考えます。それよりも、数学や物理学を根底で哲学が支えているという側面の必要さが高いと考えます。ですから、古代ギリシャの哲学を中心にして講義を組み立てました。
 哲学崩壊後の哲学史を学びたい方は、以下の本をお薦めします。

木田元著 『現代の哲学』 

-プラトン主義=哲学の功績

 以上のように書くと、哲学は全く無意味な行為、無価値な行為と映るかもしれません。なぜなら、それは「人間の願望に過ぎない」のですから。しかしながら、プラトンの二世界説と完全なる理想の設定は、実り豊かなものを生み出しました。これまで述べてきたように自然科学と数学への原動力です。これまで述べて来れませんでしたが、数々の文化や学問上の実りがあります。

 --(以上昨年度の講義録より抜粋終了)--

 ここまで書き進めると実感するのは、西欧人の来歴です。日本人とはまったく異なる地域、文化、民族、歴史等々。ですから、単純に「西欧人が悪い」や「西欧人が善い」、「日本人が悪い」や「日本人が善い」ということは出来ないのです。そうした事実に基づかない、都合の良い事実しか見ずに、都合の悪い事実は捨てる、という態度が、評価を善悪という二元論に結び付けてしまうのです。学問的ではないですが、実際にはそういうことが往々にして起こりえます。地球温暖化、原発、共産党、中国、日本文化などなど、です。その時には、「都合のよい事実しか見ずに、都合の悪い事実は捨てる」という点に留意してください。国際政治学ではこれらを「戦略的な嘘(ウソ)」として扱っていますが、哲学の分野ではうまく扱えていません。プラトンがそのことに気が付き「国家指導者だけがウソをついて良い」としていますが、対応策は不十分でした。もっとも的確に扱った思想家として有名なのは、孫子です。

「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」

 とはそうした「戦略的な嘘」の危険性と対応策を示しています。孫子を全て読んだわけではないので誤っているかもしれませんが。

 ナチス・ドイツを生んだワイマール共和国は最も民主的な近代国家といわれ、人種の平等を実現しようとした国家でした。しかし、そこに隠されていた「戦略的な嘘」を見抜けずに、第二次世界大戦の大きな原因の1つとなりました。ドイツ人は、上っ面だけの綺麗ごとで生活が良くならず貧しくなっていく中で、共産主義にも反発しながら、ヒトラーの「戦略的なウソ」を語らない態度に共感したのです。経済政策の大成功がそれを確信にしました。もちろん、ユダヤ民族差別への賛否がありました。私もユダヤへの民族差別は許されざること、と考えてますが、西欧各国では400年以上前からユダヤ民族差別は行われていました。現在、イギリスやフランスが「アウシュビッツを持ち出す」ことに、「戦略的なウソ」があるように感じられてなりません。つまり、ドイツだけがユダヤ人差別をしたのだから、ドイツ人「だけ」が悪い、と言いたい、という事実の隠蔽(いんぺい)です。
 昨年のパリテロは、フランスにおけるムスリム差別が表に出てきた結果である、という面で考えています。そこには、「民族差別はドイツ人だけがするのだ」というフランスの傲慢さがなかったのだろか、という視点が欠けていたように感じるのです。

 これは現代日本の「従軍慰安婦は韓国が事実無根を騒いでいる。お金がほしいから。昔から朝鮮半島はそうだ」という相手が一方的に悪い、という評価にもそれが見受けられます。では、日本の外務省の対応は悪くなかったのでしょうか。では、従軍慰安婦の前にお金を出し続けてきた日本政府は悪くなったのでしょうか。その政治家を選んだ私達日本国民は悪くないのでしょうか。そういう視点での問題への切り込みが殆ど行われていないのが現状です。
 この現状が続けば、日本は西欧の第一次世界大戦のように「よく分からないままに大規模な軍事行動に巻き込まれていく」のではないでしょうか。そうならないことを願うのではなく、考えていくことが大切です。それがこうして大学で「哲学」を担当している、私のささやかな責務だと考えます。

 「起こらなければそれで良い。しかし、それは偶然の結果ではあってはならない。」

 私が学生を教える時も、祖国を考える時も心がけていることばです。近代哲学の崩壊の現状を考えますと、より味わい深いと思います。

 
 以上です。
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