講義録11-1 倫理の3つの根源 

 皆様、こんにちは。

 冬の穏やかな雨が降っています。冬の嵐になり、ひっそりとした気持ちがしっとりする週末でした。別の学校の学生の皆さんが遊びに来てくれて、ピュンローという鍋を作りました。『神戸在住』で読み、大好きな漫画でしたので作ってみると、美味しかったので、冬はよく出します。好評で何よりでした。

 それでは本文に入ります。

配布資料等
:なし

 --講義内容--

 前回は、技術と社会の関係をやりました。基本を9回目までで押えたので、グーッと視点を広く取りました。今回も同じく、視点をグルグル深く切り込みます。今後も、述べて来た技術者倫理を軸に、多方向に広めていこうと思っています。

 本年度付け加えたのを書いていきます。

河合隼雄著『こころの処方箋』の中に出て来る、『同じ「運命」でも演奏次第で値段が違う』を元にして、気づきの重要性、を述べました。「運命」とはベートーベンの「運命」です。同じ楽譜を使っても気づきによってウィーンフィルと高校の吹奏楽部では値段が違います。倫理の根本も同じで、倫理は「善いことをしなさい」です。これが楽譜だとしましょう。その気づきによって、価値(値段)が全然変わってくるのです。また、「相手に正直に、筋道を立てて説明すれば必ず通じる」というのが、誤っている、という人類の英知も知ってもらいたいです。

 次に、以下のように書きました。
  
日本人: 「人は先祖から生まれてきた」 だから 「人に善いことをしない」
       ↕一致できない                 ↕一致できる
多くの人:「人は神が創造した」       だから「人に善いことをしなさい」
       
次元  : 宗教や哲学の段階            倫理の段階

 倫理の段階を支えるのは、宗教や哲学の段階です。倫理の根本、と言い換えても良いでしょう。しかし、これは万人が一致しません。それで良いのです。他方、倫理の段階は万人が一致できます。また、アメリカのプラグマティズム(功利主義)は以下のように説明します。

米国人 :「誠実にすると得をする」    だから「人に善いことをしなさい」

 これらを詳しく述べていきます。

 --(昨年度の講義録より抜粋)--

 -3つの倫理の根源

1)費用便益分析的な倫理の根源 :トレード・オフ、リスク・トレード・オフ、リスク評価
2)心理学的な倫理の根源     :L.コールバーグ理論 と孔子や仏陀
3)哲学(宗教)的な倫理の根源  :根源の定義と定義の利用の関係

 1)費用便益分析的な倫理の根源については、「講義録5-1 費用便益分析 幸福とは何か」で述べた内容を深めていくことになります。
 2)心理学的な倫理の根源については、特にありませんが、しいて言えば「講義録3-1 技術者倫理の基準 6つの工学的安全」の「フール・プルーフ」と「フェイル・セイフ」でしょうか。
 3)哲学(宗教)的な倫理の根源については、「講義録1-1 「はじめに 講義の全体像と目的 倫理と人の本性 功利的解答と存在論的解答」でしょう。

 ー1)費用便益分析的な倫理の根源

 費用便益分析的な倫理の根源について、3つの考えを出して考察していきます。広く経済学で利用されている考え方です。

①トレード・オフ :利益(ベネフィット)と損失(リスクや被害や費用)を比較して判断する

②リスクトレード・オフ :損失と損失を比較して判断する

③リスクヘッジ : どの場合でも出来るだけ損失を少なくなるように判断する

 この3つの視点を説明していきましょう。

「同時に達成できない要因があるとき、それらの「釣り合い」を計ることを「トレードオフ」という。トレードオフは、利益と損失(リスクや被害や費用)」を比較し、リスクトレードオフは、ある行為を行った場合の「リスク(または費用)とリスク(または費用)」を比較することである。具体的に書くと、

 飛行機を設計する場合、胴体の横についている主翼がトレードオフされる。

主翼を大きく⇒航続距離が伸ばせる、燃料費削減
主翼を小さく⇒速度が増す

であり、主翼を大きく、と主翼を小さくがそれぞれ特徴がある。ここで現在よりも主翼を大きくすることをとトレードオフで考えると、

主翼を大きくする⇒航続距離が伸ばせる、燃料費削減 =利益
主翼を大きくしない⇒速度が低下          =リスク(費用)

 これは工学的な設計上、両方の要因を同時に達成できないことが多いからである。工学の設計上、このようにトレードオフで評価され構造が決まっていく。アメリカ空軍の戦闘機F-15などは、高速が必要なので主翼を小さくし、ボーイング777などのジャンボ旅客機は主翼が大きく作られている。

 原子力発電に対する評価を3つの視点で整理していく。

①トレード・オフ :利益(ベネフィット)と損失(リスクや被害や費用)を比較して判断する

 原発の利益は安価な発電、石油への一極集中を防ぐ、アメリカとの良好な関係、潜在的な核武装などである
 原発の損失は発掘から最終処理までは損が大きい、作業員の被曝と死亡、過酷事故のリスク、テロの標的となるなどである。
 原発の利益と損益を比較すると、「原発は停止すべき or 原発は推進すべき」となる。
 
②リスクトレード・オフ :損失と損失を比較して判断する

 原発を導入「した場合」の損失は、発掘から最終処理までは損が大きい、作業員の被曝と死亡、過酷事故のリスク、テロの標的となるなどである。
 原発を導入「しなかった場合」の損失は、石油への依存、原発関係の優秀な技術の消失、アメリカとの悪化した関係などである。

 原発の損失を導入と非導入を比較すると、「原発は停止すべき or 原発は推進すべき」となる。

③リスクヘッジ : どの場合でも出来るだけ損失を少なくなるように判断する

 原発には過酷事故の可能性があるから、高価でも確実な対策を取る。原発にはテロの可能性があるから民間のガードマンを強化する。原発を導入しないとエネルギーの安全保障が脅かされるから導入する。・・・
 とリスクに注目して、現状維持を取るために、リスク分散を目指す。

 以上のように、3つの視点は全て違う視点であり、リスク評価をする場合に最も大切だと考える視点である。高木の昨年度の講義の結論の1つは、

 「50年前の原発導入時のリスク評価は、福島原発事故によって変わった。だから、もう1度きちっとやりなおすべきである」

 「その理由は、福島原発事故によって過酷事故が、確率的リスクから確定的リスクに変わったこと、冷戦構造が20年前に崩壊したことなどが挙げられる。」

 である。
 こうした3つの視点を導入して、さらに良いレポートを、論理のみならず意味内容を深めた文章を書いていってほしい。

 
付記として、3つの視点を身の回りの例、「結婚」でしてみましょう。

 世間一般では「結婚して当たり前」、「結婚して一人前」、「結婚はとにかくいいものだ」などと語られています。とにかく、それが良いことだ、として押しつけてきます。特に親は。当然ですよね、親は結婚(あるいはそれに近い状態)で出産をし子育てをしたのですから。でも、まだ結婚していない人からすると

 「結婚て・・・なに???」

となるでしょう。そこで、3つの視点で見てましょう。

①トレード・オフ :利益(ベネフィット)と損失(リスクや被害や費用)を比較して判断する

利益:好きな人と一緒に居られる。周りから一人前を認められる。お互いに助け合える人ができる。
損失:自分の時間がなくなる。自由に使えるお金が減る。親戚との付き合いが増える。

 普通は利益と損益を比較して結婚を考えるのではないでしょうか。

②リスクトレード・オフ :損失と損失を比較して判断する

結婚する損失:自分の時間がなくなる。自由に使えるお金が減る。親戚との付き合いが増える。
結婚しない損失:平均寿命が10年短くなる(統計的事実)。子供を作る機会を失う。仕事ができても認められにくい。

 このように損失同士で比較すると違うことが見えてこないでしょうか。

③リスクヘッジ : どの場合でも出来るだけ損失を少なくなるように判断する
 
結婚しないと寿命が平均10年短くなるのでした方がリスクが低くなる
結婚すると相手に掛かる金銭の損失が出てくる 
結婚した場合、伴侶(はんりょ)との相性が悪いと心身ともにボロボロになり、離婚にも非常に大きなエネルギーがいるというリスクがある(だからしない方がいい)
結婚した場合、伴侶との相性が良いと仕事の能率も質も高くなり、心身ともに充実するので人生のリスクがへる(だからした方がいい)
結婚した場合、老後に自分の怪我や病気を発見してくれる可能性が出てくるのでリスクが減る
結婚しなかった場合、金銭に余裕が生まれ有料老人ホームに入れる入れる可能性が出てくるのでリスクが減る

などなどです。

 結婚する、結婚しないは世間一般の価値観では結婚する、と決まっています。しかし、それを鵜呑みにするのではなく、きちっと3つの視点から自分なりに考えてみるのをお勧めします。具体的に相手が出てくれば、もっと絞り込めるので、さらにお勧めします。
 以上が費用便益分析的な倫理の根源です。一見倫理の根源に見えないかもしれませんが、リスクを最も低くする生き方とは、社会のルールを守る生き方である、と考えるならば、こうした費用便益分析的な考え方が倫理の根源の1つになります。

 -2)心理学的な倫理の根源 

 教育心理学や道徳などで主流である(あった)道徳的発達段階という概念を、L.コールバーグは提案しました。これを説明してみます。

 現在の日本の道徳論、特に大学を中心とする道徳論はアメリカに傾いています。アメリカにはラス等の主体的道徳学習論とコールバーグの「道徳的発達段階」の教育論があります。ラス等の理論は、「子供自身に考えさせて道徳を身に着けさせよう」という考え方です。「自由の選択」や「相手の選択も大事にする」など、およそ道徳とは言えない、権利教育のような内容です。ただ、アメリカは特定の価値観を押し付けられないという多民族国家ならではの苦肉の策とも見られなくはありません。
 これに対してコールバーグは、実際の道徳教育の現場で使える教育論として、「広く生活環境」を、つまり、社会全体が持つ道徳を組み込むように修正します。しかし、キリスト教の価値観などを押し付けることが出来ず、「発達段階」という子供自身に原因を求めます。言葉を換えれば「子供がそのように発達して求めるのだから、それに合った道徳を教えよう」というのです。「道徳が大切だから教えよう」ではないのです。このように根拠理由で『論語』と決定的に異なります。

コールバーグの「道徳的発達段階」
 ではコールバーグの「道徳的発達段階」について述べていきます。六つの段階に分けます。単語は置き換えてあります。「」内は一例です。

一、 罰への志向 :罰を与えられるので道徳を守る 
「罰があるから人を殺さない」
二、 利益への志向 :利益になるので道徳を守る 
「人間関係とは利益になる」
三、 是認の志向 :他人に認められるから道徳を守る 
「良い意図を認めて欲しい」
四、 法の志向 :正しいと認識するから道徳を守る 
「道徳(法)によって社会は維持されている」
五、 社会全体からの志向 :社会全体の利益になるから道徳があり、そのためには道徳(法)を検討することも必要である 
「道徳は社会を維持するためにあるから守る」
六、 尊厳への志向 :道徳を守ることは「公正」や「人格」などの尊厳を守ることにつながるから守る。それゆえ、これに反する道徳は改善しても良い
「人間とは生まれながらにして公正や人格を持ちこれを尊重しなければならない」

六段階ある。また、これは動機で簡単に三つに分けられている。ちなみに他律的道徳、自律的道徳、客観的道徳とは私が当てはめた言葉です。

①  一と二 は、「利益や罰」という他律的な道徳である
②  三と四 は、「自覚や認識」という自律的道徳である。
③  五と六 は、「理由を考えての応用」という客観的道徳である。

 「道徳的発達段階」の例
 具体的事例で考えてみましょう。①「利益や罰」です。子供は、ご飯の時に遊んだり、だらけたりします。この際に罰を与えます。例えば手を「バチン!!」と叩くのです。それで気がつく時もありますし、泣いているだけの時もあります。人間の脳は18歳頃に完成しますから、言ったことが理解できない、というのは当然あることです。泣いていて

「自分はなぜか知らないけれど殴られた」
と思っているだろう、と思ったら、
「どうして叩かれたか分かる?」
と聴きます。
「わからない」
と首を振れば、
「さっき三回ご飯を食べて、と言ったよね」
「・・・うん」
「その時、食べた?」
「食べない」
「だから叩かれたんだよ。分かる?」
「わーかーるー」
という問答となるでしょう。

 これは子供の発達段階が、言葉だけで説明できない段階、あるいは自覚して道徳を守る段階にないから、罰=叩くを与えたのです。コールバーグの道徳的発達段階としての説明です。当時にコールバーグは年齢を重ねているから①から②、③へ進むとは言っていない点が、実際の現場から出てきた空理空論でないと感じます。

 ②の具体的例です。
 うら若きか弱い女性が男子高校の教員になったとしましょう。男子高校生は先生の気を引きたいがために、あるいは肉体的弱者として、言うことを聞かず騒ぎ立てる、という話はよく聴きます。生活指導の体育教師が竹刀を持ってくると同じ内容でもピタリ、と騒がず聞くものです。これは①です。罰を与えられる可能性の低いうら若き女性教員の言うことを聞かない。罰を容易に与えるであろう体育教師の言うこと聞くのです。この段階では他者に道徳の順守を依存するので他律的道徳、とも言い換えあれます。②では発言者に関係なく道徳を守れる段階です。うら若き女性だろうか怖い体育教師だろうが「正しいことは正しい」と自覚して守れる段階です。自覚して道徳を順守するのですから自律的道徳、と言い換えられます。いきなり②になれない、という点をコールバーグが指摘しているのも、なるほど、と納得します。子育てで、いきなり②、③を求めないようにしたいと心がけています。時々、買い物で「お菓子を買って」や「玩具を買って」と強請(ねだ)る幼児に「なんで判らないの!」とか「この前買ってあげたでしょ」という母親を目にしますが、これは①ではなく②をいきなり求めている典型例です。説得という相手の自覚が成り立たない場合は、罰を与えなければならないのです。コールバーグの理論はなかなか射程が広いです。
 ③の具体的例です。
 交通法規で②を考えてみましょう。正しいことを自覚して順守するのが②です。赤信号は渡ってはならない、という交通法規があります。③では「では、どうして交通法規があるのか?」という問いを持ち、その答え「交通法規は人命を守るためである」を理解する段階を指します。それゆえ、その場合場合によって自らの行動が可能になります。
 例えば、目の前の信号は赤信号でした。青になるのを待っていると、向かいの横断歩道をフラフラとご老人が歩き出しています。まだ赤信号です。左方向の遠くから自動車が近付いてきました。
 ②ならば迷って迷って交通法規を遵守するでしょう。あるいは感情によって飛び出すでしょう。

 ③では、「交通法規は人命を守るためにある」だから、目の前で人命が失われようとしているから」と根拠を示し、赤信号を無視してご老人を助けます。
 きちんと根拠を示せること、道徳の根本を理解して場合場合に合わせて行動できること、この二点が②と③の違いです。そしてこれは自分自身の自覚だけではなく、社会全体や道徳の根源をきちんと踏まえているという点で、客観的道徳と言えるでしょう。私はこの先にさらに2つの段階があると考えています。講義では割愛しました。(但し、学生から質問がありましたので、学生コメント集11-1でお答えします。)

 以上が心理学的な倫理の根源です。これはコールバーグが子供の発達段階に道徳の根源を置いたことが読み取れるでしょう。こうした視点は、孔子や仏陀やイエスなどでも行われていました。補足します。

 -3)哲学(宗教)的な倫理の根源

 日本では「宗教」という単語が特殊な使われ方をしていますので、そこを踏まえてから説明していきます。「哲学」も特殊な使われ方です。こちらは興味のある人は別の講義録「哲学6-1」をどうぞ 真ん中辺りの「-哲学の用語」です。
:http://takagikenziro.blog.fc2.com/blog-entry-409.html

日本では、宗教、というと社会と別の話、あるいは歴史や文化に関係がない、と想われがちですが、それは敗戦後教育の結果であり、思いこみに過ぎません。宗教は、歴史や文化の根底を支えるものであり、社会によって明確な違いを生み出す大きな要素の1つです。他の要素としては気候(和辻哲郎『風土』)や、食糧生産構造などが挙げられます。今回は宗教をキーワードに述べていきます。その前に宗教をきちんと定義しておきましょう。

宗教  =「おおもとの考え」→「人は何のために生きるか」、「どうして正しいことをするか」など
宗教教団=「人間の集団」 →「他の人間の教えを伝える」、「組織としてまとまりが大切」など

 日本では宗教教団と宗教が混同されています。宗教が宗教教団としてしか見られていない現状があります。例えば、お盆やお正月は、私達の御先祖様(死者)が帰ってくるので生きている人間がお迎えすること、です。これは宗教です。「死んだら年に2回(あるいはお彼岸も入れて4回)帰ってくる」→「だから正しいことをしよう」という考えに基づきます。これは特定の宗教教団に関係ありませんので、日本国ではお休みになっています。もちろん、宗教の違うインドではお休みではありません。「死者は生まれ変わる」→「善いことをすればよりよく生まれ変われる」→「だから正しいことをしよう」なのです。
 宗教教団は、組織を維持するために寄付や集金を行います。また、継続性を求めるために派閥争いなどもしばしば起こります。宗教は本来「そのままの貴方が素晴らしいのですよ。安心してください。しっかり生きてください」ということを言いますが、組織の維持のために、「お金を出した方が素晴らしいのですよ。不安になって下さい。組織のために生きてください」という要素が入ってきます。お金を出す以外にも、布教して何人勧誘しなさい、などもありますし、酷くなると「壺を幾つ売りなさい」などのノルマまで出てきます。日本人のイメージはこの宗教教団の組織維持の欲求を宗教とみなしているのではないでしょうか。
 ですから、宗教教育というと反発が起こるのです。特定の宗教教団の教育ではないのです。「何が正しいか」、「どうやって自分の人生を考えていけばいいか」という教育なのです。日本だけが宗教教育をしていないのです。日本が敗戦後に国際法に違反して禁止されたことを変えてこなかったからです。教育界の端っこに身を置くものとして高木にも大いに責任があります。

 まず、最初に社会背景としての歴史や文化、あるいは宗教も含めて、以下のような考え方があります。

1)各国が全部バラバラな基準を持っている :倫理は各国ごと

2)各国が宗教で幾つかのグループとなる基準を持っている :倫理は宗教ごと

 となります。
高木が2)である理由をこれまでの講義録で述べてきた主張をさらに深めてみます。それは、

「「人間とは何か?」や「善とは何か?」を決めなければ、善悪を守ることは出来ない」

と考えるからです。言葉を足してみます。

「宗教によって「人間とは何か?」や「善とは何か?」を定義しないと、倫理の善悪を実際に守れない」

ということです。ここで、宗教と宗教教団と信仰の違いが出て来ます。
宗教は誤解されがちですが、「人間とは何なの?」、「善いこととは何なの?」に答えてくれることです。宗教教団はその教えを引き継ぐ集団に過ぎません。人間は弱いので集団になると直ぐに汚くなり、腐敗します。それを引き受けたイエスや仏陀や孔子を高木は尊敬しています。なかなか他人の汚い部分、愚かな部分に寛容になれないでいます。信仰とは、何かを「仰(おっしゃ)ることを信じること」です。ですから、「仰ったことが間違っていても信じることは信仰」になるのです。
 伝統的な宗教でもオウム真理教でも信仰はあります。しかし、宗教=「人間とは何なの?」、「善きこととは何なの?」がありません。
 テロ集団の「善きこと」とは「テロ集団内にとって都合の良いこと」でしかないのです。それは「善きこと」ではありません。さらに、「人間とは何なの?」は、テロ集団にとっては「テロ集団内の人間だけが人間であり、外部の人間は、被害を与えてもいい存在(人間ではない)」という考え方なのです。これは宗教ではありません。イエスが救おうとしたのは「全ての人間」です。仏陀が「善き本性(仏性)を持っているのは男女を問わず全ての人間」なのです。

 さて、現代の日本では、宗教というとキリスト教や仏教だけと考えられがちですが、古代ギリシャの哲学も宗教に基づいています。プラトンという古代ギリシャ人が、『メノン』という本で、
:『メノン』 プラトン著, 藤沢 令夫訳  岩波文庫 こちらのプレビューは15件です。ちなみに600円くらい。

 「徳(善いこと)は教えられうるか」
 「徳(善いこと)とはそもそも何であるか」

 という答えを出しています。この考えを元にプラトンは、当時のアテネの民主主義の現状を嘆きから、「哲学者だけが国家を統治できる」という考えを出します。実際には失敗しますが、身近な例から「善いこととは何か」と考えて具体的な方法を考えたのです。高木が学生の皆さんに「自分の心の声を聞いてほしい」と伝えているのも、こうした点からです。話を元に戻し文を引用します。45-46P 一部平仮名を漢字にしています。改行も。

「人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することは出来ない。

 というのは、まず、知っているものを探求することはありえないだろう。
 何故なら、知っているのだし、ひいてはその人には探求の必要が全くないわけだから。

 また、知らないものを探求するということもありえないだろう。
 何故ならその場合は、何を探求すべきかということを知らないはずだから」

 という議論の前提があります。これは当時議論で相手を負かして民主主義で自分に投票してもらう人々への批判です。こうした言葉遊びが、本当に大切な問題解決へと、あるいは戦略的行動へと移れない原因とプラトンは考えたのです。この言葉遊び、現在の、まさに今の日本にあるのではないでしょうか? これに対してプラトンは「ソクラテス」に(47-48P)、

 「魂は不死だから、死後の国(ハデスの国)とこの世の全てを学んできている。だから「善いものが分かる」」

 と述べます。「死後の世界や魂が滅びない」から、「善いものが分かる」のです。この説明は宗教です。そしてこの説明が、自然科学で説明されることは決してありません。先ほど述べたように、「善きものとは何か?」に宗教が答えた後、倫理が出て来ます。つまり、「死後の国でもこの世でも該当すること=多くの事柄に共通すること」ということです。プラトンは後に、死後の国の方が善いことがある、と言い、独自性を発揮していきます。

 この実例として、数学の図形の証明を持ち出します。正方形の辺が2倍になれば面積は4倍になる。これは元々その人の中にあった推論に基づいているでしょう。というのです。

 以上のように、古代ギリシャの哲学は、「魂の不死」や「魂の輪廻(りんね:生まれ変わり)」や「輪廻による記憶の保持」などを含んでいます。その上で、倫理が出て来ます。たった今の、身の回りの日本で

「魂って生まれ変わるんだよね。死んだ後もあるんだよ。だからね、人間は善いことをしないといけないよ」

というのは、堂々と言えないのではないでしょうか。これが如何に人間の歴史から偏っているか、判ると思います。

 以上が哲学(宗教)的な倫理の根源です。何かを定義しないと、何かの区別が出来ない、という関係が哲学と倫理の関係なのです。

 それゆえ、3つの倫理の根源を述べ終わりました。大分長くなりましたが、本来はさらにもっと広いものです。少しだけ述べられて良かったです。次は、人間性とは何か、です。

 ー人間性とは何か

 3)哲学(宗教)的な倫理の根源から発展する内容です。人間性とは効率性=理性にあるのか、それとも非効率性=理性の崩壊にあるのか、と言う内容です。1)と3)の衝突の面としても見れます。ジョルジョ・バタイユは、非効率性=理性の崩壊にこそ人間性がある、と述べました。彼はスペインの闘牛を見て、述べたのです。スペインの闘牛は、牛の屠殺(とさつ)の効率としては全く不十分です。そして闘牛士が死ぬこともあり、危険も高い行為です。しかし、そこに人間性があるのだ、というのです。闘牛士が殺されるとスペイン全土が悲しみにくれます。そしてその悲しむ瞬間にこそ周りの人との関係が人間的になる、というのです。貴重な命を消費して、非効率的で、あるいは無駄な行為であるがゆえに、人間らしい、というのです。
 これと同じ行為が、主に文化と言われるものです。私はお正月のお賽銭を例として考えています。貴重な金銭を消費して、非効率的で、あるいは無駄な行為であるがゆえに、日本人(人間)らしい、のがお賽銭です。皆さんはお賽銭を投げた時の願い事を覚えているでしょうか。願いが叶った時、お賽銭の御陰だと思うでしょうか。文化と言われるものは殆どこれに当たるのではないでしょうか。近年では、スマホのゲームアプリなどはこれに最も当たるのではないでしょうか。

 --(以上、昨年度の講義録より抜粋終了)--

 以上です。
 

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