哲学7-1 ソクラテスの真なる目的とは
皆様、こんにちは
晩秋の侘しさがある、雨の後の灰色の午後になっています。学生の皆さんに、今日は秋ですか?冬ですか?と聞くと、秋の方が多かったです。立冬が11月8日なので冬です。社会人になれば、時候の挨拶を書くのが礼儀になります。ですから、教えられて良かったなぁ、と感じるのです。視点を換えれば、小学校、中学校、高校で基礎的な素養を身につけてきていない、と観られます。これらの学校の勉強が基礎教育であり、必要不可欠なのは言うまでもありませんが、それ以外に、日本社会の基礎教育も何かの機会に教えることがなかったのだろうか、と疑念を持たざるを得ません。私は、こうして、必要であろう、種を蒔くことにします。私の教育のイメージは種を蒔き続けることです。その種をどのようにするか、は受け取る側によるのです。この例え話を詳しく知りたい人は、新約聖書、例えば『ルカによる福音書』第8章4-15節を読んでみて下さい。
それでは第7回に入ります。
講義連絡
配付プリント B4 1枚
:河合隼雄著『こころの処方箋』 18-21、134-137頁 (「100%正しい忠告はまず役に立たない」「うそは常備薬 真実は劇薬」)
回覧本
河合隼雄著『こころの処方箋』
--講義内容--
前回は、ソクラテスを肉付けしました。3人の証言から観えてくる人間の本質としての欲望、神の声が聞こえた訳などです。こうしたソクラテスは政治家としての側面に過ぎません。そして政治家として考えるならば、ソクラテスは三流四流に過ぎません。これでは二千四百年を超えて尊敬を受ける人物とは言い難いのです。今回は、哲学者としての側面に切り込んでいきます。また、昨年度の講義録を改定しました。
今回の主題は、フュシス、ロゴス、ノモスの意味の提示、そしてソクラテス以前の哲学者とソフィスト、現代の心理学者(河合隼雄氏)、ソクラテス、日本人を整理することにあります。そしてソクラテスがどうして毒杯を飲んだのか、に迫ります。「悪法も法なり」とは法律順守を説いたものではないことを示します。
-古代ギリシャの世界観 フィシス、ロゴス、ノモス
☆「フュシス(自然)」 :全てのもののあり様全般を指します。
:ですから、物質的な自然だけではありません。精神的なあり様も含まれます。
:「自(おの)ずから然(しか)るあり」の意味で、「自分が生成の原因、あるいは運動の原因を自らの内にもつもの」の意味
:本質、本性などの意味もでもあります
:自然(フュシス)=「physis」は、「phyeithai(フユエスタイ)」という動詞から出来ました。動詞の意味は「成る」、「生える」、「生ずる」、「生成する」の意味です。古代ギリシャ人が考えていたのは、「星は自ら生じた」や「四季の移り変わりは、(人間に関わりなく)四季そのもので存在する」と考えたのです。同様に「潮の満ち引き」や「植物の成長枯衰」や「動物の生死」も「潮」や「植物」や「動物」そのものの中に原因があると考えたのです。存在する全ての物が自然の原理によって支配されている、と感じていたのでしょう。
具体例:星、四季、人間、国など
☆「ロゴス」 :「フュシス」の中にある秩序です。
:自然(フュシス)より生成され運動する存在者が持つ秩序
:だたし、多くの意味で使われます。
:Logos
具体例:原子、四季の移り変わりなど
☆「ノモス」 :フュシスからの各自の判断で逸脱したもの
:人間世界だけの特別な性質 各自の判断でフュシスから飛び出したもの。
:本来の現象ではなく、仮の現象という意味で「仮象」とも
:Nomos
具体例:お金、名誉、裁判、民主主義など
3つの具体例①
仁の意味は、人が二人いる、である。この人が二人いる、というのは人は1人では生きられないというあり様を示している=フュシス
人が二人いると、自然と愛し合い、助け合う =ロゴス、あるいは善である
しかし、人間は人が二人いると争いを各自の判断で始めてしまう =ノモス
3つの具体例②
太陽は人間に関わり合うこと無く自らに原因があって、運動して輝いている =フュシス
太陽は全ての存在者に公平に照らす。落ち込んだ時も元気な時も照らす =ロゴス=善 日本では天照大御神
しかし、人間はその公平さを忘れる。太陽が無ければ1日が始まらないことを各人の判断で無視している =ノモス
3つの具体例③
四季は、何か外に原因があるのではなく、巡っている =フュシス
春の次に必ず夏が来る、という秩序がある =ロゴス
しかし、人間は寒い冬を嫌い、暖房を付ける。その暖房を付けるのは各人の判断である =ノモス
―フュシス、ロゴス、ノモスでソクラテス以前の哲学者、ソフィスト(知識人)、現代の心理学者、ソクラテス、を整理
ソクラテス以前の哲学者 ソフィスト 現代の心理学者
(タレスなど)
フュシス 真実 (無視) 真実は劇薬
ロゴス (水、火など) (無視)
ーーーーーー↑激しさが伴うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑危険ーーーーーーーーーーーーーーー
ノモス 仮象 ここだけしか見ない 嘘は常備薬
全ては人間の判断で決まる
①はギリシャ悲劇
オイディプス王など
ソクラテス アテナイの人々
フュシス 否定 (無視)
ロゴス 否定 民主主義
ーーーーーーーーーーーーーーー↓ソフィストの影響でーーーーーー
ノモス 否定 ここだけしか見ない
全ては人間の判断で決まる
ソクラテスはフュシスや
ロゴスさえ否定した。
-ソクラテスがフュシスやロゴスさえ否定した理由
フュシスやロゴスは建前になりうるのです。特にソフィストの口先の上手さが流行っている現状では、「これは本当は相手のためなんだ」と建前を言って、本音は「アテナイの利益になるから」という行動をとるのです。それがペロポンネーソス戦争の大きな原因の1つでした。
日本でも同じことを指す言葉があります。「おためごかし」です。
意味は、「おまえのためなのだよ、とごまかして、自分の利益になることをする」=おまえのため、と、ごまかし=おためごかし、です。
人間は古今東西変わらないのです。その危険性に気が付いて、ソクラテスはそれまでの自然観、世界観の全てを否定しました。それが無限否定性の哲学的な意味なのです。
もちろん、それを理解する人は少なかったのです。ギリシャ人の愛した哲学の欠点は知性がいる、ということです。同じく宗教を愛したユダヤ人の欠点は信じない者は対象外になることでしたし、ローマ人の愛した法律は、心の中の道徳という高い次元は求められないということがありました。それぞれ一長一短があります。ともかくも、当のギリシャ人の自由民でさえ、ソクラテスの真の目的を理解する人は少なかったのです。
日本で言えば、天照大御神を大切にしているけれど、「天照大御神の御心に沿うから」という理由は、どんな場合にも使える、と否定したのがソクラテスなのです。人間が持つ、権威への盲従、権力への服従を徹底して否定した、とも言えるでしょう。ここにソクラテスの哲学者としての意義があります。
以上が本年度改良した説明です。昨年度まで理解できない、というコメントが3割前後でしたが、本年度は1割前後に減って少しほっとしました。それでは昨年度の講義録より補足と、ソクラテスの死について述べていきます。フュシスの補足から入ります。
--(昨年度の講義録より抜粋)--
具体例③
本性や本質は耳慣れた言葉でしょう。物質の本質は原子です。人間の動きの本性は、その人の心です。目に見える色々な存在者の後ろに、それを生み出し動かすもの=本性や本質がある、という考え方です。その本性や本質を「自然」というのです。もう1度書いてみましょう。「自分が生成の原因、あるいは運動の原因を自らの内にもつもの」。古代ギリシャの星座占いも、星座の本質が私達の社会に影響を与えている、と考えているから出くるものです。血液型占いも、血液型という本質(自然)が私達1人1人の性格に影響を与えていると考えるから成立するのです。
具体例④
ここからは逆の発想になります。「自然(本質)⇒存在者」が「存在者⇒自然(本質)」となるのです。そのように考えるのが存在者の本質として自然である、と主張します。「そう考えるのが自然だね」や「そうするのは不自然だよ」です。事物一般の本来あるべき姿を指します。
ある国会議員が天皇陛下に政策批判を書いてある手紙を渡しました。その時、周りの人々は「ギョッ!!」とさせ、顔をこわばらせました。それが不自然だからです。園遊会という政治に関わりのない場であったこと、もう1点天皇陛下に政治上の問題を提起したことです。それが日本社会のおける本来あるべき姿から外れていたので、「そうするのは不自然だよ」と感じたのです。その時、「天皇陛下への政治上の問題提起は請願法によって内閣に提出すべき」だから、ある国会議員の行為にギョッとし、顔をこわばらせたのではないでしょう。私達は、そうした共通に理解している「本来のあるべき姿」を持っているのです。この「本来あるべき姿」が人間世界だけではなく、世界にあてはめるのが「自然(フュシス)」なのです。もう少し説明します。
ライオンは肉食です。ライオンが肉を食べるのは本来あるべき姿です。ですから、ライオンが肉を食べるのは自然だ、となります。ライオンが石を食べるのは「不自然」なのです。①~③に戻れば「ライオンは肉を食べるように生まれ、肉を食べるように行動している」のが自然となります。まとめると「物質的自然ではなく、人間の感覚に基づく万物一般のあり様が自然(フュシス)」なのです。以上の言葉を踏まえた上で、次の言葉を見てみましょう。
「自然とは、人間や都市国家、神々でさえも同じ(自然の)原理によって支配されていると感じていたのでしょう」
古代ギリシャ人の感じていた世界が少しだけでも垣間見えたでしょうか。現代の日本でも通じる感覚だと思います。老子「無為自然」や朱子学の「自然」、松尾芭蕉「造化にしたがひ、造化にかへる」、親鸞「自然法爾(じねんほうに)」、安藤昌益「自然真営道」(次回述べます)なども近い感覚です。また、日本の物語が書いてある『古事記』では、2番目3番目に登場する神の御名が「タカミムスヒノカミ」と「カミムスヒノカミ」です。前に国歌「君が代」で「ムスヒ」を説明しました。この「ムス」とは「成る」や「生む」の意味です。2柱(神様は柱で数える)の神で2つの原理で生み出されるのです。最初の神は「時間空間を生み出す神(原理)」です。
-ロゴスとは
ロゴス(Logos)とは、「法理、原理、論理」などに訳されますが、古代ギリシャでは「自然(フュシス)」に従うこと、沿うことを指し、それが善という意味も含んでいます。ただし、多義性を含んだ言葉でもあります。先ほどの例で行きましょう。
例えば「朝になれば日が昇るのは自然なことだよ」 → 日が昇るのは善である
例えば「人間ならば人にやさしくしたい気持ちを持つのは自然なことだよ」 → 優しい気持ちを大切にするのは善である
例えば「おごり高ぶった人々は滅びるのが自然なことだよ」 →驕らないように気を付けるのは善である あるいは、驕った人は滅びるのが善である
となります。
自然(フュシス)が万物一般のあり様、ですから、それに沿うことが善になります。それに沿うか沿わないか、の基準があります。ライオンが肉を食べるように秩序=ロゴスがあります。星が北極星を中心にして回転する、という秩序=ロゴスがあります。それぞれの星が1つ1つバラバラに、そしてランダムに動き回る訳ではないのです。四季の移り変わりも、必ず春⇒夏⇒秋⇒冬⇒春となっています。春⇒冬⇒秋⇒春⇒夏というバラバラ、そしてランダムではないのです。その四季の運行に合わせて、植物は花を咲かせ、実を付けます。動物はそれらを食べて生活します。これらには秩序=ロゴスがあります。つまり、
ロゴス(Logos):自然(フュシス)より生成され運動する存在者が持つ秩序
多くの意味で使われます。支那や日本では単に「理」や「法」や「理法」などで使われますが、こちらも多義です。先ほど、「自然(フュシス)」が時代や社会を超えていることを述べました。「人は大自然から生まれてきて、大自然に還る」という言葉から、「大自然に従って生きる」が出てきますが、この「従って生きる」が「ロゴス(理法)」に対応するものです。「従って生きる」ことが善である、という意味も出てきます。
人は人から生まれます。決してライオンや桜からは生まれません。それが「自然(万物一般のあるべき姿)」だからであり、人から人が生まれる、という秩序=ロゴスに従っているからです。人は独りでは生きていけません。ですから、人を愛し、同時に人と争うように秩序=ロゴスがあるのです。しかし、ここから曖昧さが出てきます。
―ロゴスの欠点
ロゴスに従う、と言いますが、実は欠点が出てきます。ロゴスは曖昧さ、成り行き任せな面があるのです。人を愛し、同時に争う、と言いますが、では「どのように愛したら善いのか?」という目標を決めることが難しくなります。「どのように」や「どうやって行けば善いか」という積極性、計画性などが入り難いのです。なぜなら、どのような状態であっても「それは自然だよね」とか「それは当然だよね」と言ってしまえば、肯定できてしまうからです。ロゴスの欠点は全ての現状を肯定できることです。
現代日本では電車は正確に時間通り運行されていて世界中から絶賛されています。しかし、日本にいれば「それが自然だよね」や「それは当然だよね」となります。他方、他の国では「正確に時間通りに運行されないことが当たり前」なのです。「それが自然だよね」となるのです。その訳として色々挙げることは出来るでしょう。「荷物の積み込みの仕組みが悪い」とか「電車の職員の給料が低くて職業モラルが低い」とか「そもそも電車はそういう仕組みが前提で運行されている」とかです。こうなると、
「電車が正確に運行される」⇒「それは自然だよね」
「電車が正確に運行されない」⇒「それは自然だよね」
となってしまうのです。全ては成り行き任せ、現状肯定になってしまう欠点があります。ソクラテスがアテナイのソフィストと民衆全員を、つまり民主政治を根本的に批判したのも、この「成り行き任せ」や「現状肯定」にあったのです。哲学的に言うと、ソクラテスはアテナイの人々の世界観、万物一般のあるべき姿を批判したのだ、ということです。
―ロゴス(理法)と現在の「理性」の意味の違い
以上のことから、自然(フュシス)の秩序としてのロゴス(理法)は、現在の私達が使っている「計画」や「目標」などとは違うことが判ります。アルバイトや仕事で「売り上げ目標100万円」と計画して、ではどのように仕事を改善するか、という「目標」設定とは異なるのです。「電車は正確に運行される」ように計画しなければならない、というのは理性です。ロゴス(理法)は自然(フュシス)から生じる秩序なのですが、「何が自然なのか?」という定義付けがなく、それゆえロゴスも曖昧なままなのです。古代ギリシャの、あるいは世界中の「自然だよね」という考え方には、このような曖昧さがあるのです。
―現代日本の自然の二重性
現在の日本でもこのような曖昧さがある一方で、世界一正確な電車の運行が行われています。この点は日本の素晴らしい特徴であると、はっきりと判ってきます。現代の日本人の多くは、「日本を独立国、日本は世界平和に貢献するために強い国にする」と「日本は世界の中で弱い国で良い。軍隊もいらない」という明確な目標で政治家に投票しません。けれども、電車は正確に運行されなければならないという明確な目標を掲げて実行できるのです。ロゴスの二重性が現代日本の特徴なのかもしれません。
―ノモスとは
ロゴスは自然(フュシス)から生み出される秩序でした。
対してノモス(nomos)は人間世界で生み出されたものです。言い方を替えれば人間だけの特別な性質を指します。人間だけが各自の判断で「ロゴスから逸脱できる」と古代ギリシャの人々は考えたのです。ですから、ノモスとは人間社会に特有なもの、特有な価値判断を指します。ロゴスという自然の秩序から逸脱したものをノモスと言います。ここから、ノモス=仮象(仮の現象)が出てきます。
「人間は自然から生み出された存在者であるのに、その秩序(ロゴス)から逸脱しているノモスは、仮の現象に過ぎないのだ」というのです。
人間社会では人間だけの判断基準で価値判断や意味が決定されています。人間社会だけで考えると、有効性や力だけで判断することになります。法律や習慣や制度、民主主義や専制主義なども有効性や力だけで判断するのです。「有効性」や「力」などは曖昧で、当事者によって意味内容が変わりますから、どうしても成り行き任せになってしまいます。これが古代ギリシャの堕落した原因の1つであったでしょう。もう少し具体的に、古代ギリシャでも現代日本でも使われている貨幣、お金でノモスを見ていきます。
―貨幣というノモス
判りやすい例は、貨幣でしょう。貨幣は人間社会に特有の現象で、互いの信頼によって成立しています。お札が物と交換できる、という幻想によって成立しているのが貨幣です。ですから、大震災や大災害など互いの信頼が崩壊した状態では、お札は物と交換できなくなります。震災時、お札の価値は、火を燃やすくらいしかなく、1万円相当の1週間分の食料に相当しないのです。
しかしながら、人間社会では貨幣が定着すると、貨幣そのものを追求するようになります。「お金はあればあるだけよい」と考えるようになるのですが、ロゴスと対比させると「お金とは所詮、生活していくために便利なものに過ぎない」となるのです。
現代日本で考えてみましょう。「生活していくために便利なもの」ですから、70歳、80歳になっても1000万円、1億円と多額な貯金をしておくのは、お金に執着しているからだ、となるのです(倹約が目的の場合は別として)。あるいは、結婚の時の年収が多ければ多いほど良い、というのもノモスです。例えば私は年間300万円で充分生活できる、相手は350万円の場合、余裕分150万円を入れると年収800万円あれば「生活していくには充分」になります。しかし、800万円よりは2000万円、2000万円よりは1億円の年収が欲しい、と人は、欲しい欲しい、になるのです。
自然界の動物の多くは、生存に必要な餌以上は取ろうとしません。あるいは際限なく、欲しい欲しい、と取ろうとしません。必要以上に、際限なく取ると結局餌が少なくなってしまい、長期の生存確率が低くなってしまうからです(ロゴス)。動物はこのように自然の秩序(ロゴス)に従って生きているのに、人間は際限なく欲しい(ノモス)というのです。そしてこの姿が人間世界だけのものであり、仮の姿に過ぎない=仮象であると考えたのです。人の為の世界です。「偽(にせ)」とは「人の為」と書きますから、同じような思想を共有していたのかもしれません。
―ソクラテスとノモス、全ての指導者を批判した理由
ソクラテスは、ノモスとロゴスを含めた自然観を否定しました。成り行き任せになってしまうからです。結論は以上ですが、ここからはノモスとソクラテスを見ていきましょう。ソクラテスが無限否定性で民主主義も専制主義も全ての主義を批判したのは、所詮それがノモスだったからです。民主主義も専制主義も所詮人間が作り出した考え方に過ぎません。その人間が作り出した考え方=ノモスでは、駄目だ、というのです。ですから、民主主義も専制主義もどちらも批判の対象となったのです。全ての政治指導者を批判したのは、どの指導者も、フュシスの自然観に基づいた考え方だったからです。民主主義であるか専制主義であるか、は人間の基準、つまり有効であるか、力が伸びたか、という基準で判断していると言うのです。動物には民主主義も専制主義もないのです。その民主主義や専制主義を理由に対立して、島民の全員虐殺などを起こすのは可笑しいことなのです。少しロゴスよりになりましたが、もう少し対立させてみましょう。
―大学のノモスとロゴス
同じように何も考えない人、何も行動しない人も批判の対象になります。この人々も人間が死ぬ、人間は独りで生きられない、というロゴスを忘れているのです。学生の皆さんは何のために大学に来たのでしょうか? 簡単に単位をとって将来お金を沢山えるためでしょうか? つまり、自分の利益の駄目でしょうか。もちろん子供の世界の内はそれで良いと思います。けれども、人は死ぬのです。そういう風に秩序(ロゴス)が決められているのです。その真なる秩序を忘れて、自分のお金だけを基準に行動して良いのでしょうか。つまり、ロゴスを忘れてノモスだけで良いのでしょうか。ソクラテスの批判したソフィストは、ノモスだけを見るように仕向けた人々でした。
現代日本で言えば、民主党が選挙で大勝した時、「子供手当て」を目玉にしていました。つまり、「自分にお金をくれるならいい」という判断を日本国民は下した訳です。事業仕分けがありましたが、自民党時代にも経費削減で毎年5000億円かそれ以上削っていました民主党の党首交代を見れば1年程度で自民党よりもくるくると変わっていて強い基盤がないのは明らかでした。民主党が「政治主導」と言いましたが、議員の秘書やブレーンが自民党よりも少ないのも明確でした。けれども、私達日本人は「自分にお金をくれるならいい」という理由、もう1つ「自民党は駄目だから変えてみるか」という理由で政権を民主党に渡したのです。TVは麻生総理と鳩山党首の党首討論を一部しか報道しませんでしたし、内容を歪曲していました。もちろん、マスコミをそのまま信じる点でも日本国民には重い責任があります。しかし、それを反省している日本国民が果たして何割いるでしょうか。
-問1 ノモスを3つ挙げ、それぞれ理由を書いてください。
ロゴス:「真」=「人は先祖から生まれた」ですから、ロゴスでは「そんなことをしてご先祖様に恥ずかしいよ」です。「死んだ後、おばあちゃんにおじいちゃんに逢った時になんて言うか考えてごらん」という台詞になります。「その行為は自然なの?」と反省するのです。
ノモス:「人に嫌われるかどうか」です。「人に嫌われるかどうか」は感情です。感情は揺れ動くものです。「お金損するかなぁ」、「仕事辞めさせられるか」という判断基準です。科学技術者の倫理で大きな問題になっています。
―ダイエット、動物と人間のロゴスとノモス
動物は本能のままに生きています。現在はボノボのように売春やホモセクシャルなどが見つかっていますが、少数です。動物は生殖行動をする時、相手に強さを求めます。
動物:強さを求める:肉体の強さ、生殖能力の強さなど
人間:強さを求めるが時として弱さを求める
動物が強さを求めるのは、例えばオットセイが雄同士ぶつかり合い勝者が多くの雌を獲得することで判ります。鹿でも雄同士の喧嘩があります。他方人間は、弱さを求めることがあります。現代日本で思いつくのはダイエットです。適度な運動と充分な食事によって肉体的な強さが生じますが、現代日本のダイエットは、体重の数値目標、体型の整形などを目的としています。ダイエットで使われるのは、1つの食品や少数の栄養素だけに注目した栄養補助食品です。それによって体重の数値目標や、体型の整形は保たれるでしょうが(往々にして失敗するとよく聴きますが)、肉体的な強さは低下します。
若い時は痩せていて中年になれば太るのは当然なのです。なぜなら代謝が変わるからです。けれども、体重の数値目標を若いままで設定すると、中年の肉体には「不自然」な力をかけなければなりません。つまり、ノモス(人間世界の基準、この場合は体重設定など)だけを見て、ロゴス(この場合は人間が老いること)を忘れてしまっているのです。
体重など人間が「キログラム」を設定した数値に過ぎません。大切なのは肉体的な強さなのです。しかし、人間世界ではロゴスの理論が通らないことが往々にしてあるのです。
―整形、ボディービルダー、見た目の美しさ
整形も同様でしょう。男性ならばボディービルダーも同様でしょう。筋肉の強さを測っていたのですが、筋肉そのものの美しさを競います。油をつけてより美しさを強調するのです。しかし、ボディービルダーの筋肉は、重い物を持ち上げたり、瞬発力を生み出したりする肉体的な強さには通じないのです。こうしたものは所詮人間世界の判断基準で時代や社会によって簡単に変化します。
中世のヨーロッパは非常に貧しい地域の1つでしたから、庶民は痩せてガリガリでした。ですから、太った女性が美しいとされていたのです。19世紀を過ぎると加工食品が登場し、砂糖や脂肪を大量に使った食品が溢れてきます。すると太った人が増えてくるのです。世界で一番太っている人の割合が多いのがアメリカで、7割にも及びます。ハンバーガーなどのファーストフードを始め、加糖ブドウ糖液が入った飲料や、ピザ、グラタンなどが日常生活に溢れています。そうなると、痩せた女性が美しい、と社会の価値判断が逆転するのです。上流階級では「スプーンを持つ以上の手はいらない」とさえ言われるそうです。
―ソクラテス裁判の真なる理由 アルキビアデースと衆愚政治
先に問いを出します。
問2 どういう人が社会全体にとって害がある人でしょうか
沢山の正答がありますが、ソクラテスの裁判の事例で見ていきましょう。ペロポンネーソス戦争はアテナイ側とスパルタ側の戦争でした。その中で注目すべき人物がいます。アルキビアデースという人物です。
名門、知性、美しい肉体、美貌(びぼう)、弁舌、愛嬌、激しい気質で万人に愛されました。『反哲学史』の木田元先生は「しかし、ソクラテスの教えを受けたにもかかわらず、この人にはどこか決定的に駄目なところがあったようです」と書いています。「どこか」を「意志薄弱」の観点から探しにいきましょう。
25歳で3人の将軍の1人となりました。現在なら官房長官や財務大臣でしょう。25歳ですから凄いことが判ります。功をあせって攻撃を計画し議会も承認します。しかし、前日に酒を飲み神の像を壊します。みんなにおめでとう、と祝ってもらって像を壊してしまったのです。「そんなことはいけない!」と強く言うことが出来なかったのでしょうか。「戦争の後で弁明をします」と言って一旦は外征しますが、途中で連れ戻されます。その後の戦闘には加わらなかったものの、大失敗をして餓死者もだしました。すると追っ手を買収して、敵国のスパルタに逃げ込みます。敵国を強く憎んでいれば決して出来ない行為です。
すると、祖国アテナイの軍事情報を売って、知性がありますからアテナイを倒す作戦を提案します。これも「このままだとスパルタに何時裏切られるか判らないぞ」と脅されて、意志が弱くて断れなかったのでしょうか。さらに、スパルタの王妃との間に子供をもうけます。眉目秀麗(びもくしゅうれい)で女性にもてたのでしょう。「王妃様、それはいけません」と断れなかったのでしょうか。すると、今度はペルシャに逃げ、アテナイとスパルタの共倒れを策謀します。これも脅されたのでしょうか。さらに、ペルシャから逃げて、アテナイの海軍基地に逃げ込み、弁舌で指揮官になり戦果を挙げてアテナイに帰還します。アテナイ市民もこれを迎えます。さらにアテナイが負けそうになると小アジアに逃げて、最後はスパルタの暗殺者に殺されてしまいます。
私は木田先生の「どこか」を「意志薄弱」と見ました。つまり、「脅されたり強く出られたりすると断れない」という意志の弱さです。アルキビアデースは名門で知性も美貌もあるので万人に愛されるから、その意志の弱さが多くの人に影響を与えてしまったと考えます。
ソクラテス裁判の真の理由は、アルキビアデースがペロポンネーソス戦争で拡大させ敗戦に追い込む大きな要因になったのにも関わらず、民衆が反省せずにソクラテスに押し付けたことでした。アルキビアデースがソクラテスの弟子、というだけなのです。表の理由には「青年に害悪を与えた」とあります。しかし、スパルタの王は「過去の戦争責任を問うてはいけない」と宣言しており、直接問うことは出来なかったのです。そしてアルキビアデースを将軍に選出したのも、裏切った彼を向かいいれたのも民衆です。それを反省せずに、誰に責任を押し付けようとしたのです。ユリウス・カエサルの「人はほっとすることを簡単に信じる」という言葉が大きくのしかかってきます。いつも嫌味を言っているソクラテスに責任を押し付ければ、自分達の失敗を見ないですむ、とソクラテスは処刑されたのです。これは典型的な衆愚政治です。
―衆愚政治と宮崎勤
現代の日本でも同様の例があります。少し前ですが、宮崎勤(つとむ)という連続幼女誘拐殺人事件がありました。関東圏での事件で大きく報道されました。彼が逮捕され自宅に報道陣が押しかけると彼の部屋に大量のアダルトビデオのカセットテープがありました。すると、民衆やマスコミは「アダルトビデオがある人は異常になるんだ」というまことしやかなことを言い出しました。そこでアダルトビデオ規制の風潮が出来ました。しかし、アダルトビデオの普及率と性犯罪率の低下には統計的な相関関係があります。因果関係である、ということは出来ませんが、何らかの関係があると推測できます。しかし、これと逆の風潮が出てきたのです。なぜならば「アダルトビデオを規制すれば、今後このような犯罪は起きない」という考え方に民衆がほっとするからです。何か問題が起こると、それが個別事象であったとしても全体の問題として錯覚し、規制すれば何とかなるという構図が出てくるのです。この考え方が民主主義を衆愚政治に貶(おとし)める大きな原因の1つです。
ちなみに、宮崎勤の裁判では彼のおじいちゃんの死亡が大きな原因として挙げられています。精神鑑定は2つが正反対の答えを出しましています。これを見る限り彼の個人的な環境が大きな原因であることが推測されます。しかしながら、民衆は「人はほっとすることを簡単に信じる」という態度から誤解するのです。警察が絡むマスコミの誤報は松本サリン事件などでも顕著です。
―3つの犯罪者のタイプ、再犯率から
犯罪者には色々なタイプがいますが、再犯率から3つのタイプを見てみます。
A) 自己愛タイプ
自分優先で周りを下に見るタイプですが、周り人々は自己愛の強さが見えることが多く、再犯になる可能性が高くはありません。雰囲気で「あ、この人ちょっとヤバイ」と察する能力が人間には備わっています。
B)強迫観念タイプ
見捨てられるのならば裏切ったほうが良い、あるいは裏切って当然だ、と思い込むタイプです。1回の約束のキャンセルで「ああ、あの人は私のことを見捨てた」と思い込み、「捨てられるのならば、これくらしてもいい。あるいは当然だ」と思い込みます。勝手に脳内変換をしてしまうのです。具体例として全都道府県の旅行の話をしましたが割愛します。
C)意志薄弱タイプ
アルキビアデースのタイプです。基本的に従順そうで人当たりがよく、周りから好かれることもあります。その点、A)やB)とは異なります。しかしながら、自分がないため周りに流されやすく、犯罪も誘われると断りきれなくて行ってしまいます。例えば、浮気も相手から誘われると断りきれずに行ってしまう、という具合です。そのことを付き合っている相手に責められると「申し訳なかった」と大反省するのですが、それは怒られたからであって、自分が悪かった、と反省をしません。なぜなら「自分」という意志が弱いからです。ですから、相手の怒りが冷めると責任はどこかえ消えてしまい、誘われると、浮気をしてしまうのです。A)ならば反省せずに「俺はそうしたかったんだ」とか「お前は好きではなかった」などの自己正当化に走ります。
C)タイプは「自己反省」がないために、罪の意識が薄く再犯率が高くなります。
-ヒトラーとアルキビアデース
私はヒトラーはアルキビアデースに見えてなりません。ヒトラーは芸術家を目指しますが、結局挫折します。そして兵役に就き認められたのでその方向を目指すのです。彼の弁舌の巧さがあり、アルキビアデースのようです。権力の座を一気に駆け上がります。しかし、権力の座について見ると、欲しいままに権力をふるえる地位に就きましたが、経済政策は経済の専門家に丸投げします。それが結果的にドイツの復興を速め、世界で最も速く世界同時不況から脱することになります。それも私には意志薄弱に映ります。そして第二次世界大戦末期、ヒトラーは部屋にこもるようになります。これも自己愛が強いタイプなら権力をほしいままにするのですから、このようなことはありえません。結局彼は敗戦直前に全権力を自己愛タイプの部下に簒奪(さんだつ)されます。これはアルキビアデースが友人と酒を飲み、断りきれずに神像を壊す場面と同じ心理状態に映るのです。アルキビアデースは3人のうちの将軍について見たけれど、結局怖くなってしまったのです。彼の立案した作戦で失敗しても「ごめんなさい」と謝ればアテナイ市民は許したでしょう。しかし、彼は失敗が怖かったのではなく権力を握った、それが怖かったのではないでしょうか。ヒトラーの末期と被ります。
最後に、学生の皆さんに見分け方を話しました。意志薄弱タイプは日常生活で見分けるのは、遅刻が多いことです。遅刻をしたことを怒ると、その場は「反省します」が、怒りが収まると見ると、また遅刻を繰り返します。自己反省がないのです。また、金銭にルーズなことも挙げられます。大分怒ってせかすと返しますが、「そんなに怒らなくてもいいのに」という一言をいうタイプです。彼にしてみれば「意志が弱い」のですから、「怒ると損」や「怒るほど力を使わないで欲しい」という思考になのでしょう。
―道元と孔子と意志薄弱
道元が「日常生活の中の動作を大切にした」のは、このような意志薄弱を相手にしていたのではないか、と推測してしまいます。道元と意志薄弱を結びつける言葉は、「習いこれ性となる」=「きちっと習慣はきちっとした性格を作る」という言葉です。
学生の皆さん、是非ともしっかりとした習慣を身に着けて欲しいものです(高木は大分挫折していますが)。
-問3 感想 ソクラテスについて
ーー(以上が昨年度の講義録より抜粋です)--
以上です。
晩秋の侘しさがある、雨の後の灰色の午後になっています。学生の皆さんに、今日は秋ですか?冬ですか?と聞くと、秋の方が多かったです。立冬が11月8日なので冬です。社会人になれば、時候の挨拶を書くのが礼儀になります。ですから、教えられて良かったなぁ、と感じるのです。視点を換えれば、小学校、中学校、高校で基礎的な素養を身につけてきていない、と観られます。これらの学校の勉強が基礎教育であり、必要不可欠なのは言うまでもありませんが、それ以外に、日本社会の基礎教育も何かの機会に教えることがなかったのだろうか、と疑念を持たざるを得ません。私は、こうして、必要であろう、種を蒔くことにします。私の教育のイメージは種を蒔き続けることです。その種をどのようにするか、は受け取る側によるのです。この例え話を詳しく知りたい人は、新約聖書、例えば『ルカによる福音書』第8章4-15節を読んでみて下さい。
それでは第7回に入ります。
講義連絡
配付プリント B4 1枚
:河合隼雄著『こころの処方箋』 18-21、134-137頁 (「100%正しい忠告はまず役に立たない」「うそは常備薬 真実は劇薬」)
回覧本
河合隼雄著『こころの処方箋』
--講義内容--
前回は、ソクラテスを肉付けしました。3人の証言から観えてくる人間の本質としての欲望、神の声が聞こえた訳などです。こうしたソクラテスは政治家としての側面に過ぎません。そして政治家として考えるならば、ソクラテスは三流四流に過ぎません。これでは二千四百年を超えて尊敬を受ける人物とは言い難いのです。今回は、哲学者としての側面に切り込んでいきます。また、昨年度の講義録を改定しました。
今回の主題は、フュシス、ロゴス、ノモスの意味の提示、そしてソクラテス以前の哲学者とソフィスト、現代の心理学者(河合隼雄氏)、ソクラテス、日本人を整理することにあります。そしてソクラテスがどうして毒杯を飲んだのか、に迫ります。「悪法も法なり」とは法律順守を説いたものではないことを示します。
-古代ギリシャの世界観 フィシス、ロゴス、ノモス
☆「フュシス(自然)」 :全てのもののあり様全般を指します。
:ですから、物質的な自然だけではありません。精神的なあり様も含まれます。
:「自(おの)ずから然(しか)るあり」の意味で、「自分が生成の原因、あるいは運動の原因を自らの内にもつもの」の意味
:本質、本性などの意味もでもあります
:自然(フュシス)=「physis」は、「phyeithai(フユエスタイ)」という動詞から出来ました。動詞の意味は「成る」、「生える」、「生ずる」、「生成する」の意味です。古代ギリシャ人が考えていたのは、「星は自ら生じた」や「四季の移り変わりは、(人間に関わりなく)四季そのもので存在する」と考えたのです。同様に「潮の満ち引き」や「植物の成長枯衰」や「動物の生死」も「潮」や「植物」や「動物」そのものの中に原因があると考えたのです。存在する全ての物が自然の原理によって支配されている、と感じていたのでしょう。
具体例:星、四季、人間、国など
☆「ロゴス」 :「フュシス」の中にある秩序です。
:自然(フュシス)より生成され運動する存在者が持つ秩序
:だたし、多くの意味で使われます。
:Logos
具体例:原子、四季の移り変わりなど
☆「ノモス」 :フュシスからの各自の判断で逸脱したもの
:人間世界だけの特別な性質 各自の判断でフュシスから飛び出したもの。
:本来の現象ではなく、仮の現象という意味で「仮象」とも
:Nomos
具体例:お金、名誉、裁判、民主主義など
3つの具体例①
仁の意味は、人が二人いる、である。この人が二人いる、というのは人は1人では生きられないというあり様を示している=フュシス
人が二人いると、自然と愛し合い、助け合う =ロゴス、あるいは善である
しかし、人間は人が二人いると争いを各自の判断で始めてしまう =ノモス
3つの具体例②
太陽は人間に関わり合うこと無く自らに原因があって、運動して輝いている =フュシス
太陽は全ての存在者に公平に照らす。落ち込んだ時も元気な時も照らす =ロゴス=善 日本では天照大御神
しかし、人間はその公平さを忘れる。太陽が無ければ1日が始まらないことを各人の判断で無視している =ノモス
3つの具体例③
四季は、何か外に原因があるのではなく、巡っている =フュシス
春の次に必ず夏が来る、という秩序がある =ロゴス
しかし、人間は寒い冬を嫌い、暖房を付ける。その暖房を付けるのは各人の判断である =ノモス
―フュシス、ロゴス、ノモスでソクラテス以前の哲学者、ソフィスト(知識人)、現代の心理学者、ソクラテス、を整理
ソクラテス以前の哲学者 ソフィスト 現代の心理学者
(タレスなど)
フュシス 真実 (無視) 真実は劇薬
ロゴス (水、火など) (無視)
ーーーーーー↑激しさが伴うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↑危険ーーーーーーーーーーーーーーー
ノモス 仮象 ここだけしか見ない 嘘は常備薬
全ては人間の判断で決まる
①はギリシャ悲劇
オイディプス王など
ソクラテス アテナイの人々
フュシス 否定 (無視)
ロゴス 否定 民主主義
ーーーーーーーーーーーーーーー↓ソフィストの影響でーーーーーー
ノモス 否定 ここだけしか見ない
全ては人間の判断で決まる
ソクラテスはフュシスや
ロゴスさえ否定した。
-ソクラテスがフュシスやロゴスさえ否定した理由
フュシスやロゴスは建前になりうるのです。特にソフィストの口先の上手さが流行っている現状では、「これは本当は相手のためなんだ」と建前を言って、本音は「アテナイの利益になるから」という行動をとるのです。それがペロポンネーソス戦争の大きな原因の1つでした。
日本でも同じことを指す言葉があります。「おためごかし」です。
意味は、「おまえのためなのだよ、とごまかして、自分の利益になることをする」=おまえのため、と、ごまかし=おためごかし、です。
人間は古今東西変わらないのです。その危険性に気が付いて、ソクラテスはそれまでの自然観、世界観の全てを否定しました。それが無限否定性の哲学的な意味なのです。
もちろん、それを理解する人は少なかったのです。ギリシャ人の愛した哲学の欠点は知性がいる、ということです。同じく宗教を愛したユダヤ人の欠点は信じない者は対象外になることでしたし、ローマ人の愛した法律は、心の中の道徳という高い次元は求められないということがありました。それぞれ一長一短があります。ともかくも、当のギリシャ人の自由民でさえ、ソクラテスの真の目的を理解する人は少なかったのです。
日本で言えば、天照大御神を大切にしているけれど、「天照大御神の御心に沿うから」という理由は、どんな場合にも使える、と否定したのがソクラテスなのです。人間が持つ、権威への盲従、権力への服従を徹底して否定した、とも言えるでしょう。ここにソクラテスの哲学者としての意義があります。
以上が本年度改良した説明です。昨年度まで理解できない、というコメントが3割前後でしたが、本年度は1割前後に減って少しほっとしました。それでは昨年度の講義録より補足と、ソクラテスの死について述べていきます。フュシスの補足から入ります。
--(昨年度の講義録より抜粋)--
具体例③
本性や本質は耳慣れた言葉でしょう。物質の本質は原子です。人間の動きの本性は、その人の心です。目に見える色々な存在者の後ろに、それを生み出し動かすもの=本性や本質がある、という考え方です。その本性や本質を「自然」というのです。もう1度書いてみましょう。「自分が生成の原因、あるいは運動の原因を自らの内にもつもの」。古代ギリシャの星座占いも、星座の本質が私達の社会に影響を与えている、と考えているから出くるものです。血液型占いも、血液型という本質(自然)が私達1人1人の性格に影響を与えていると考えるから成立するのです。
具体例④
ここからは逆の発想になります。「自然(本質)⇒存在者」が「存在者⇒自然(本質)」となるのです。そのように考えるのが存在者の本質として自然である、と主張します。「そう考えるのが自然だね」や「そうするのは不自然だよ」です。事物一般の本来あるべき姿を指します。
ある国会議員が天皇陛下に政策批判を書いてある手紙を渡しました。その時、周りの人々は「ギョッ!!」とさせ、顔をこわばらせました。それが不自然だからです。園遊会という政治に関わりのない場であったこと、もう1点天皇陛下に政治上の問題を提起したことです。それが日本社会のおける本来あるべき姿から外れていたので、「そうするのは不自然だよ」と感じたのです。その時、「天皇陛下への政治上の問題提起は請願法によって内閣に提出すべき」だから、ある国会議員の行為にギョッとし、顔をこわばらせたのではないでしょう。私達は、そうした共通に理解している「本来のあるべき姿」を持っているのです。この「本来あるべき姿」が人間世界だけではなく、世界にあてはめるのが「自然(フュシス)」なのです。もう少し説明します。
ライオンは肉食です。ライオンが肉を食べるのは本来あるべき姿です。ですから、ライオンが肉を食べるのは自然だ、となります。ライオンが石を食べるのは「不自然」なのです。①~③に戻れば「ライオンは肉を食べるように生まれ、肉を食べるように行動している」のが自然となります。まとめると「物質的自然ではなく、人間の感覚に基づく万物一般のあり様が自然(フュシス)」なのです。以上の言葉を踏まえた上で、次の言葉を見てみましょう。
「自然とは、人間や都市国家、神々でさえも同じ(自然の)原理によって支配されていると感じていたのでしょう」
古代ギリシャ人の感じていた世界が少しだけでも垣間見えたでしょうか。現代の日本でも通じる感覚だと思います。老子「無為自然」や朱子学の「自然」、松尾芭蕉「造化にしたがひ、造化にかへる」、親鸞「自然法爾(じねんほうに)」、安藤昌益「自然真営道」(次回述べます)なども近い感覚です。また、日本の物語が書いてある『古事記』では、2番目3番目に登場する神の御名が「タカミムスヒノカミ」と「カミムスヒノカミ」です。前に国歌「君が代」で「ムスヒ」を説明しました。この「ムス」とは「成る」や「生む」の意味です。2柱(神様は柱で数える)の神で2つの原理で生み出されるのです。最初の神は「時間空間を生み出す神(原理)」です。
-ロゴスとは
ロゴス(Logos)とは、「法理、原理、論理」などに訳されますが、古代ギリシャでは「自然(フュシス)」に従うこと、沿うことを指し、それが善という意味も含んでいます。ただし、多義性を含んだ言葉でもあります。先ほどの例で行きましょう。
例えば「朝になれば日が昇るのは自然なことだよ」 → 日が昇るのは善である
例えば「人間ならば人にやさしくしたい気持ちを持つのは自然なことだよ」 → 優しい気持ちを大切にするのは善である
例えば「おごり高ぶった人々は滅びるのが自然なことだよ」 →驕らないように気を付けるのは善である あるいは、驕った人は滅びるのが善である
となります。
自然(フュシス)が万物一般のあり様、ですから、それに沿うことが善になります。それに沿うか沿わないか、の基準があります。ライオンが肉を食べるように秩序=ロゴスがあります。星が北極星を中心にして回転する、という秩序=ロゴスがあります。それぞれの星が1つ1つバラバラに、そしてランダムに動き回る訳ではないのです。四季の移り変わりも、必ず春⇒夏⇒秋⇒冬⇒春となっています。春⇒冬⇒秋⇒春⇒夏というバラバラ、そしてランダムではないのです。その四季の運行に合わせて、植物は花を咲かせ、実を付けます。動物はそれらを食べて生活します。これらには秩序=ロゴスがあります。つまり、
ロゴス(Logos):自然(フュシス)より生成され運動する存在者が持つ秩序
多くの意味で使われます。支那や日本では単に「理」や「法」や「理法」などで使われますが、こちらも多義です。先ほど、「自然(フュシス)」が時代や社会を超えていることを述べました。「人は大自然から生まれてきて、大自然に還る」という言葉から、「大自然に従って生きる」が出てきますが、この「従って生きる」が「ロゴス(理法)」に対応するものです。「従って生きる」ことが善である、という意味も出てきます。
人は人から生まれます。決してライオンや桜からは生まれません。それが「自然(万物一般のあるべき姿)」だからであり、人から人が生まれる、という秩序=ロゴスに従っているからです。人は独りでは生きていけません。ですから、人を愛し、同時に人と争うように秩序=ロゴスがあるのです。しかし、ここから曖昧さが出てきます。
―ロゴスの欠点
ロゴスに従う、と言いますが、実は欠点が出てきます。ロゴスは曖昧さ、成り行き任せな面があるのです。人を愛し、同時に争う、と言いますが、では「どのように愛したら善いのか?」という目標を決めることが難しくなります。「どのように」や「どうやって行けば善いか」という積極性、計画性などが入り難いのです。なぜなら、どのような状態であっても「それは自然だよね」とか「それは当然だよね」と言ってしまえば、肯定できてしまうからです。ロゴスの欠点は全ての現状を肯定できることです。
現代日本では電車は正確に時間通り運行されていて世界中から絶賛されています。しかし、日本にいれば「それが自然だよね」や「それは当然だよね」となります。他方、他の国では「正確に時間通りに運行されないことが当たり前」なのです。「それが自然だよね」となるのです。その訳として色々挙げることは出来るでしょう。「荷物の積み込みの仕組みが悪い」とか「電車の職員の給料が低くて職業モラルが低い」とか「そもそも電車はそういう仕組みが前提で運行されている」とかです。こうなると、
「電車が正確に運行される」⇒「それは自然だよね」
「電車が正確に運行されない」⇒「それは自然だよね」
となってしまうのです。全ては成り行き任せ、現状肯定になってしまう欠点があります。ソクラテスがアテナイのソフィストと民衆全員を、つまり民主政治を根本的に批判したのも、この「成り行き任せ」や「現状肯定」にあったのです。哲学的に言うと、ソクラテスはアテナイの人々の世界観、万物一般のあるべき姿を批判したのだ、ということです。
―ロゴス(理法)と現在の「理性」の意味の違い
以上のことから、自然(フュシス)の秩序としてのロゴス(理法)は、現在の私達が使っている「計画」や「目標」などとは違うことが判ります。アルバイトや仕事で「売り上げ目標100万円」と計画して、ではどのように仕事を改善するか、という「目標」設定とは異なるのです。「電車は正確に運行される」ように計画しなければならない、というのは理性です。ロゴス(理法)は自然(フュシス)から生じる秩序なのですが、「何が自然なのか?」という定義付けがなく、それゆえロゴスも曖昧なままなのです。古代ギリシャの、あるいは世界中の「自然だよね」という考え方には、このような曖昧さがあるのです。
―現代日本の自然の二重性
現在の日本でもこのような曖昧さがある一方で、世界一正確な電車の運行が行われています。この点は日本の素晴らしい特徴であると、はっきりと判ってきます。現代の日本人の多くは、「日本を独立国、日本は世界平和に貢献するために強い国にする」と「日本は世界の中で弱い国で良い。軍隊もいらない」という明確な目標で政治家に投票しません。けれども、電車は正確に運行されなければならないという明確な目標を掲げて実行できるのです。ロゴスの二重性が現代日本の特徴なのかもしれません。
―ノモスとは
ロゴスは自然(フュシス)から生み出される秩序でした。
対してノモス(nomos)は人間世界で生み出されたものです。言い方を替えれば人間だけの特別な性質を指します。人間だけが各自の判断で「ロゴスから逸脱できる」と古代ギリシャの人々は考えたのです。ですから、ノモスとは人間社会に特有なもの、特有な価値判断を指します。ロゴスという自然の秩序から逸脱したものをノモスと言います。ここから、ノモス=仮象(仮の現象)が出てきます。
「人間は自然から生み出された存在者であるのに、その秩序(ロゴス)から逸脱しているノモスは、仮の現象に過ぎないのだ」というのです。
人間社会では人間だけの判断基準で価値判断や意味が決定されています。人間社会だけで考えると、有効性や力だけで判断することになります。法律や習慣や制度、民主主義や専制主義なども有効性や力だけで判断するのです。「有効性」や「力」などは曖昧で、当事者によって意味内容が変わりますから、どうしても成り行き任せになってしまいます。これが古代ギリシャの堕落した原因の1つであったでしょう。もう少し具体的に、古代ギリシャでも現代日本でも使われている貨幣、お金でノモスを見ていきます。
―貨幣というノモス
判りやすい例は、貨幣でしょう。貨幣は人間社会に特有の現象で、互いの信頼によって成立しています。お札が物と交換できる、という幻想によって成立しているのが貨幣です。ですから、大震災や大災害など互いの信頼が崩壊した状態では、お札は物と交換できなくなります。震災時、お札の価値は、火を燃やすくらいしかなく、1万円相当の1週間分の食料に相当しないのです。
しかしながら、人間社会では貨幣が定着すると、貨幣そのものを追求するようになります。「お金はあればあるだけよい」と考えるようになるのですが、ロゴスと対比させると「お金とは所詮、生活していくために便利なものに過ぎない」となるのです。
現代日本で考えてみましょう。「生活していくために便利なもの」ですから、70歳、80歳になっても1000万円、1億円と多額な貯金をしておくのは、お金に執着しているからだ、となるのです(倹約が目的の場合は別として)。あるいは、結婚の時の年収が多ければ多いほど良い、というのもノモスです。例えば私は年間300万円で充分生活できる、相手は350万円の場合、余裕分150万円を入れると年収800万円あれば「生活していくには充分」になります。しかし、800万円よりは2000万円、2000万円よりは1億円の年収が欲しい、と人は、欲しい欲しい、になるのです。
自然界の動物の多くは、生存に必要な餌以上は取ろうとしません。あるいは際限なく、欲しい欲しい、と取ろうとしません。必要以上に、際限なく取ると結局餌が少なくなってしまい、長期の生存確率が低くなってしまうからです(ロゴス)。動物はこのように自然の秩序(ロゴス)に従って生きているのに、人間は際限なく欲しい(ノモス)というのです。そしてこの姿が人間世界だけのものであり、仮の姿に過ぎない=仮象であると考えたのです。人の為の世界です。「偽(にせ)」とは「人の為」と書きますから、同じような思想を共有していたのかもしれません。
―ソクラテスとノモス、全ての指導者を批判した理由
ソクラテスは、ノモスとロゴスを含めた自然観を否定しました。成り行き任せになってしまうからです。結論は以上ですが、ここからはノモスとソクラテスを見ていきましょう。ソクラテスが無限否定性で民主主義も専制主義も全ての主義を批判したのは、所詮それがノモスだったからです。民主主義も専制主義も所詮人間が作り出した考え方に過ぎません。その人間が作り出した考え方=ノモスでは、駄目だ、というのです。ですから、民主主義も専制主義もどちらも批判の対象となったのです。全ての政治指導者を批判したのは、どの指導者も、フュシスの自然観に基づいた考え方だったからです。民主主義であるか専制主義であるか、は人間の基準、つまり有効であるか、力が伸びたか、という基準で判断していると言うのです。動物には民主主義も専制主義もないのです。その民主主義や専制主義を理由に対立して、島民の全員虐殺などを起こすのは可笑しいことなのです。少しロゴスよりになりましたが、もう少し対立させてみましょう。
―大学のノモスとロゴス
同じように何も考えない人、何も行動しない人も批判の対象になります。この人々も人間が死ぬ、人間は独りで生きられない、というロゴスを忘れているのです。学生の皆さんは何のために大学に来たのでしょうか? 簡単に単位をとって将来お金を沢山えるためでしょうか? つまり、自分の利益の駄目でしょうか。もちろん子供の世界の内はそれで良いと思います。けれども、人は死ぬのです。そういう風に秩序(ロゴス)が決められているのです。その真なる秩序を忘れて、自分のお金だけを基準に行動して良いのでしょうか。つまり、ロゴスを忘れてノモスだけで良いのでしょうか。ソクラテスの批判したソフィストは、ノモスだけを見るように仕向けた人々でした。
現代日本で言えば、民主党が選挙で大勝した時、「子供手当て」を目玉にしていました。つまり、「自分にお金をくれるならいい」という判断を日本国民は下した訳です。事業仕分けがありましたが、自民党時代にも経費削減で毎年5000億円かそれ以上削っていました民主党の党首交代を見れば1年程度で自民党よりもくるくると変わっていて強い基盤がないのは明らかでした。民主党が「政治主導」と言いましたが、議員の秘書やブレーンが自民党よりも少ないのも明確でした。けれども、私達日本人は「自分にお金をくれるならいい」という理由、もう1つ「自民党は駄目だから変えてみるか」という理由で政権を民主党に渡したのです。TVは麻生総理と鳩山党首の党首討論を一部しか報道しませんでしたし、内容を歪曲していました。もちろん、マスコミをそのまま信じる点でも日本国民には重い責任があります。しかし、それを反省している日本国民が果たして何割いるでしょうか。
-問1 ノモスを3つ挙げ、それぞれ理由を書いてください。
ロゴス:「真」=「人は先祖から生まれた」ですから、ロゴスでは「そんなことをしてご先祖様に恥ずかしいよ」です。「死んだ後、おばあちゃんにおじいちゃんに逢った時になんて言うか考えてごらん」という台詞になります。「その行為は自然なの?」と反省するのです。
ノモス:「人に嫌われるかどうか」です。「人に嫌われるかどうか」は感情です。感情は揺れ動くものです。「お金損するかなぁ」、「仕事辞めさせられるか」という判断基準です。科学技術者の倫理で大きな問題になっています。
―ダイエット、動物と人間のロゴスとノモス
動物は本能のままに生きています。現在はボノボのように売春やホモセクシャルなどが見つかっていますが、少数です。動物は生殖行動をする時、相手に強さを求めます。
動物:強さを求める:肉体の強さ、生殖能力の強さなど
人間:強さを求めるが時として弱さを求める
動物が強さを求めるのは、例えばオットセイが雄同士ぶつかり合い勝者が多くの雌を獲得することで判ります。鹿でも雄同士の喧嘩があります。他方人間は、弱さを求めることがあります。現代日本で思いつくのはダイエットです。適度な運動と充分な食事によって肉体的な強さが生じますが、現代日本のダイエットは、体重の数値目標、体型の整形などを目的としています。ダイエットで使われるのは、1つの食品や少数の栄養素だけに注目した栄養補助食品です。それによって体重の数値目標や、体型の整形は保たれるでしょうが(往々にして失敗するとよく聴きますが)、肉体的な強さは低下します。
若い時は痩せていて中年になれば太るのは当然なのです。なぜなら代謝が変わるからです。けれども、体重の数値目標を若いままで設定すると、中年の肉体には「不自然」な力をかけなければなりません。つまり、ノモス(人間世界の基準、この場合は体重設定など)だけを見て、ロゴス(この場合は人間が老いること)を忘れてしまっているのです。
体重など人間が「キログラム」を設定した数値に過ぎません。大切なのは肉体的な強さなのです。しかし、人間世界ではロゴスの理論が通らないことが往々にしてあるのです。
―整形、ボディービルダー、見た目の美しさ
整形も同様でしょう。男性ならばボディービルダーも同様でしょう。筋肉の強さを測っていたのですが、筋肉そのものの美しさを競います。油をつけてより美しさを強調するのです。しかし、ボディービルダーの筋肉は、重い物を持ち上げたり、瞬発力を生み出したりする肉体的な強さには通じないのです。こうしたものは所詮人間世界の判断基準で時代や社会によって簡単に変化します。
中世のヨーロッパは非常に貧しい地域の1つでしたから、庶民は痩せてガリガリでした。ですから、太った女性が美しいとされていたのです。19世紀を過ぎると加工食品が登場し、砂糖や脂肪を大量に使った食品が溢れてきます。すると太った人が増えてくるのです。世界で一番太っている人の割合が多いのがアメリカで、7割にも及びます。ハンバーガーなどのファーストフードを始め、加糖ブドウ糖液が入った飲料や、ピザ、グラタンなどが日常生活に溢れています。そうなると、痩せた女性が美しい、と社会の価値判断が逆転するのです。上流階級では「スプーンを持つ以上の手はいらない」とさえ言われるそうです。
―ソクラテス裁判の真なる理由 アルキビアデースと衆愚政治
先に問いを出します。
問2 どういう人が社会全体にとって害がある人でしょうか
沢山の正答がありますが、ソクラテスの裁判の事例で見ていきましょう。ペロポンネーソス戦争はアテナイ側とスパルタ側の戦争でした。その中で注目すべき人物がいます。アルキビアデースという人物です。
名門、知性、美しい肉体、美貌(びぼう)、弁舌、愛嬌、激しい気質で万人に愛されました。『反哲学史』の木田元先生は「しかし、ソクラテスの教えを受けたにもかかわらず、この人にはどこか決定的に駄目なところがあったようです」と書いています。「どこか」を「意志薄弱」の観点から探しにいきましょう。
25歳で3人の将軍の1人となりました。現在なら官房長官や財務大臣でしょう。25歳ですから凄いことが判ります。功をあせって攻撃を計画し議会も承認します。しかし、前日に酒を飲み神の像を壊します。みんなにおめでとう、と祝ってもらって像を壊してしまったのです。「そんなことはいけない!」と強く言うことが出来なかったのでしょうか。「戦争の後で弁明をします」と言って一旦は外征しますが、途中で連れ戻されます。その後の戦闘には加わらなかったものの、大失敗をして餓死者もだしました。すると追っ手を買収して、敵国のスパルタに逃げ込みます。敵国を強く憎んでいれば決して出来ない行為です。
すると、祖国アテナイの軍事情報を売って、知性がありますからアテナイを倒す作戦を提案します。これも「このままだとスパルタに何時裏切られるか判らないぞ」と脅されて、意志が弱くて断れなかったのでしょうか。さらに、スパルタの王妃との間に子供をもうけます。眉目秀麗(びもくしゅうれい)で女性にもてたのでしょう。「王妃様、それはいけません」と断れなかったのでしょうか。すると、今度はペルシャに逃げ、アテナイとスパルタの共倒れを策謀します。これも脅されたのでしょうか。さらに、ペルシャから逃げて、アテナイの海軍基地に逃げ込み、弁舌で指揮官になり戦果を挙げてアテナイに帰還します。アテナイ市民もこれを迎えます。さらにアテナイが負けそうになると小アジアに逃げて、最後はスパルタの暗殺者に殺されてしまいます。
私は木田先生の「どこか」を「意志薄弱」と見ました。つまり、「脅されたり強く出られたりすると断れない」という意志の弱さです。アルキビアデースは名門で知性も美貌もあるので万人に愛されるから、その意志の弱さが多くの人に影響を与えてしまったと考えます。
ソクラテス裁判の真の理由は、アルキビアデースがペロポンネーソス戦争で拡大させ敗戦に追い込む大きな要因になったのにも関わらず、民衆が反省せずにソクラテスに押し付けたことでした。アルキビアデースがソクラテスの弟子、というだけなのです。表の理由には「青年に害悪を与えた」とあります。しかし、スパルタの王は「過去の戦争責任を問うてはいけない」と宣言しており、直接問うことは出来なかったのです。そしてアルキビアデースを将軍に選出したのも、裏切った彼を向かいいれたのも民衆です。それを反省せずに、誰に責任を押し付けようとしたのです。ユリウス・カエサルの「人はほっとすることを簡単に信じる」という言葉が大きくのしかかってきます。いつも嫌味を言っているソクラテスに責任を押し付ければ、自分達の失敗を見ないですむ、とソクラテスは処刑されたのです。これは典型的な衆愚政治です。
―衆愚政治と宮崎勤
現代の日本でも同様の例があります。少し前ですが、宮崎勤(つとむ)という連続幼女誘拐殺人事件がありました。関東圏での事件で大きく報道されました。彼が逮捕され自宅に報道陣が押しかけると彼の部屋に大量のアダルトビデオのカセットテープがありました。すると、民衆やマスコミは「アダルトビデオがある人は異常になるんだ」というまことしやかなことを言い出しました。そこでアダルトビデオ規制の風潮が出来ました。しかし、アダルトビデオの普及率と性犯罪率の低下には統計的な相関関係があります。因果関係である、ということは出来ませんが、何らかの関係があると推測できます。しかし、これと逆の風潮が出てきたのです。なぜならば「アダルトビデオを規制すれば、今後このような犯罪は起きない」という考え方に民衆がほっとするからです。何か問題が起こると、それが個別事象であったとしても全体の問題として錯覚し、規制すれば何とかなるという構図が出てくるのです。この考え方が民主主義を衆愚政治に貶(おとし)める大きな原因の1つです。
ちなみに、宮崎勤の裁判では彼のおじいちゃんの死亡が大きな原因として挙げられています。精神鑑定は2つが正反対の答えを出しましています。これを見る限り彼の個人的な環境が大きな原因であることが推測されます。しかしながら、民衆は「人はほっとすることを簡単に信じる」という態度から誤解するのです。警察が絡むマスコミの誤報は松本サリン事件などでも顕著です。
―3つの犯罪者のタイプ、再犯率から
犯罪者には色々なタイプがいますが、再犯率から3つのタイプを見てみます。
A) 自己愛タイプ
自分優先で周りを下に見るタイプですが、周り人々は自己愛の強さが見えることが多く、再犯になる可能性が高くはありません。雰囲気で「あ、この人ちょっとヤバイ」と察する能力が人間には備わっています。
B)強迫観念タイプ
見捨てられるのならば裏切ったほうが良い、あるいは裏切って当然だ、と思い込むタイプです。1回の約束のキャンセルで「ああ、あの人は私のことを見捨てた」と思い込み、「捨てられるのならば、これくらしてもいい。あるいは当然だ」と思い込みます。勝手に脳内変換をしてしまうのです。具体例として全都道府県の旅行の話をしましたが割愛します。
C)意志薄弱タイプ
アルキビアデースのタイプです。基本的に従順そうで人当たりがよく、周りから好かれることもあります。その点、A)やB)とは異なります。しかしながら、自分がないため周りに流されやすく、犯罪も誘われると断りきれなくて行ってしまいます。例えば、浮気も相手から誘われると断りきれずに行ってしまう、という具合です。そのことを付き合っている相手に責められると「申し訳なかった」と大反省するのですが、それは怒られたからであって、自分が悪かった、と反省をしません。なぜなら「自分」という意志が弱いからです。ですから、相手の怒りが冷めると責任はどこかえ消えてしまい、誘われると、浮気をしてしまうのです。A)ならば反省せずに「俺はそうしたかったんだ」とか「お前は好きではなかった」などの自己正当化に走ります。
C)タイプは「自己反省」がないために、罪の意識が薄く再犯率が高くなります。
-ヒトラーとアルキビアデース
私はヒトラーはアルキビアデースに見えてなりません。ヒトラーは芸術家を目指しますが、結局挫折します。そして兵役に就き認められたのでその方向を目指すのです。彼の弁舌の巧さがあり、アルキビアデースのようです。権力の座を一気に駆け上がります。しかし、権力の座について見ると、欲しいままに権力をふるえる地位に就きましたが、経済政策は経済の専門家に丸投げします。それが結果的にドイツの復興を速め、世界で最も速く世界同時不況から脱することになります。それも私には意志薄弱に映ります。そして第二次世界大戦末期、ヒトラーは部屋にこもるようになります。これも自己愛が強いタイプなら権力をほしいままにするのですから、このようなことはありえません。結局彼は敗戦直前に全権力を自己愛タイプの部下に簒奪(さんだつ)されます。これはアルキビアデースが友人と酒を飲み、断りきれずに神像を壊す場面と同じ心理状態に映るのです。アルキビアデースは3人のうちの将軍について見たけれど、結局怖くなってしまったのです。彼の立案した作戦で失敗しても「ごめんなさい」と謝ればアテナイ市民は許したでしょう。しかし、彼は失敗が怖かったのではなく権力を握った、それが怖かったのではないでしょうか。ヒトラーの末期と被ります。
最後に、学生の皆さんに見分け方を話しました。意志薄弱タイプは日常生活で見分けるのは、遅刻が多いことです。遅刻をしたことを怒ると、その場は「反省します」が、怒りが収まると見ると、また遅刻を繰り返します。自己反省がないのです。また、金銭にルーズなことも挙げられます。大分怒ってせかすと返しますが、「そんなに怒らなくてもいいのに」という一言をいうタイプです。彼にしてみれば「意志が弱い」のですから、「怒ると損」や「怒るほど力を使わないで欲しい」という思考になのでしょう。
―道元と孔子と意志薄弱
道元が「日常生活の中の動作を大切にした」のは、このような意志薄弱を相手にしていたのではないか、と推測してしまいます。道元と意志薄弱を結びつける言葉は、「習いこれ性となる」=「きちっと習慣はきちっとした性格を作る」という言葉です。
学生の皆さん、是非ともしっかりとした習慣を身に着けて欲しいものです(高木は大分挫折していますが)。
-問3 感想 ソクラテスについて
ーー(以上が昨年度の講義録より抜粋です)--
以上です。
スポンサーサイト