講義録7-1 インフォームド・コンセントの実情 日本の医療の現状

 皆様、こんにちは。

 立冬に入り、すっかり冬らしくなってまいりました。物思う秋から沈思黙考(ちんしもっこう)する冬へと移り変わりを実感しています。講義も基本概念の押えから、具体的事例を踏まえて考えることに入っていっています。さて、私は静岡県図書館大会で無事運営委員としてのお役目と司会を務めることが出来ました。公益のために少しだけお役に立てたことを誇りに感じています。これも実行委員長を始め一丸となり、阿部賢一先生の素晴らしい御講演を頂くなどのお蔭です。心から感謝致します。この体験から、沈思黙考できるようになりたいと思いました。

 それでは本文に入ります。

講義連絡

配付したプリント B4 1枚
:日本の医療現場におけるインフォームド・コンセントの実情
http://takagikenziro.blog.fc2.com/blog-entry-274.html より抜粋

 
 --講義連絡--

 前回は、インフォームド・コンセントの実情としてアメリカの医療事情について話をしました。数々の質問や意見が出されたので、今回は日本の医療事情を丁寧に説明することとしました。配布プリントは平成25年度の当ブログからの抜粋です。ここで学んでもらいたいのは以下の点です。

①反対意見の取り入れよりも、反対意見の事実から論拠を推論する方が公平性が高くなる
②各国の文化等によってインフォームド・コンセントの実情が異なる

 以上を、医療者側(加害者側)と患者側(被害者側)のそれぞれのインタビュー記事から見てみましょう。以下のことが出てきます。

ア) 現場はパターナリズム同士のぶつかり合い 「医療従事者」対「裁判所」
イ)パターナリズムが倫理の根源になる=「だからこそ訴訟にしないように」
ウ)患者が同意書を提出しても裁判で賠償責任が生じる(さらにインフォームド・コンセントを裁判所は求めている)
エ)技術者個人も社会的対応や言葉遣いを大切にしなければならない
オ)日本では医療事故が直ぐに訴訟にならず、医療費高騰に結び付きにくい
カ)医学の進歩を願う高い理想が患者と医者で共有されている
キ)患者が求めているのは対価ではなく誠意と謝罪である
ク)医療過誤は少なく見積もって年間4万件から8万件にも上る
ケ)医療過誤の問題が発見されていないケースは何万件か判らない(推計40万件以上)
コ) 失敗者個人に罪を負わせると再発防止にならない
サ) パターナリズムがインフォームド・コンセントに向かいだしたのは15年前から

 以上となります。

 --(以下平成25年度の講義録より抜粋)--

それでは、先週、述べたインフォームド・コンセントと医療について、丁度、静岡新聞が特集をしてくれたのでそれを見ていきましょう。実際に日本ではどのようになっているか、の事実を見てみましょう。講義では理念の部分だけしか扱えないので、幸運に恵まれました。

 それではプリントを見てください。写真が2つある方です。プリントの真ん中を見てください。日付が5月13日から7回連続でした。まさに今月です。さて、第7回まであるのですが、取り上げるのが第2回、と第7回です。その理由は第2回が医者がインフォームド・コンセントを進める理由が書いてあり、第7回には患者側から進める理由が書いてあるからです。医者と患者の両側から考えていくのが先週の講義のまとめ、「賛成と反対、両側から観て初めて自分の意見が出る」という公平さにつながります。

 第2回を見ていきましょう。第1段落目に「医療の専門家ではない裁判官が、事故原因や責任の所在を判断するのは納得いかない。だからこそ、訴訟にしないような対応が必要です。」とあります。ここでのポイントは2つ。

ア) パターナリズムが観られる=「医療の専門家ではない」

 講義では述べませんでしたが、これは技術者の世界でも同じようなことが起こっています。有名なのは小泉政権時代に日本の株価上昇をつぶしたと言われるホリエモンの裁判でしょう。こうした批判は多くの分野であります。妥当かどうかは別としてパターナリズムが根底にあることを覚えておいてください。

イ)パターナリズムが倫理の根源になる=「だからこそ訴訟にしないように」

 私達は、あるいは広く社会一般ではインフォームド・コンセントをすれば倫理が進む(保たれる)、と考えがちですが、実際に医療の現場ではパターナリズムが倫理の源となっているのです。この病院ではこうした専門家としての誇りからカルテの公開や患者さんと向き合うことの講習、医者の態度の改めにつながっています。思い込みを事実から考え直させてくれる一文でした。これはこの後、

「病気の完治を願う気持ちは医者も患者も同じ」の言葉に表れています。

次に事実が出てきます。記事を読むときに事実に罫線を引っ張っていく、という読み方もありますから、覚えておいてください。「医療関係の訴訟は2011年に約760件」

さて、大きなポイントが来ました。現在のインフォームド・コンセントを考える上での運用上の実例です。

ウ)患者が同意書を提出していても裁判で賠償責任が生じる

 本文に「患者側が納得していないことに気づかずに同意書を取っていた。…(中略)…判決は(手術の)ミスはなかったとする一方、術前の説明不足を指摘。結果責任を認定し損害金支払いを命じた。」

 患者が同意書を出していても、それでは十分ではない、ということです。現在の裁判所の判断では手術前にきちんと説明しなければ、いくら同意書を取っていても責任がお医者さん側に生じる、ということです。これは先週述べたインフォームド・コンセントよりもさらに進めた解釈です。これに対してお医者さんは対応しなければなりません。これらは本日説明する製造物責任法の厳格責任に近い考え方です。続く本文でお医者さんの解釈を見てみましょう。

 「訴訟になるケースは結局、技術だけではなく、対応や言葉遣いなど全てに問題があったということなのです。」

 裁判所の解釈批判や同意書があることを盾に取らずに(言い訳にせずに)、お医者さん側が反省し態度を改める、というのです。なんという高潔な態度でしょうか。高い倫理感が再発防止につながるのが目に浮かびます。さて、これを技術者倫理として見てみましょう。お医者さんは技術者でもあります。専門知識を有し診断や手術などを行います。養成機関は最低6年。現在の技術者の中で最も難しく長い養成機関です。さらに難関の国家資格を取得しています。それほど高い技術性を持ちながらも「対応や言葉遣いなど全てに問題があった」と考えるのですから、この考え方を全ての技術者に当てはめれば、

エ)技術者個人も社会的対応や言葉遣いを大切にしなければならない

ということになります。この講義の技術と社会背景との相関という大きなテーマにもつながってくる実例となりました。

最後は事実です。この病院では「10年以降、弁護士が介入した医療事故が約30件あったが、訴訟には至っていないという。」とあります。ここで2つの点が見えてきます。

オ)日本では医療事故が直ぐに訴訟にならず、医療費高騰に結び付きにくい

 アメリカでは病院に葬儀屋と弁護士がいるそうです。弁護士があふれているアメリカでは医療事故は高額の収入を得る格好の機会です。少しでも不審な点があれば弁護士がついてお金をふんだくる、ということが行われているそうです。日本では弁護士が少なく、また文化的な背景から丁寧な対応によって訴訟にならず医療費の高騰になっていない現状が判ります。これは社会コストの点からも考えられますが、長くなるので以上の指摘に留めます。

カ)医学の進歩を願う高い理想が患者と医者で共有されている

 先ほど引用した、「病気の完治を願う気持ちは医者も患者も同じ」の言葉からも見られるように再発防止を願う、あるいは誠実な対応を、対価としての金銭を求める気持ちよりも優先させる行動です。高い倫理観がこの実例では見られます。もちろん、そうではない現場があろうことは容易に想像できます。私は、最終的にこの病院だけではなく、社会制度として安定的に「医学の進歩を願う高い理想が患者と医者で共有されている」ことになることを希望します。そのためには、お医者さん側の研修等、患者側のサポート役などの充実が大切だと考えます。

 以上が、医者側からの記事②でした。
 
 続いて、患者側からの記事⑦に行きます。

 まず、「医療過誤原告の会」会長宮脇正和氏のインタビュー記事です。設立が、1991年ですから、これが前回述べた情報公開やがん告知の裏付けの事実になります。「1991年に設立され、これまでの入会者が約1300人に上る医療被害者団体「医療過誤原告の会」と宮脇さんを説明します。
 前回述べたように昭和天皇陛下が崩御される際に癌告知の問題が出ました。天皇陛下の行動によって日本ではがん告知が一般的になったと言われています。また、現在東京都知事の猪瀬氏は皇室の行動が日本人の行動原理を創ってきた、という本を何冊か出しています。昭和天皇が皇太子時代に軽井沢でテニスをすると休日は郊外で、働くのは都心で、というモデルが出来たそうです。面白いのでぜひ読んでみてください。さて、話は戻って、つまり、インフォームド・コンセントが日本に導入されてきて問題が顕在化してきたのが、まだ20年程度ということです。そしてこれは丁度、技術者倫理が社会的要請をされるようになって20年、というのと符合しているようです。日本人の精神性を考える時に、やはり、1990年前後が大きかったのではないか、と思わざるを得ません。
 世間一般では、バブル崩壊などが言われますが、私は、病院での死者、病院での誕生の割合が漸近になった点の方が大きいと考えています。

 次は、技術倫理として医者の②と共通しています。

キ)患者が求めているのは対価ではなく誠意と謝罪である

 「一番大切なのは事故が起きた後、医療側が正直に対応することだ。患者や遺族がまず考えるのは『本当の原因を知りたい』ということ。次に『責任があるなら、謝罪してほしい』と願う。〝正直文化″が医療の信頼性と安全性の向上の不可欠だ」と述べています。
 私は、この「正直文化」は日本で特に強いと考えます。なぜなら「正直に話し合えば分かり合える」という前提に立っているからです。しかし、そう考える方が少ないのではないでしょうか。例えば、交通事故の時、「あ!すいません、大丈夫ですか?」と日本人の感覚からすれば、言うでしょう。しかし、「すいません」と謝れば、示談の時の金額が減るから「謝らないでください」と聞いたことがあります。これは、西欧の法律の前提が害を与えたならば対価で払う、という思考になっているからです。日本人の精神性と合わない実例の1つだと思います。日本では足を踏んだ人も謝るけれど、足を踏まれた人も謝る、という精神があるのです。
 ですから、日本国内ではこのように「正直文化」で行くことは大切なことです。しかし、海外ではそうではない場合もあることを認識しておく必要があると思います。現在、日本国を取り巻く環境の中で、特に冷戦後、こうした動きが加速してきています。

 次は事実です。

ク)医療過誤は少なく見積もって年間4万件から8万件にも上る。

 医者の労働人口が6万人前後ですから、1人の医師で平均1回弱の医療過誤を起こしていることになります。これは先ほどの「2011年には760件の訴訟」と以下の記事文からの推計です。
 「実際に提訴できるのは当事者の1~2%にすぎないというのが実感だ。多くの事故は闇に葬られている。」
重要な指摘です。闇に葬られて出てこないデータの推計が出来ます。さらに大切なのは、次になります。


ケ)医療過誤の問題が発見されていないケースは何万件か判らない。

 記事②でも記事⑦でも問題になっているのは、医療過誤と「認識されたケース」です。しかし、医療過誤は指摘され発見されて初めて顕在化します。ミスを隠すケース、ミスと分からないケースなどを含めると、4~8万件の何倍、何十倍あるか分かりません。すると、1人のお医者さんの誤診率から逆算すると何十倍では済まないかもしれません。何百倍の中の誤診の内、人に被害を与えたケース、人を死亡させるケースが何分の一になるのか、ということになります。この視点は学問として大切だと思います。医者がミスを隠すことを非難しているのでもなく、また、この後お話しするマクドナルドの話のように患者側の無関心、無行動を非難するのでもありません。顕在化しないケースやリスクを指摘し、念頭に置くことで今後の「公衆の福利」に貢献できると考えるのです。さて、次に最も大切な点の1つが指摘されています。

コ) 失敗者個人に罪を負わせると再発防止にならない

 「事故の責任を個人に押しつけるのではなく、病院が組織として負うこと明確にすれば、対話の研修も生かされる。現場は安心して患者に説明できるし、再発防止にもつながる。関与した医師や看護師を辞めさせてしまっては、システムの改善にはつながらない」
とあります。技術者倫理の本質そのものです。何も付け加えることはありません。福島原発事故後、国民の何割かは東京電力社長を個人攻撃しました。同時に菅総理を攻撃しました。もちろん、誤った行動は起こしていたでしょうが、技術者倫理では個人攻撃では再発防止できない、と考えます。技術が判らない社長であっても、知ったかぶりをする総理であっても、きちっと対応できるシステムへと改善しなければならないのです。現在、日本の原子力政策に求められているのは、このシステム作りだと考えます。

サ) パターナリズムがインフォームド・コンセントに向かいだしたのは15年前から

 「医療界では長い間、『医者には文句を言うな』という文化が続いてきた。患者への情報提供も、この15年ほどでようやく進んだに過ぎない」とあります。「医療過誤の会」の方々を始め多くの良心を持った方々の活躍で日本の医療は素晴らしいものになってきました。最後に感謝の意を申し上げます。

 --(以上が平成25年度講義録より抜粋終了)--

ー問1 ア)~サ)で最も注目したものを挙げ理由を説明せよ

 次に、製造物責任法に入ります。その前に、製造物責任法を明確にするために、法律の土台となっている倫理を3つに分けで整理しておきます。

 --(以下は昨年度の講義録より抜粋)--

 -3つの観点による倫理

 製造物責任法(通称、PL法)を述べる前提として、倫理を3つの視点で分けて整理します。後に、製造物責任法を見ていきます。

 それでは3つの観点を述べていきます。
倫理は洋の東西を問わず、殆どの地域社会、時代で見受けられます。どのような凄惨な状態になろうとも無くならない、むしろその輝きを増します。地域社会、時代などによって千差万別ですが、3つの観点で切り分けることができます。

行為者が行為をして結果を生む

 という当たり前の行動を3つの観点で切り分けると以下のようになります。

 「行為者」が「行為」をして「結果」を生む

と言う訳です。つまり、3つの倫理で代表例を後ろにつけます。

:①行為者の視点  から見た倫理 :アリストテレス、孔子、日本人
:②行為の視点   から見た倫理 :カントなど
:③結果の視点   から見た倫理 :デューイ(プラグマティズム)

 ①行為者の視点⇒行為者で判断し善悪
 徳倫理:アリストテレス:よい習慣をもつ人間がよい人格を持つ

 例えば、盗みばかりしている人は、その人の性質が悪くなる と考える。孔子の「習いこれ性となる」と似ていて、良い人間を作り出すのが大切と考える。
 現代日本では、犯罪を犯した人間の近所に行き、普段の生活をTVで放送する。

 「普段から挨拶をしてくれる良い人でしたよ」

という何気ない一言は徳倫理を表している。教え子へのセクハラや盗撮等でつかまるニュースが連日報道されているが、「熱血で明るい先生だったのにショックだ」という一言の裏にも徳倫理の考え方が見て取れる。

 長所:習慣を大切にすることで個人の道徳の完成という長い修練を積める。つまり、長期的な向上や忍耐がある。
 短所:人格の全否定や全肯定になりやすい。

 「はやぶさ」の川口さんを始め多くの人が「日本は再チャレンジ出来ない社会である」と言っている。その要因の1つは、人格の全否定や全肯定にある。1度犯罪を犯した人間は「悪いことをした⇒悪い人格である⇒全否定」となるからである。小泉首相などの活躍で日本では再就職や離職などが当たり前になってきたが、ほんの2,30年前は転職、再就職などは「育ててくれた会社を裏切る⇒悪い人間」という観念があった。現在よりも徳倫理が社会に浸透していたのである。

 植草一秀元早稲田大学大学院教授は、セクハラ癖があったようである。高木が徳倫理を感じたのは、警察に捕まった、という発表だけで、大学院教授を解雇になったことである。刑事罰が下る前、つまり、事実認定の降りる前に、セクハラで解雇になった。セクハラという1回の行動で判断するのではなく、人格で判断するのである。私は日本社会の空気、その根底にある徳倫理に恐怖を感じて、ゾッとした。良く日本は村社会だ、というけれども、見ら人から「あいつはちょっとダメだな」と思われているだけで、何も悪いことをしていないのに、職業や住む場所を奪う可能性があるのである。同時に、この社会要因が、「マイナス思考」を生む要因だとも考えている。自由な発言をすると「あいつはちょっとダメだな」や「空気よんでないやつだから、集まりに呼ぶのを止めよう」などとなる。これが進むと、「ああ、高木の言うことだから信用できないから止めておこう」ということになる。「あの人は信用できるよ。だから大丈夫」というのはこの裏返しで、両方とも「行為者(高木、あの人)」で判断しOK、NOを決めます。「東大だから大丈夫だよ」などと行為者の属性で判断する場合もある。何気ない行動の裏に徳倫理、あるのではないでしょうか。

 色々と書きましたが、「行為者の視点⇒行為者で判断し善悪」です。

②行為の視点:行動+意図で判断し善悪
 義務倫理:カント:自分の望むことが全員に当てはまることが善

 例えば、嘘をつきたいと望む時、嘘をつくのが全員に当てはまるならばOK、当てはまらないならNOということ。こうすると、「誰にも害を与えていないのだから、売春をしてもいいでしょ」などに合理的に反論できる。
 カントの原文は「汝の意志の格率(信条)が、つねに同時に普遍的立法の原理と見なされるように行為せよ」『実践理性批判』
 
 カントの原文の中に、「意志」と「行為」が出て来ます。徳倫理では1つ1つの行動では判断されませんでした。対して義務倫理では、1つ1つの行為で判断されます。すると、この人は良い行動もしているし、悪い行動もしている、と考えられるのです。倫理は善悪をはっきりさせる傾向があります。ユダヤ教を受け継いだキリスト教、特にローマカトリックは、善悪二元論で語ることを好みます。「テロリストは悪だ!」と。「アメリカは正義だ!」と。あるいは「原発は悪だ!」と。「地球温暖化は悪だ!」と。しかし、現実世界は2つで割り切れる程単純でしょうか? 悪いことしかしない人間がいるでしょうか? ですから、義務倫理は

 長所:1つ1つの行動について判断できるので、より現実に即している
 短所:全体の判断が分かりにくくなる。対応が遅れる
   :「意図」によって善悪の判断が変わることがある

 全体の判断が分かりにくくなる。対応が遅れる。というのは、福島原発事故でいうと、菅総理のあの対応はダメ、これは良かった、斑目委員長のこの対応はダメ、あれは良かった・・・となっていくと、じゃあ、原発をどうするのか?という方向性が出てこないことになります。原発は公衆の福利に反するのでしょうか?即しているのでしょうか? 義務倫理では分かりにくくなります。結局判断が遅れ、対応が遅れます。対して徳倫理は、全否定や全肯定の力強さがあり、次に進む力があります。力があることだけが素晴らしい訳ではありません。

 もう1点、「意図」によって善悪の判断が変わることがある。というのを具体的例でいきましょう。
 高木は6時50分か7時か7時10分の電車に乗って大学に向かいます。数人立つくらい込んでいます。この時、ご老人が乗って来た時、席を譲ろうと立ちあがりました。この行為は、社会的に善、とされています。また、真心で「お譲りしたい。座って頂きたい」と思った場合、「行為」と「意図」共に善であり、善となります。
 対して、例えば、
 
 「隣に座っている人が嫌なので離れたかったから、嫌な人をあの老人に押し付けたい」
 「好きな人があそこにいて、自分の得点を挙げたいから、席を譲ろう」

 という「意図」が邪(よこしま)な心や、悪い場合、この行為は、決して善になりません。しかし、同じ行動をして、ご老人が体が楽になることは変わらないのです。「結果」だけでなく「意図」を含めると、「本当にその行動は善なの?」という問いが突き付けられることになります。
 この点は、技術者倫理でもまさに問われました。

 浜岡原発のみ停止要請は、菅総理の支持率獲得のためだろう?

 という問いです。「浜岡原発のみ停止要請」=「行動」だけでなく、「菅総理の支持率獲得」=「意図」も含むと、同じ停止要請が、倫理的に善とはならず、むしろ悪の行動となるのです。この複雑さは、倫理全体にまとわりつく逃れられない欠点のようなものです。昔から

 「自分がされて嫌なことは他人にしてはいけません」

 と言われてきた義務倫理をカントが定式化したことで「行動」と「意図」の問題がはっきりと(高木は)認識できるのです。私はカントは専門家の講義を多少聞いたことがあり、多少本を読んだことがあるくらいで、きちっと理解しているとは言い難いので、正統な解釈ではないかもしれません。
 この「行動」と「意図」の問題は、法律の問題でも出て来ます。続きは後に譲ります。

 色々と書きましたが、「行為者の視点⇒行為者で判断し善悪」です。

③結果の視点:結果で判断し善悪
 帰結倫理:(沢山の人):行為の結果が善なら善、悪なら悪

 先ほどの電車の中で席を譲る例を帰結倫理で観ると、ご老人がにこやかに座って楽になる、となっているので、善となる。「意図」がどのようであるか関係なく、結果で判断する、ことになる。この例で悪は、ご老人を楽にさせようという「意図」や立ちあがるという「行動」があっても、譲る際にぶつかってしまい、老人を倒して怪我をさせてしまったら、悪、という判断を受ける。このようにあくまでも結果で判断する。結果を生み出すのは、「行動」なので、行為と結果を含めて「行動」とするならば、「行動」で判断し善悪、としても良い。ただし、「行動」には通常「意図」が無意識的に含まれる場合があるので、混同しやすく、「結果で判断し善悪」とした。

 長所:人の心という曖昧さが入らず、明確に判断できる。
 短所:誰にとって「善悪」か、が常に問題になる
   :結果判断は利益中心となり倫理の大切さが失われる

 誰にとっての「善悪」か、という問題が常につきまといます。何故なら「絶対的な善」や「絶対的な悪」が想定出来ないからです。先ほどの例で言うと、席を譲った人が気持ちよくなれば善? 周りの人から見て良ければ善? 老人から見て良ければ善? 全ての人から見て善なら善? という問題が出て来ます。これは20世紀になって文化人類学で問われてきた問いもであります。 
 それまで、西欧人は西欧の学問や思想や社会は進歩していて善である、と考えて来ました。これをローマ・カトリックが後押しして

 「未開の人々は人間ではない。地獄に行く存在だから、西欧化してあげるのだ。西欧化ししない人々は殺しても良い」
 
 というお墨付きを与えていました。この場合、西欧人が善悪を判断する基準だった訳です。しかし、20世紀は西欧が没落し始めました。現在、ギリシャが金融危機で破綻のギリギリのラインにいますが、この直接の引き金は、2007年のサブプライムローンでした。また、大東亜戦争後、アジア、アフリカ、東ヨーロッパの国々が独立を果たしました。それ以降、植民地を前提とした西欧社会が没落に向かっていったのです。現在でもイギリスやフランス、アメリカなど旧植民地よりも緩い関係で世界を支配していますが、ロシアも、徐々に崩れつつあります。実際に西欧人=善という考えは、20世紀に入り壊れて来ました。こうした時代背景があり、先のローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、

「未開の人々は人間ではない。地獄に行く存在だから、西欧化してあげるのだ。西欧化ししない人々は殺しても良い」

 について懺悔(ざんげ)しました。平成12年(2000年3月13日)毎日新聞
 同じミサで、ユダヤ人迫害肯定、十字軍でイスラム教への迫害を懺悔したのです。20世紀の最後に総決算をつけておくこと、ユダヤ人迫害や十字軍などは実に1000年近く経ってからのことです。この行動を行ったヨハネ・パウロ2世の知性に深く敬意を私は表します。

 このような現状で、文化人類学は、比較文化人類学へと移行しました。比較する理由は、絶対的な善がない、からです。比較社会学などが出てきたのも、こうした視点に基づいてです。こうした歴史的背景があるので、帰結倫理でも、同じく、絶対的な善がない、という点は問題になるのです。

 次に、「結果判断は利益中心となり倫理の大切さが失われる」に行きます。

 結果は、結果に過ぎません。ですから、必ず解釈が必要になります。あるいは、価値観が1つに限定されます。それゆえに、どこかの集団の解釈、どこかの集団の価値観に限定されることになります。どこかの集団の価値観を、なるばく多くの人々の集団の価値観にしようとすると、それは、人間全員が持っている機能快や共通の金銭ということになっていきます。

 機能快:目が見える機能が与えられて、それを使うことが快である。出産、思考、性交、飲食、交流等々も機能快と考えれられます。

 すると、「講義録4-1費用便益分析」で述べたような、金銭だけで判断する可能性が出て来てしまうのです。「公衆の福利」が金銭だけで判断しては問題が多い、と述べましたが、この帰結倫理の考え方をすると、出て来てしまいます。この点は気を付けなければなりません。

 --(以上、昨年度の講義録より抜粋終了です)--

ー問2 「ごみを拾う」を3つの倫理で説明しなさい。

①毎日ごみを拾う習慣が出来ているので「ごみを拾う」のは善
②街が綺麗になり、かつ、街を大切にしたいと思うので「ごみを拾う」のは善
③街を綺麗にしたので「ごみを拾う」のは善

 倫理でも3つの視点から色々な観方が出来ます。この幅を広げることが多様な解釈を可能とし、豊かな知識を生み出してくれるでしょう。

ー問3 感想

 以上です。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール
科学技術者の倫理(平成29年度)
書いたもの(平成29年度)
哲学(平成28年度)
科学技術者の倫理(平成28年度)
書いたもの(平成28年)
科学技術者の倫理(平成27年度)
哲学(平成27年度)
書いたもの(平成27年)
哲学(平成26年度)
「科学技術者の倫理(平成26年度)
講義録「哲学」
書いたもの(平成26年)
書いたもの(平成25年)
論文(高木健治郎の)
講義録「科学技術者の倫理」(平成25年度)
高木ゼミ『銃・病原菌・鉄』
高木ゼミ全6回『ぼくらの祖国』
教養講座6回分(平成24年度)   講義録21~
講義録「科学技術者の倫理」(平成24年度)     講義録1~15
最新記事
講義録「科学技術者の倫理」(平成23年度)
石上国語教室で行われた講演のレジュメです。哲学が足りなかったのが、福島原発事故の原因の1つではないか、と考えています。

「哲学のススメ2」レジュメ

最新コメント
カテゴリ