エッセイ「【論語】六つの翻訳を比べてみよう」

 論語の6つの訳を比べて観ました。見えてきたのは、深い楽しみでした。

「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した原稿です。
 読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。以下本文です。


 まだまだ、猛暑日が続く。
 立秋の二日前、八月五日早朝に、近くの熊野神社に参拝をしようと、玄関を開けると、涼しげな風が吹き込んできた。すぅーー。
 暦通り、秋の訪れを実感している。

 さて、今回はクーラーの涼しさの中で、『論語』の翻訳を比べてみたいと思います。『論語』は最も親しまれてきた本であり、それゆえに沢山の名訳があります。今回は、いつもの㋑伊與田覺先生訳、㋛五十沢二郎氏訳に、
 ㋗筑摩書房 倉石武四郎訳者代表 
 ㋵明治書院 吉田堅抗著
 ㋕角川書店 加持伸行他著
 ㋣学習研究社 藤堂明保訳
 を加えて訳語を比べてみたいと思います。本文はいつも通り『仮名論語』とします。

里仁第四 第二章
 「仁者は仁に安(やす)んじ、知者は仁を利す。」

 ㋑仁者は安んじて仁を実践し、知者は仁の価値を知って仁を実践する。
 ㋛愛とは、ただに愛を生きることである。
 しかるに、かの知者たちは、愛を何か知識ででもあるかのようにさがしまわっている。
 ㋗仁の人は仁に落ちついて、することなすこと仁から離れることなく、智の人は仁の利用を心得ていて、その操(みさお)をかえない。だから仁の人と智の人との間には深い浅いのちがいはあっても、外(ほか)のものに志を奪われないという点では同じことになる。
 ㋵仁者は仁を以って己の安宅(富貴に惑わされない境地)と心得て、そこに安んじておる。知者は仁に安んずるまでに至らぬが、仁のその身の利益になることを知って、仁を欲求し、仁を得んと心がけている。
 ㋕仁者は仁に安住し、知者は仁を利用する。(参考として五十沢二郎氏訳引用)
 ㋣仁を身につけた者は、安心して仁の境地に腰を落ち着けている。また、賢い者は、仁が己に役に立つと考えて利用するのじゃ。

 考察:五十沢氏は「利用する」を「探し回る」と飛び越えて訳しています。また、仁者と知者を同じ実践であるとする、㋑伊與田氏、㋗倉石氏、㋣藤堂氏です。対して、仁者と知者の実際の行動が異なる、という文脈で訳す㋛五十沢氏、㋵吉田氏、㋕加持氏と読むことが出来ます。文意もそれぞれです。
 「仁者と知者は全く異なる」と対比させる訳。「仁者と知者は表面上、一緒だから気をつけなさいよ」と一見仁者に見える人を注意しなさいと読者に語りかける訳。「あなたは知者ではないですか? 仁者ですか? 心の修養をしていますか?」という内省を求める訳。
 伊與田先生は『論語』を読む時、「孔子の何歳くらいの時のことばであるか」を考えられるそうです。内省を求める訳として読むと、孔子の何歳くらいなのでしょうか。興味深く感じました。

陽貨第十七 第十三章
 「郷原(きょうげん)は徳の賊(ぞく)なり。」

 補注「郷原」:
 ㋗「田舎者の中で評価の高い人。」
 ㋕「見識がなく常にたてまえだけにすがる凡庸なモラリスト、大局のわからない正義派、原則無き同情者。」
 ㋣事なかれであろうとする者、対義語は「狂狷(きょうけん:いちずに理想に走り、自分の意思をまげないこと) 『仮名論語』 子路第十三 二十一章 に善い意味で使われ語源となる。」

 ㋑八方美人は、徳をそこなうものだ。
 ㋛いわゆる道徳家なる者は、じつはしばしば真の道徳の敵でさえあるものである。
 ㋗田舎でいう真面目な人、人の言うとおりになって世に媚(こ)び、田舎者の間でなら真面目だといわれる人は、徳に似て徳と違うから、徳をば、そこなうものです。
 ㋵教養や見識の低い一般の郷人(きょうじん:田舎者)の中で、律義者と称される者は、俗人の人気を迎えるに汲々(きゅうきゅう:一生懸命)たる者で、かえって本当の徳を乱(みだ)し害する賊である。
 ㋕偽君子は、徳をそこなう。
 ㋣村の評判を気にして、ただ円満、事なかれであろうと努める律義者は、実は、すなおな人間の本性を害するものである。

 考察:「郷原」の説明が難しく、訳語や対応が分かれています。㋑伊與田氏や㋛五十沢氏、㋕加持氏は短く、注で説明します。意味も、㋛五十沢氏の「君子の真の敵」から、㋣藤堂氏の「人間の本性を害するもの」と本人の心の問題、とする訳まで幅広くあります。㋑伊與田氏は、どちらの意味も含み訳になっています。ですから、唯一、注でも説明しなかったのでしょうか。

子張第十九 第八章
 「子夏(しか)曰く、小人の過つや、必ず文(かざ)る。」

 (念のため「子夏曰く」を入れました。訳文では省きます。)

 ㋑つまらない人間は、過(あやま)つと、言葉巧みに言い逃れようとする。
 ㋛愚かなる者の罪悪の原因は、つねに虚飾(きょしょく)にある。
 ㋗小人があやまちをした時には、きっと飾るものです。まちがいを改めるのは億劫(おっくう:面倒くさい)だが、自分を欺(あざむ)くことは何とも思わぬ。だから外側だけを綺麗に飾ってあやまちに深入りしてしまう。
 ㋵過失は誰にでもあるが、小人が過失すると、いろいろと飾って言い訳を言い、弁解するものだ。
 ㋕つまらない人間は、あやまちをすると、必ず言い訳をする。
 ㋣愚かな凡人は、過失を犯(おか)すと、必ずとやかく言い訳をして表面を取り繕(つくろ)うものである。

 考察:短文なのに訳文が見事に分かれている。「文(かざ)る」を「言い逃れる」とする㋑伊與田氏、㋕加持氏の訳。「罪を少なく申告する」とする㋵吉田氏、㋣藤堂氏の訳。「罪悪の原因が飾りにある」とする㋛五十沢氏、㋗倉石氏の訳。それぞれ二名ずつ三種類に分かれました。また、「原因」という言葉を使い、人間の本性に迫ろうとする五十沢氏の仏教的解釈が目立ちます。

雍也(ようや)第六 第二章
 「仲弓(ちゅうきゅう)曰く、簡に居て簡を行うは、乃(すなわ)ち大簡(たいかん)なること無からんや。」

 (本文では、「仲弓曰く、」と「簡…」の間に一文あります。仲弓が「理想の政治を語っています。その後、孔子は「その通り」と答えます。)

 仲弓(ちゅうきゅう):孔子の門人、名は雍(よう)、字は仲弓。雍也第六の冒頭で孔子が褒め称える。冉雍(ぜんよう)とも。孔子に「人物が立派で、諸侯(大名や王様)として政治ができると評される。孔子十哲(優れた十人の弟子)で、孔子の後継者に推された。三桓の季孫氏の家臣の長として仕える。

 ㋑大ざっばな性格で大まかに振舞うのは、大まか過ぎはしませんか。
 ㋛誘惑のない境遇にいるばかりに罪を犯さないだけの人間を、真に清浄な者だといわれまい。
 ㋗大まかにかまえた上に、中心がなくて身の始末がおろそかな上に、また大まかに行うようでは、かえって大まか過ぎる。守るべき筋道が立たないことは御座いますまいか。
 ㋵自らを持(じ)する心のもち方が大まかで、人に対しても大まかでは、むしろ大まか過ぎはしませんか」とたずねた。
 ㋕日頃から大らかな態度をとっている上に、さらに大らかに行動するというのは、あまりに大まか過ぎませんか。
 ㋣平素から大まかさに腰を据えつつ行政にも大まかであるというのでは、簡略すぎるのではありませんか?

 考察:㋛五十沢氏以外は、ほぼ訳文が一致する。㋗倉石氏が多少丁寧な程度である。㋛五十沢氏は、前後の文脈をぶつ切りにして、取り出し、この一文だけを仏教風に料理した、ようである。同じ原文を持つ訳文とは思われないのは、鮪の刺身と鮪のカレーの違いのようである。

里仁第四 第七章
 「人の過(あやまち)や、各々(おのおの)その黨(とう:当)に於(おい)てす。」

 ㋑人の過(あやまち)は、それぞれの仲間や心がけから出るものである。
 ㋛罪悪は、いつも、人の私情に基因(きいん)する。
 ㋗人のあやまちというものは、それぞれの傾き次第のものです。(君子は厚すぎ小人は薄すぎ、君子は愛しすぎ小人は残酷すぎる。)
 ㋵人の過失は、誰もみなその類(たぐい)を同じくするところで犯すものだ。その過失によって起こるところを見究(みきわ)めると、私心の偏るところにある。私心の偏るというのことは、情の偏るところであるから、この人の心のあらわれ方が見えて、仁(愛)が人心に根差していることを知り得る。
 ㋕人の過ちは、それぞれその人物の種類によって違っている。
 ㋣人びとのいきすぎは、それぞれ似た者同士のところで起こるものじゃ。(親が情にもろければ子も情に流され、君子が勇ましければ人民も血気にはやる。)

 考察:補注が二氏あり、㋗倉石氏は君子と小人の対比、㋣藤堂氏は親と子、君子と人民の一体を挙げています。全く別の解釈です。さらに、過ちの原因を仲間とする㋕加持氏と㋣藤堂氏、原因を自分の心とする㋗倉石氏と㋛五十沢氏と㋵吉田氏、両方とする㋑伊與田氏です。この辺りも興味深くあります。
 最後に㋵吉田氏は、偏りの根本に仁がある、として仁の証明として解釈しています。飛び抜けた解釈です。

泰伯(たいはく)第八 第九章
 「民は之(これ)に由(よ)らしむべし。之を知らしむべからず。」

 ㋑民は徳によって信頼させることはできるが、すべての民に真実を知らせることはむずかしい。
 ㋛人々に必要なのは、信念である。知識ではない。
 ㋗人民は当然の道理に従わせることはできますが、そのわけ、何故そうなるかというわけ、を知らせることは、実際上できません。
 ㋵人民というものは、王者の定めた道に拠(よ)り則(のっと)らしめることはできるが、数多い人民に、一人一人、その理由を説いて、意義を知らせることはなかなかむつかしい。
 ㋕民は、政治に従わせることはできる。[だが]政治を理解させることはできない。
 ㋣人民は、(自主的な知恵がないゆえに)上から教え導く人の道に従わせることはできるが、いちいち説明してその道理を理解させることはできない。

 考察:この一文は補注が興味深い。それぞれ挙げていく(意訳含む)。
 ㋑伊與田氏:(特になし)
 ㋛五十沢氏:この言葉はよく誤解される。中国の唯物論者(レーニン主義者)がこの言葉で孔子を批判している。そういう批難は、自分で目を閉じながら見えない見えないと怒っているようなもので、滑稽(こっけい)です。
 ㋗倉石氏:(特になし)
 ㋵吉田氏:愚民政策を述べたとして痛罵されるが、正しく論語を読めば理解されよう。孔子が自ら学を好み、人を教えていた。衛(えい:国名)では、民が多くなれば、豊かにして最後に教えたいと言っている。
 ㋕西暦千九百七十年代、文化大革命で孔子批判が激しく行われた。その時にこの文は愚民哲学として攻撃された。しかし、それは民衆は常に正しいとする信念からの解釈に過ぎない。民衆は愚かさも同時に存在するのである。その真実を孔子がえぐりだした。民衆の無知である。
 ㋣藤堂氏:(特になし)
 以上のように、三氏の注釈がついている。
 ㋛五十沢氏は文章の修辞で表現していて、全体像をつかみ難い説明です。孔子をよく読み込んでいないのに批難している、という意味で「見えない見えない」と推測はできます。
 ㋵吉田氏は、『論語』全体の文意を根拠に、孔子の意図を説明しています。しかし、正しい理解とは何か、孔子の意図は何かについて説明がありません。
 ㋕加持氏は民衆の本質から孔子の説明をしていきます。民衆には知と同時に愚かさも共存するという民衆の本質です。
 三氏の説明で浮かび上がってくるのは、孔子の民衆観です。孔子は民衆の愚かさを真正面から受け止め、そして学びを伝えていこうとしていました。また、政治の上では、民衆の愚かさに迎合しないように、という教訓も含んでいます。民衆の愚かさを真正面から受け止め国政を善くして行こうというのは、前の「ふじの友」に詳しく書いたようにプラトンと共通しています。

學而第一 第十二章
 「(有子曰く…) 和を知りて和すれども禮(れい)を以(もっ)て之を節(せっ)せざれば、亦(また)行うべからざるなり。」

 (前文に和を貴(たっと)しとするのは聖王の道であるが、それだけでは上手くいかない、とある。)

 ㋑和の貴いことを知って和しても礼(敬謝謙譲等の心)を以て調節しないと、これまたうまくいかないのである。
 ㋛協力協力といっても、そこに正義感がともなわないならば、真の平和は実現されない。
 ㋗和だけ心得て和で行こうとしても、礼でしめくくりをつけないと、だらしがなくなって、やはり上手くいかないものです。
 ㋵和の大切なことを知って和らいでも、秩序という礼で適度な調節を与えて、折り目、切り目をつけないと、諸事うまく運ぶものではない。
 ㋕調和[の大切さ]を知ってただただ調和しても、礼で折り目をつけなければ、やはりうまくいかないものだ。
 ㋣和の大切なことを知ってひたすらに角を立てぬように心掛けたとしても、礼によって肝心の節目をつけないようでは、これまた上手くいかぬものである。
 考察:

學而第一 第十二章
 「禮の和を用(もっ)て貴(とうと)しと為(な)すは、先王の道も斯(これ)を美と為す。」

 は有名な一文です。聖徳太子の十七条憲法の一条「和を以て貴しと為す」の原文とされています。『禮記(らいき)』の説もあります。有名な一文なので、訳文はほぼ揃(そろ)っています。ただ、㋑五十沢氏は「調節」を「正義感」に置き換えています。これも調節を行う基準が「正義感」と『論語』全体の文意から捉えれば、間違いとは言えません。むしろ内省的な解釈の大胆な妙訳と言えるでしょう。意義は後述します。

十七条憲法の和は「わ」か「やわらぎ」か
 さて、聖徳太子の一条にある「和」です。これを「わ」と読むか、「やわらぎ」と読むか、を考えてみたいです。今回の六冊の『論語』の訳文の中で注が最も多いのが㋵吉田氏です。注の一つ「語釈」を抜粋して引用してみます。

 『「和」は楊伯峻(西暦千九百九年から同九十二年)の「事の調適するもの之を和と謂(い)ふ」(訳注)に従って、調和、やわらぎと解したい。邢疏(けいそ:人名)の「楽」と解した(西暦九百九十九年)のには従いかねる。劉宝楠(西暦千七百九十一年から千八百五十五年)は賈子道術篇の「剛柔の道を得る、之を和と謂ふ」(正義)といった。即ち「和」とは剛柔緩急の宜(よろ)しきを得た調和のこと。』

 さらに注の一つ「余説」全文を挙げたい。

 『この章については古来多くの異説がある。その一、二は既に語釈であげたが、主なるものは、仁斎や徂徠の「用」を訓じて「以」となすものである。礼記「礼之以和為貴」といい、また聖徳太子の十七条憲法に「以和為貴」とあるから、この読み方に従う者も多い。しかし本章で最も大切なことは、礼と和の関係であろう。ともかく本章は礼と和を併せ用いなければならぬことを教えたのである。礼は名分を正し、秩序をつけることから、厳格に失すると離れ勝ちになる。和は、論語で用いた意義はやわぎの意味だから、ややもすると狎(な)れ紊(みだ)れる弊(へい)を伴う。人の相互関係ではどうしても礼と和の調節が大切だ。中庸に「君子は和して流れず。強(つとめる、しいる)なる哉(なり)、矯(きょう:曲がったものを正す)たり」(第十章)という所以(ゆえん)はここにある。』

 以上が㋵吉田氏の「余説」です。「和」を「やわらぎ」と読むと『論語』全体の文意に適います。
 繰り返しますが、「やわらぎは柔軟さやバランスなどの意味がある。その欠点は、なあなあになってしまう。礼節できちんと調節をしなければならない」という意味です。

現代日本では「やわらぎ」と
 現在の日本では、「わ」は十分にあります。はっきり言わないのは相手を傷つけないため、それが語法、単語、実際に言い回しに溢れています。 
 他方、「わ」のなあなあになってしまう、乱れてしまう、側面も出てきています。聖徳太子の十七条憲法を現代の教訓として活かすには、「わ」ではなく、『論語』の文意に従って「やわらぎ」と読みたいと思います。また、㋑五十沢氏は「調節」を「正義感」に置き換えと読むのも、的を射ています。現代日本では「正義感」を一人一人が持つ必要がある、という意味からです。『論語』を現代日本で学ぶ意義の一つがここにあると、六つの翻訳を比べてみて感じました。
 
 六人の翻訳を比べてみました。それぞれに個性があり、素晴らしものでした。『論語』の一文を丁寧に読む、という味わい深さがありました。当代一流の翻訳が人それぞれで、違っていました。私達も、翻訳をきちっと覚えなければならない、という束縛から、いい意味で解放されたように感じました。

 書き終えて目を挙げると、眼前には緑の影が広がっています。図書館の二階から大きな窓を眺めています。午後三時を少し過ぎています。輝く地面が、まだまだ厳しい暑さを感じさせます。今回の文章が、日本の乱れを正す一足となれば、と想って、席を立ちます。
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