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「哲学の源泉 特に近代以降」

(書きっぱなしになります。読み難い箇所、誤字脱字をご容赦ください。)

 西欧人の哲学の源泉、特に近代以降を書いていきます。

 私の長年の想いを形にしたもので、文献上の裏付けはしておりません。

 西欧人は、「ローマ的なもの」に憧れ、同一化した、と思っています。

 しかし、闇夜になってみると、「ローマ的なもの」は自分の身体と離れて輝いているのです。

 昼間には一体化していると錯覚していたのに、闇夜になると自分と一体でなかった、というなんとも言えない想い、これが哲学の源泉であろう、という気がします。

 古代ギリシャ人の哲学を、自らの身に同化させようとした、トマス・アクィナスなどが営々と積み重ねてきたもの、キリスト教の教会を街の中心部に作り、異教として数々の自然宗教、ユダヤ教などを排外してきた歴史があります。

 しかし、闇夜になって、自分自身だけになってみると、「ローマ的なもの」は私自身ではないのです。

 忸怩(じくじ)たる、程恥じている訳でもなく、悔悟(かいご)たる、程後悔している訳でもなく、悟る、程客観的に眺められている訳でもなく、憤怒(ふんど)たる、程怒りを生じるわけでもないのです。

 「ローマ的なもの」と自らを分けているものは、西欧人の心性です。
 
 この心の性質の原点を、「西欧人風野蛮性」と呼んでいます。

「西欧人風野蛮性」は、第1次世界大戦、第2次世界大戦によって暴露されました。第1次世界大戦、第2次世界大戦の解釈は様々ですが、西欧風理性のへの信頼が失墜した点が挙げられます。単なる利害の奪い合いではなく、われわれの理性ある西欧人が悲惨な結果を生み出すはずがない、という信頼が失墜したのです。それは言うならば、昼間に「ローマ的なもの」=西欧風理性と一体化している、と錯覚していたものが、自らの身体とは異なっていた、という経験でした。そこから、哲学は、特に近代哲学は解体に向かいます。現代哲学の反哲学、あるいは哲学の解体という現象は1つにまとまって提出されていません。混沌とした状況にあります。この根源に、自らの野蛮性に気が付き、留まっている西欧人があります。
経済や国際政治という光の舞台では相変わらず、これまでの理性を信じて活動を続けています。しかしながら、暴かれてしまった闇から目を背けられない知的誠実さをもつ思想家達は、闇夜に立って「ローマ的なもの」と一体でない自らを見つめ続けているのです。光の舞台のように「西欧人風野蛮性」を無視し続けられる、と思えない人々は、国際連合の諸活動、国内の数々の格差等々の尻尾の見え隠れする、自らの野蛮性に気づかされるのです。
私の少ない体験では、西欧人と話していて、どうも何かの皮を被っている、という感覚にとらわれます。ハーバード大学の有名な教授の講義をインターネットで見ていても、その感覚を持ちます。思想的な、あるいは哲学的な皮の源泉は何であろうか、という疑問を長年抱いてきました。

その皮は、化けの皮を取るように、剥げる皮ではないのです。仮面のように仮面をかぶる人と本質が異なる皮ではないのです。仮面の非生命と被る人の生命とが明確に線引きされているのではないのです。少なくとも有機的に一体性がある皮のように感じられます。有機的一体感があるのですから、思想的な皮を剥ぐと、皮膚や皮下脂肪、筋肉までも一体にはがれてしまう、そういう根深い皮です。その意味で、ハーバードの教授は嘘を意図的についている、と言い切ることは出来ない。よく、西欧人は自分達の利得のために宗教を利用した、とか、新たな植民地支配のために国連の諸活動やNPOやNGOの活動、数々の寄付や医療行為をしている、という批判を聴くことがあります。そういう批判は、単純な正義感という皮を被っていて、彼らの肉体と有機的一体性がない、という立場に立っています。つまり、ハーバード大学の教授はお金を儲けるための嘘を、嘘と知っていて付いている、ばれても自身に傷を負わない、というのです。

 しかし、私はハーバードの教授は自らの主張が徹底的にたたき壊されれば、深く傷つくのだろうと推測します。彼の主張する共同体の確保、という主張はコールバーグの道徳の発達段階理論と同じく社会全体性を真剣に主張するものでしょう。

 けれども、ハーバードの教授もコールバーグも同時に、闇夜にポツンと独りになった時に浮かび上がってくる、「ローマ的なもの」との乖離を感じていたのではないでしょうか。この感覚は、例えば、日本人が「からごころ」で主張されているメビウスの輪の構造と似て非なるものでしょう。私達日本人は明治期から大東亜戦争へと至る道を、自らの野蛮性への眼差しを持っていない、という歴史的経緯という意味でも似て非なるものです。そして源泉として、日本人が神話に始まり確固たる精神基盤を持つという点において決別しているのです。世界最大の宗教行事の1つである日本の正月参拝はムスリムのメッカ巡礼等よりも人数が多く、人口比でも隔絶しています。神社仏閣の人口比でも飛びぬけています。多様な宗教を許容できるほど強固な精神基盤を有しているのです。

 しかし、西欧人は、唯一神を信仰しながらも自然崇拝の要素をゴチック建築に取り入れ、クリスマス等の異教の祭を自らの祭祀とし、マリア信仰という異端宗派が払拭できないでいます。バチカンでは自らの建築技術では建てられない多神教のローマ建築を利用し、ローマ法王の呼び名に多神教のローマの称号を用いています。とは言うもののローマ人からは「野蛮人」と呼称された西欧人達が、西ローマを滅ぼし経済を崩壊させ、暗黒時代へと引きずり込んだのです。「ローマ的なもの」と自らを一体化することで西欧人として復権した彼らは、「ローマ的なもの」の中にある「ギリシャ的なもの」、「ヘブライ的なもの(メソポタミア的なものも含む)」、「古代ローマ人的なもの」の幾つかに強く共鳴しつつ、それらを一体として吸収しようとしました。
だからこそ、彼らの被っている皮は「ギリシャ的なもの」、「ヘブライ的なもの」、「ローマ的なもの」と一体となりながらも、どこまでも一心同体となりえないのです。
 例えば、『聖書』の中の人間創造神話に見られる「土への反発」と「土に対する畏敬」の二つの要素は、「土への反発」との融合と、「土に対する畏敬」への抵抗として分かれています。
 こうした例は数多くあげられるでしょうが、「ローマ的なもの」を一体として自らに被ったことによって、一体となるもの、どこまでも受け入れられないものとが出てきてしまったのです。

ある政治学の泰斗(たいと)は、「西欧留学で教会を周り、『西欧は日本人には解らないことが判った』」と書いていました。複雑怪奇な西欧の現実は、思想的源泉を捉えないことには理解しにくいに違いありません。
これまで私は、現実の要因を以下のようにまとめて観ています。

①宗教上の正統性の喪失:キリスト教上の破門されたこと
②政治上の正統性の喪失:統一王権が確立できなかったこと
③地理上の複雑な地形:効率的な生産活動の阻害、農法確立や治安
④蛮族の侵入により安定的権力の非継続:地球上で最も収奪された地域の1つとなったこと

 こうした観点に立脚して、今回、「哲学の源泉 特に近代以降」を考えてみました。どうして日本人には哲学、特に近代以降が解りづらいのか、どういう内省的な感覚であるのか、どういう精神基盤に基づいているのか、ということです。
 将来の私自身も含めて、何か役に立つことがあれば幸いです。
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