エッセイ「【解説】『からごころ』と反証可能性」

  「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した校正前原稿です。
読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。以下本文です。

 「富士市 第三回 憲法講演会・誇りある日本を築くために」で長谷川三千子先生が御講演されました。長谷川先生の主著である『からごころ ―日本精神の逆説―』の読み下し、三回目であり、最後です。


 前号、前々号に続き長谷川三千子先生の「からごころ」を取り扱います。今号は、私の専門である科学哲学者カール・ポパーを中心にして、学術的な検討を加えていきます。「からごころ」を見つめ、さらに日本の未来を見つめていきたいと思います。「からごころ」については、『からごころ ―日本精神の逆説―』あるいは前号、前々号をご参照下さい。

「からごころ」の基礎事実
 学問は「事実から出発しなければならない」という大意を述べたのは、アリストテレスと言われています。まず、「からごころ」の基礎となっている事実を分析します。
 「からごころ」は日本人の心の在りよう(心性)について述べています。その出発点は、本居宣長であり、宣長は『古事記』研究から日本人の心性を引き出しました。「からごころ」は日本人が外来文化へ心を奪われること、と同時にそれを無視して吸収することの二面性(逆説)を述べています。具体例として漢字文化の日本化を挙げています。つまり、「本居宣長の解釈」、「漢字と仮名」が具体例であり、基礎事実は日本化をする主体としての「日本人」となります。
 この「日本人」が『古事記』の時代から現代まで共通しているという前提を、「からごころ」の基礎事実が含んでいます。漢字を日本化した日本人と西欧の技術を日本化した日本人が典型例として文中に出てきます。では、その「日本人」とは何者なのでしょうか。
 よく考えてみると、この「日本人」とは他と比較できない事実であるのが観えてきます。日本の歴史(国史)は二千六百七十五年という世界最長です。これと同じ歴史を持つ国家は存在しません。二千五百年前のギリシャの都市国家群、ローマ、周など同時代の全ての国家が滅びています。文化から考えてみても、「日本人」という同一性を担保する民族は、殆どありません。一億人を超える文化集団が極めて高い均一性を保ちつつ存続してきたのです。中国、印度、アメリカ、ロシア等の一億を超える国家内には、数々の文化集団によって多様性が保たれています。この二点を挙げるだけでも、「日本人」が他の「人」とは異なる位置づけであるのが判ります。
 さらに、「日本人」は敗戦後の約八年を除けば外来の占領を経験していません。これは他のどの国家よりも短く、そして影響も少ないものです。もちろん、現在の日本人は「敗戦後」の影響を払拭しようとしていますが、他国と比較すると少ないと言えるでしょう。「からごころ」にその実例が挙げられています。

 「ヴェトナム語は、十七世紀にフランス人宣教師の考案したローマ字表記「クォック・グー」(皮肉なことにこの言葉は「国語」から来てゐる)によって表記される」 五十七頁

 ヴェトナムはフランス等の植民地時代の影響が言語の使用方法に及んでいるのです。
 以上のように考えると基礎事実のある一面が浮かび上がります。「からごころ」ではヴェトナムを日本と比較していますが、事実の性質として単純に比較することは出来ないのです。ヴェトナムは占領や植民地支配によって自国の文化や言語が改変・破壊等を繰り返されてきたからです。ヴェトナム以外の例で挙げられた朝鮮も同様であり、西夏、契丹などは滅ぼされてしまっています。漢字文化の発祥の地でさえ、周辺民族の支配の方が長いほどです。
 ですから、日本国と比較しうる基礎事実がない状態なのです。その上で「日本人」だけを検討しているのが「からごころ」なのです。
 ここから派生するのは、「日本人」と漢字等を含める「日本文化」を同一視することへの危険さです。『古事記』を含めた古代の大和朝廷が、日本全体の共通して保持していない、という事実を見逃してしまうかもしれないのです。現在の関東や東北、北海道には大和朝廷と異なる人々が住んでおり異なる文化を形成していました。歴的変遷を経て大和朝廷に同化していったのです。現在残る方言の分布図は京都と中心に同心円状になっており、京都から日本文化が伝播していく様が読み取れます。このように「日本文化」には同心円状の歴史的差異がありました。それを一気に平均化したのが、江戸時代の大阪を中心とした物流構造と江戸を中心とした参勤交代制度です。さらに、明治時代になり税制や軍事力の中央集権化によって現代の「日本人」の均一性が生み出されました。このように「日本人」と「日本文化」には歴史的変遷による差異があります。しかしながら「からごころ」にはこの点が検討されていません。先ほどの指摘と合わせて述べると、「からごころ」は基礎事実「日本人」の内在でも外在でも、単一の扱いを受けている、という点に目が向かいます。

 「からごころ」に即して基礎的事実が一つである、実例を挙げてみます。「からごころ」は漢字文化に対する日本人の心性の特徴でした。漢字文化の実例としてヴェトナムや朝鮮、西夏、契丹等の例が挙げられていますが、それぞれの人々の心性と比較さていないのです。述べられてさえいません。漢字文化の異なる吸収の方法は述べられていますが、彼らの心性についての解説がありません。しかしながら、「からごころ」は「日本人」の心性について語っています。つまり、同じ漢字を吸収した形式は述べられているのに、彼らの心性について触れていないのです。それゆえ、「からごころ」では基礎的事実が一つしかない、という論理構造なのです。

基礎的事実が一つしかない際の反証可能性
 次に、基礎的事実が一つしかない点を、科学哲学者カール・ポパーの中心概念「反証可能性」から検討を加えてみます。紙面の関係上、三つの点に絞って述べていきます。

反証可能性とは
 反証可能性とは、科学と非科学を分ける規範基準とされます。科学は反証される可能性を保持している。他方、非科学とは反証される可能性を保持していない、という考えです。ポパーは若い頃、マルクス主義(共産主義)に傾倒していました。しかし次第に、ウィーンでのマルクス主義に違和感を持ちます。新聞を騒がせる社会騒動について仲間と話し合いを持つと、全ての記事が「だから、将来は民主主義国家から共産主義国家になるのだ」、あるいは「だから、人類の歴史には法則があって、将来は全ての国が共産主義国家になるのだ」という結論に落ちていたのでした。
 
 「どのような記事も必ず共産主義が正しい」
 
 という一つの結論に結び付くことにポパーは疑問を持ちました。そこで、「このようなことが起これば理論は間違えである」という視点の大切さに目覚めていきます。決定打となったのはアインシュタインでした。

 「アインシュタイン自身が、もし自分の理論が一定のテストに落第したのならば支持しがたいものと認めると、はっきり明言したことであった。(中略) これこそ、真の科学的態度である。」 『ポパー』 三十二頁

 と表現されます。こうした意味を込めて「反証可能性」を後年定義していきます。それゆえ、二十世紀を代表する十人の思想家に選ばれるようになりました。 

「からごころ」の反証可能性①原理として
 その後、ポパーはマルクス主義の「人類の歴史には法則があって、将来は全ての国が共産主義国家になるのだ」という歴史法則を根本的に批判した『歴史主義の貧困』という本を出します。この中でポパーは、
 「歴史というものは、一回しかない事実であり、同じ条件で繰り返すことが出来ない。繰り返して実験できない歴史から、法則は出てこない。むしろ新しい創造や可能性を殺すことになる(貧困)」(高木意訳)
 と主張しています。自然科学のように同じ条件で繰り返し実験を繰り返してはじめて法則が生まれます。一千年前の印度人と現在の日本人が同じ条件で実験をすれば結果が同じでなければならない、のが法則なのです。同じ人が二十歳でも五十歳でも同じ条件で実験をすれば結果が同じになるのが法則です。
 しかしながら、歴史とはそのように同じ条件で繰り返し実験することは出来ません。時は戻らない、のです。この指摘は「からごころ」の基礎的事実にそっくりそのまま当てはまります。
 もちろん、厳密な自然科学の実験を行えない人文科学や社会科学の知にはそのような性質がある、と私は考えています。それゆえ、これは「からごころ」だけではなく、人文科学、社会科学全体についての視点であることを付け加えておきます。
 これらを踏まえると、「からごころ」を日本人が歴史的変遷の中で変らない法則(日本人の特徴である心性)のように取り扱うことは出来ないでしょう。もし、そのように取り扱うとするのならば、歴史の一回性を無視したことになります。しかしその学術的限界を無視して突破してしまったのが、マルクス主義、あるいはポパーが指摘するアドラーの心理学なのです。

「からごころ」の反証可能性②普遍として
 歴史そのものが一回性を持つ、ということは、人の知能の限界として考えることが出来ます。ただし、歴史でも基礎的事実を増やすことで、漸近的に普遍へ向かうべく努力が可能です。
 先ほど指摘したヴェトナム、朝鮮など現存する集団の心性を漢字の受容と比べて、「日本人」の心性と比較することです。
 別の言語吸収の例から考えてみましょう。漢字や仮名は言語です。言語分野において世界で最も普遍的な言語は数学と言えるでしょう。時代を超え民族や地域差などを超え、数学は幅広く受け入れられている言語です。
 例えば、円周率は「三・一」から「三・一四」になるのに千七百年かかっています。四千年前の古代エジプト数学の「三・一」を受けて、古代ギリシャのアルキメデスが二千三百年前に「三・一四」とします。現在は十兆桁を、日本のあるおじさんが導き出しています。つまり、数学という言葉が、古代エジプトから古代ギリシャという地域、文化、時代を超える共通性があるのです。他の日常言語では言語そのものが常に変化し続けています。平安時代の大和言葉と現在の日本人が話す言語には違いがあります。
 さらに、円周率が「三・一四」が正確である、ということを現代日本の私達が確かめられます。このように人文科学であっても、漸近的に普遍へと向かう努力は可能なのです。紙面の関係もあるでしょうが、「からごころ」にはこうした学術的基礎がなく、脆弱さを保持しているのです。
  
二つの普遍的
 次に、この数学の普遍への努力を踏み台にしていきましょう。数学の普遍は、先程指摘した歴史の一回性の呪縛から逃れることが出来ません。この点についてポパーは、「数的に普遍的」と「厳密に普遍的」を分けます(『科学的発見の論理 上』七十四頁)。

 「数的に普遍的」 有限の個別的な諸要素
 「厳密に普遍的」 全時空間の全事象
 
 例えば、これまで地上に身長二メートル八十センチを超える人間はいませんでした。こうした事実を踏まえて、「人間は二メートル八十センチを超えない」という定理は真と言えます。これは「数的に普遍的」な言説です。しかし、将来、二メートル九十センチの人間が出てくるかもしれません。そのことについて、「数的に普遍的」では語ることが出来ないのです。なぜなら、過去現在の有限の全員という個別的な諸要素を調べただけの結果は、数を調べ上げて妥当でした、というだけだからです。結果報告に反証可能性はありません。反証可能性はあくまでも理論(言説)の反論される「可能性」なのであり、潜在的な可能性なのです。有限個の列挙されていない(潜在する)事例は含まれないのです。
 対して「厳密に普遍的」とは、将来も過去も全てを含んでいる言説です。ですから、未来の列挙されていない事例が含まれています。それゆえ、反証可能性を持つことになります。このように捉えると歴史を数え上げた数学の歴史は「数的に普遍的」となります。つまり、数学史も未来永劫、現在の数学が継承される、ということを「数的に普遍的」としてしか保証できないのです。それは同一条件での繰り返しの実験が不可能だからなのです。
 同じことが、過去の国史(日本の歴史)だけに基づく「からごころ」にも言えるのです。「からごころ」には普遍として反証可能性がないと言わざるをえません。

「からごころ」の反証可能性③事実として
 次に「からごころ」の事実の性質について考えていきます。「からごころ」を導き出す原点として、本居宣長の慧眼があります。慧眼を出発点に宣長の翻意を解題していくのが「からごころ」です。しかし、この宣長の優れた洞察は、客観的事実としての価値があるのでしょうか。
 二つの大きな疑義が浮かび上がります。
 一つは、慧眼を補足するために小林秀雄氏や折口信夫氏の洞察を使ったこと、さらに、言語学の問題に明治維新における西欧技術の導入という別の分野を使用したことです。こうした点を論ずるには紙面が足りないので割愛しますが、多様な指摘が出来るでしょう。
 もう一つは、「からごころ」に潜むどうしようもない程根深い疑義です。「からごころ」は以下のよう性質を持っています。括弧は高木付記です。

 「漢意(からごころ)それ自体が、或は日本文化それ自体が、さういふ逆説をなして出来上つてゐるのである。」 『からごころ ―日本精神の逆説―』 六十四頁

 「からごころ」には漢字文化に憧れ同化し自分の考えであるかのように取り扱いながら、かつそれを無視する構造があります。ポパーから考えみましょう。すると、「からごころ」は多くの可能性を排除していないことが観えてきます。いわばアドラーの心理学のような反証不可能な言説となります。
 例えば、英語好きの人がいたとしましょう。その人が「日本語は駄目で英語は良いね」と言うとします。これは「からごころ」の実例に当てはまります。としながらも、「日本語は良くて英語は駄目だね」と正反対の判断を下したとします。これも、「からごころ」によって説明できるのです。つまり、賛成反対の両方とも「からごころ」によって説明可能なのです。漢字文化に陶酔して自分のものと疑わない、のも説明可能ですし、漢字文化を無視して自分の都合のよいように改変する、のも説明可能なのです。本文では、前者が日本人の外来文化好き、後者が仮名や書き下し文などの実例で説明されています。
 このように反証可能性で考察すると、どのような状態になれば「からごころ」が誤っているか、という反証が不可能なのが見えてきます。
 
逆説という反証不可能さ
 「からごころ」は「逆説」の構造を含んでいます。それゆえに、「からごころ」自身が反証されえない構造を持ち、宿痾(しゅくあ:持病)に悩まされることとなるのです。つまり、「からごころ」は学術的検討を重ねるのが難しく、反論や限界などの考察も不向きになってしまいます。ポパーは排除される事象が多ければ多い程、(有益な)理論である、と述べています。「からごころ」は説明不可能な(排除される)事象が極めて少ないのです。これは、冒頭で指摘した本居宣長の個人的な慧眼に基づく、という点と合わせる時にさらに増大します。乱暴に単純化すれば、

 「からごころ」への反論、異論は難しい。なぜなら、何でも「からごころ」の例になってしまうから。

 ポパーはこう言うでしょう。
 「反証に開けていないものは貧しい。」

 アドラーの心理学のように全てを劣等感で説明しようとする理論は、反証可能性がなく、反論、異論は難しいものです。性的欲求で全てを説明しようとするフロイトの心理学、歴史法則で全ての社会運動を説明しようとするマルクス主義も同様です。これらの理論に反論、異論を唱えるのは困難であり、ポパーは理論構造そのものを問題したのです。科学は反証される可能性を保持している。他方、非科学とは反証される可能性を保持していない、という考えでした。

「からごころ」の反証可能性④論全体として
 次に、理論全体、つまり論全体として「からごころ」を理論の有効性から考えてみましょう。アドラー、フロイトの心理学もマルクス主義も反証可能性がないゆえに、情報としては極めて低いものに留まってしまいます。すると、これらの理論を有効にするものは、理論そのものではなく、理論の読み手の解釈となります。具体的には、解釈の共通化としての実践、共同研修等を指します。もし、読み手の共感、肯定的解釈が得られないと理論は有効ではなくなります。
 それゆえ、実践、共同研究等の積み重ねがなくなると、理論は空理空論に落ちいってしまうのです。アドラー、フロイトの心理学が現在の脳科学の成果と殆ど結びつかないのがそのいい例となるでしょう。同様に、マルクス主義も、空理空論に陥り学術的発展を遂げられませんでした。スターリンの台頭は政治的要因によって説明できるかもしれませんが、ルイセンコ学説は忘れ去られた空理空論となりました。現在の自然科学では完全に否定されています。マルクス経済学では平成の世の経済を論じられません。
 「からごころ」も先ほど指摘したように数々の点で、反証可能性を保持しているとは言い難い点があります。それゆえ、読み手は「からごころ」そのものを虚心坦懐(きょしんたんかい)に読み心に修めるよりも、解釈の共通化としての実践、共同研修等が必要なのではないでしょうか。

「からごころ」の射程について
 以上のようにポパーの反証可能性から「からごころ」を検討してきました。「からごころ」という名著を今後の日本に生かすための足がかりになれば幸いです。
 最後に「からごころ」の広がりについて述べて終わりとします。長谷川先生の「からごころ」の終盤の文章を引用します。

 「我々の本来の在り方を破壊することなく、しかも自分自身を見ることを恐れずにゐられるーこれが、我々の目指すべき安心の境地である。」 『からごころ ―日本精神の逆説―』 六十九頁

 前号の『「からごころ」と「子供の遊び」』で述べたように、現代日本では私達が自分自身を見ることが出来ていないと、長谷川先生と江藤淳氏は指摘しています。「からごころ」は私達が自分自身を見るために、必要な概念であるのは、繰り返し述べるまでもありません。さらに、概念として「からごころ」は有効である、と考えられます。私達はそのために「からごころ」をよく読み、実践と研修等を行っていくのが大切であると考えます。その際に本文が参考となれば幸いです。
 では「我々の目指すべき安心の境地」へはどの様な手段で向かおうとすべきでしょうか。日本国憲法を生み出すにいたった歴史背景に目を向けるべきでしょう。
 なぜなら、私達日本人は、御心を忘れて大東亜戦争の惨禍を生み出してしまいました。そして、現代日本でもお心を忘れて行動してしまっているからです。
 ここに現代日本を考える糧があり、そして「我々の目指すべき安心の境地」への道があると想っています。長谷川三千子先生の「憲法講演会」を楽しみにしております。

参考図書
○カール・ポパー著 『科学的発見の論理 上』 恒星社厚生閣
○小河原誠著 『現代思想の冒険者たち一四 ポパー 批判的合理主義』 講談社
○長谷川三千子著 『からごころ ―日本精神の逆説―』 中公文庫


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