エッセイ「【随筆】哲学とーさんの子育て」

 (私の子育て体験をまとめたものです。短い文章に区切られています。) 


 子育て、こんなにも、苦しく、イライラし、温かく、豊かで、自分が変わるものだったとは。
 ぼそぼそという、ひとり言を冬の雨にはき出しました。

 私は、四歳、二歳、零歳七か月の父親です。
 三十六歳で最初の子を授かりました。

 三十六歳までは、子育て、に何らかの意味や価値があるとは思っていませんでした。
 「親がなくとも子は育つ」を勝手に解釈して、子育てに掛ける時間は少ない方がいい、と思っていました。
 「子供はスクスク育つのが一番」は、子供に手をかける必要はない、子供を気にかける必要はない、と受け止めていました。
 子育ては、学問のように積み重ねや発展性のないもの、子育ては、その場その場だけの愛情でなりたつもの、そんな風に思っていました。
 さらに、私は子育てが苦手、私は向いていない、女性の方が向いているし、自分の人生を切り開いてくれない。子育ては、単なる人生の通過点に過ぎない、と思っていました。
 けれども、その思いは、夏の台風のような暴風が吹き飛ばしてくれました。
 新しい人生を切り開いてくれるもの、でした。
 仕事や研究とは別のものが子育てにあったのです。

 子育ての奥深さに驚いています。
 普段、考えている哲学からその奥深さに迫ってみたいと思います。

「無限の愛情」
 理想の子育ては、親が子供に「無限の愛情」を注ぐ、という形でしょう。
 私も赤子が生まれる前に、そわそわしていました。私みたいな、中途半端な人間が子供に「無限の愛情」を注ぐことができるのだろうか? と不安になっていました。
 おっぱいを赤ちゃんにあげる母親ならできるかもしれない。でも、何もあげない父親がどうやって「無限の愛情」を注ぐ、なんてできるんだろうか、と疑問でした。

 でも、生まれてみてびっくり。
 実際は逆でした。

 親が子供に「無限の愛情」を注ぐ、という形でなかったのです。
 子供が親に「無限の愛情」を与えてくれる、という形だったのです。

 子供のしつけで、強く言い過ぎてしまった後、感情で怒ってしまった後、四歳の息子に言いました。

 「とっくん(子供の名前)、おとーちゃん、さっきは強く言い過ぎてごめんね。」

 そうすると子供は直ぐに

 「いいよ。」

 と許してくれます。私は情けない大人なので、さらに言い訳を付け加えます。

 「おとーちゃんは、とっくんに立派な人になって欲しいから強く言っちゃった。ごめんね。でも、おとーちゃんは、とっくんが大好きだよ。」

 「いいよ、とーちゃん。とっくんも大好きだよ。」

 子供は親に「無限の愛情」を与えてくれる、のです。そして親の情けない言い訳を受け止めてくれるのです。ちょっと言い過ぎても許してくれる。これまでの子育てで何度も何度もありました。日常では親が子供を育てています。けれども、奥深い本質では、子供が親を愛してくれるのだ、と気がつきました。

「無限の愛情」とソクラテス
 子供が親に「無限の愛情」を与えてくれる、は常識とは違います。
 最初の哲学者ソクラテスは「無知の知」が有名です。「無知の知」は、「常識を疑わないで自分の知識を当たり前に思っている人」に向けられた言葉です。つまり、「無知の知」は「私は常識を疑っていて、自分の知識がないことを知っていますよ」という意味です。自分の常識を疑うので、目の前の現実に謙虚になれます。
 子育ても同じです。世に蔓延する子育て論は沢山あります。その常識を子供に当てはめるだけにしていないだろうか? とソクラテスなら言うでしょう。もう少しかみ砕くと、「他人の多くの子供の育て方(常識)が、果たして世界で一人しかいないウチの子供に当てはまるのだろうか?」です。

 「どうしてウチの子供は、他の子供と違うのだろう。」

 に、ソクラテスなら、

 「その子育てを捨てて、子供から子育てを教えてもらいなさい。」

 と言うに違いありません。親が子供に「無限の愛情」を与える、という常識は、ウチの子供に合っているでしょうか。親は日常の生活を支え、しつけをします。それは「無限の愛情」ではありません。ロボットでも出来ます。大切なのは、衣食住というロボットでもできる問題ではなく、心の問題です。ソクラテスは心の謙虚さを教えてくれます。

 ある晩、翌日の授業の準備でソクラテスを読んでいると、息子が「おとーちゃんと一緒に寝たい」と部屋に入ってきました。そして先ほどの「とっくん、さっきは言い過ぎてごめんね」と言いました。安心したのでしょうか、息子は直ぐに寝ました。寝息が聴こえてくる真っ暗な天井を見ながら、ソクラテスがささやいてくれました。

 「常識の子育てを捨てて、子供から子育てを教えてもらいなさい。」

 と。
 「大人が子供に『無限の愛情』を与える」、「大人の方が子育ての知識がある」という常識を疑いました。果たして、おっぱいを挙げられない不安を抱えていた私は、その不安を受け止めて子育てに向かえるようになりました。ソクラテスの「無知の知」のお陰です。
 子供が産まれて初めておとーさんが産まれます。この言葉の意味は、「子供から子育てを教えてもらいなさい」だと感じました。
 子育ても哲学である。大げさかもしれませんが、そんな風に感じます。

「おかえりなさい、の正しさ」
 玄関の扉を開けて

 「ただいま~。」

 かみさんが赤子を抱っこして

 「おかえりーなさい。」

 赤子は足をバタバタさせて、ゥエゥエ!!と喜んでいます。
 かみさんが、テレビを見ている子供二人に、

 「おとーちゃんにおかえりー、は?」

 「・・・おかえーり。」
 「おかえり。」

 という何気ないありふれたやり取りがありました。
 毎日の何気ないやりとりの中に子育ての大切さがあります。もし、「おかえりー」と言わなければ、言うのを教えます。
 同様に、かみさんが、子供達が帰ってきた時に「おかえりー」と私も言います。おとーちゃんがお金を稼いできているから、とか、大人だから、ではありません。
 「おかえりなさい、の正しさ」の前では、大人も子供も平等なのです。
 大人が子供と違うのは、「正しさ」を理解し、きちんと実行できる点にあります。

 二人の子供は「おかえりなさい」ではなく、「おかえりー」とこちらの顔を見ないで、テレビの方を見ていました。大人でもテレビに集中している時に、わざわざ顔を横に向けたくはありません。楽しいテレビを見続けたいものです。子供も大人と同じです。けれども、大人は「おかえりなさい、の正しさ」を理解し、きちんと実行できるのです。だから、大人は、

 「人が帰ってきた時は、きちんと顔を見て『おかえりなさい』と言うんだよ。」

 と教えます。
 その数日後、かみさんが帰ってきた時に、子供に「ちゃんとおかえり、って言って」と言われました。
 私(大人)が同じことを言われたのです。その時は「ごめんなさい」と子供に謝って「教えてくれて有り難う」と言いました。「おかえりなさい、の正しさ」の前では、大人も子供も平等なのです。この点を何気ないありふれたやり取りの中で教えていくのが、子育てだと思います。

「おかえりなさい、の正しさ」とプラトン
 プラトンは、ソクラテスの四十歳以上下の弟子です。古代アテナイの民主主義を見て、このままでは祖国が滅びてしまう、という危機感から、哲学を打ち立てました。
 古代アテナイの民主主義は、自国の利益しか考えず、民主主義が最高であり他国に強要し、それでありながら自分の行為は絶対に正しい、と疑わない民主主義でした。

 子育てでも同じような人がいませんか?
 自分の子育ては正しい、と思っている人。私の子育ての結果、子供を有名幼稚園や小学校に入れられた。あるいは、有名大学に入れるためにこんな塾に入れていますよ。あなたも私の子育てのようにすれば絶対に上手くいく、私の子育ては絶対に正しい、と疑わない人です。こうした判りやすい人は目につきやすいです。他方、目につきにくく、「自分の正しさ、を疑わない人」もいます。
 「親の言うことを聞いていれば子供は大丈夫」、「親は子供を無条件で愛する」と信じて疑わない人です。
 そういう人を傲慢(ごうまん)と言います。その傲慢さを暴いたのがソクラテスの「無知の知」です。その「無知の知」の後を引き受けたのがプラトンです。
 では、どうしたら正しい方向に祖国が向かうのか、とプラトンはイデア(理想の形)を提示しました。プラトンは、「イデアは全員知っているが、ちょっと忘れてしまっている。正しい習慣を毎日行えば、想いだす」と考えたのです。

 子育てでも、理想の形を目指すことが大切です。
 けれども、それは両親だけが知っているものではありません。正しさの前では、親も子供も平等なのです。子が間違えば親が教え、親が間違えば子が教える、という関係が、プラトンのイデア論から読み取れます。
 なぜなら、プラトンの言うようにイデアは子供も不完全ながら知っているからです。そして、子供の中にも大人の中にもありますが、きちんと正しい習慣で達成されるものです。何気ないありふれた会話の中で、一回一回のご飯の頂き方で、お風呂や遊びの中で、正しい習慣を行うのが大切でしょう。
 
 プラトンを少し深めてみます。
 自分の子育ては「正しい」のか、と謙虚な姿勢を取れるのは大人しかありません。その謙虚な姿勢があるからこそ、大人は子供にしつけをすることが出来るのです。
 「おかえりなさい、の正しさ」
 を子供に言えるのは、この謙虚な姿勢があるからです。謙虚な姿勢がなければ、それは単に親の傲慢さの押し付けに過ぎなくなります。
 「親がいうんだから、言うことを聞いていればいいんだよ!」

 というのは子育てではないのです。或いは、

 「私の子育てを聞いていればいいんだよ! だって成功したんだから!!」

 というのも子育てではないのです。それは親と子供が共に育っていく、本来の子育てからほど遠い意見です。

 正しさの前では大人も子供も平等です。
 けれども、そこに謙虚になり、毎日の何気ない中に活かせるのが大人なのだと思います。
 プラトンは、こんなことを教えてくれています。

「正しさ、のために」
 「正しさ」とは素晴らしいものであると同時に、恐ろしいものでもあります。言葉遣いが場にそぐわずに人を傷つけてしまうことがありますが、それよりも、もっと深く人を傷つけしまうこともあります。「正しさ」には謙虚な姿勢が大切です。では、具体的にどうしたら善いのでしょうか。

 「ちゃんとご飯を食べられて、えらいね~。」
 「うん。」
 と嬉しそうな顔。

 「もう、一人で靴が履けるようになったの! すごいよねー。」
 「そうだよ、できるんだよ。」
 と得意げな顔。

 「テレビ消してお手伝いできるようになったの?! 立派だよ。」
 「・・・(無言)・・・」
 残念さと誇らしさの入り混じった顔。

 誉め言葉を掛けてきました。さらに一歩ふみ込みます。

 「今日は保育園楽しかった?」
 「ううん、楽しくなかった。」
 「そっかー、じゃあ頑張ったんだね。」
 「うん。」

 「怒られた時悲しかった?」
 「うん、悲しかった。」
 「そっかー、じゃあ、どうして怒られたかわかる?」
 「ううーんん。」
 「怒ったときね、おとーちゃんも悲しかったよ。おとーちゃんはとっくんのこと怒りたくないんだよ。でも、とっくんを怒らないとワガママになっちゃうから怒るんだよ。わかる?」
 「・・・うん、」

 と気持ちを聴きました。
 子供自身を誉めて認め、気持ちを聞いて受け止める、ことがしつけ、つまり「正しさ」を教える上で大切です。叱るだけ、叩くだけのしつけでは、いくら「正しい」ことでも子供は受け入れられなくなります。いえいえ、大人でさえ、いくら「正しい」ことでも受け入れられません。会社や親戚づきあい、近所づき合いで、「あの人に遭うとまた怒られる」と思うと、避けて通るようになるでしょう。完璧に正しい人間など存在しないのです。それなのに「正しい」ことだけを押し付けるとどうなるか。それは子育て、の「育て」ではなくなってしまいます。
 大人でさえ「正しさ」だけではやっていけません。子供ならなおさらでしょう。

「正しさ、のために」と孔子
 孔子は、約二千五百年前の人です。鉄器の普及で経済が発展して、実力主義になる時代に、昔の道徳を取り戻そうとした人です。そのために立派な人になるにはどうしたら善いか?を考えました。孔子の『論語』は「正しさ、のために」の助言を残してくれています。

 「上司に頻繁(ひんぱん)に正しいことを言うと、逆に恥をかかされるよ。
 友人に毎回のように正しいことを言うと、嫌われてしまうよ。」

 というのです(里仁第四)。同じ意味で心理学者河合隼雄先生は「マジメも休み休み言え」と「うそは常備薬 真実は劇薬」と言っています(『こころの処方箋』)。
 私は哲学の末席に座っていますから、高校時代から偏屈だと思われていました。友人ともあまり上手くいっていませんでした。それは「正しさ」があれば、良いんだ、どうして周りの人は理解しないのだ、と思い込んでいたからです。しかし、人と人の関係は「正しい」、「正しくない」の問題ではなかったのです。そこを勘違いしていました。孔子や河合先生がそこを教えてくれています。

 子育ても同じではないでしょうか。
 
 「どうして周りの人は私の子育てを認めてくれないのだろう。正しいのに。」
 「子供は親に言うことをきちんと聞いていればいいんだ。正しいのだから。」

 子育てをする時に、ご両親(祖父母)と上手くいかない方が多いのではないでしょうか。その時に「正しい」、「正しくない」の問題として考えていないでしょうか。「正しい」、「正しくない」の問題としているなら、「逆に恥をかかされる」や「嫌われてしまう」になってしまうでしょう。そうならないために、

 「相手の言い分をまず(誉めて)受け入れて認めましょう。同時に、相手の言うことを聞く気持ちを持ちましょう。」

 孔子は相手を受け入れ認め、相手の言うことを聞くことの大切さを教えてくれます。

 ましてや、子育てでは、大人相手よりも、もっと必要です。

 孔子の言う「上司」や「友達」は、辱(はずかし)められ嫌われれば、離れていってお終いです。
 しかし、子供は親から離れることができません。子供には親しかいないのです。逃げられないのです。子供は二十歳になるまで社会から大人として認められず、親の経済、精神、社会上の保護を必要とします。その逃げられない子供に対して「正しい」ことだけを言えば、どうなるか。

 子供の心はズタズタに切り裂かれてしまうでしょう。
 最後には子供は何も聞くことをしなくなるでしょう。

 子供を「正しさ」に導くためには、まず認めること、そして「正しさ」だけにならないことが大切です。子供は全員「正しさ」を理解できる素質を持っています。それを十分に伸ばすことが、子「育て」、なのです。

「夜の寝息の尊さ」
 布団の中で、ふと、目が覚めました。
真っ暗な闇が広がっています。少し離れて、スースー、と寝息が聴こえます。

 なんでもない、スースーという寝息。
 けれども、どうしようもない程に感動しました。
 寝ぼけた頭に、感動が流れ込んできて、頭の中で涙がグルグルとうずしおになりました。

 若い時に一人暮らしで、ふと、目が覚めたのなら、
 「ああ、あと何時間寝れるかな」と思っていました。

 はまっている本や漫画やゲームがあれば、これ幸いにと、手を伸ばしていたでしょう。
 お腹が減っていたのなら、ラーメンでも作っていたでしょう。
 夜中の何時に起きて料理をしても、誰にも迷惑をかけなかったからです。
 独り暮らしには「私」しかありませんでした。

 なんでもない、スースーという寝息。
 そこには、命があります。
 私は、スースーという寝息に命そのものを感じられました。
 私は、子供の寝かしつけで、命の成長に関われました。

 命の尊さ、と命の成長の尊さ、にどうしようもない程に感動しました。

 子供が産まれてくる前、かみさんの膨れていくお腹を見て、「無事に産まれて欲しい」と願いました。それは命の尊さへの願いでした。子供が大きくなると忘れがちです。ついつい忘れてしまい、普段のわがままややんちゃぶりに心を奪われてしまいます。スースーという寝息で、ハッと思い出しました。

 「私」以外の尊きものを大切にする、それが哲学の出発点です。
 ソクラテスとプラトンは祖国アテナイを守るために一心不乱に格闘しました。ソクラテスは毒杯を飲み、多くの民衆に気がついて欲しかったのです。プラトンは民衆を説得する手段として哲学(イデア論)を考えました。
 哲学の出発点は、「私」以外の尊きものを大切にすることなのです。

 毒杯を飲んだソクラテスを可哀想、という人がいますが、私はもしかしたら満足していたのではないか、と推測しています。なぜなら、子供のために命を投げ出す覚悟がある、というのが子育ての出発点と思うからです。
 子供が、どんな悪いことをしても、どんな酷いことをしても、命を投げ出す覚悟がある。その覚悟は、産まれたての、まだ白い赤子の顔を観た時に出来たような気がしています。自分のためだけに生きない、尊いもののために少しだけ生きる、には覚悟がいります。子育ては、親の覚悟を重ねていくことなのかもしれません。ソクラテスが、毒杯の刑罰から逃亡できたのにも関わらず、自ら飲んだ話を、真っ暗な布団の中で思い出しました。ソクラテスの国想う心は子育ての心と通じていることでしょう。

「感情を治めてやること」
 朝の、二階の寝室 兄四歳と妹二歳と
 兄「・・・とーちゃん、かーちゃんとこ、いくね。」
 親「・・・いってらっしゃい。」
 兄「・・・がらっ・・・とん、とん、とん・・・」
 妹「・・・とーーーーーくーーん・・・と、と、と・・・」
 妹「・・・えーん、えーん・・・おがーーーちゃーん、おがーちゃーん・・・きてーーー」

 (なるべく優しくゆっくりなことばを心掛けました)

 「まなちゃーん、おいでー。」
 「・・・(少し泣きながら無言)・・・」
 「まなちゃーん、おとーちゃんの布団あったかいから、はいりなー。」
 「・・・(無言で入ってくる)・・・」
 「まなちゃん、おとーちゃんの布団、あったかい?」
 「・・・(うなずく)・・・」
 「そっかーよかったー。おとーちゃんはね、まなちゃんが夜中、お布団から出てたからお布団かけてあげたよ。お布団から出ると寒くなっちゃうよね。さむかったー?」
 「・・・ぅん(うなずく)・・・」
 「今日はね、昨日夜お約束したように、温水プールにいくよ。楽しみだね。寝る前にいっつも、またプールいこうねーっていうもんね。だから、今日は楽しみだね。」
 「・・・うん・・・」
 「おとーちゃんはね、昨日お布団かけてあげた時に、まなちゃんが寝ててね、嬉しかったよ。まなちゃん、今日も元気でいてくれてありがとう。おとーちゃんは、本当に嬉しいよ。今日も元気に遊ぼうね。」
 「うん」
 「じゃあ、おかーちゃんの所いこっか。体も温まってきたよ。」
 「うん、いくー。」

 兄が先に行き、妹が後を追いかける。
 どこにでもある光景です。保育園幼稚園、小学校になれば、お友達と本人が、先を行き、後を追いかける関係になります。中学から大学では先生が先に行く人になるかもしれません。仕事では先輩、上司の後を追いかけることになるでしょう。
 その先を行き、後を行く姿に接した時、どのように言葉を掛けるか、悩みました。

 熊本県に大槻(おおつき)幹雄先生がいました。中学校の名物先生で、残されたお言葉が本になっています。

 「感情を治めてやること、それが人間化のポイント。教育のポイントだね。喜怒哀楽の情を調整することが教育といえる。優しい眼差し、情のこもる言葉、励ましの手、快く聞いてやる、母親の匂い、すべて人間の感情を治める具体的な方法だ。・・・教育なんて面白いね。『泣け泣け思う存分泣け。』といっても情を治める一つ、『泣くな、シャンーとせー。』というのも情を治める一つ。」

 占部賢志先生は、解説を付けています。

 「ところが、喜怒哀楽の情を鎮めてやるどころか、輪をかけて波立たせてしまう。我々の指導はそうなりがちです。それは方法論にとどまるからです。その先がみえていない。」

 兄と妹の関係に悩んでいた私に、「感情を治めてやること」という言葉が、スッと入ってきました。

 階段で「おがーーーちゃーん、おがーちゃーん・・・きてーーー」と泣いている妹になんと声を掛けたら良いのか、悩んでいました。

 「泣いたって何にもならないよ。」
 「泣く必要がないから、泣くの止めなさい。」
 「まなちゃん、おにーちゃんを追いかけなさい。いっちゃうよ。」
 「おにーちゃん、まなちゃん泣いているよ。」

 は正しい言葉です。まさにその通り。けれども、方法論としての正しさです。その先がありません。私は子供達に、「人に優しくできるようになってもらいたい」のです。そこから考えて、先程の言葉を選ぶことにしました。

 妹は朝起きたばかりで、ぼーっとしていました。そこに兄が駆け足で母親と赤ちゃんの眠る一階に先に行ってしまった。置いて行かれた、と思ったのです。体が寒くて心が寂しくなっていました。朝はお腹もすいています。
 つまり、妹は「情が治まってない」状態だったのです。
 大人でも、朝起きたばかりやショックを受けた後で、親しい人に置いて行かれたと感じ、さらに体が寒く、お腹もすいていれば、感情がまとまらないでしょう。そんな状態で「正しいこと」を耳に入れても、スーっと聞き流すか、はたまた「うるさいなぁ」、「なんで今言うんだ」と怒るでしょう。
 まず、「情を治めてやること」。
 なるほど、大槻先生のお言葉は深いなぁ、と今朝の出来事で実感しました。

 その後、気持ちの落ち着いた兄妹は、ニコニコとしながらかくれんぼや絵本を読んでいました。
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