エッセイ「【随筆】東京に住んでいた私 弐(東京嫌いだった私 参)」

  「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した校正前原稿です。
  読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。
  以下本文です。

 前号の「東京に住んでいた私」の続編で、大学時代の思い出を書いて行きます。

 まず、小学校二年生の転校から書き始めるのが自然だと思います。二年生の夏に神奈川県茅ケ崎市鶴嶺小学校に転校しました。東京のベッドタウンで一学年に十クラスを超える生徒数を誇りながら、近くの小出川(こいでがわ)には自然が残っていました。小学校で水泳、サッカー、少年野球を経て、中学校で野球部に入りました。セカンドでしたが、常に参番手でベンチ入りも絶望的でした。運動下手で中学校一年生の時に五〇㍍走が一〇秒弱、男子で最下位に近かったです。懸垂は一回も出来ずに恥ずかしかったです。長距離走も遅く、野球部の毎日の長距離走の練習でビリでした。それでも、「いまやらないと一生運動音痴のままだ」と思っていました。
 そんな中、フリーライターの父が静岡で奉職先を見つけ一年弱、静岡に遠距離通勤をしていました。私が中学二年の時でした。父が気分屋で家族に八つ当たりするので、家に居るのが私は嫌でした。遠距離通勤は接点が少なくなったので嬉しかったのですが、父は遠距離通勤に迷っているようでした。先月父の自伝を新聞に掲載してもらいましたが、その中に私の言葉が載っていました。私の記憶では以下のようになります。
 「静岡に住むことを条件に採用を決めてもらったが、茅ヶ崎に家もあるし第二のふるさとだと思ってやってきた。だから悩んでいる。健治郎は小学校の途中で一度、転校させて大変な想いをさせているし、今回も転校させてしまう。」

 父の言葉に私は返しました。
 「約束は守った方が良い。それに新しい土地に行くのは新しい機会にもなる。そして、現在のように家族バラバラなのは良くない。お父さんの行く所なら何処へでもついて行く」
 父は普段から「幾ら貧乏でも家族は一緒がいい」と言っていたのです。父の家は兄弟仲が余り良くなかったから出た言葉だと思います。父の兄弟が何人いるかを知ったのが、私が中学に入ってからでした。
 私の家は確かに貧乏でしたが、苦にはなりませんでした。一棟に二十戸もある集合住宅を購入してローンを組んでいましたが、毎月きちんと払えずに余分な利息を払うような状態でした。三時のおやつにお菓子や果物を食べることは殆どありませんでしたが、三食食べていました。母親は公文の先生をして家計に足しにしていましたが、その間、自由時間も出来ましたし、食事を作ったり兄弟の面倒を見たりしていました。何もしたくない私に習い事をするお金を掛けてくれました。自動車を買うお金を子供の習い事に掛けてくれたのです。感謝しています。早朝、周りの家々のポストにチラシを入れるバイトを手伝ったこともあります。家族一緒なら頑張れました。

 ただ、父親が二番目の弟の保証人になり、五百万の借金を背負った時、「お前達はもう大学に行けない」と言われ、絶望したのは覚えています。妹はカーテンの陰で泣いていました。貧乏でも「将来は大学に行くのだ」という親の教えが私達を支えていました。父は直ぐ下の弟を東京時代に失くしましたが、六畳の部屋で一緒に寝ている時でした。明け方に病院に連れて行こう、と思っていたら明け方に冷たくなっていたのです。現在でも父は、叔父の死を上手く受け止められていません。父が大学を目指したのも叔父が大学への奉職が決まっていたからなのです。「かたき討ち」という意味が両親にはありました。

 二番目の弟(叔父)は魚屋で羽振りが良かったのですが女遊びで借金、夜逃げをしました。母は父が保証人になったことや、収入の少なさ、原稿料を払わない出版会社に強く請求しない父の弱さなどに悩んでいました。そんな中でも一番下の妹が産まれました。家族に宝物がやってきました。

 寄り道が長くなっていますが、ぼちぼち行きます。
 中学校二年の夏に、静岡市に越してきました。公務員住宅で母はローンから解放され、毎月安定して払われる給料に安心していました。何もすることがなくなり、母は暇を持て余して「静岡リサイクルボランティアワーク」というNPO法人を作りました。妹や私の気持ちも安定してきたのでしょうか、静岡の明るい日差しに包まれるようになりました。
 私は悩みましたが野球部に入りました。一度決めたので三年間続けたかったのです。三塁コーチとしてベンチに入れましたが、声の大きさと相手バッテリーのサインを盗む技術を買われてでした。セカンドでは四番手でした。
 高校ではハンドボール部に入りました。丁度静岡でインターハイがあり、インターハイに出場できそうな部活を探したのです。後少しでした。週に七日の練習でした。夏休みも三、四日しか休みがないからといって、殆ど勉強をしませんでした。高校入学時は学年で二〇番くらいでしたが、最後は中の上くらいでした。星新一の本を良く読んでいましたし、ゲームばかりやっていました。 

 三年の夏に部活が終わると、友達と安倍川の支流、藁科川(わらしながわ)に銛(もり)を持っていき、野生の小さな鮎(あゆ)をとったりしました。自然の中で遊ぶことはとても楽しかったです。ゲームよりも夢中になりました。友達の家に集まって漫画『三国志』を読んだりもしました。
 
 振り返れば、静岡に来て遊ぶ友達に恵まれました。中学三年の時の友達と、同じように夏や冬に深夜に遊びに行ったり、家に溜まったりしていました。推薦の決まっている友達と中学の野球部が終わった後、放課後の教室でピンポン玉と箒(ほうき)で野球をしたり、下らない話をしたりしました。家族が安心感に包まれて、私もやっと親から離れた人間関係が作れるようになったのだと思います。

 恋愛もこの頃に花開きました。前号で書いたように「冷え冷えとした感覚」で「恋愛なんて無駄で、膨大な時間を失う」と思う一方、告白されたり、クッキーをもらったりすると、ドキドキして恥ずかしかったです。
高校でも友達に恵まれましたが、一つ忘れられない記憶があります。ある人と付き合って初めてのデートで映画を見ました。何であったか忘れてしまいましたが「ああ、やっぱりこの人は違う」と思って直ぐに別れました。数か月後、彼女は私の仲の良い友達と付き合い出しました。男女の仲と友達とは別物であると思っていたのですが、その友達はどんどん私に対して疎遠になっていきます。彼女の心情に共感してしまったのでしょう。それでいて「どんな風につきあっていたのか?」と私に尋ねるようになりました。私は私が想っていたことをそのまま伝えましたが、どうも理解してもらえなかったようです。
私は「所詮恋愛など別れて、別れて、最後の一つ成功するという成功率の低いもの」で「友情は距離が出来ても失われないもの」と別物として考えていたのです。優先順位は後者でした。
これをそのまま相手に伝えたのですから、私も大分みるい(幼い)高校生でした。でも、ぶつけ合えるという貴重な経験でした。

 大学で東京に住みました。第一希望の茨木大学に落ち、失意の中でした。数学と化学が得意だったので配点の高い大学を選んだだけでした。理系の単科大学にハンドボール部は無く、バスケットボールを一から始めました。
六畳一間、二人の共同トイレ、八人の共同風呂と洗濯機、家賃三万二千円、小学校の校門前でした。余分な物を置きたくなかったので、布団と鍋とパソコンだけで始めるつもりでした。両親が冷蔵庫と炬燵(こたつ)を贈ってくれました。結局電話は一年以上なく、テレビは一五年以上(結婚まで)持ちませんでした。クレジット・カード、自動車、自動車免許なども持ちませんでした。

 東京に住んでみると、幼少時代の想いとのズレを感じました。生き方を工夫できる暮らし、同居人のいない初めての生活、部活だけの大学生活、月に七万円の自由なお金など自由度が格段に上がったのです。満員電車もさほど苦を感じなくなりました。さらに、生きる目標がありました。高校卒業時にアメリカに一〇日間遊びに行き、「日本を知りたくなった」ので、「全都道府県制覇」と「年間百冊の本を読む」という目標ができたのです。また、静岡がふるさとである、帰る場所がある、という意識があり、東京は一時の住まいである、という気持ちの軽さがありました。幼少時代の「この東京から抜け出せない」という想いとのズレを感じたのです。

 東京での生活はズレを拡大させましたが、それでも杉並区阿佐ヶ谷は意識の根底にあり、数年に一回、兄弟や私独りで訪れました。暗い靄(もや)が駅の改札口から掛かっているのは変わりませんでした。多かれ少なかれ私の人生観の根底にありました。具体的な事例を二つ挙げてみます。

 バスケットボール部の一つ上の先輩に望月さんがいました。東京の工場地帯蒲田(かまた)出身で高校時代にコンパを百回以上してきていました。付き合った女性の数も数えられない、と言っていました。最初にコンパに連れて行ってもらった時、最初の十分で一気飲みをさせられ、つぶれてしまいました。床に寝っ転がりぐるぐると回る視界に驚きながら、望月さんの軽妙な、絶妙なトークが聞こえて来ます。女性の扱いの巧さを含めて、「これはもてるなぁ~」と感服してしまいました。私のように斜(しゃ)に構えて「恋愛などとは」と堅苦しく、決まり切った態度や言葉ではなかったのです。私が見てきた東京は核戦争の恐怖に包まれていましたが、望月さんの東京は都会らしい洗練された社交性で満たされていました。両方が東京の魅力なのです。望月さんは当時のバブルの要素―自動車、金、プレゼント、三高―でもてた訳ではありませんでした。私も軽妙で絶妙なトークでもててみたい、と思い努力しました。その際「自動車を持っているから女性に持てるのは意味がない」という冷え冷えとした感覚は外すことは出来ませんでした。もてるために車を持つ、は私の中ではありえないことだったのです。それでも、ホストの本を読んだり、コンパサークルを自分で作ったり、毎夏冬ごとにサークルで遊びに行ったりしました。

 また、望月さんと同じ一つ上の先輩に妹尾(せのお)さんがいました。パンクロックに陶酔した先輩で、下北沢などでライブを時々やっていました。バイトもあまりせずに、小麦粉を買ってきて水でこねてオーブンで焼く、という食事をしていました。がりがりにやせていましたが、バスケットの動きは機敏でした。時々望月さんに「バイトしろよ」とか「将来考えろよ」と言われていましたが、二人の先輩は不思議と仲が良かったのです。その妹尾さんに一度だけ諭されたことがありました。

『「高木は格好を気にするやつは格好悪い」と言っていたのに、この前格好を気にする発言をしていて残念に想ったよ。それまでは、「高木はすげー」って想っていたのに。』
 
 ガツン!と頭を叩かれた気がしました。私は異性と遊ぶのが楽しくなり過ぎて足元をすくわれていたのです。妹尾さんに感謝しました。お礼の手紙を書いたのを覚えています。

 もう一つ私の根底に阿佐ヶ谷があったのは、日本全都道府県を周る、という目標です。アメリカの南部テネシー州に行って、NASAの宇宙ロケットに触って驚き、貧富の差や社会システムの違いに驚嘆しましたが、魅了されませんでした。やはり、心の根底が日本にあったからでしょう。

 日本全都道府県を周る、というのも見方を変えれば、東京を相対化する、という行動になります。東京、神奈川、静岡は大枠で東京圏になります。都市であり中心部に電車が走り、ほぼ東京弁を話します。けれども、日本には電車が廃線になり、ベターっとした平原、ぼこぼこした山々、あるいは海でつながっている街もあるのです。それまでは、日本=東京でした。それを相対化して東京は日本の中の一つでしかないことを実体験したかったのかもしれません。大学一年の夏、真っ先に向かったのは北海道の東端根室でした。青春十八きっぷで京都の舞鶴港からフェリーで北海道の小樽へ、自動車で北海道を周りました。東北、北陸を周り、関西、九州沖縄を巡りました。いつも比較する基準は東京の阿佐ヶ谷でした。家、家、家です。家が五センチ、六センチを奪い合うかのように建っています。一晩中、駅前には人が歩いています。けれども、それは日本国の中で特殊な事例だったというのが、心に染みました。そして徐々に、東京が基準、というのが無くなっていきました。どこから、誰の土地、に拘っていないのです。

 東京には欠点もありながら、利点もある。どの土地も長所短所があるという意味で同じだったのです。やっと解放されたような気分でした。幼少時代とのズレは解消していきました。もちろん完全に無くなることはありませんが、囚われなくなりました。この変化は、友人や恋愛や勉強などにも大きな結果として出て来ました。幼少時代を相対化でき、やっと大人になれたのかもしれません。

 その大人の視線で考えてみると、静岡以外では、山形県鶴岡市と愛媛県宇和島市に魅力がありました。鶴岡市は透明な静寂が行き渡っている場所で、浄土のような感覚を抱きました。出羽三山の御信仰のお陰かもしれません。宇和島市は文化の誇り高き土地であり伝統を大切にしているからです。海の幸山の幸も豊富ですし、人も穏やかです。
富士市も霊峰富士を戴き、文化の誇り高き土地です。海の幸山の幸も豊富ですから、案外青い鳥なのかもしれません(「青い鳥」幸福は結局身近にあるの例え)。

 そういえば、私のかみさんは、一歳下の妹の高校の同級生、吹奏楽でも同じパートでした。卒業後も妹とは親交があったのです。さらに、私の中学時代からの友人と同じ職場で友人グループの一員だったのです。振り返れば、私の人生の中でも青い鳥の例えが的を射ていました。

 拙い文となりましたが、皆様にも青い鳥いないか、と振り返る文となれば幸いです。お読み下さり有り難う御座ました。
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