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エッセイ「【道徳】仏教と道徳的発達段階」

 
 本号の「『論語』と道徳的発達段階」に続き、仏教からコールバーグの道徳的発達段階を考えてみようと思います。最初に定義をしっかりしないと内容がぶれてしまいますので、難しい話が少し続きます。
 
仏教という宗教

 宗教とは本来の意味は「おおもとの考え」という意味です。キリスト教の「神と再び結合すること=死後に神様の元に逝く(religio)」の訳語である「宗教」が明治期に作られました。そして何時の間にか、仏教、神道、イスラム教を含む全ての「おおもとの教え」を意味する語になってしまったのです。「religio」はラテン語です。「re」が再び、「ligio」が縛る、結ぶ、一致させる、です。それまでの日本では、家の「おおもとの考え」を慣習化したものを「宗門」と呼び、家で行う宗教の習慣を指していました。対して個人の信仰については、聖道(ショウドウ、ひじりのみち)として区別していました。現在でも「個人の信仰はないが、家の習慣で葬式はどこのお寺でやってもらうか決まっている」という人が多いのではないでしょうか。これは仏教=主に聖道、神道あるいは葬式仏教=宗門の違いが残っているからです。仏教は本来、葬式を担当しませんので、「個人の信仰」を担当していました。これからは宗教を日本の本来の意味である「おおもとの考え」という意味で「宗教」を使います。

道徳を内包する宗教

 次に、道徳と宗教の関係を整理しましょう。道徳とは宗教があって始めて成立する学問だからです。宗教は道徳を内包する位置にあり、道徳がある、ということは宗教がある、ということです。逆に宗教がある、ことは道徳がある、ことを必ずしも意味しません。視点を換えて図式にしてみます。

 宗教=「おおもとの考え」=「人間とは何か」、「善とは何か」、「世界はどうなっているか」
  ↓
 道徳=「善悪の区別」、「人は善をどのように行うか」、「世界の中でどう善をするか」
 
 「善悪の区別(道徳)」は、「善とは何か(宗教)」が定まって始めて出来ます。善とは「思いやりの心を現すことだよ」と定めて、「その行為は善である、あるいは悪である」と出来るのです。
 逆に「その行為は善である、あるいは悪である」ということを何の前提もなしに言うことは出来ません。静岡県民とは静岡県に住む人です(おおもとの考え)と定めて、あなたは静岡県人です(道徳の善悪の判断)が出来るのです。あなたは静岡県人です、と言っただけで静岡県人になる訳ではないのです。以上の意味で道徳は宗教に内包されているのです。

道徳的発達段階と内包する宗教

 難しい道徳と宗教の関係を示してきました。その理由は、道徳的発達段階の上にさらなる段階があることを示したかったのです。
 つまり、コールバーグの言う六つの発達的段階の上に、さらに二つの段階があることを示したいのです。それは道徳を宗教が内包する関係と同じく、コールバーグの道徳的発達段階を根底から支えつつ、内包する段階です。その段階を示してみましょう。

七つ目、八つ目の発達段階

 以下は「『論語』と道徳的発達段階」にあるコールバーグの「道徳的発達段階」に続く内容です。
 
 七、密教への志向: 言葉に表されている道
    徳に真実はなく、秘められた言葉(密
    教)を理解することが道徳につながる
 「発達段階によって説かれる言葉は異なる。
 真実を判りやすい言葉で書けば、多くの人に 害を与える。だから、秘密の言葉で真の道徳
 を書く」
 八、不言への志向: 言葉で真実を伝えるこ
    とは出来ない。だから、真実の道徳は
    言葉では書かない。体得するものであ
    る
 「人は各々異なる。その間をつなぐ言葉は不
 十分すぎる。であるから、全身を通して真に
 大切な道徳を体得しなければならない」

 以上のように七つ目、八つ目の道徳の段階は、六つの道徳的発達段階では疑われていなかった言葉に注目していきます。仏教は千年以上昔に、不十分な意思の伝達手段である言葉に目を向けていたのです。そして言葉では不十分にしか伝えられない道徳(七つ目)、あるいは完全に伝えられない道徳(八つ目)を考え出しだのです。ユダヤ教やキリスト教でも密教に近い考え方が、それぞれの神秘主義として出てきます。しかし、それらは主流から排除されています。仏教では、真言宗、天台宗、日蓮宗、禅宗などが根付いています。
 
コールバーグによる密教の説明

 「仏教と道徳的発達段階」は全て私の考えに基づいていますが、特にここでは私の考えだけに基づいています。密教という仏教の伝統を二十世紀後半のコールバーグという別の宗教から説明しよういうのですから。
 コールバーグの発達段階の第一段階は、
 「一、罰への志向 :罰を与えられるので道徳を守る「罰があるから人を殺さない」」
 でした。第六段階は、
 「六、尊厳への志向 :道徳を守ることは「公正」や「人格」などの尊厳を守ることにつながるから守る。それゆえ、これに反する道徳は改善しても良い」
 でした。この例として、

 「目の前の信号は赤信号でした。青になるのを待っていると、向かいの横断歩道をフラフラとご老人が歩き出しています。まだ赤信号です。左方向の遠くから自動車が近付いてきました。」

 を挙げました。第六段階の人であれば、身を挺してご老人を助けるでしょう。交通法規とは人命を守るために作られている、と理解しているからです。
 しかし、第一段階の人は、交通法規がある理由を理解できません。この発達段階では罰、あるいは利益しか理解できないのです。すると第一段階の人はこういう風に言うでしょう。

 「ぜーったい、老人を助けない。だって死んだら一巻のお終いだもん」

 罰の最大のものは死です。罰しか理解できない人の最も避けるべきは死なのです。しかも自らの死です。ですから、第一段階の人は第六段階の人を軽蔑するでしょう。

 「なんで、最大の罰を受けるようなことをするのか。第六段階の人は頭がおかしい」

 あるいは、

 「人間なんて結局金次第さ」
 「他人なんて最後には裏切る」
 「罰を与えないとあいつは駄目なんだ」
 「死んだら何にもならないさ」

 どこかで聞いたことのあるような台詞ではないでしょうか。これらの言葉が第六段階の人の意図を理解していない、つまり「誤解している」のはこれまで述べて来た通りです。こうした体験をして宗教者は色々と悩み苦しんできたのでしょう。仏陀、イエス、孔子が対機説法を取っているのもこうした理由からでしょう。さらに仏陀とイエスが人間の最も愚かなこととして、愚鈍(おろかで気が付かないこと)を挙げているのも同じ理由からでしょう。

宗教の本質

 宗教とは「ありのままでいい。そのままで完全に素晴らしい」という「おおもとの考えに気が付くこと」です。イエスも仏陀も同じことを手を変え品を変えて言っています。「草木国土(こくど)悉皆成仏(しつかいじようぶつ)」と悟りを開いた瞬間の言葉は、

 「生命のあるものも無いものも全てがそのままで仏、つまり素晴らしいものである」

 という意味です。イエスが原罪を背負って昇天されたのは、「もう、みんなは、罪が無くそのままで素晴らしいですよ」ということを伝えるためです。
 しかし、第一段階の人はこれを誤解します。

 「そのままで素晴らしいんだな、じゃあ何をしても良い訳だ」

 と。「素晴らしい」の意味を正確に理解できていないのです。ですから、第七段階の密教の志向、つまり、真実は全員が理解できる言葉によって書かれていない、という考え方が出てくるのです。別の言い方をしてみましょう。
 親鸞の真髄と言われる「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」は「善人が救われる。悪人が救われない訳がない。」という意味です。この真実の意味を理解せずに、見えている言葉だけで理解するならば、第一段階の人は

 「なんだ、じゃあ悪いことをしてもいいじゃないか」
 「何をしても救われるなら、積極的に悪事を行おう」

 という風に誤解するのです。これは「本願(ほんがん)ぼこり」と呼ばれてきました。
 以上のようにコールバーグの道徳的発達段階を元にして仏教を整理してみると、発達段階に合わせて教えを伝えなければならない、という対機説法の重要性が見えてきました。そしてそれは仏陀やイエスが二千年前以上に問題にしていたのが判ります。逆に言えば、宗教のこうした智慧を道徳に上手に落とし込んだのがコールバーグであると言えなくもないのです。つまり、現代の道徳の内容は、二千年以上前に宗教によって整理され、対応策も編み出されていた、ということです。

第七と第八の道徳的発達段階の違い

 最後に、第七と第八の違いについて述べて締めたいと思います。第七の密教の志向は、真実の言葉が限られた人間には理解できる、という立場です。対して第八の不言への志向とは、真実は言葉にはない、という立場です。宗教で言えば「密教」と「禅宗」になります。念のために書き加えると、「密教」の境地が低く「禅宗」が高いという意味ではありません。密教と禅宗の違いは数々ありますが、コールバーグの道徳的発達段階によって順番が決定したに過ぎないのです。
 密教については先ほど説明しましたので、禅宗について触れます。禅宗は「不律文字(ふりゅうもんじ)」を大切にします。意味は、悟りの境地は言葉では伝えることが出来ない、というものです。ですから、座禅を通して、(禅)問答を通して伝えていくのです。
 しかし、「禅問答」とは「真意の捉えにくい」と世間では受け止められているようです。これは先ほど述べた第一段階の人が誤解をした例と同じなのです。
 ここで「禅問答」の公案(こうあん)を一つ書いてみます。高木意訳です。

 「南泉斬猫(なんせんざんみょう)」

 南泉という場所にあったお寺で、東のお堂のお坊さん達と、西のお堂のお坊さん達が、言い争っていました。「猫には仏になる本性(仏性)があるかないか」です。「猫は人間のように成仏して仏になれるのか、それとも死んで人間に生まれ変わってからでないと仏になれないのか」という意味です。
 これを見ていた普願(ふがん)という名前の偉い禅師は、これはいいチャンスだ、と猫を取り上げてしまい、東西のお坊さん達に向かっていいました。
 「誰でも良いから禅の道にかなう真実の言葉を一言でも言えたのなら、この猫の命は助けるが、出来なければ、斬り殺してしまうぞ」
 と。そうすると盛んに意見を言い合っていた誰もが答えることが出来ませんでした。そこで普願禅師は猫を斬り捨ててしまいました。
 その夜のこと、普願禅師の偉い弟子が外回りから帰ってきました。普願禅師は猫の話を趙州(ちょうしゅう)という名前の弟子に語って聴かせました。
 すると、弟子の趙州は、はいていたスリッパ(履物:はきもの)をぬいで、頭の上に載せて部屋を出ていきました。普願禅師は、その後ろ姿をみて、言葉をゆっくりと言いました。
 「もし、昼間に趙州がいたのなら、猫を殺さなかったのに・・・」

 以上ですが、この話の解説を見ていきましょう。ただし、本質は言葉で示せないのですから、否定を中心に書いていきます。「猫を殺してはならない」という気持ちは普願禅師にも趙州にもありません。それは第一段階の解釈に過ぎないのです。さらに、猫自体もどうでも良いのです。猫が犬であろうが鳥であろうが関係はありません。これは第三から第六段階までの解釈に過ぎないのです。人であっても構いません。猫は殺しても構わないが人は殺してはならない、というのは言葉の上での常識に過ぎません。普願禅師が伝えたいのは、言葉に表されてないもの、なのです。言葉を捨て去ったところに現れるもの、それを伝えたいのです。
 以上の意味で、秘密の言葉がある、という第七段階と言葉では真実は伝えられない、という第八段階の違いがあるのです。
 「南泉斬猫」の公案を深くお知りになりたい方は、文末の参考図書をご覧ください。

 以上が、仏教と道徳的発達段階についてです。最後の公案を手掛かりにしますと、最後まで「道徳とはどうすればいいか」を考えている道徳的発達段階と、「道徳など捨て去ったところにこそ真の正しい見方がある」という宗教の違いが見えてきました。駆け足でしたが、これで文を終わりたいと思います。


参考図書
「南泉斬猫」の公案について
:秋月龍珉(りゅうみん)著『一日一禅』三百四十四頁 
:秋月龍珉著『無門関を読む』百二十三頁
両著とも講談社学術文庫です。
 
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