エッセイ「【道徳】『論語』と道徳的発達段階」


 前回は『論語』と技術者倫理を比較してみました。技術者倫理は、近年の二十年で特に取り上げられてきた学問領域であり、『論語』の二千五百年に比べるとまだまだ若い領域です。ただ、倫理を大切にするという点では共通していました。その対象が『論語』のように人の心を対象とするのか、技術者倫理のように製造物を対象にするのか、の違いがありました。
 今回も同じように比較してみます。現在の道徳の最前線の理論、コールバーグの「道徳的発達段階」という道徳教育論を『論語』と比べてみます。

 現在の日本の道徳教育の流れ

 現在の日本の道徳論、特に大学を中心とする道徳論はアメリカに傾いています。アメリカにはラス等の主体的道徳学習論とコールバーグの「道徳的発達段階」の教育論があります。ラス等の理論は、「子供自身に考えさせて道徳を身に着けさせよう」という考え方です。「自由の選択」や「相手の選択も大事にする」など、およそ道徳とは言えない、権利教育のような内容です。ただ、アメリカは特定の価値観を押し付けられないという多民族国家ならではの苦肉の策とも見られなくはありません。
 これに対してコールバーグは、実際の道徳教育の現場で使える教育論として、「広く生活環境」を、つまり、社会全体が持つ道徳を組み込むように修正します。しかし、キリスト教の価値観などを押し付けることが出来ず、「発達段階」という子供自身に原因を求めます。言葉を換えれば「子供がそのように発達して求めるのだから、それに合った道徳を教えよう」というのです。「道徳が大切だから教えよう」ではないのです。このように根拠理由で『論語』と決定的に異なります。

 コールバーグの「道徳的発達段階」

 ではコールバーグの「道徳的発達段階」について述べていきます。六つの段階に分けます。単語は置き換えてあります。「」内は一例です。

 一、罰への志向 :罰を与えられるので道徳
    を守る 
 「罰があるから人を殺さない」
 二、利益への志向 :利益になるので道徳を
    守る 
 「人間関係とは利益になる」
 三、是認の志向 :他人に認められるから道
    徳を守る 
 「良い意図を認めて欲しい」
 四、法の志向 :正しいと認識するから道徳
    を守る 
 「道徳(法)によって社会は維持されている」
 五、社会全体からの志向 :社会全体の利益
    になるから道徳があり、そのためには
    道徳(法)を検討することも必要であ
    る 
 「道徳は社会を維持するためにあるから守
  る」
 六、尊厳への志向 :道徳を守ることは「公
    正」や「人格」などの尊厳を守ること
    につながるから守る。それゆえ、これ
    に反する道徳は改善しても良い
 「人間とは生まれながらにして公正や人格を
  持ちこれを尊重しなければならない」

 六段階あります。さらにコールバーグは大枠として、動機で簡単に三つに分けています。三つに分けた区別を私が、他律的道徳、自律的道徳、客観的道徳と説明しやすい言葉に置き換えます。

 1 一と二 は、「利益や罰」という他律的な道徳である
 2 三と四 は、「自覚や認識」という自律的道徳である。
 3 五と六 は、「理由を考えての応用」という客観的道徳である。

 「道徳的発達段階」の実例

 具体的事例で考えてみましょう。①「利益や罰」です。私の息子(四歳)は、ご飯の時に遊んだり、だらけたりします。この際に私は三回注意します。それでも遊んでいる時、罰を与えます。手を「バチン!!」と叩くのです。それで気がつく時もありますし、泣いているだけの時もあります。人間の脳は一八歳頃に完成しますから、言ったことが理解できない、というのは当然あることです。泣いていて
 「自分はなぜか知らないけれど叩かれた」
 と思っているだろう、と思ったら、
 「どうして叩かれたか分かる?」
 と聴きます。
 「わからない」
 と首を振れば、
 「さっき三回ご飯を食べて、と言ったよね」
 「・・・うん」
 「その時、食べた?」
 「食べない」
 「だから叩かれたんだよ。分かる?」
 「わーかーるー」
 という問答をします。
 これは子供の発達段階が、言葉だけで説明できない段階、あるいは自覚して道徳を守る段階にないから、罰=(叩く)を与えたのです。コ
ールバーグの道徳的発達段階としての説明です。また、当時にコールバーグは年齢を重ねると全員が自動的に①から②、③へ進むとは言っていません。確かに成人になっても、歳を重ねても、第一段階に留まっている人がいます。この点で、コールバーグの理論は、実際の現場を踏まえた理論です。

 ②の具体的例です。
 うら若きか弱い女性が男子高校の教員になったとしましょう。男子高校生は先生の気を引きたいがために、あるいは肉体的弱者として、言うことを聞かず騒ぎ立てる、という話はよく聴きます。生活指導の体育教師が竹刀を持ってくると同じ指示でもピタリ、と騒がず聞くものです。これは①です。罰を与えられる可能性の低いうら若き女性教員の言うことを聞かない。罰を容易に与えるであろう体育教師の言うことを聞くのです。この段階では他者に道徳の順守を依存するので他律的道徳、とも言い換えられます。②では発言者に関係なく道徳を守れる段階です。うら若き女性だろうか怖い体育教師だろうが「正しいことは正しい」と自覚して守れる段階です。自覚して道徳を順守するのですから自律的道徳、と言い換えられます。いきなり②になれない、という点をコールバーグが指摘しているのも、なるほど、と納得します。私は子育てで、いきなり②、③を求めないようにしたいと心がけています。時々、買い物で「お菓子を買って」や「玩具を買って」と強請(ねだ)る幼児に「なんで判らないの!」とか「この前買ってあげたでしょ」という母親を目にしますが、これは①ではなく②をいきなり求めている典型例です。説得という相手の自覚が成り立たない場合は、罰を与えなければならないのです。コールバーグの理論はなかなか具体的です。

 ③の具体的例です。
 交通法規で②を考えてみましょう。赤信号は渡ってはならない、という交通法規があります。正しいことを自覚して順守するのが②です。③では「では、どうして交通法規があるのか?」という問いを持ち、その答え「交通法規は人命を守るためである」を理解する段階を指します。それゆえ、その場合場合によって自らの行動が可能になります。
 例えば、目の前の信号は赤信号でした。青になるのを待っていると、向かいの横断歩道をフラフラとご老人が歩き出しています。まだ赤信号です。左方向の遠くから自動車が近付いてきました。
 ②ならば交通法規を遵守するでしょう。あるいは悪いと想いながらも感情によって飛び出すでしょう。
 ③では、「交通法規は人命を守るためにある」そして、目の前で人命が失われようとしているから」と根拠を示し、赤信号を無視してご老人を助けます。これは善いと想いながらの判断の上での行動です。善悪の判断の区別も②と③の違いです。
 きちんと根拠を示せること、道徳の根本を理解して場合場合に合わせて行動できること、この二点が②と③の違いです。それゆえ、自分自身の自覚だけではなく、社会全体や道徳の根源をきちんと踏まえているという点で、客観的道徳と言えるでしょう。

 『論語』と「道徳的発達段階」

 では、「道徳的発達段階」を通して『論語』を見直してみましょう。『論語』の主な対象は①から③のどれに当てはまるでしょうか。
 まず、心に浮かぶのが、「小人と君子」という区別です。

 「子曰(のたまわ)く、君子は義に喩(さと)り、小人は義に喩る」

 「里仁第四 第十六章 四十三頁」のこの一文の意味は

 「君子は義に敏感であるが、小人は利に敏感である」

 です。この「敏感である」とは判断基準の意味で解釈し、前文からの繋がりで言葉を足してみます。

 「君子は社会全体から見て大切な道義を常に心で考えているが、小人は自分から見て大切な利益だけを常に心で考えている」

 となります。前文では孔子が最も大切にしている一語とは「忠恕(ちゅうじょ:誠実さと思いやり)」とあり、前々文では「地位が得られないことを嘆(なげ)くよりも、どうすれば社会全体から見て自分が認められるかを考えなさい」とあります。
 ですから、「君子」はコールバーグの③客観的道徳の人を、「小人」はコールバーグの①他律的道徳の人を指すことになります。
 また、孔子の「どうすれば社会全体から見て自分が認められるかを考えなさい」という一文は、「正しことは正しいのだ」という②自律的道徳の人でないことを指示しています。もし、孔子の言う「君子」が②の自律的道徳の人であれば、「もっと勉強すれば地位が得られるよ」とか「もっと諸国を回れば地位が得られるよ」などの具体的な助言をしていたでしょう。正しい内容を押しつけるだけが②なのです。しかし、『論語』では正しい内容ではなく、本質を教え、本人の自覚を促しています。
 他方、そういう具体的な助言を一切していない訳ではありません。対機説法ですから具体的な助言を行っています。しかし、最も大切にしている一語につながる文では具体的な内容を書いていないのです。ですから、孔子の本質は社会全体の状況を客観的に判断して、そこから見て恥ずかしくない自分の実力を付けなさい、という意味になるのです。それゆえ③客観的道徳の人が「君子」なのです。
 他の箇所でも同様のことをくりかえしています。『論語』の最初の一文を書き出します。

 「人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや」

 伊與田先生の訳語です。

 「人が自分の存在を認めてくれなくとも怨(うら)むことなく、自ら為(な)すべきことを努めてやまない人は、なんと立派な人物ではないか」

 「学而第一 第一章 一頁」であり、『論語』の冒頭です。社会全体は、あるいは他人は、客観的に見て、汚れている時もあるのです。そういう状況をきちんと踏まえて、自分の心を乱されないで為すべきことを為す、のが大切である。孔子の主張は、まさに③客観的道徳の人を指しています。
 逆に、②の段階であれば「正しいことは正しいことである。だから当然受け入れられるべき」という社会全体の状況を考慮できないでしょう。それゆえ、②でないないのです。
以上のことから、『論語』はコールバーグの「道徳的発達段階」の③の客観的道徳に当てはまります。
 つまり、二十世紀の新しい道徳が、二千数百年前の『論語』の中にきちんと整理されて述べられていることが判ります。
 ちなみに、コールバーグは西暦千九百二十七年誕生、エール大学助教授、ハーバード大学教授、同大学の道徳教育センター所長を歴任しましたが、六十歳でうつ病で投身自殺しました。

孔子とコールバーグの異なる点
 最後に、孔子とコールバーグの異なる点を三つだけ列挙してみます。

 (ア) 社会全体の理想像を掲げているか否か
 孔子が目指したのは周王室を中心とする世界全体(中原全体)の支配体制でした。その手段として道徳が提示されたのです。道徳を持つ君子が王位に就き達成される社会全体を理想としました。
 他方、コールバーグは当時のアメリカを覆う「主体的な道徳獲得に異を唱える」ことを目標としました。アメリカの持つ(白人の)伝統的な道徳教育を否定した「主体的な道徳獲得」の行き過ぎを戻そうとしたのです。しかし、それは「広い生活環境、つまり学校・家庭・社会の道徳的雰囲気にも注意を払わなければならない」と説くにすぎません。これを基にして「正義の共同体(just community) 」へと発展する、とコールバーグは述べます。「では正義の共同体とは何か?」を具体的に、実際の現場で作り出すことは出来ませんでした。コールバーグは白人の伝統的な価値観へ回帰することを目指したのではなく、少しだけ揺り戻すに留まりました。なぜなら、彼のいう「正義の共同体」という考え方さえ、フェミニズムやアメリカの多文化主義などの考え方によって大いに批判を受けたからです。

 (イ) 世知に長けているか否か
 「心情」とは「思いやりの感情」のことです。コールバーグは「心情」を排除して「発達段階」を重視しました。言い方を換えれば、「人間全員が持っている思いやりの心」ではなく、「人間全員が脳の発達によって獲得できる道徳判断」を焦点にしたのです。その理由は色々とありますが、先ほど述べた伝統的価値観への回帰を、多文化主義を掲げるようなった当時のアメリカ社会では、そのまま伝えられなかったからでしょう。学位論文を提出した西暦千九百五十八年は、黒人の権利上の差別解放が進む時代でした。学位論文の提出三年前に「モントゴメリー・バス・ボイコット」が起こりました。公営バスの「白人及び優先席」に黒人女性が座り、運転手の注意を無視して白人に席を譲らなかった事件です。当然ながら、黒人女性は裁判で有罪(罰金刑)を食らいました。根拠となる「人種分離法」(州法)は千九百六十四年まで有効だったからです。これに対してマーティン・ルーサー・キング牧師がボイコット運動を一年間続けたのです。
 こうした時代背景で、コールバーグが白人の伝統的価値観への回帰を言い出しにくかったのでしょう。
 対して、孔子は時代背景を全く無視して、周王室の伝統的価値観への回帰を提唱しています。ですから、孔子は各国で全く受け入れられず放浪生活を繰り返し、最後は政治に参加できずに弟子を育てる学園を作りだしました。コールバーグはハーバード大学の道徳センターの所長に収まります。世知に長けたコールバーグ、対して不器用で理想を掲げるしかなかった孔子の対比が見えてきます。これは他の例では、不器用なプラトンと世知に長けたアリストテレスになります。

 (ウ) 道徳的な心情を含めるか否か
 前節の説明で述べたように、コールバーグは道徳的な心情、道徳の根本となる相手への「思いやりの心」を排除しました。対して孔子は、「思いやりの心」を「仁」として意味を深めて述べています。この点で異なります。
 コールバーグ自身も認めているように「思いやりの心」は道徳の行為のための必要条件であっても十分条件ではないのです。二つに分けて言い方を変えてみます。
 「思いやりの心があるから道徳的な行為が出来るのです」
 「道徳的な判断が出来るから道徳的な行為が出来るのではありません」
 この当たり前のことをコールバーグは認めながらも、「思いやりの心」を持ちなさい、と言えなかったのです。なぜなら「白人の伝統的な価値観」を主張するのだから、差別に通じる、と批判されたからです。
 以上の三点が孔子とコールバーグの異なる点です。

 現代日本とアメリカの道徳教育の状況

 コールバーグについて時代背景を詳しく述べてきました。それを通して、アメリカの道徳教育の状況が見えてきたのではないでしょうか。現在のアメリカの道徳教育の状況に詳しくはありませんが、道徳教育は白人や有色人種、上流階級か下層か、宗教の違い、学校等によって全く異なります。統一された道徳教育は行われていません。寧(むし)ろ、アメリカほどバラバラな道徳教育の国家はないのではないでしょうか。
 私たち日本人は日本国内の道徳教育の状況を嘆くことはありますが、では諸外国、特に日本の道徳教育を破壊したアメリカの現状と比較してみると、絶望の淵に立っていないことが理解できます。私達はしつけや掃除を通して統一された教育を持っている点も挙げられます。
 『論語』が日本にあるのです。日本では宗教教育、皇室等が伝統的な価値観として受け入れられていません。他方、伝統的な価値観である『論語』は、儒教が宗教であるかないかの議論が分かれており、通常、学校で教えること、多くの人が素読することに抵抗がないのです。こうした古典をアメリカ人は持っていないのです。アメリカ人の使える古典は『聖書』や『新約聖書』等しかないのです。これらは白人の伝統的価値観として、道徳教育の現場から抵抗を持たれています。これに基づいた宗教教育を受けることは出来ますが、全体で強制できない、というのがアメリカの道徳教育の実情ではないでしょうか。
 他方、日本では『論語』を小学校において全員で素読することに強い抵抗は起こらないでしょう。

 『論語』という希望

 まとめると、これまで述べてきたように『論語』には道徳的な心情、社会全体の理想像、孔子の世知に長けていない立派な生き方が含まれているのです。この位置づけを持つ『論語』を持つ日本は、道徳教育の可能性を持っていると言えるでしょう。『論語』は未来への希望につながっているのです。

参考図書:『仮名論語』 伊與田覺著
    :「コールバーグ(L.Kohlberg)の道徳教育論」伊藤啓一著 道徳教育論集 千九百八十五年三月三十日
https://ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/14625/1/doukyr_4_001.pdf
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