エッセイ「【随筆】人見知りだった私」



「先生、質問いいですか?」

 哲学の講義の終わり際、次の時間の方にマイクと音響の鍵を渡している時だった。
 振り返ると、真面目そうな学生がこちらを向いていた。

「ああ、いいよ。この後使うみたいだから、別の部屋にいこうか。」
「え、いいんですか? ちょっとのつもりだったんですけど。」
「いいよ、いいよ、じゃあいこう。」

 と隣の教室に移った。

 それから一時間半、他愛のない話から真面目な話をお喋りした。彼は一時間半に恐縮していたが、塾の先生をやっているそうで学生の方から質問に来てくれる先生の嬉しさを知っていた。何とも嬉しい時間だった。来週も話す約束をした。

帰りの電車で
 愛野駅でかみさんに電話をして電車に乗り込むと、人身事故で電車が停止した。ぽっかり空いた時間に、ぼんやりとしていたら、先程話した彼との会話が浮かんできた。

「先生はコミュニケーションは上手くいってそうですけど、大学時代はどうだんですか?」
「え? 『友達できないな~』って思ってたし、『人と話の苦手だなぁ』って意識だったよ。」
「へーそうなんですね、先生でも。」
「いや、まあむしろ苦手だから考え過ぎて、哲学に来たって感じかな。」

 そう、私は同級生と話すのが苦手だったし、本当の友達っていないんじゃないか、とも思っていた。それなのに、友達が欲しいなぁ、と人一倍悩んでいたのだった。

大学時代の思い出
 私は生まれつきの、恥ずかしがり屋で気をまわし過ぎる性質である。体が弱かったせいだろう、まず最初に人に逢うと、

 「自分を相手より下の位置に置く」

 という癖がある。初対面の人に対して自分よりも能力がある、力が強い、底知れないものがある、という恐怖に近いような感覚がある。父親が機嫌が悪いと暴力を振るっていたからかもしれない。母親がどうにも母性的な行動をとらなかったからかもしれない。前にも書いたが「五歳の時に世界の人間は全て愚かだ」と思っていたが、それは実は裏返しであったのだ。実は私が弱いから、それを見ぬかれないように強がって見せていたのである。
 今思うと、全世界の人に喧嘩を売られるぐらいに私は自分を弱いと無意識に考えていたのだろう。世界で最も弱い存在者として自分を規定していたのだった。えばりん坊は弱さの裏返しなのだ。

小学校一年生の時
 阿佐谷南保育園は生後零歳で入った。だから、友達らしい人も何とかいた。とはいえ話をするだけで、心の根っこで「この友達といると楽しい」と言い切れる友達はいなかった。私はどこかで他人を恐怖していたのである。それでも保育園は物心ついてから通った場所である。そういう安心感があった。
 しかし、小学校に入り、色々な保育園や幼稚園から集まってくると、私はかるいパニックになった。これまで保育園で話していた人とも上手く話せなくなってしまった。例えば、ある人と話している姿を、その友達が見て「友達を取られた」と勘違いされて、嫌な気分にさせてしまったらどうしよう、と想っていた。今振り返れば小学校一年生がどうのこうのと想うのを気にする必要はない。が、当時の私はそれが判らず、同級生がどのようにおもっているか、が気にかかって仕方がなかった。だから、その内、小学校の下駄箱の前に行くとお腹が痛くなるようになった。特に誰かにいじめられている、というのでもないし、喧嘩をしたこともなかった。が、私は親にいうでもなく、黙って学校に通っていた。ただ、学校にいく、という決められたことに従っていた。好きなことをしなさい、という先生がいたが、何を言っているのか良くわからなかった。好きなことが出来るのなら、学校に来たくないのだ。しかし、学校の先生のいう好きなこと、とはそういう意味ではなかった。好きなこと、に先生の意図に反することは入っていない。また、一人、核戦争を止められない馬鹿な大人がいたのだった。
 無理をあえていうなら、小学校一年生の私は「じゃあ、ソ連に向けた核爆弾のボタンを押したい」と考えた。しかし、その先生が認めるはずはない、と予想済みだった。好きなことを保証する人間の意図に反するのは認められないのである。

転校後の私
 不惑を過ぎて書いてみると、私は小生意気な小学生である。そしてこうした考えにきちんと教え諭してくれる人は周りに一切いなかった。父親は教条主義者で新聞記者だった。だから、知識は豊富だが、体系化された知識や思想は全く判っていない。母親も同様だった。叔父小母先生ともそういう話しはなかった。三歳、五歳上の従兄弟とそういう話しを少ししても「真面目なんだね」で終わってしまった。
 それよりも、こういう話しをして「変わっている」というレッテルを張られて、仲間外れにされた。小学校二年生の転校で神奈川県茅ケ崎市の新しいクラスに入ってからである。
 「小生意気なやつがきた」
 と想われてしまった。表立ったイジメはなかった。保育園の友人関係よりも杉並第七小学校の友人関係の方が遠くなった。この茅ケ崎市立鶴嶺小学校の友人関係の方が決定的に遠くなった。私の生来の臆病さも相まって、私はどうしたらいいか分からなくなってしまった。下駄箱にいってお腹がいたくなるだけではない、帰り道で時折、小便を漏らすようになってしまった。小便を漏らすと、ちょっと生暖かくて、ほっとする。授業中にお腹が痛くなることもあった。その頃は、もうどうしていいのか、判らなくなっていた。そんなこんなが小学校五年まで続いた。

小学校五年の私
 小学校五年生になると四十代の母性溢れる佐藤先生になった。母親とは異なる母性を感じて私は安心していった。気持ちが落ち着き勉強や習い事、野球に集中するようになった。友人関係も放課後にサッカーをするなど改善していった。佐藤先生を想い出すと、四十歳の現在でも温かい気持ちになる。本当に有り難い。先生の言葉で覚えているのは、

 「早し良し 普通危なし 遅し悪し」

 である。卒業の時にクラス全員に「覚えていてね」と贈ってくれた言葉である。特に、「普通、じゃあ危ないのよ。ちょっと早くいきましょう」と言ってくれた。十分に答えられているとは思わないが、この言葉を聴かなかったら私はもっと失敗していたであろう。
 そして佐藤先生が担当してくれた五年生、六年生があった御陰で、本心では他人を恐れているのだけれども、表面では普通に、あるいは何も恐れていないかのように振る舞うことが出来るようになった。佐藤先生はただニコニコと微笑んでくれていた。生徒が大きな失敗やいたずらをしても、感情をむき出しにしてヒステリーに怒ることは一度もなかった。お子さんがいらっしゃるそうで「私の子供もそういうことするんだよね。どうしてだろうね」という調子であった。極めて弱虫で繊細な私は感情をむき出しにして怒られると、どうしても「自分が悪い」と想ってしまう癖があった。もし、佐藤先生に逢っていないで思春期の大嵐の中に突入していたら、私は登校拒否や中退、退学などに至っていたかもしれない。いや、そういう可能性が極めて高かっただろう。なぜなら、思春期は性欲で感情のコントロールが出来なくなり、恋愛感情や嫉妬で激しくなるからである。その感情を受け止めるための下地「感情で怒られても自分が悪くない」を佐藤先生に作ってもらったのだった。

大学生の私
 そんな経験をして私は何とか人の社会で友人を持てるようになった。もちろん、本心を話せる友達など出来なかった。人は愚かだ、人間は愚かすぎる、という主張をまともに話し合える友達がいなかった。私が人を怖がり過ぎて、踏み込んでいかなかったのが原因であろう。
 高校まではクラス単位だから話す友人は出来る。しかし、大学になるとそもそも自分から話しかけないと友人が出来ない。全く話さなくても講義に出て単位を取れば卒業が出来るのが高校までと違う所である。そして大学には修学旅行や各委員会などがない。
 すると、また、困ってしまった。私は人と話すのが苦手、というのが出てきてしまった。「話さなくても別にいいのに、わざわざ話しかける理由は?」と自問自答していった。毎回初対面の人に話しかける時は、顔が真っ赤位になるくらいの恥ずかしさである。手に汗を握るくらいである。ちょっとでも酷いことを言われると傷ついてしまう。心の中で大汗をかき、涙を流していた。
 結局、私は不必要に話すのをあきらめた。部活で用事がある時、彼女がほしいコンパの時、勉強を教えてもらう時、そういう時以外は話さなくていい、と割り切った。割り切って捨てたら、逆に話せるようになった。コンパでも「女にもてたい~!」と気合を入れた時よりも、もてなくてもいい、適当で、わいわいできればいいや、と割り切った方が結果が良かった、という経験も出来た。人との会話はいい加減でいい。目的など考えなくていい、逆にその方がいい、というのを大学時代に学んだ。

親友が出来ない私
 けれども、本心を話せる友人がいない、という悩みを抱えていた。本心を話せる友人がいない、というのは私がどこかしら変だからではないか、という不安さえ感じていた。この不安は三十歳を超えても残っていた。
 そこで冒頭の大学生からの質問に戻る。私はこの話を自分の経験と哲学とを重ね合わせて以下のように講義で話をした。

 「本心を話せる友人などもてないのです。それは絶対に到達しえない理想(イデア)であり、現実世界ではありえません。
 プラトンの言うように穢れた肉体によって理想(イデア)は不完全な形としてしかありません。例えば、友人が腹が減っている時、彼女に振られてショックの時、トイレに行きたい時などは本心を聴いてくれないでしょう。肉体の欲求によって本心を聴けないのです。さらに、友人と私は異なる肉体ですから、家族構成や産まれてからの経験が違います。知っていること、経験してきたことが違うのですから本心を全て理解することなど出来ないのです。
 さらには、カントの言うように人間の理性は限定された理性です。ですから、理性同士が成り立ちながら相矛盾します。理性が一つの答えに達することは出来ないのです。それと同じように私が考えていること、本心も相手と完全に一つの答えに達することは出来ないのです。
 つまり、本心を話せる親友など現実には持てないのです。そういう物を仮定して追い求めることは尊いですが、そこに囚われて苦しめられないようにしましょう」

 という話しです。
 私は人見知りでした。他人に恐怖を感じていました。自分の弱さから空威張りしたり、他人を馬鹿にしたりもしてきました。そして、思い悩み続け、先の答えに達しました。人見知りだったからこその答えです。私の人見知りの性質は変わりませんが、少しずつ考えがまとまっていっています。

 学生さんが質問に来てくれて、先生冥利に尽きます。同時に「学生は最高の先生である」という言葉の意味も噛みしめられました。有り難いことです。
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