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エッセイ「【随筆】過去へ舞い戻ったのか?私」

 「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した校正前原稿です。
読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。
以下本文です。


 過去、には色々ある。私は小学校二年生の夏から中学校二年生の夏まで、隣接する神奈川県の茅ヶ崎市(湘南地方)で過ごした。過去には色々とあった。
 先週、平成二十六年十一月八日と九日に一泊で茅ヶ崎に行ってきた。家族五人、私、かみさん、長男四歳、長女二歳、次女四カ月である。現在の家族で、過去の家族の過ごした世界へ舞い戻ったのである。今回はその体験を書いていきたい。

旅行のきっかけ
 旅行のきっかけは、かみさんである。「どこでも良いから旅行に行かない?」と言われた。私は生来の出不精、めんどくさがり屋、怠け者なので「赤ちゃんが小さいから」と断っていた。それに毎週A4用紙で四十枚分、個人ブログを書いている。過去分の貼り付けをするとは言え、中々負担を感じていた。だから、極めて消極的だった。何度も断った。
 それでも手を替え品を替え、時間が経ってから、朝ごはんの時から寝る前まで何度も言われた。私はかみさんに弱い。「それ程言うなら」と十一月八日、九日に旅行に行く、と決めた。行き先の候補地は、茅ヶ崎以外に、私が小学校二年まで過ごした東京都杉並区、息子の行きたい東京スカイツリーか東京タワー、奈良の「大古事記展」などがあった。東京は何時でも行けるだろう、ということで茅ケ崎になった。

旅行の日程
 出発時間は決めなかった。帰宅時間も適当。そういう旅行が好きだった。かみさんもそういう旅行をしてきた、という。似ている。朝起きてご飯を食べて、用意をして出発した。予報では二日とも雨だった。実際に雨に降られたのは、二日目の帰りの東名高速から自宅までだった。茅ヶ崎では晴れていて楽しく二時間の散策ができた。
 宿は予約していた。「茅ヶ崎館」という小津安二郎監督が映画を製作した古い旅館だった。一泊朝食付きで八千円と安い。かみさんがインターネットで丁寧に探し出してくれた。良い宿だった。ただ、八日は今年一番の寒さ。そして古い旅館、隙間(すきま)風はピューピューこないが、ジンワリと寒さが覆いかぶさってきた。一晩中旧式のヒーターを付けた。子供達は布団の中で快眠していたが、私は繊細なので、熟睡できず、うつらうつらしていた。
 旅行日程で決めていたのは、宿のみだった。
 八日日程
 結局出発は九時過ぎになり、新東名「静岡インター」から「厚木インター」に、茅ヶ崎市鶴嶺(つるみね)神社前の富士スーパーに着いたのが十二時半頃となった。鶴嶺神社参拝、鶴嶺小学校、鶴嶺中学校、「ホームタウン茅ヶ崎(住んでいたアパート)」、茅ヶ崎駅前ドライブ、茅ヶ崎館に午後三時半、遅い昼寝を午後六時前まで、海鮮居酒屋「えぼし」で晩御飯、就寝。

 九日日程
 七時起床、八時過ぎ朝食、九時出発、「新江ノ島水族館」、世界でここでしかないイルカショーや多彩なクラゲを見た。皇室の海洋生物研究コーナーがあった。十二時に厚木インターに着く。コンビニのおにぎりがお昼ご飯、雨の中新東名で午後三時に帰宅。昼寝、夕食。

旅行の家族の感想
 かみさん「やっぱり、旅行は良いね。鶴嶺神社と健治郎さんの住んでいた家の周りが見れたことが良かった。思ったより歩きやすかった。海岸の松林が凄いね。一三四号が走りやすいね。」
 息子「さかなが美味しかった(海鮮居酒屋「えぼし」での蛤や刺身)。イルカが凄かった。」
 娘「さかなー。おにぎりー。」
かみさんが楽しそうで何より何より。

茅ヶ崎について 
 続けて私の感想を書いていく。私が東京都杉並区から茅ヶ崎市に引っ越したのは、集合住宅を父が買ったからである。極貧生活でも本が売れて頭金が出来たからだそうである。名前は「ホームタウン茅ヶ崎」。建築前は高層階マンションを予定していたそうだ。しかし、私の年代は第二次ベビーブームで、丁度、ドーナッツ化現象で東京近辺に人口が流出し、茅ヶ崎市も人口爆発が起きていた。ここで高層階を作ろうものなら、小学校中学校が入りきらなくなる、という理由で三階建てに抑えられた。「一階と二階一部屋」と「三階全部と二階の幾部屋」という二つの組み合わせが横に長く伸びている。この横に長い長屋には大体、八の上下の組み合わせがある。私が住んでいたのが、ホームタウン七ー一〇七号だった。七番目の長屋を意味する「七」、その長屋の「一階と二階一部屋」の「一」と、七番目の「七」で「七ー一〇七号」となる。我が家の上、「三階全部と二階の行く部屋」の人は「七―二○七号」である。一と二の間違いで郵便物が混ざることが良くあった。ちなみに、七号棟は隣の「七―一〇八」で長屋が終わる。
 ホームタウン全体で観ると、小さい号棟を含めて三十八号棟まである。中央には管理棟と地下に掘り下げてのテニスコート一面、さらにはテニスコート四面程度の広さの木のアスレチックや砂利広場、砂場などもあった。別に二つの小さな公園もあった。自動車はホームタウンの外周と中央のみ入れる。住居の周りの歩道は煉瓦で舗装され、それ以外の号棟の間には小さな池などがあり、子供が安心して遊べた。
 父は藤沢市辻堂で公団の申し込みをしていたが落選した。「海辺だから潮風で大変だったから、ホームタウンの方が良かった」と言っていたのを覚えている。駅からバスで二〇分以上かかるが、横には小出(こいで)川があり、冬には白鷺や鴨が飛来してきて、家ばかりだった東京に住んでいた私は、度肝を抜かれた。「ああ、図鑑に載っていた鳥というのは、実際に生きているんだ。そしてあんな風に動くんだ」と。そういえば小出川で母が雷魚(らいぎょ)という体長一メートル近い大型の魚をもらってきて、どうしようもなく、植物の白いプランターに入れていたこともあった。餌を与えていなかったので腹を空かせた雷魚は母の腕に咬みついて大騒動になった。魚は図鑑で見るもの、時々、ガラス越しに水族館で見るものだった。茅ヶ崎は魚も人に関わってきた。
 私達が引っ越した時の茅ヶ崎市は中央にJRが走り、そのすぐ北を国道一号が走る。市の西側に大きな相模川があり、南に海がある。そして南北に長い市である。地理が静岡市そっくりで、私が静岡市に来て、なんとなく馴染みを感じたのもこうした理由がある。さらには市の中心に由緒正しい神社が鎮座しているのも同様である。茅ヶ崎市の鶴嶺神社は源氏が関東に進出する際の足がかりとした神社で、鎌倉の鶴岡八幡宮の本社に当たる。鎌倉幕府が元寇に臨む際に鶴嶺神社に祈願している。
 静岡市の神部神社、その後浅間神社と一体になったが、同じく千年に及ぶ歴史を持ち、今川氏を始め徳川氏など幕府にゆかりの深い神社である。こうして書いてきて、さらに茅ヶ崎市と静岡市の共通点を認識した。

静岡市との違い
 しかし異なる点もある。今回特に気がついた点を挙げていきたい。
 ① 人口の拡大が継続中:私が茅ヶ崎市に転校した時にJR東海道線に乗車して立つことは少なかった。しかし、私が中学二年生になり転出する頃には、JR東海道線はひどく混雑するようになっていた。座れることなど稀になった。東京の山手線のようなギューギュー詰めで一時間電車に揺られなければらないようになっていった。せっかく都会から逃れてきたのに、追いつかれた気分になった。父が静岡に引っ越すか迷い、私に聴いてきた時、「家族一緒ならどこでもいい。父親についていく」と言った。そこには、「追いついてきた都会から早く逃げ出したい」という気持ちもあった。
 茅ヶ崎は北上する相模線という小さな路線への乗り換え駅でもあり、当時も高層マンションやアパートが乱立して人口が増えていた。今回の旅行は十年ぶりになると思うが、新しい大きなマンションがさらに幾つも立っていた。
 ② 道路整備が進んでいない:静岡市は国道一号からJR東海道線を南北に行き来する大きな道路が何本もある。谷津山近辺を除けばJRは道路の大きな妨げにはなっていない。しかし、茅ヶ崎市は大きな道路がほぼ一本しかなく、JRは大きな障害になっている。駅前のロータリーからの道路の広がりがなく北上する道路しかない。この道路と東西の国道一号以外の道は細い道になり、歩行者や自転車が車道にあふれ出てくる。道路環境が極めて劣悪である。私は中学校二年生まで自転車やバスだったので気にならなかったが、今回大きく落胆したのがこの点である。はっきり言えば、茅ヶ崎市には道路関係で実行力のある政治家がいないのである。市民のために汗をかく実力ある政治家がいない、ということは茅ヶ崎市民が自分たちの市を良くしようという気持ちが政治に結集していないのである。大規模な人口の流入で地元を愛する市民が作られにくいのだろうか。人口の流入で市税は大いに増えただろうが、市民全体がまとまってないということだろう。市民がバラバラでは無能な市議会や市政に結び付く。茅ヶ崎のみならず世界中でも同様の例が見うけられる。
 ④ サーファー文化の定着:朝、宿から車を走らせると自転車の右側にサーフィンを乗せて走っている人を発見。黒い全身スエットである。季節は十一月、住宅街、静岡であれば異様な風景である。自転車にサーフボードを乗せる専用の器具があった。「え?」とかみさんと声を出して驚いた。さらに車を進めると、白髪の男性が黒い全身スエット姿でサーフボードを持ち歩いている。サーフィンと言えば若者、という意識であったが、老境の域に至っても楽しんでいる。さらに車を進めると中年、老人、女性のおばちゃんも黒い全身スエット、サーフボードを乗せる自転車も多数見かけた。夏ならば判る・・・というのが静岡人だろう。新江ノ島水族館から茅ヶ崎方面を見ると、数え切れないほどのサーファーたちが海に、黒ゴマのように浮かんでいた。本当にサーファー文化が根付いているのを実感した。
 ④ 駅前などの新規の商業施設は増えていない。私が転入した時には、イトーヨーカドーとダイクマ(神奈川の大型電気製品販売店)がドーン、と二軒立って競っていた。他に大きな商業施設は駅ビル位だった。今回行ってみると、イトーヨーカドーはセブンイレブンに買収されたがそのまま、ダイクマも同じ大型電気製品販売店に買収され名前は変わっていてもそのままの建物の大きさであった。向かいには小さな商業施設、昔の飲み屋街が店が替わりながら残っていた。北上するとイオンのような商業施設が立ってはいたが、その付近に幾つかある化学工場などはそのまま残っていた。駅から一キロ以内の大きな工場の移転がなく、駅前にパルコや西武のような商業施設は出来ていなかった。この点は決定的に静岡市とは異なっていると感じた。人口が増加しているのにも関わらず大型商業施設が増えていないというのは、多くの人々は東京や横浜などで大きな買い物をし、生活雑貨だけを地元で購入するという構造になっているのを推測させる。静岡県では沼津市や三島市がそれに当たり、高いものやブランド物は静岡市で購入し、生活雑貨は地元のイオンやスーパーなどで購入するという構造になっている。ただ、そのお陰だろうか、家は増えるけれど区画整理などはあまり行われず、私が居た時の畑やビニールハウスが中学校の周りで随分と残っていた。

 以上が茅ヶ崎市と静岡市との違いである。書いていてしみじみ感じるのは、私はもう茅ヶ崎市民ではない、ということである。付け加えるとすれば、暴走族が全くいなかった。落書き等もなかった。ゆとり世代は犯罪率、国際レベルでの学問上の業績、大学の出席率等が、私達の第二次ベビーブーム世代より優れた世代である。少し寂しく少し安心した。

茅ヶ崎市の想い出
 父母が「家を買えた!!」と興奮していた。その興奮に当てられ、「凄い場所にいけるんだ」と思って来てみたら「田舎町だった」というのが最初の感想である。人生で初めての転校では、しょんべんをちびる位緊張した。実際、私は小学校からの帰りにしょんべんをちびったことが何度かある。母親は「無理をしているからかなぁ」と優しい言葉を掛けてくれた。
 木造の古い校舎だった。廊下が木なので走るとギシギシとなった。その教室は何となく暗かった。私の気持ちも暗かった。緊張して巧く喋れなかったからだろうか、最初いじめられていた。遊んでいた奴に「お前はカスだ!」とからかわれて、悔しくて涙を流したこともある。ホームタウンの管理棟の電話ボックス前だった。行ってみたら残っていた。かみさんには言わなかったが、そんな記憶も思い出していた。
 放課後にクラスでサッカーをしていたので、体は弱かったし下手だったけれど、私は毎回参加した。それが良かったのか、いじめはなくなった。バスケットはボールがリングに届かなかった。届いたのは小学校四年生位だと思う。私以外は殆どリングに届いていた。バスケットは苦手でしなかった。小学校には二五メートルの小さなプールがあり夏に野球の練習がない日は良く泳ぎにいった。プールの帰りに熱を出すこともあったがそれでもプールが好きだった。いや、好きだった、というか暇だったのだ。暇ですることがなくて、という感じだった。
 茅ヶ崎市に転校してきても、東京の新宿区のプール教室に毎週日曜日に通っていた。JR東海道から山手線で約一時間半、広大な東京駅と新宿駅を小学校一年の妹を連れて乗り換えていた。新大久保駅からも数分歩いていた。ある時、私が「月曜日の授業で寝てしまった」と親に言ったのがきっかけで辞めさせられた。私は授業中に寝るなんて恥ずかしい、という意味で言ったのだが、親は私を責めなかった。今考えると、よく小学校二年生と一年生だけ約二時間の道のりを通わせていた、と思う。けれど、これが私にとっての大きな鍛錬になったことは確かである。
 そんなこんなで虚弱体質だった私も、サッカーやバスケットは人並みのかなり下だが、泳ぐのは人並みになった。それが嬉しくて小学校のプールにも行ったのだろう。息子の肩車をしながら、その小さなプールを見せている時に、想い出した。そしてその息子を肩車した場所は、丁度学校から家に向かう道が折れ曲がる角だった。学校の正門から見えなくなる角だった。いじめられて苦しかった、しょんべんをもらして恥ずかしかった、そんな思いから、家に早く帰りたいと走って帰った曲がり角だった。
 家のあった「ホームタウン」は記憶していたよりも大分、小さかった。転出時の身長は百六十センチ程度、現在は十五センチ以上伸びた。家々の天井が低く、歩道の道幅も狭い。ただし、綺麗に整備されていて、ブロックでできた遊園地のような感覚はそのままだった。私の幼い時と違ったのは、「不審者注意」や「部外者立ち入り禁止」の立て札があちこちに建っていたことである。時代の流れを感じた。木造の巨大なアスレチックも、小さな木造のアスレチックも無くなっていた。「子供が怪我をするかもしれない」という声に負けたのだろうか。「残念」という言葉は出さなかったが、少しさびしかった。息子、娘に遊んで欲しかったからである。
 それでも、私が遊んでいた家の南の角を示して、かみさんに「ここで面子(めんこ)をしたんだよ」と言えたのは嬉しかった。他にも、ホームタウンだけの出身者で作る弱小野球少年団について話が出来た。宮田監督の家の前に立つと、表札は「宮田優」とあった。監督と同じ名字である。嬉しかった。家の周りを花一杯にしていた監督のご家族の想い出があるが、訪れた時に、かみさんが先に「こんなに御花が綺麗だね」と言ってくれた。監督が現在も生きているかどうかは判らないが、あの明るかった監督の優しい心は受け継がれていた。茅ヶ崎に来てよかった、と想った。監督の家の前で、軽く一礼をした。かみさんは「ピンポンを押したら」と言ってくれた。少し嬉しかったが失礼になるかもしれない、と遠慮した。
 私の家の向かいは「坂口」さんだったと記憶している。年齢が近い二人兄弟で、特に私の妹とその姉弟と仲が良かった。私も仲良くしたいのだが、妹のように相手の懐に飛び込んでいけないでいた。表札は別の名字だった。
 両親が「ホームタウン」の家を売った人の名前とは違う人だった。それまでは二千五百万円が相場だったのだが、母親が「バブルだからもっと高く売れるに違いない」と幾つかの不動産屋を回ったら三千七百万円位(現在は一千八百万程度)で売れた。この成功談は耳にタコができるほど聞かされた。「だから女は直感で勝負だよ。女の方がいざという時は決断力があるんだ」などと理由も添えられて。極貧暮らしだった両親は、毎月の返済ローンが払えなかった。高い延滞利息分を払っていたのだ。母は金を稼ぐために公文の英語をホームタウンの管理棟で教えていた。同じ公文の数学の先生に助けてもらって。本当に御金がなくなると両親と私と妹は早朝に郵便ポストにビラ配りをした。
 日用品を買っていた富士スーパーという地方のチェーン店スーパーの入口近くに八百屋が残っていた。多分、私の同級生の佐藤君の家だ。佐藤君には想い出がある。小学校高学年の時、多分、六年生の時、彼が家の八百屋の安売りのチラシを私の家のポストに入れていたのだ。午後五時頃だった。彼は穏やかな性格で私は好感を抱いていた。眼鏡を掛けひょろっとしていて野球がそんなに上手くなかった。話しかけやすかったし、私もビラをまいたことがあるので
 「えらいね」
 と言った。彼は、
 「え?」
 と聞き返した。
 「家の手伝いだろ、えらいな。俺にはなかなかできないよ」
 と言った。佐藤君は
 「そんなんじゃないよ。あんまりな」
 と恥ずかしそうに安売りのチラシを次にまきにいってしまった。私は彼を尊敬している。富士スーパーの入口に、今でも元気な声の届く八百屋があった。眼鏡をかけた私と同じような年齢の人を探したが見当たらなかった。けれども、八百屋があったこと、佐藤君に出逢えたこと、想い出せたこと、は嬉しい。
 貧乏、と言えば、父は「晩御飯を採ってくるぞ」と茅ヶ崎の海岸の堤防から蟹の網を垂らしたことがあった。とった蟹はパサパサして美味しくなかったし、あんまり回数もしなかったので、買った方が効率がいいんじゃないか? とか野菜を育てた方がいいんじゃないか? と思っていた。母は苦しかったのだろう、幾つかの宗教教団に出ては入っていった。その分「働け」と私が思っていられたのも、両親に守られていたからである。
 朝起き会という朝早く起きて皆で大声を出して良い話を聞く会に参加していたが、その分働いた方がいいんじゃないか?と思っていた。この辺の効率の悪さは、今考えてみれば私の一生にこびり付いている。金のやりくりが下手だし、収入を増やすのが全く下手である。面白いものである。息子や娘に伝染しないといいな、と思っている。
 貧乏だったが、外食が好きだった父は、「えぼし」という海鮮を食わせる屋台のような店が好きだった。ワイワイと五月蠅く、明るい店だった。尾道や香港の屋台を思い出すからだろうか。「えぼし」を話すとかみさんがすぐに検索してくれた。二号店など沢山の店を出すほど繁盛しており、実際に行ってみた。建物が三つに増えていて、駐車場も三倍になっていた。タクシーで乗り付ける客も数組見かけた。土曜日の六時過ぎに行って一時間待ちだった。実際に食べてみると値段が安くで大変美味かった。特に焼き蛤三個と天然鰤(ぶり)の刺身六切れがそれぞれ七百五十円と安くて、美味かった。ふぐのから揚げ、おにぎりも美味しくて、かみさんも息子も娘も大満足だった。おっぱいしか飲めない次女は笑顔で座敷に転がっていた。
 
鶴嶺神社について
 鶴嶺神社の歴史は古く、浜降祭という祭りでは御神輿が出る。近くの神社を始め四十近く海岸に降り、海水に御神輿を担いだ男たちが入る勇壮な祭りがある。この神社から伸びる参道に松林が生えている。昔は砂利道だったが砂利道風の道路に舗装されていた。参道も中程にある一メートル程の石の丸い橋に突き当たると車が入れなくなる。敷き詰められた砂利道に数々の燈篭が並ぶ。少し進むと左右に神池と言われる池があるが、涸(か)れていた。子供の頃、水がある時にザリガニ釣りをやった。境内には樹齢千年の大銀杏がある。境内と大銀杏はずっと心に残っていた。静岡、東京、大阪と何度も住居を変えても境内の姿を忘れたことはなかった。今回訪れても記憶の通りであった。何とも嬉しい。スーパーや八百屋はそこに住む人の事情で変わっていく。大きなマンションもホームタウンさえも。それでもこの神社は千年続いてきた。これからも続いていくだろう。私はこの、続いていく、ということを知れて、穏やかな気持ちになった。そういう年になったのだろう。今回の鶴嶺神社参拝はこれまでとは違う意味となった。
 それはかみさんと息子、娘達と来られたからだろう。全員で参拝が出来た。境内と神池の間にある小さな公園で息子娘が遊んだ。裏の公民館からは昭和の歌謡のカラオケが聞こえてきた。落ち葉が掃き清められていた。そこで、富士スーパーで買ったおむすびと鶉(うずら)の卵のてんぷらと鳥の唐揚げを食べた。この小さな公園には私は一人で遊びに来たこともあったし、友達と遊びにきたこともあった。けれど、今は家族と来ている。将来、息子娘が子供を連れてくるかもしれない。この公園で過去と未来が感じられた。現在は未来から観れば過去になる。もう、私の肉体と心はそういう処に来ている。ご飯を食べ終わり、目に入った幾つかの塵(ごみ)をビニール袋に入れた。こういうことを考えさせてくれる場所に参拝できて幸せである。
 そういえば一つだけ大きく記憶と異なった場所があった。鶴嶺神社の参道が国道一号に接している場所である。鳥居は大きくなっているし、周りに松林や木々が無くなっていた。最初に車で通った時、あまりの違いに「ここではない」と言ってしまった程である。他の鶴嶺神社は変わりなかった。同じく鶴嶺小学校、鶴嶺中学校も殆ど変わりなかった。駄菓子を買っていた古い商店は大きなマンションになっていたが、中学校の前のビニールハウスや数々の畑、御墓、中学校裏のコンクリートの道、正門前は何一つ変わっていなかった。私が中学校の周りを三周するのにビリだったこと、正門前で足挙げ腹筋をして直ぐに足を下ろしたことなどをかみさんに聞いてもらえた。

海岸線について
 ホームタウンから自転車で三十分程度で海岸線にいけた。小学校の最弱野球チームは日曜日になると海岸に行って砂浜を走った。往復二キロ、三キロを。その後、海岸でダイビングキャッチの練習をしたのを覚えている。
 「綺麗な砂」とかみさんが言うほど、さらさらとした砂浜の北側には幅広い松林があり、その間に百三十四号が走っている。
 「最後を迎えたい場所は?」と聴かれて、二十代前半の私は、

 「夏の夕暮れ、百三十四号から海岸に出て海辺で死にたい」
 
 と答えた。夏の夕暮れに松林の間を吹き抜ける風の肌触りの好いこと、好いこと。それを想い出していた。私にとって茅ヶ崎の海岸線とはそういう場所であった。
 今回は十一月であり、松林の間を抜ける風は感じられなかったが、夜と昼に二回砂浜に少しだけ降りると、それでも心地よい風と砂の音がした。息子は直ぐに「砂山をつくる」と作りだした。いつか思いっきり作らせてあげたい。
 私の大学は茅ヶ崎と藤沢の間の辻堂、正確には鵠沼(くげぬま)に保養施設を持っていた。簡単に言うと学生が泊まれるボロボロな公民館のような建物だった。一泊五百円程度と格安でテニスコートも使いたい放題だった。自分で遊びのサークルを作っていた私は何度か、訪れて、テニスをしたり、酒に酔って海に出たり、花火をしたりした。千葉県の太平洋側の九十九里海岸などでペンションなどを借りて同じことをしたが、やっぱり、茅ヶ崎とは感覚が異なっていた。千葉県などは遊ぶ場所、茅ヶ崎はどこか懐かしい場所であった。たとえ、「ホームタウン」に行かなくとも、どこかしら私の故郷だった。
 四十代の私にはそうした感覚はかなり少なくなっていたが、それでも残っていた。幾つかの場所を巡ることで、その感覚がはっきりしてきた。「ホームタウン」と海岸線の間にある、泊まった「茅ヶ崎館」では全く感じず、「ホームタウン」と海岸線には感じるのである。不思議なものである。
 一瞬、老後はここで過ごしても良いかな、という思いも持った。感覚が甦(よみがえ)ったからだろう。私の過去はまさに茅ヶ崎にあったのだった。交通の便や人口流出入の激しさなどを考えると思いは打ち消されるが、それでもそうした感覚を持てたことが嬉しかった。
 鶴嶺神社参詣後に家族で昼ご飯を食べた公園で感じたのは、単なる過去の茅ヶ崎の思い出だけではなかった。父と母が苦労した立場に、現在、私とかみさんが立っている、という現在であり、息子や娘たちが将来、同じ立場に立つだろう、という未来であった。そして私が最後を迎えるだろう、という未来でもあった。

 「茅ヶ崎館」で寝不足になった私は全身のだるさを感じ風邪気味になった。帰宅して遅めの昼寝をしたが、ものの一時間弱で目が覚めた。驚くほど疲労が取れていた。肉体の疲労ではなく、久しぶりに過去と現在と未来を考えた疲労だったのかもしれない。たまには良いものである。そういう意味で、良い旅行となった。
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