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講義録7 インフォームド・コンセントの実情 製造物責任法

 皆様、こんにちは。

 冬の深まりと共に、布団を増やすのを悩み、パジャマの下に何を着るか、悩んでいます。そんな他愛のない年中行事を悩むことが出来る幸せを噛みしめています。その原因は2つ。1つは小学校二年から中学二年まで住んでいたお隣の神奈川県茅ケ崎市に行ってきて、過去だけでなく現在、未来が見えたことです。もう1点は、日本国の政治の安定です。安倍総理を始めとする、それを支えている人々の活躍によって政情が安定してきました。
 シリアでは数万人が良く分からない内乱でなくなり、それが中東全体に拡散しようとしています。中華人民共和国がウイグル、チベットでは日本では考えられない程の蹂躙(じゅうりん)が起こっています。アジアの国々が解放され、自主独立を得るにはまだ程遠く、平和を享受する時間を楽しむのがいつ訪れるのでしょうか。小さい頃の思い出の地に、ふらりと旅行でき、安全に安心に思い出に浸れる時はいつ訪れるのでしょうか。

池間哲郎著 『日本はなぜアジアの国々から愛されるのか 』

 を今回の講義で紹介しました。アジアの国々が日本を愛すことは、その裏返しにアジアの国々の人々の、嘆き、慟哭(どうこく)、苦しみ、苦悩があるのです。この本を読んで「日本はすごいぜ!えらいぜ!」ではなく、どうしてそのような気持ちを持つのか、歴史を注視できるようになって欲しい、と願わずには居られません。池間先生の御著書の内容は、ネパール、ベトナムなどのアジア各国から来ている留学生から聞いていた話とピタリと一致する点がありました。留学生に接していて「彼らの変革を私達が助けて良いのだろうか?」という疑問を持っています。橋や道路などの支援は必要ですが、心の支援、思考の支援はどうなのでしょうか。私は常々考えながら接しているのですが、疑問は解けていません。それは彼らが日本人と同じ待遇のバイトや就職、一人暮らしをして、日本人とは異なる結果を出すからです。近代文明、近代思想として観れば彼らは落ちこぼれになる割合が高いのです。それで良いのだろうか、と疑問に思います。同時に、明治維新が日本だけが出来た理由も、この現代で目の当たりに出来るのです。考えること、思うことは深く面白いです。与太話が長くなりました。

 それでは本文に入ります。

紹介した本
: 『日本はなぜアジアの国々から愛されるのか 』  池間哲郎著 扶桑社(表示は「育鵬社」)

配布したプリントB4 1枚
:平成25年度講義録「講義録7 日本の医療現場におけるインフォームド・コンセントの実情 3つの観点からの倫理 製造物責任法」4頁分 3つの倫理の代表例まで


 --講義内容--

 今回は、2つ述べます。1つは、前回述べた「インフォームド・コンセント」を日本の医療の現場で見てみる、ということです。実際とイメージは大分異なります。もう1点は。製造物責任法、通称PL法に観る技術者の責任の重さです。

 「インフォームド・コンセント」と日本の医療の現場は、病院側の意見と医療過誤を受けた患者の側の意見の両方を通してみます。丁度、昨年度の静岡新聞に素晴らしい特集がありましたので、それを取り上げます。

ア) 現場はパターナリズム同士のぶつかり合い
イ) パターナリズムが倫理の根源になる(日本特有)
ウ) さらなるインフォームド・コンセントを裁判所は求めている
エ) 技術者個人も社会的対応や言葉遣いを大切にしなければならない
オ) 日本では医療事故が直ぐに訴訟にならず、医療費高騰に結び付きにくい
カ) 医学の進歩を願う高い理想が患者と医者で共有されている(日本特有)

 以上が結論です。

 製造物責任法ですが、以下が重要な点です。

A) 過失責任から厳罰責任になるのは製造物が社会全体に与える影響が大きくなったのが原因
B) 立証責任が原告から被告に移ったのは製造物の複雑化が原因

 以上のついて、昨年度の講義録を下にして述べていきます。また、昨年度の講義内容から省いたのは「インフォームド・コンセント」の詳細な検討、「製造物責任法から観た福島原子力災害の補償」についてです。

 静岡新聞 平成25年5月13日からの特集「患者と向き合う 医療の現場から」①~⑦の中の②と⑦ を資料として使います。

 -インフォームド・コンセントの実情

 実情は、パターナリズムとインフォームド・コンセントのぶつかり合い、ではなく、パターナリズム同士のぶつかり合いです。先週、述べたインフォームド・コンセントと医療について、丁度、静岡新聞が特集をしてくれたのでそれを見ていきましょう。実際に日本ではどのようになっているか、の事実を見てみましょう。講義では理念の部分だけしか扱えないので、幸運に恵まれました。

 それではプリントを見てください。写真が2つある方です。プリントの真ん中を見てください。日付が5月13日から7回連続でした。第7回まであるのですが、取り上げるのが第2回、と第7回です。その理由は第2回が医者がインフォームド・コンセントを進める理由が書いてあり、第7回には患者側から進める理由が書いてあるからです。医者と患者の両側から考えていくのが先週の講義のまとめ、「賛成と反対、両側から観て初めて自分の意見が出る」という公平さにつながります。

 第2回を見ていきましょう。第1段落目に「医療の専門家ではない裁判官が、事故原因や責任の所在を判断するのは納得いかない。だからこそ、訴訟にしないような対応が必要です。」とあります。ここでのポイントは2つ。

ア) 現場はパターナリズム同士のぶつかり合い 「医療従事者」対「裁判所」

 講義では述べませんでしたが、これは技術者の世界でも同じようなことが起こっています。有名なのは小泉政権時代に日本の株価上昇をつぶしたと言われるホリエモンの裁判でしょう。こうした批判は多くの分野であります。妥当かどうかは別としてパターナリズムが根底にあることを覚えておいてください。

イ)パターナリズムが倫理の根源になる=「だからこそ訴訟にしないように」

 私達は、あるいは広く社会一般ではインフォームド・コンセントをすれば倫理が進む(保たれる)、と考えがちですが、実際に医療の現場ではパターナリズムが倫理の源となっているのです。この病院ではこうした専門家としての誇りからカルテの公開や患者さんと向き合うことの講習、医者の態度の改めにつながっています。思い込みを事実から考え直させてくれる一文でした。これはこの後、

「病気の完治を願う気持ちは医者も患者も同じ」の言葉に表れています。

 -日本人の倫理の特徴

 今回の講義は実情を問うものですから、日本の倫理の実情も現場を歩かれている人の証言に耳を傾けましょう。

 『日本はなぜアジアの国々から愛されるのか 』 

 の中で著者の池間哲郎氏は、「日本人の人間性をオフにする。そして現地の人の人間性をオンにする。・・・そうしないと一部の人のポケットにお金が入り、子供達が死ぬことになりえる(意訳)」と述べています。日本人同士が持つ倫理を前提にして援助を行うと、実際に死ななくてよい子供達が助からない、というのです。日本人同時の倫理の特徴は各分野で書かれていますが、実際に現場にいる人の声をきちんと聞くことが大切です。この実例が池間氏の本の中に溢れています。是非とも一読してみてください。感動しました。

 -東日本大震災の寄付の教訓

 同じことが東日本大震災で起こったのは記憶に新しいのではないでしょうか。日本赤十字や日本ユニセフ(ユニセフではない)の寄付金の使途については批判が巻き起こりました。日本赤十字については、義捐(義援)金の遅れが大きな批判を浴びました。例えば現場で働くNPOに一割だけでも直ぐに分配すべきだった、という批判があります。日本ユニセフは、ユニセフから審査を受けてパスした民間団体、という関係です。ユニセフではない、とはそういう意味ですし、寄付金の上納を自由裁量で決められる、という意味です。つまり、全額寄付したものがユニセフに全て行かない、という意味です。この裏には民主党政権では対応が遅すぎる、という公への不信が、民間への流れになったと推測しています。実際日本赤十字もそのようにコメントをしています。以上については以下をどうぞ。

「赤十字への安易な寄付でいいのか」
http://www.alterna.co.jp/11119

 さて、戻ります。

 日本人からすれば

○ 「どこに寄付をしても、苦しんでいる被災者に届く」と信じて疑わない」

 からでしょう。しかし、「実情」は大分異なりました。私は事前に知っていましたので、静岡県ボランティア協会や南三陸町の市役所に直接寄付をしました。静岡県ボランティア協会の神田均理事長は、人格者であることを知っており、事前に論文などを読み、また静岡県ボランティア協会の連続講座「ケアする人のケア」などを受講しており組織を知っていたからです。現在は、インターネットで直ぐに情報が取れますし、色々と調べられますから、是非とも調べて欲しいと思います。
 さて、元に戻ります。上記の例のように、「病気の完治を願う気持ちは医者も患者も同じ」は日本人の特徴であります。これは日本人が優れているからではなく、日本社会の特性に理由があります。

 -均一性と日本人の倫理 「病気の完治を願う気持ちは医者も患者も同じ」

 西欧は絶えずアジアやロシアからの異民族の流入が続きました。英国人である、アングロ人とサクソン人もポーランドの北部辺りに居たのですが、結局故郷を捨て、グレートブリテン島に逃げて定住しました。それ以後、バイキング等に襲われます。これが17世紀まで続きますから、千年以上の異民族の流入を受け入れた地域だったのです。さらに、深い山や川や海峡で小さな民族が生き残りました。つまり、西欧社会の常態は、多数の民族がいる、ことです。上流社会と下層社会が分裂してる点にも見出せます。そこでは、1つ1つの民族の文化が異なります。その文化を越えていくのは、「金、快楽」などの明確化された利用価値のある物、身体に共通する物、になるのです。ならざるを得ないのです。
 対して、日本は均一性の極めて高い社会でした。特に江戸時代は均一性を高める上で重要な期間となりました。ひな祭りや七五三などが典型例でしょう。そのように高い均一性を持つ社会では倫理を前提として、問題を解決していくことが可能になります。アメリカの病院には葬儀屋と弁護士がいると言いますが、それは医療過誤を受けた場合、金という文化を越えて利用価値のある物でしか、解決できないからでしょう。解決できなければ社会圧力によって封殺するしかありません。以上のことから、イ)は日本に特有と言いえるでしょう。もちろん、日本が均一性を失えば金での解決に向かうのは止められません。

 次に行きましょう。事実が出てきます。記事を読むときに事実に罫線を引っ張っていく、という読み方もありますから、覚えておいてください。「医療関係の訴訟は2011年に約760件」

さて、大きなポイントが来ました。現在のインフォームド・コンセントを考える上での運用上の実例です。

ウ) さらにインフォームド・コンセントを裁判所は求めている

 学生の皆さんが考えた先週の問を思い出してみて下さい。裁判所はさらにインフォームド・コンセントを求めています。

 本文に「患者側が納得していないことに気づかずに同意書を取っていた。…(中略)…判決は(手術の)ミスはなかったとする一方、術前の説明不足を指摘。結果責任を認定し損害金支払いを命じた。」

 患者が同意書を出していても、それでは十分ではない、ということです。現在の裁判所の判断では手術前にきちんと説明しなければ、いくら同意書を取っていても責任がお医者さん側に生じる、ということです。これは先週述べたインフォームド・コンセントよりもさらに進めた解釈です。これに対してお医者さんは対応しなければなりません。これらは本日説明する製造物責任法の厳格責任に近い考え方です。続く本文でお医者さんの解釈を見てみましょう。

 「訴訟になるケースは結局、技術だけではなく、対応や言葉遣いなど全てに問題があったということなのです。」

 裁判所の解釈批判や同意書があることを盾に取らずに(言い訳にせずに)、お医者さん側が反省し態度を改める、というのです。なんという高潔な態度でしょうか。高い倫理感が再発防止につながるのが目に浮かびます。さて、これを技術者倫理として見てみましょう。お医者さんは技術者でもあります。専門知識を有し診断や手術などを行います。養成機関は最低6年。現在の技術者の中で最も難しく長い養成機関です。さらに難関の国家資格を取得しています。それほど高い技術性を持ちながらも「対応や言葉遣いなど全てに問題があった」と考えるのですから、この考え方を全ての技術者に当てはめれば、

エ)技術者個人も社会的対応や言葉遣いを大切にしなければならない

ということになります。この講義の技術と社会背景との相関という大きなテーマにもつながってくる実例となりました。

最後は事実です。この病院では「10年以降、弁護士が介入した医療事故が約30件あったが、訴訟には至っていないという。」とあります。ここで2つの点が見えてきます。

オ)日本では医療事故が直ぐに訴訟にならず、医療費高騰に結び付きにくい

 アメリカでは病院に葬儀屋と弁護士がいるそうです。弁護士があふれているアメリカでは医療事故は高額の収入を得る格好の機会です。少しでも不審な点があれば弁護士がついてお金をふんだくる、ということが行われているそうです。日本では弁護士が少なく、また文化的な背景から丁寧な対応によって訴訟にならず医療費の高騰になっていない現状が判ります。これは社会コストの点からも考えられますが、長くなるので以上の指摘に留めます。

カ)医学の進歩を願う高い理想が患者と医者で共有されている

 先ほど引用した、「病気の完治を願う気持ちは医者も患者も同じ」の言葉からも見られるように再発防止を願う、あるいは誠実な対応を、対価としての金銭を求める気持ちよりも優先させる行動です。高い倫理観がこの実例では見られます。もちろん、そうではない現場があろうことは容易に想像できます。私は、最終的にこの病院だけではなく、社会制度として安定的に「医学の進歩を願う高い理想が患者と医者で共有されている」ことになることを希望します。そのためには、お医者さん側の研修等、患者側のサポート役などの充実が大切だと考えます。

 以上が、医者側からの記事②でした。
 
 続いて、患者側からの記事⑦に行きます。

 まず、「医療過誤原告の会」会長宮脇正和氏のインタビュー記事です。設立が、1991年ですから、これが前回述べた情報公開やがん告知の裏付けの事実になります。「1991年に設立され、これまでの入会者が約1300人に上る医療被害者団体「医療過誤原告の会」と宮脇さんを説明します。
 前回述べたように昭和天皇陛下が崩御される際に癌告知の問題が出ました。天皇陛下の行動によって日本ではがん告知が一般的になったと言われています。また、現在東京都知事の猪瀬氏は皇室の行動が日本人の行動原理を創ってきた、という本を何冊か出しています。昭和天皇が皇太子時代に軽井沢でテニスをすると休日は郊外で、働くのは都心で、というモデルが出来たそうです。面白いのでぜひ読んでみてください。さて、話は戻って、つまり、インフォームド・コンセントが日本に導入されてきて問題が顕在化してきたのが、まだ20年程度ということです。そしてこれは丁度、技術者倫理が社会的要請をされるようになって20年、というのと符合しているようです。日本人の精神性を考える時に、やはり、1990年前後が大きかったのではないか、と思わざるを得ません。
 世間一般では、バブル崩壊などが言われますが、私は、病院での死者、病院での誕生の割合が漸近になった点の方が大きいと考えています。

 次は、技術倫理として医者の②と共通しています。

キ)患者が求めているのは対価ではなく誠意と謝罪である

 「一番大切なのは事故が起きた後、医療側が正直に対応することだ。患者や遺族がまず考えるのは『本当の原因を知りたい』ということ。次に『責任があるなら、謝罪してほしい』と願う。〝正直文化″が医療の信頼性と安全性の向上の不可欠だ」と述べています。
 私は、この「正直文化」は日本で特に強いと考えます。なぜなら「正直に話し合えば分かり合える」という前提に立っているからです。しかし、そう考える方が少ないのではないでしょうか。例えば、交通事故の時、「あ!すいません、大丈夫ですか?」と日本人の感覚からすれば、言うでしょう。しかし、「すいません」と謝れば、示談の時の金額が減るから「謝らないでください」と聞いたことがあります。これは、西欧の法律の前提が害を与えたならば対価で払う、という思考になっているからです。日本人の精神性と合わない実例の1つだと思います。日本では足を踏んだ人も謝るけれど、足を踏まれた人も謝る、という精神があるのです。
 ですから、日本国内ではこのように「正直文化」で行くことは大切なことです。しかし、海外ではそうではない場合もあることを認識しておく必要があると思います。現在、日本国を取り巻く環境の中で、特に冷戦後、こうした動きが加速してきています。

 次は事実です。

ク)医療過誤は少なく見積もって年間4万件から8万件にも上る。

 医者の労働人口が6万人前後ですから、1人の医師で平均1回弱の医療過誤を起こしていることになります。これは先ほどの「2011年には760件の訴訟」と以下の記事文からの推計です。
 「実際に提訴できるのは当事者の1~2%にすぎないというのが実感だ。多くの事故は闇に葬られている。」
重要な指摘です。闇に葬られて出てこないデータの推計が出来ます。さらに大切なのは、次になります。


ケ)医療過誤の問題が発見されていないケースは何万件か判らない。

 記事②でも記事⑦でも問題になっているのは、医療過誤と「認識されたケース」です。しかし、医療過誤は指摘され発見されて初めて顕在化します。ミスを隠すケース、ミスと分からないケースなどを含めると、4~8万件の何倍、何十倍あるか分かりません。すると、1人のお医者さんの誤診率から逆算すると何十倍では済まないかもしれません。何百倍の中の誤診の内、人に被害を与えたケース、人を死亡させるケースが何分の一になるのか、ということになります。この視点は学問として大切だと思います。医者がミスを隠すことを非難しているのでもなく、また、この後お話しするマクドナルドの話のように患者側の無関心、無行動を非難するのでもありません。顕在化しないケースやリスクを指摘し、念頭に置くことで今後の「公衆の福利」に貢献できると考えるのです。さて、次に最も大切な点の1つが指摘されています。

コ) 失敗者個人に罪を負わせると再発防止にならない

 「事故の責任を個人に押しつけるのではなく、病院が組織として負うこと明確にすれば、対話の研修も生かされる。現場は安心して患者に説明できるし、再発防止にもつながる。関与した医師や看護師を辞めさせてしまっては、システムの改善にはつながらない」
とあります。技術者倫理の本質そのものです。何も付け加えることはありません。福島原発事故後、国民の何割かは東京電力社長を個人攻撃しました。同時に菅総理を攻撃しました。もちろん、誤った行動は起こしていたでしょうが、技術者倫理では個人攻撃では再発防止できない、と考えます。技術が判らない社長であっても、知ったかぶりをする総理であっても、きちっと対応できるシステムへと改善しなければならないのです。現在、日本の原子力政策に求められているのは、このシステム作りだと考えます。

サ) パターナリズムがインフォームド・コンセントに向かいだしたのは15年前から

 「医療界では長い間、『医者には文句を言うな』という文化が続いてきた。患者への情報提供も、この15年ほどでようやく進んだに過ぎない」とあります。「医療過誤の会」の方々を始め多くの良心を持った方々の活躍で日本の医療は素晴らしいものになってきました。最後に感謝の意を申し上げます。

 -3つの観点による倫理

 製造物責任法(通称、PL法)を述べる前提として、倫理を3つの視点で分けて整理します。後に、製造物責任法を見ていきます。

 それでは3つの観点を述べていきます。
倫理は洋の東西を問わず、殆どの地域社会、時代で見受けられます。どのような凄惨な状態になろうとも無くならない、むしろその輝きを増します。地域社会、時代などによって千差万別ですが、3つの観点で切り分けることができます。

行為者が行為をして結果を生む

 という当たり前の行動を3つの観点で切り分けると以下のようになります。

 「行為者」が「行為」をして「結果」を生む

と言う訳です。つまり、3つの倫理で代表例を後ろにつけます。

:①行為者の視点  から見た倫理 :アリストテレス、孔子、日本人
:②行為の視点   から見た倫理 :カントなど
:③結果の視点   から見た倫理 :デューイ(プラグマティズム)

 ①行為者の視点⇒行為者で判断し善悪
 徳倫理:アリストテレス:よい習慣をもつ人間がよい人格を持つ

 例えば、盗みばかりしている人は、その人の性質が悪くなる と考える。孔子の「習いこれ性となる」と似ていて、良い人間を作り出すのが大切と考える。
 現代日本では、犯罪を犯した人間の近所に行き、普段の生活をTVで放送する。

 「普段から挨拶をしてくれる良い人でしたよ」

という何気ない一言は徳倫理を表している。教え子へのセクハラや盗撮等でつかまるニュースが連日報道されているが、「熱血で明るい先生だったのにショックだ」という一言の裏にも徳倫理の考え方が見て取れる。

 長所:習慣を大切にすることで個人の道徳の完成という長い修練を積める。つまり、長期的な向上や忍耐がある。
 短所:人格の全否定や全肯定になりやすい。

 「はやぶさ」の川口さんを始め多くの人が「日本は再チャレンジ出来ない社会である」と言っている。その要因の1つは、人格の全否定や全肯定にある。1度犯罪を犯した人間は「悪いことをした⇒悪い人格である⇒全否定」となるからである。小泉首相などの活躍で日本では再就職や離職などが当たり前になってきたが、ほんの2,30年前は転職、再就職などは「育ててくれた会社を裏切る⇒悪い人間」という観念があった。現在よりも徳倫理が社会に浸透していたのである。

 植草一秀元早稲田大学大学院教授は、セクハラ癖があったようである。高木が徳倫理を感じたのは、警察に捕まった、という発表だけで、大学院教授を解雇になったことである。刑事罰が下る前、つまり、事実認定の降りる前に、セクハラで解雇になった。セクハラという1回の行動で判断するのではなく、人格で判断するのである。私は日本社会の空気、その根底にある徳倫理に恐怖を感じて、ゾッとした。良く日本は村社会だ、というけれども、見ら人から「あいつはちょっとダメだな」と思われているだけで、何も悪いことをしていないのに、職業や住む場所を奪う可能性があるのである。同時に、この社会要因が、「マイナス思考」を生む要因だとも考えている。自由な発言をすると「あいつはちょっとダメだな」や「空気よんでないやつだから、集まりに呼ぶのを止めよう」などとなる。これが進むと、「ああ、高木の言うことだから信用できないから止めておこう」ということになる。「あの人は信用できるよ。だから大丈夫」というのはこの裏返しで、両方とも「行為者(高木、あの人)」で判断しOK、NOを決めます。「東大だから大丈夫だよ」などと行為者の属性で判断する場合もある。何気ない行動の裏に徳倫理、あるのではないでしょうか。

 色々と書きましたが、「行為者の視点⇒行為者で判断し善悪」です。

②行為の視点:行動+意図で判断し善悪
 義務倫理:カント:自分の望むことが全員に当てはまることが善

 例えば、嘘をつきたいと望む時、嘘をつくのが全員に当てはまるならばOK、当てはまらないならNOということ。こうすると、「誰にも害を与えていないのだから、売春をしてもいいでしょ」などに合理的に反論できる。
 カントの原文は「汝の意志の格率(信条)が、つねに同時に普遍的立法の原理と見なされるように行為せよ」『実践理性批判』
 
 カントの原文の中に、「意志」と「行為」が出て来ます。徳倫理では1つ1つの行動では判断されませんでした。対して義務倫理では、1つ1つの行為で判断されます。すると、この人は良い行動もしているし、悪い行動もしている、と考えられるのです。倫理は善悪をはっきりさせる傾向があります。ユダヤ教を受け継いだキリスト教、特にローマカトリックは、善悪二元論で語ることを好みます。「テロリストは悪だ!」と。「アメリカは正義だ!」と。あるいは「原発は悪だ!」と。「地球温暖化は悪だ!」と。しかし、現実世界は2つで割り切れる程単純でしょうか? 悪いことしかしない人間がいるでしょうか? ですから、義務倫理は

 長所:1つ1つの行動について判断できるので、より現実に即している
 短所:全体の判断が分かりにくくなる。対応が遅れる
   :「意図」によって善悪の判断が変わることがある

 全体の判断が分かりにくくなる。対応が遅れる。というのは、福島原発事故でいうと、菅総理のあの対応はダメ、これは良かった、斑目委員長のこの対応はダメ、あれは良かった・・・となっていくと、じゃあ、原発をどうするのか?という方向性が出てこないことになります。原発は公衆の福利に反するのでしょうか?即しているのでしょうか? 義務倫理では分かりにくくなります。結局判断が遅れ、対応が遅れます。対して徳倫理は、全否定や全肯定の力強さがあり、次に進む力があります。力があることだけが素晴らしい訳ではありません。

 もう1点、「意図」によって善悪の判断が変わることがある。というのを具体的例でいきましょう。
 高木は6時50分か7時か7時10分の電車に乗って大学に向かいます。数人立つくらい込んでいます。この時、ご老人が乗って来た時、席を譲ろうと立ちあがりました。この行為は、社会的に善、とされています。また、真心で「お譲りしたい。座って頂きたい」と思った場合、「行為」と「意図」共に善であり、善となります。
 対して、例えば、
 
 「隣に座っている人が嫌なので離れたかったから、嫌な人をあの老人に押し付けたい」
 「好きな人があそこにいて、自分の得点を挙げたいから、席を譲ろう」

 という「意図」が邪(よこしま)な心や、悪い場合、この行為は、決して善になりません。しかし、同じ行動をして、ご老人が体が楽になることは変わらないのです。「結果」だけでなく「意図」を含めると、「本当にその行動は善なの?」という問いが突き付けられることになります。
 この点は、技術者倫理でもまさに問われました。

 浜岡原発のみ停止要請は、菅総理の支持率獲得のためだろう?

 という問いです。「浜岡原発のみ停止要請」=「行動」だけでなく、「菅総理の支持率獲得」=「意図」も含むと、同じ停止要請が、倫理的に善とはならず、むしろ悪の行動となるのです。この複雑さは、倫理全体にまとわりつく逃れられない欠点のようなものです。昔から

 「自分がされて嫌なことは他人にしてはいけません」

 と言われてきた義務倫理をカントが定式化したことで「行動」と「意図」の問題がはっきりと(高木は)認識できるのです。私はカントは専門家の講義を多少聞いたことがあり、多少本を読んだことがあるくらいで、きちっと理解しているとは言い難いので、正統な解釈ではないかもしれません。
 この「行動」と「意図」の問題は、法律の問題でも出て来ます。続きは後に譲ります。

 色々と書きましたが、「行為者の視点⇒行為者で判断し善悪」です。

③結果の視点:結果で判断し善悪
 帰結倫理:(沢山の人):行為の結果が善なら善、悪なら悪

 先ほどの電車の中で席を譲る例を帰結倫理で観ると、ご老人がにこやかに座って楽になる、となっているので、善となる。「意図」がどのようであるか関係なく、結果で判断する、ことになる。この例で悪は、ご老人を楽にさせようという「意図」や立ちあがるという「行動」があっても、譲る際にぶつかってしまい、老人を倒して怪我をさせてしまったら、悪、という判断を受ける。このようにあくまでも結果で判断する。結果を生み出すのは、「行動」なので、行為と結果を含めて「行動」とするならば、「行動」で判断し善悪、としても良い。ただし、「行動」には通常「意図」が無意識的に含まれる場合があるので、混同しやすく、「結果で判断し善悪」とした。

 長所:人の心という曖昧さが入らず、明確に判断できる。
 短所:誰にとって「善悪」か、が常に問題になる
   :結果判断は利益中心となり倫理の大切さが失われる

 誰にとっての「善悪」か、という問題が常につきまといます。何故なら「絶対的な善」や「絶対的な悪」が想定出来ないからです。先ほどの例で言うと、席を譲った人が気持ちよくなれば善? 周りの人から見て良ければ善? 老人から見て良ければ善? 全ての人から見て善なら善? という問題が出て来ます。これは20世紀になって文化人類学で問われてきた問いもであります。 
 それまで、西欧人は西欧の学問や思想や社会は進歩していて善である、と考えて来ました。これをローマ・カトリックが後押しして

 「未開の人々は人間ではない。地獄に行く存在だから、西欧化してあげるのだ。西欧化ししない人々は殺しても良い」
 
 というお墨付きを与えていました。この場合、西欧人が善悪を判断する基準だった訳です。しかし、20世紀は西欧が没落し始めました。現在、ギリシャが金融危機で破綻のギリギリのラインにいますが、この直接の引き金は、2007年のサブプライムローンでした。また、大東亜戦争後、アジア、アフリカ、東ヨーロッパの国々が独立を果たしました。それ以降、植民地を前提とした西欧社会が没落に向かっていったのです。現在でもイギリスやフランス、アメリカなど旧植民地よりも緩い関係で世界を支配していますが、ロシアも、徐々に崩れつつあります。実際に西欧人=善という考えは、20世紀に入り壊れて来ました。こうした時代背景があり、先のローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、

「未開の人々は人間ではない。地獄に行く存在だから、西欧化してあげるのだ。西欧化ししない人々は殺しても良い」

 について懺悔(ざんげ)しました。平成12年(2000年3月13日)毎日新聞
 同じミサで、ユダヤ人迫害肯定、十字軍でイスラム教への迫害を懺悔したのです。20世紀の最後に総決算をつけておくこと、ユダヤ人迫害や十字軍などは実に1000年近く経ってからのことです。この行動を行ったヨハネ・パウロ2世の知性に深く敬意を私は表します。

 このような現状で、文化人類学は、比較文化人類学へと移行しました。比較する理由は、絶対的な善がない、からです。比較社会学などが出てきたのも、こうした視点に基づいてです。こうした歴史的背景があるので、帰結倫理でも、同じく、絶対的な善がない、という点は問題になるのです。

 次に、「結果判断は利益中心となり倫理の大切さが失われる」に行きます。

 結果は、結果に過ぎません。ですから、必ず解釈が必要になります。あるいは、価値観が1つに限定されます。それゆえに、どこかの集団の解釈、どこかの集団の価値観に限定されることになります。どこかの集団の価値観を、なるばく多くの人々の集団の価値観にしようとすると、それは、人間全員が持っている機能快や共通の金銭ということになっていきます。

 機能快:目が見える機能が与えられて、それを使うことが快である。出産、思考、性交、飲食、交流等々も機能快と考えれられます。

 すると、「講義録4-1費用便益分析」で述べたような、金銭だけで判断する可能性が出て来てしまうのです。「公衆の福利」が金銭だけで判断しては問題が多い、と述べましたが、この帰結倫理の考え方をすると、出て来てしまいます。

 原発で、石油代が高騰して金銭的に損をするから、原発再開するのが「公衆の福利」に適う、という考え方です。

 これは極端な考え方です。しかし、この「公衆の福利」しかない、かのような報道の仕方がされているのは、倫理を帰結倫理、しかも、金銭だけに限っている点において、公平ではありません。例えば、原発が出来て建設が停止された浜岡原発横の石炭発電所は、工事の着工がされているのでしょうか? 石油代の高騰と言っていますが、日本はイランと特別に禁輸措置に配慮する、という風になっています。この価格は市場価格とは異なるはずです。さらに、日本には石油の備蓄は200日分あります。「独立行政法人 石油天然ガス・金属鉱物資源機構」

 http://www.jogmec.go.jp/jogmec_activities/stockpiling_oil/home_stockpiling/index.html

 メタンハイドレートについても情報を公開しています。是非ともどうぞ。
200日あれば、市場価格の上下は30%以上あるでしょう。最大何兆円の損で最小何兆円の損なのでしょう。あるいは得なのでしょうか。そしてその損は、電力会社を変革させる原動力になるのではないでしょうか。であるのにも関わらず、「石油代が高騰して 金銭的に損をするから、原発再開するのが「公衆の福利」に適う、という考え方をするのは、極端です。
 
 しかし、帰結倫理の欠点として、こうした主張に説得性を与えてしまうことがあります。

 以上が3つの倫理です。

 倫理は、宗教教派、文化、時代、社会構造等々から捉えられますが、技術者倫理ですので、「意図」の問題から捉えました。

 ー福島原発事故賠償を製造物責任法から考える

 平成25年6月2日現在、損害賠償については請求権を3年にしないこと、精神的な苦痛に対する損害賠償が支払われる(1人50万円)など、倫理に適うニュースが聞かれるようになりました。以下は昨年度の講義録そのままですが、現在でも価値があると考えますので、そのまま掲載いたします。講義では口頭で簡単に触れる程度でした。

重要なポイントを先に書いておきます。

 「福島原発事故賠償を製造物責任法から考える」と、

A) 食品廃棄、風評被害、観光被害等は後2年で損害賠償請求できなくなる(最長3年なので)

B) ガンや白血病などは発症してから請求出来る

C) ガンや白血病になった場合、「ガンと関係ありません」と証明するのは東京電力である

D) ただし、「今度一切の賠償を放棄する」という文章に署名捺印した人は、賠償や証明の必要がなくなる

E) 東京電力が全電源喪失の危険性を「認識していない」のならば、製造物責任法の免責事項に該当し、賠償責任が生じない可能性があります

 さて、それでは順々に行きます。

 製造物責任法、通称PL法です。

 PLは、「プロダクト・ライアビリティー(product:製造 liability:義務)」です。

 製造物責任法の特徴は、3つの倫理で、②行為で判断⇒③結果で判断、になった点にあります。

 つまり、結果(欠陥)で判断する、のが特徴なのです。一般の法律は②行為で判断します。


 詳しく述べていくために、配布プリント 2枚目:藤本温(代表) 『技術者倫理の世界 第2版』58~61Pを断続的に引用します。

 58Pにはフォード・ピント事件の別の解釈が書いてあります。「フォード社は人命と利益を天秤にかけて、利益を優先したという側面からこの事例を捉えない方がよいのではないか」、なぜなら、「衝突実験が当時新しい試みだった」や「実験をあまり考慮していなかった」などです。これは先ほど書いてきた「意図」の問題です。

 59Pには、全ての技術者がピントの危険性を信じていたわけではない、という主張もされています。これは「数」の問題です。

☆「意図」の問題だけや「数」の問題だけに「工学的安全」の問題を置き換えてはならない、と高木は考えます。

 これは工学的安全をすり替えて、事故対策へと結びつかない危険をはらんでいると考えます。視点を逆にして見ましょう。
 
 技術者が全員危険性を認識しなければ、事故対策を取らなくて良いのでしょうか?
 新しい実験なら実験結果を考えなくても良いのでしょうか?
 新しい実験の結果なら倫理責任を、法的責任を取らなくて良いのでしょうか?

 死者が出ていて、危険性を社会の中で指摘されていた、数少ない取締役が指摘をしていても。
 この結果は何が出てくるか、といえば経済性や、利便性や効率性です。それが事故対策を取らせなくします。本年度の講義の中で強く意識する点です。福島原発事故調査委員会の本を読んでいて、本年度の講義をしていて、強く感じています。

 さて、教科書には1971年のホンダ、1973年のトヨタの懲罰的賠償金(300万$、500万$)が書いてあります。もちろん、当時の技術の未熟さでつながりましたが、私はもう1つ別の視点も同時に持っています。記憶に新しいトヨタのブレーキ回路への訴えにアメリカ政府が介入しました。その結果、トヨタは自分で「故障の原因はありません」と証明しました。
 その後、訴えた人の不合理さが明らかになり、アメリカ政府は取り下げました。ちなみに、その時、日本国政府が強く抗議しなかったこと、アメリカ政府が謝罪しなかったこと、に強く憤りを持ちました。このような態度を繰り返していると日本車は不利な販売を、アメリカ国内のみならず世界中で強いられます。
 この点について、中原圭介氏は、「同じトヨタ車でもアメリカで作ったものは日本で作ったものとは違う」と述べています。興味深い視点です。また、日本国政府の国内の対応についても述べています。
 http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0306&f=business_0306_009.shtml

 もう1点、フォードピント事件前後に日本メーカーが標的にされたことです。80年代以降の日本バッシングもアメリカの衰退と日本の隆盛が根本的な原因の1つです。トヨタ叩(たた)き、あえて叩き、と言いますが、はアメリカの三大自動車メーカーの衰退があったからではないでしょうか。現在、中華人民共和国がアメリカでバッシングされています。その材料は、チベット、ウイグルの侵攻と併合、尖閣諸島や南沙諸島への侵攻と併合の危険性、法輪功という気功を行う集団の投獄、死体の臓器販売、ノーベル賞受賞者などへの人権侵害等々です。もちろん、こうした行為は、民主主義から見ると大いに危険であり、許されない行為となります。
 しかし、少し離れてみると、アメリカは必ず潜在的な敵国を想定して、挑発行為を繰り返してきた国であること、が見えて来ます。当初はイギリス、スペイン、フランス等々へ変わり、日本、ロシアなどへ変わりました。現在は中華人民共和国です。全てアメリカの考え方が正しい、とするのは、中国が全て危険である、とするのと同質に危険です。
 高木の記憶が定かではありませんが、過去の新聞で、「トヨタはバッシングを受けないように、アメリカで儲けすぎないように販売台数を自習制限している」という記事を見たことがあります。アメリカの危険性を日本人が見抜いている、という証左でしょう。この智慧を原発、日本全体のエネルギー政策にも生かして欲しいものです。


 製造物責任法は、平成6年7月1日に公布され平成7年(1995年)7月1日から施行されました(法律第85号)。

 全文は全6条からなり、1300字弱と短い法律です。

 全文:http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H06/H06HO085.html

●(目的)
第一条  この法律は、製造物の欠陥により人の生命、身体又は財産に係る被害が生じた場合における製造業者等の損害賠償の責任について定めることにより、被害者の保護を図り、もって国民生活の安定向上と国民経済の健全な発展に寄与することを目的とする。

 ポイントは後半部分、「国民生活の安定向上と国民経済の健全な発展に寄与することを目的とする」です。これまでの言葉で言いかえると「公衆の福利」です。製造物の目的が「公衆の福利」にある、という技術者倫理の根本が、これまでのそれぞれの学会の倫理規則や倫理憲章だけでなく、法律に書いてある、という点です。

●(定義)
第二条  この法律において「製造物」とは、製造又は加工された動産をいう。

 「動産」とは、法律用語です。大辞泉には

 「土地およびその定着物をいう不動産以外の物。現金・商品・家財などのように形を変えずに移転できる財産。無記名債権は動産とみなされ、船舶は不動産に準じた扱いを受ける」

 とあります。教科書には「コンピュータのソフトは入らない」とあり、別の本には「電気も入らない」とあります。講義では「ガスも動産に入らない」と述べたと思いますが、訂正します。「ガスは動産」でした。
 消費者庁 製造物責任(PL)法について
 http://www.consumer.go.jp/kankeihourei/seizoubutsu/pl-j.html

 上記では「不動産,未加工農林畜水産物,電気,ソフトウェア」が対象外となっています。ですので、停電等の電気そのものへの製造物責任法の適用は出来ません。現在の福島原発事故賠償は、原子力関係の法律に基づいています。と同時に、原子力発電所そのものは電気ではありませんので、製造物責任法の対象となりうる、と高木は考える訳です。原子力関係の法律については今後検討する予定です。

●第二条  
2  この法律において「欠陥」とは、当該製造物の特性、その通常予見される使用形態、その製造業者等が当該製造物を引き渡した時期その他の当該製造物に係る事情を考慮して、当該製造物が通常有すべき安全性を欠いていることをいう
 
 でポイントは、「予見される使用形態」と「安全性を欠いている」です。「予見される使用形態」は、これまで述べてきた「予見可能」の法律的な根拠です。「安全性を欠いている」は「欠陥」を指しています。3条に続きます。

●第三条  
製造業者等は、その製造、加工、輸入又は前条第三項第二号若しくは第三号の氏名等の表示をした製造物であって、その引き渡したものの欠陥により他人の生命、身体又は財産を侵害したときは、これによって生じた損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が当該製造物についてのみ生じたときは、この限りでない。

 ポイントは、「欠陥」です。欠陥、とは結果の判断です。ここがこれまでの法律とは異なる大きく点です。「欠陥」という結果だけで判断するのを厳格責任、と言います。ただし、「欠陥」の免責事項あり、これが争点となります。

●第四条  前条の場合において、製造業者等は、次の各号に掲げる事項を証明したときは、同条に規定する賠償の責めに任じない。
一  当該製造物をその製造業者等が引き渡した時における科学又は技術に関する知見によっては、当該製造物にその欠陥があることを認識することができなかったこと。
二  当該製造物が他の製造物の部品又は原材料として使用された場合において、その欠陥が専ら当該他の製造物の製造業者が行った設計に関する指示に従ったことにより生じ、かつ、その欠陥が生じたことにつき過失がないこと。

 ポイントは「欠陥があることを認識することができなかったこと」と、部品や原材料を使った場合「欠陥が生じたことにつき過失がないこと」です。
 この「認識することが出来なかったこと」によって、先ほど述べた「意図」の問題と「数」の問題がこっそりと入り込んでくるのです。この点を強調すれば、厳格責任は一般の法律のように解釈が出来るようになるのではないでしょうか。つまり、

 「過失事故が起こっても、「認識できませんでした」と言えば、責任が免責される」

となるのです。福島原発事故で、この製造物責任法の免責事項から考えることは非常に大切だと考えます。そしてもし、「認識でいていた」とするのならば、昨年講義で行った荒茶等々を含め、放射能汚染によって風評被害、販売被害を受けた全ての農作物、観光被害や除染費用などを東京電力が払わなければならなくなります。現在、日本国政府から数兆円の資金が注入されますが、10兆円を超えることになるかもしれません。現実的な可能性があるかないか、は別においておいて、

☆ 東京電力が全電源喪失の危険性を「認識していた」のならば、製造物責任法の免責事項に該当せず、賠償責任が生じる

 と高木は考えます。

 さらに、

●(期間の制限)
第五条  第三条に規定する損害賠償の請求権は、被害者又はその法定代理人が損害及び賠償義務者を知った時から三年間行わないときは、時効によって消滅する。その製造業者等が当該製造物を引き渡した時から十年を経過したときも、同様とする。

 ポイントは「3年」です。福島原発事故が起こって1年が過ぎました。後2年が過ぎれば、損害賠償の請求権は消滅します。大きなポイントだと思います。さらに、

●第五条
2  前項後段の期間は、身体に蓄積した場合に人の健康を害することとなる物質による損害又は一定の潜伏期間が経過した後に症状が現れる損害については、その損害が生じた時から起算する。

 ポイントは「身体の損害は生じた時から」です。福島原発事故でガンや白血病になった時、20年、30年が過ぎていてもその時に請求できる、ということです。この製造物責任法では、

☆東京電力が「あなたのガンと福島原発事故で出た放射性物質の関係はありません」と証明しなければ、賠償をしなければならない、

 のです。ですから、これは非常に大きなポイントになります。もちろん、高木の法律を読んだ上での考えです。もし、この解釈が成り立つならば、裁判で裁判官が採用するならば、法律の文章には多様な解釈があり、その中から裁判官が1つの解釈を採用する、先ほどの食品汚染、観光被害など以上に大きな賠償額を負担しなければならなくなります。ですから、これは推測ですが、現在行われている東京電力による賠償の文章の中に、

 「今後一切の賠償請求を放棄する」

との一文があるのではないでしょうか。これを入れておくと、数十年後にガンや白血病などになった場合でも、請求出来ないことになります。私は、賠償のことに関心が薄いので詳しく分かりません。ただ、製造物責任法を、文面のまま(高木の考えで)読んでいくと、数十兆円になるかもしれない、というのが推測されます。

 -厳格責任と過失責任 製造物責任法の特徴

 今回は、製造物責任法の特徴である「厳格責任と過失主義」について述べていきます。
 特徴は2つ、A)結果で判断、B)立証責任は被告、です。


 A)結果で判断

                    
 「製造物責任法」 は 厳格責任:「結果が悪ければ責任あり」  ③結果の視点(講義録6-1)

    VS 

 「一般の法律」  は 過失主義:「意図が悪ければ責任あり」  ②行為の視点(講義録6-1)

 という特徴です。
 講義録6-1で、「意図の問題」で倫理を分けてきました。一般の法律は、「意図の問題」がある、製造物責任法は「意図の問題」が無い(考慮されない)ということです。

 一般の法律の基本は「疑わしきは罰せず」です。
犯罪行為がきちんと物的証拠などで証明(立証と言います)されなければ、罰しません、という意味です。これは民主主義の根幹を支える考え方です。つまり、「お前は国家に反逆した疑いがある!」として逮捕し監禁することが許されないからです。しかし、独裁国家では「疑い!」だけで逮捕監禁、死刑まで平気で行われます。私たちが犯罪行為を犯さないなら言論の自由や権利が保障されるのは、この「疑わしきは罰せず」があるからなのです。しかし、厳格責任ではそうではありません。
 少し身近な例を挙げましょう。
私が高校生の時、PSPやニンテンドー(3)DSのはしりがありました。それは電卓でカードを差し込むとゲームが出来たのです。音も出ない、今から見ればちゃちいものでしたが、クラスではやりました。私も欲しかったので「いいな~」と言ったら、友人が「じゃあ5000円で売ってあげるよ」と言ったのです。ゲームも入れて定価は2万5千円だったと記憶しています。私はマージャンゲームを買い、高校2年生の時に、授業中、ずーっとゲームをしていました。5段階評価で全ての科目で平均1.0くらい下がりました。平均4.2だったのに3.2に下がったのです。そのくらい、熱中してやりました。その後、友人が「あるお店で出入り禁止を食らった」と言ったので驚き余した。万引きが度々見つかったそうです。
 さて、このケース、私は盗品である電卓を持っている訳ですから、厳格責任「結果が悪ければ責任あり」とすれば、私は罪人になります。しかし、一般の法律は、過失主義「意図が悪ければ責任あり」ですから、私は無罪です。この問題は「故買(こばい)」と言われます。私が刑事罰を受けるのは「故意=盗品との認識があった場合のみ」なのです。そして「疑わしきは罰せず」ですから、「認識があったかなかったか分からない場合=疑わしい場合」は無罪になります。
 もう1つさらに分かりやすく行きましょう(多少講義と変えてあります)。皆さんはこれから結婚を考えている人が多いでしょう。その際、恋人と交渉を持つでしょう、もちろん肉体的な交渉もです。結婚前に肉体交渉を持つ人の方が多いと言われていますが、肉体交渉の後に「実は私・・・結婚しているの・・・」というケースも出てくるかもしれません。その際に、事前に知っていればもちろん罪になります。しかし、「事前に知っている」というのを証明しなければならないのは、肉体交渉相手の結婚相手(例えば私が不倫行為をした時は、その女性の夫)が、私が認識していた、と裁判で立証しなければなりません。これは中々難しいですが、実際は携帯メールなどの通信履歴で一発です。裁判所が要求すれば、各会社は直ぐに提出するでしょう。皆さんもくれぐれも気をつけて下さい。

 さて、私たちの社会は、「罪を犯す意思があった」ら厳罰です。同じ結果でも、「罪を犯す意図がなかったら」罪が軽くなります。
 可笑しいと思いますか? 思わないでしょうか?

 群馬県藤岡市の関越自動車道で7人が死亡、39人が重軽傷を負った高速ツアーバス事故を起こした運転手は、「殺人を犯す意図がなかった」として、業務上「過失」致死傷罪が適用されます。(共同通信5月1日)

 これは刑法211条ですが、第2項に、自動車運転「過失」致死傷罪があります。法律は大切ですが、いずれの場合も「罪を犯す意図がなかった」場合、

 業務過失致死罪 :5年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金に処する。

 自動車運転過失致死傷罪 :年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金に処する。

 これに対して、「罪を犯す意図がある場合」、「罪を犯す意図があった」と判断されると、刑法199条から203条で
  
 殺人罪 : 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。
 
出典:http://www.houko.com/00/01/M40/045.HTM
 
 となります。大きく問われるのは、「意図の問題」なのです。

 しかし、製造物責任法は、「意図の問題」という心理要素を取り除きました。殺人罪でも「情状酌量」や「心神喪失」などの心理要素で、罪が軽くなることが実際にあるのですが、「人を殺せば、自動的に5年以上(例えば)」となるのです。

 かなり厳しい法律です。そうなった理由をB)立証責任は被告、と共に述べていきます。

 どうしてこんなに製造物責任法は厳しいのでしょうか。それは製造物の変化とこれまでの歴史的反省が込められいるのです。製造物の変化とは、複雑化です。現在製造されている自動車は、一般人がエンジンをいじれなくなっています。それはICチップが入り、そのICチップを動かすプログラミングがあるからです。ポットや電気炊飯器、洗濯機も同じくICチップが入っていますから、一般の人は修理できません。私が子供の頃の電化製品は単純でしたから、ちょっとした人なら修理できたものです。自動車も同じで修理するのが趣味のような人がいました。しかし、今はエンジンは直せず、タイヤを変えたり表面を変えたりがせいぜいです。これは製造物が複雑化してきたことを意味しています。
 すると、裁判になった場合を考えてみましょう。例えば自動車の根本的な不備が原因で事故が起こった場合です。立証責任が原告(住民や消費者)にあると、自動車のICチップの構造やプログラミングが何かという知識が必要になります。すると、裁判に訴えることが事実上不可能になります。ここから消費者保護の動きが出てきました。
 次にこれまでの歴史的反省に触れましょう。これは世界各国に実例があります。日本ではカネミ油事件(1968年⇒2004年認定基準の見直し)や水俣病(1956年⇒2010年救済措置の方針を閣議決定)があります。これらのケースでは、立証責任が原告(住民)にあり、科学的知識や検査データなどを被告(企業)が持っていることから、長期化しています。このようなケースが度々起こると国民が安心して製造物を購入し使用できないという歴史的反省が出てきました。製造物は技術者がほぼ検査データや科学的知識を持っているのですから、立証責任を被告(企業)に負わせよう、という訳です。

 2007年に「トヨタ車のアクセルペダルの効きが悪い」という苦情が寄せられ、その後大規模リコールが起きました。米国運輸省 、2010年1月のリコールについて、「エンジンの電子スロットル制御システムが原因の可能性がある」と声明を発表しました。この場合、「安全性に問題はない」という検査データをトヨタは提出し、立証責任を果たしました。もし、このケースで立証責任を果たさなければ、トヨタは訴えられた賠償金を全て払わなければならなくなかったのです。最終的には米国運輸省は「原因はトヨタにありませんでした」と発表しました(私は日本政府が抗議すべきだと思いますが)。

 話を元に戻しますと、B)立証責任は被告、となった理由は、製造物の複雑化、製造物が社会を根底的に支えているから、なのです。

 東日本大震災の復興とは、心の復興を指すのは言うまでもありません。日常の復興です。

 しかし、その日常に、電気、ガス、水道、道路、自動車などの製造物と生み出されたものが必要なのです。約100年前の復興には、こうした製造物は必要とされていませんでした。

 複雑化し、公衆が製造物の過失を立証責任するのは、不可能の近くなっています。ですから、欠陥がないという立証責任を被告=製造メーカーが負うことになるのです。
 
 今回の福島原発事故の場合、どのようになるのでしょうか?

 電気は動産ではありません。しかし、原子炉そのものは製造物です。その製造物が結果として放射性物質を排出して土地の汚染、水質汚染、食品汚染を起こしました。製造物責任法によると、東京電力のみならず、製造メーカーである、ゼネラル・エレクトリック(GE:エジソン研究室から生まれた企業です)や原発を製造している日本メーカー3社、あるいは修理担当のメーカーが負うと考えられます(ただし、法律の専門家ではないので、判例等までは調べていません)。

 また、あまり報道されませんが、広島の原子爆弾を作成したのもGE(ジェネラル・エレクトリック)ですし、福島原発1号機、2号機を作ったのもGEです。ちなみに、3号機は東芝、4号機は日立です。

 東京電力だけが叩かれていますが、製造物責任法の●第三条  

製造業者等は、その製造、加工、輸入又は前条第三項第二号若しくは第三号の氏名等の表示をした製造物であって、その引き渡したものの欠陥により他人の生命、身体又は財産を侵害したときは、これによって生じた損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が当該製造物についてのみ生じたときは、この限りでない。

 とあるので、GEの責任や東芝、日立の責任も追及可能だと考えます。

 ただし、●第四条

 前条の場合において、製造業者等は、次の各号に掲げる事項を証明したときは、同条に規定する賠償の責めに任じない。
一  当該製造物をその製造業者等が引き渡した時における科学又は技術に関する知見によっては、当該製造物にその欠陥があることを認識することができなかったこと。
二  当該製造物が他の製造物の部品又は原材料として使用された場合において、その欠陥が専ら当該他の製造物の製造業者が行った設計に関する指示に従ったことにより生じ、かつ、その欠陥が生じたことにつき過失がないこと。

 とあります。

 福島原発事故の賠償は、日本政府や東京電力だけに任されている(と感じます)様ですが、製造物責任法から見ると、他の視点も現れてきます。

 以上で終わります。
 

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