エッセイ「【随筆】私の将来の夢」

 
 「将来、サッカー選手と、野球選手と、バスケットの選手になる」

 と四歳の息子が言っていた。

 「そうか、そうか、じゃあ、ご飯をいっぱい食べて大きくなろうな」

 と親らしい返事をした。
 親らしい返事と共に、私個人としての返信も出てきた。私個人の返信とは、私自身への返信である。それは、「私はこのままで良いのか?」という問いから、「そういえば、私はどうしてこの道に来たんだっけ?」という思い出につながる。
 物心ついてから、どのような夢を追いかけてきたか書いていきたい。

幼年時代
 物心がついたのが、何歳であったか。最初の記憶は父の右腕に乗り、満月を眺めている風景である。多分、一歳半。「健治郎は、月を見ると泣きやむからなぁ」という父のため息交じりの声を覚えている。記憶がはっきりしすぎているので、二歳か三歳かもしれない。年少の四歳には物心がついていて「あと二年も保育園に通わないといけないのか」とため息をこぼした。
 木造モルタル二階建ての安アパートの一階、横並び五部屋ある内の真ん中の部屋。裏は小学校の体育館がぎりぎりまで迫っていた。風通しは悪く日当たりも悪い。私は汗疹(あせも)が全身をめぐっていた。痒(かゆ)くて血が出ることもあったという。六畳の部屋に家族四人、赤子二人。貧乏な時代の貧乏な家庭であった。父は小さな会社が倒産し無職、母は私が零歳から大学に入学していた。零歳から保育園に入っていた私は、おやつが嬉しかった。ひっこみ思案で周りの子供と話すのが苦手な私は、ブロックにのめり込んでいった。独り遊びが好きだった。ブロックでアニメ宇宙戦艦ヤマトを作って、珍しく父に誉められたのを覚えている。宇宙戦艦ヤマトは父が四歳、五歳の時に初めて映画に連れて行ってくれた。
 そういえば、「え? 父親って子供を遊びに連れて行ってくれるものなのか?」と驚いていた。しかも、三矢サイダーをちょっと分けてくれた。父が「これが好きなんだ」と笑顔になった。父の最初の笑顔の記憶である。お小遣いでは殆ど買えなかったが、好きになった。いつも父は苦しい顔か怒っている顔ばかりだった。
 その頃から世界に目が向くようになって、ブロックも少しずつ飽きてきた。思いつく組み合わせは無くなっていた。品川の青物横丁に住む叔父に将棋を教えてもらい、すぐにはまり込んだ。なんとか本を読んでいた。文字や漢字がわからなくても「5四銀」という表示が分かり、棋譜(きふ:将棋の指す順番が書いてある)が読めたのである。独りでできる手軽さがあった。保育園の卒業文集に「将来の夢」として「将棋の先生」を書いた。

小学校時代
 小学校はどうだっただろうか、思い返しても将棋の先生ほど強い思い入れのある夢はなかった。また、将棋の先生の夢も弱まっていった。東京都杉並区というコンクリートジャングルから、新興住宅地まっさかりの神奈川県茅ケ崎市に移住した。緑があり、近くに小出川(こいでがわ)が流れ、冬には白鷺(しらさぎ)や鴨(かも)がくる。近くに鶴嶺(つるみね)神社があり、参道の六つの池でザリガニ釣りなども出来た。友達も何とか出来、外で遊ぶのに夢中だった。小学校三年からサッカークラブに一年だけ、小学校五年から野球クラブに入った。将来の夢は漠然としてだが、「サッカー選手、野球選手」になった。息子より5年遅い。

中学校時代
 私が入っていた野球クラブは弱小で、市内で一番弱かったと思う。他のチームの二軍や三軍に時々勝つ程度だった。負けは当たり前。初めて勝った時は嬉しかったが、相手が三軍で複雑でもあった。同じ団地内のチームで和気藹々(わきあいあい)と仲が良いチームだった。六年生は六人、五年生一人、四年生三人だった。三年生以下も何人かいる。誰か一人が欠席すると三年生が出ることになる。私はチームが弱い理由を、メンバー構成にあって「誰か六年生が入ってくれないかな、そうしたら強くなるのに」と思っていた。しかし、それが大きな勘違いだった、と気づくのは中学生になってからだった。
 中学校で野球部に入り、私自身の肩の弱さ、筋力のなさ、足の遅さを思い知らされた。五十メートル走は十秒を切れない。一キロ走をすると殆どビリ。懸垂零回、腕立ても一回か二回だった。そういえば、小学校の時、セカンドまで直接ボールが届かなかった。届いてもコントロール出来なかった。一番キャッチャーだったので自分の能力の低さを自覚していなかった。中学校の野球部でバッティング練習をすると外野を超える飛球を同じ中学一年生が飛ばしている。私は内野の頭を越えるのが精一杯で、「すごい」と思っていた。情けなくなった。私は辞めようかと思った。このまま野球部にいてもレギュラーになれない。全くなれない。キャッチャーは一年生の三番手にも入れなかった。肩が弱くても投げる距離の短く、頭を使うセカンドへ転向しても三、四番手だった。ちなみにセカンド志望は四人しかいない。
 将来の夢は漠然としていたけれど「野球選手」は不可能であることが分かった。この一つの中学でレギュラーさえ取れない。茅ケ崎市では、神奈川県では、日本では・・・。絶望しかなかった。
 しかし、私は退部しなかった。親には絶望も現状も伝えることはなかった。顧問の先生に退部を言うのが面倒くさいというのもなくはなかった。坊主頭で銀縁の眼鏡の中年の熱血教師だったからだ。私が何とか探し出した理由は、

 「このまま運動を放棄して体を鍛えなければ人生の中で鍛える時期はなくなる」

 だった。野球部の長距離走は毎回ビリだった。「また、高木がビリか」と先輩に言われた。空気椅子といって壁に背を付け、足を膝で直角に曲げて踵(かかと)を上げる練習では、最初二、三秒だった。ねっ転がり、足をくっつけて少しだけ地面から上げる腹筋練習も二、三秒だった。一番早く足を下ろした。長い人は三十秒を超えた。それでも続けた。その内に、時々ビリでなくなり、それぞれの秒数が増えていった。一年生部員全員の秒数が増えたが、私は他人を比較するのを止め、自分ができるかどうか、だけを考えた。「将来の夢を野球選手」にするならば、他人と比較して、大勢から抜きに出なければならない。しかし、私は自分の体を鍛えることにした。だから、秒数が増えることだけを考えた。野球部にいる息苦しさもなくなり、なんとか苦でなくなった。
 ただ、気のゆるみも出てきた。バッティング練習の時に飛んできたボールを適当に取ろうとしてエラーをしたことがあった。「どうせ私はレギュラーに関係ないし、誰も見ていなだろう」と思っていたが、部活終了後の先生の話で、

 「いい加減な守備をしてはいけない。きちんとした気持ちで練習しなければならない。」

 と諭(さと)された。私の名前を挙げてである。私は恥ずかしいと共に出来の悪い私の名前を覚えていることに驚き、少しだけ嬉しかった。見ていてくれる人がいてくれる、という嬉しさである。心を入れ替えた。気の緩む前は、同級生と数回友人の家に行き、酒を口で嘗(な)め、煙草をふかしてみたこともあった。一切止めた。自分の能力の向上だけでなく、「きちんと練習に向かい合うこと」を教えてもらった。
 二年生の夏、父が無職から職を得て静岡に引っ越した。野球部を辞めることになり、先生へご挨拶に行った時、心から感謝して「ありがとう御座いました。」と言った。先生は「真面目ですから、どこでもやっていけると思います。頑張ってください」と仰った。今でもその廊下の場面や立ち位置、先生の顔を覚えている。名前は失念してしまったけれども。
 転校した先でも、迷いに迷って野球部に入った。同学年の部員二十名を超える。半分はベンチ入りが出来ない強い中学校だった。レギュラーを取れなくても、体を鍛え真面目に練習したいと考えた。大声を出すようになった。そうすると三塁コーチャーに選ばれベンチ入りできた。相手チームのサインも分析できるようになり、勝利に貢献できることがあった。セカンドでは四人中三番手だった。

高校時代
 野球を続けるか、はたまた別の部活に入るか、は迷いに迷った。私が入った静岡東高校の野球部は弱小で一学年で九人いるかいないか程度で、甲子園出場経験なし。実際一回戦で負けている。「体を鍛え真面目に練習する」だけでは野球部に入るのに躊躇(ちゅうちょ)した。やはり将来の夢、将来の道を考えるのが高校時代であると自覚していたからである。私には二つの選択肢が与えられていた。一つは美術部、もう一つはハンドボール部である。
 美術部という選択肢は芸術系の仕事に就きたい、という漠然とした思いからだった。また自負もあった。中学時代に適当に描いた絵が、二年連続で茅ヶ崎市のコンクールで認められ市民文化会館に掲示されたのである。母も油絵が好きでちょくちょく描いていたそうである。ブロックのように緻密でありながら想像力を描き出すことは大好きであった。実際美術の時間は好きであり、周りに褒められることもあった。末の妹がアニメーターになっているが、こういう思いからも嬉しい。
 美術を極めるには高校生では遅いくらいで、その意味で「将来の夢」を芸術系にするなら美術部に入らないと取り返しがつかないという焦りがあった。
 
ハンドボール部
 他方、「高校時代は肉体の発育が最も良い時期である」から体を鍛え真面目に練習することは一生の財産になるとも考えていた。運動部である。静岡東高校の運動部を見渡してみると、高校から始めてインター杯に出られそうな部活は、ハンドボール部しかなかった。陸上部やバスケットボール部がインター杯に近かったが、素人が入って三年でどうにかなるとは思えなかった。であるから、ハンドボール部である。そして「ハンドボール部」に入るということは、将来の夢を一時置いておく、という意味でもある。どんな夢でも体の健康は必要になる。「将来の夢」を決めるまで体を鍛え真面目に練習することがきっと役に立つ。
 これに連なる一つの事実がある。中学校三年生のスポーツテストで二級を取ったのである。これはクラスの男子二十数名の内で二人だけだった。五十メートル走は六秒八、懸垂十五回、千五百メートル走五分三十秒になっていた。一生懸命練習したことで筋肉痛に嬉しさを感じるようになっていた。
 高校時代の将来の夢は、そういう訳で一時置いて置き、高校二年に進級する時に理系を選択した。理系の頂点はノーベル賞であり、ノーベル賞の話を聞くとわくわくした。これも漫然(まんぜん)と「ノーベル賞が取れればいいなぁ」と考えていった。しいて言えば科学者、自然科学者に「将来の夢」が移った。

大学時代
 大学ではハンドボールではなくバスケット部に入った。私が頑張って何とか入った大学は東京大学、京都大学に及ばない理系の大学であり、ある先生は、なかなか最先端の研究が出来ないと嘆いていた。研究費獲得も難しいと風の噂で聞いていた。ノーベル賞級の研究をするのは難しいのだ、というのがうっすらと大学二年生の終わりには判ってくる。
 その頃、私は遊びに入っていた。「将来の夢」をどこかに置いたままにして、日本全都道府県制覇と年間本百冊読破と、コンパとバスケットとゲームに時を費やしていた。大学三年生になり、将来の夢、というより進路に悩むようになる。このまま卒業して企業に入るのか、という進路である。当時はバブル崩壊しても実体経済に影響が出ない時期で、就職先は一流企業やほぼ一流企業が望めた。しかし、私にはどうにも心わくわくしなかった。色々あり「将来の夢」と進路を合わせて考えてみて次の道が見えてきた。
 一、 企業家:東南アジアで漫画喫茶をする
 二、 政治家:北朝鮮拉致問題解決など国益
       を
 三、 旅行家:世界中を放浪
 四、 先生:中学高校の先生
 五、 無職:自分の興味あることをやる

 企業家は他に意識の高い仲間が一人しかいなかったのでやめた。考えてみれば自己資金が少なすぎて十年程度は起業で働かなくてはならない。同時に世界を飛び回り、人を説得するのに向いていないことに気がついた。私はブロックのように一人でちまちまと考えるのが好きである。芸術家気質もあり、感情の振れが大きく好き嫌いがはっきりしすぎている。人を目の前で罵倒することはなかったが、どうも他人に正義を求めてしまうことがあった。政治家も同じ理由で断念した。私は肉体の体質が強くない。直ぐに熱を出して風邪をひく。千五百メートル走は速くなり、バスケットの試合で四十分走りっぱなしでも、どうも直ぐに風邪を引く。これでは企業家や政治家は難しい。お酒も弱いし、煙草も飲まない。私より政治家に向いている人がいると考えた。
 旅行家は魅力的だった。将来は乞食(こじき)になるだろうけれども、それでも世界を旅するのは楽しそうだった。かみさんと最初のデートの時、世界中を旅行している話をしてくれた。心から楽しく、将来、一緒に旅行に行けたらいいな、と思った。
 新宿での飲み会の帰りに、ふと目に入ってきた。乞食が道路脇で寝ようとしている。最終電車に乗り込もうと歩道を歩いていると、その横でゴソゴソと段ボールに潜り込んでいた。早歩きで横を通りすぎながら、後何年後かには此処で私が寝ているかもしれない、と思っていた。今までは視界に入っても嫌悪しかなく頭に入っていなかったのだった。
 その後、進路先を周りに相談した時に両親などから、中学高校の先生を勧められた。大学の教職関係の講義は全く面白くなく、無駄だと感じたが、教育実習はこの上なく充実していた。ちなみに大学の教職の講義が無駄だと感じた理由は、外国の、特にアメリカの教育学者の話ばかりするからである。日本の伝統的な教育法を教えない。道徳を一切教えない。だから、偏差値教育になってしまう。偏差値教育の害悪は教育関係でなくても知っていたのに、その対策が全くなされていなかったのである。教育は相手の、学生の魂を震えさせるものではなければならない。しかし、その魂が全くないのだ。偏差値教育になる訳である。判っていてその世界に入るのに戸惑った。
 結局、私は自分の興味があること、を選択した。職業は何でもよかった。その点の拘りは捨てた。文系の大学院に進学するということは、将来の道は閉ざされている道に進む、ということである。旧帝大が多くの教授職を占め、人事権等を握っている。私の時代には大学院卒よりも大卒、高卒の方が「つぶしがきく」といって好まれていた。哲学など旧帝大でない限り、定職に就くことはほぼ絶望的と言われていた。それでも、と選択した。
 というのも中学高校の教育実習をしてみてはっきりと体験したからである。中学高校の先生は「コーチ」ということである。自分で楽しむ「プレイヤー」ではない。芸術家になりたい、という自意識の強さが私の中にあったからだろうか、美術の解説者になるのではなく、下手でも良いから絵を描く人でありたかった。
 私は世間的な栄達や金銭などよりも自分の興味を取った。職業もどの道でも良いと切り捨てた。もちろん、不惑(四十歳)を過ぎても、時々未練が心を揺さぶってくる。ただ、本道に舞い戻る。興味があることを沢山やるという「将来の夢」を選んだ道である。二十歳を少し過ぎていた。私の道雪(みちゆき)という筆名(ひつめい:ペンネーム)の理由の一つが、雪の降るような険しい道でもトボトボと歩いていく、という二十歳の時の決意を示している。
 その後、大学院に行くか悩んだ。自分で勉強すれば良いからである。論文の書き方は自分では難しいと納得して、殆ど準備なく旧帝大から無名の私立まで受け、引っかかった大学院に入った。父の口ききで大学の仕事をもらい、現在に至っている。
 「将棋の先生」から始まり「サッカー選手、野球選手」と息子と同じ夢を持ち、昨日日本人が三人受章したノーベル賞へと移って行った。その後、「将来の夢」は広がっていった。「自分の興味を突き詰める」という抽象的な内容に変った。ただ、ブロックが好きで、ちまちまと自分の世界にこもるという性格は変わっていない。もう一つ、「将来の夢」に大きな影響を与えたのは、体質の弱さである。
 興味があることをやる、と決めて文系の大学院に進学して慣れてきた二十五歳過ぎから、詩を書きだした。興味があることを突き詰めるためである。もう十年以上、月に二本以上書いている。私が死んだ後、何かが残るとすればこの詩以外にはないだろう。
 ブロックを作り続けたように、詩を書き続けることが、「将来の夢」である。
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