エッセイ「【學問】五十沢二郎氏の八佾第三」

 「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した校正前原稿です。
  読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。
  以下本文です。

 學而第一、爲政第二、に続けて、八佾(はちいつ)第三、を五十沢(いざわ)訳と伊與田(いよだ)訳を比較したいと思います。五十沢二郎氏の訳は学而第一 第一篇で述べたように、仏教寄りの訳です。伊與田學氏の訳は使用しているテキストの訳です。今回はさらに深い違いが見えてきます。原文は五十沢著『中国聖賢のことば』から、異なる場合は[ ]を付けます。段落はテキストです。訳文の前文は五十沢氏、後文は伊與田氏の訳です。補足は高木です。
 比べることで、論語の豊かな広がりを感じて下されば幸いです。

第四章 原文

 「礼は、其の奢(おご)らん与(よ)りは寧(むし)ろ倹(けん)せよ。喪(そう)は、其の易(おさ)まらん与(よ)りは、寧ろ威(いた)めよ。


 補足:伊與田訳は[易(そなわ)らん]

 「儀礼が良心より先走りしないように……。
 作法を守るよりは、心につつしむことを第一にしなければならない。」
 五十沢訳

 「冠婚などの吉礼(きちれい)は、易(そなわる)よりもむしろ倹約に、葬儀や服喪の凶礼は、形式が整うよりもむしろ心からいたみ悲しむようにしなさい。」
 伊與田訳

 補足:五十沢氏は「儀礼と作法」と分け、伊與田氏は「吉礼と凶礼」と分けています。分け方がこれ程異なるのも興味深いです。

第十二章 原文

 「祭に与(あずか)らざれば、祭らざる如(ごと)し」


 補足:五十沢氏の「与」は伊與田氏で「與」です。與は与の旧字体です。

 「神主の祈りが自分の祈りにはならない」
 五十沢訳

 「私は親(みずか)ら祭りに当たらなければ、祭らないような気がする」
 伊與田訳

 補足:江戸時代の富士講を想いだしました。富士講では、祈りを祈祷師に外注するのではなく、家人自身が祈るのです。

第十三章 原文

 「罪を天に獲(う)れば、禱(いの)る所(ところ)無き也(なり)


 「天に背(そむ)きながら、天に祈っても、徒労である。」
 五十沢訳

 「罪を天の神に得れば、他のどんな神に祈っても無駄ですよ。」
 伊與田訳

 補足:ここでも興味深い。五十沢氏は「天」だけが祈る対象であり、伊與田氏は多数の神を祈る対象にしている。唯一の神と多数の神と解釈が異なる。

第十五章 原文

 「子、大廟(たいびょう)に入りて、事毎(ことごと)に問う。或(ある)ひと曰(いわ)く、孰(たれ)か鄹人(すうひと)の子を礼を知ると謂(い)うか、大廟に入りて、事毎に問えり。子、之(これ)を聞いて曰く、是(こ)れ礼なり。」

 補足:五十沢訳では孔子も他者も「曰(いわ)く」、伊與田訳では孔子のみ「曰(のたま)わく」。他も同じです。

 「孔子がある儀式に参列した時のことであった。孔子がいちいちひとに作法をたずねているのを見て、ある人があやしんで言った。
 『孔子が作法をわきまえた男だなどというのは、いったい誰の寝言なのだ。あの通り何一つひとにきかずにはできないのではないか』と。
 孔子はそれを聞くと言った。
 『それが、だが作法というものだ』」
 五十沢訳

 「先師がはじめて君主の先祖の廟で祭にたずさわった時、事毎(ことごと)に先輩に問われた。ある人が『誰が鄹(すう)の田舎役人の子をよく礼を弁(わきま)えていると言ったのか。大廟に入って事毎に問うているではないか』と軽蔑して言った。
 先師はこれを聞いて言われた。
 『これこそが礼だ』
 伊與田訳

 補足:鄹とは土地の名前です。武人の父「孔紇(こうこつ、字は叔梁{しゅくりょう})」が七十歳の時の子供。孔子が三歳の時に亡くなります。五十沢氏は大廟=魯の周公の廟、という背景を省いています。魯の周公は孔子の最も尊敬した人物です。分りやすくするためにでしょう。伊與田訳は丁寧に解説しています。
 また、最後の一文の意味がかなり異なります。五十沢訳の「それが、だが作法というものだ」は、軽蔑されたことへの反論という消極的な意味です。対して伊與田訳は強い肯定を含んだ訳です。伊與田先生はある人の孔子に対する軽蔑の言葉を、孔子自身の気持ちになって考えられたのでしょう。孔子はその言葉を聞いて「周公への敬愛が感じられない」と思ったことでしょう。ですから、伊與田訳は丁寧に周公と孔子の関係を説明し、『これこそが礼だ』になるのが自然です。周公と孔子を説明しない五十沢訳は、控えめな言葉になるのが自然です。両訳者とも視点と軸のぶれない訳に仕上がっています。最後の一文で二人の訳者としての偉大さが伝わってきます。

第十七章 原文

 「子貢(しこう)、告朔(こくさく)の餼羊(きよう)を去らんと欲(ほつ)す。子曰く、賜(し)や、女(なんじ)は其の羊を愛(お)しむ、我は其の礼を愛しむ。」

 補足:五十沢訳は「愛(お)しむ」、伊與田訳は「愛(おし)む」です。

 「子貢は、どうかして祭壇の犧牲(いけにえ)の羊を飾ることをやめたいものだと考えていた。
すると孔子が言った。
 『子貢よ、おまえが羊の命を惜(お)しむのはわかる。だがわたしはそのために、おきてのすたれるのをさらに惜しいとおもう』」
 五十沢訳

 「子貢が告朔の礼に生肉の羊をお供えすることをやめるのがよいと思った。
 先師が言われた。
 『賜(子貢の名)よお前は羊を愛(おし)んでいるのか。私はそれによって礼の心が失われることを愛むよ』
 伊與田訳

 補足:五十沢訳の注を抜き出します。
 「告朔」は、月の始めをいわう祭典。朔は、邦語の「ついたち」。「餼羊」は、犧牲の羊。注に「牲生を餼と曰う」とあります。漢字の愛と哀とが同音であるのも、人間の原始的な感情を考察する場合、何らかの鍵になりそうです。
 以上が五十沢氏の注の抜き出しです。五十沢氏が孔子を通して人間の本質に迫ろう、という訳を心掛けているのが伝わってきます。対して伊與田氏は正確に孔子の心の動きを描きだそうという訳であるのが伝わってきます。特に、最後の一文。五十沢氏が「おきて」という社会の伝統性と訳しているのに対して、伊與田氏が「礼の心」という訳を付けています。「礼の心」は孔子が最も大切にしている点です。そこに寄り添って訳しています。

第二十章 原文

 「楽しんで淫(いん)せず、哀しみて傷(やぶ)らず」

 補足:伊與田訳(原文)では「關雎の詩(かんしょ)は」が冒頭に付きます。

 「楽しみにも、自己を奪われないことだ。
 哀しみにも、自己を失わないことだ。」
 五十沢訳

 「關雎(かんしょ:詩経周南の詩)は楽しみても過ぎることなく、哀しみても傷(そこな)うことがない」
 伊與田訳

 補足:五十沢訳は冒頭の「關雎(かんしょ)」を切り捨てることで人間の本質へと普遍化して解釈しました。対して伊與田訳は「詩経周南の詩」と説明を入れ、孔子の心の動きを具体化して伝えようとしています。

第二十六章 原文

 「上に居(い)て寛(かん)ならず、礼を為(な)して敬(うやま)わず、喪(も)に臨(のぞ)んで哀しまずんば、吾(われ)何を以(もつ)て之を観(み)んや。」

 補足:伊與田訳では「居(い)て」が「居(お)りて」、「敬(うやま)わず」が「敬(けい)せず」です。「吾(われ)何を以(もつ)て之を観(み)んや」が「吾(われ)何を以(もつ)てか之を観(み)んや」と「か」が挿入です。

 「どんなに優しくしたところで、心に愛がなかったり、どんなにていねいにお辞儀をしても、心に慎(つつ)しみがなかったり、またどんな殊勝(しゅしょう)に念仏をとなえてみたところで、心に哀しみをもたなかったとしたならば、いったいそんなことがなんになるというのだ。」五十沢訳

 「上位に居て寛容でなく、礼を行うて、相手をうやまわず、葬儀に参って心から悲しまなければ、何によって、その人柄を判断しようか」
 伊與田訳

 補足:五十沢訳では「個人の心のあり様として」の問、伊與田訳では「個人を他人が推し量る場合の基準として」の問です。全く異なった結論です。また、伊與田訳にある「上位」が五十沢訳では「どんなに優しくしたところで」と大胆に訳されています。他に「喪」ですが、伊與田訳で「葬儀」、五十沢訳では「念仏をとなえて」となっています。本来、儒教は仏教とは「個人の心のあり様」として正反対です。儒教は祖先とのつながりを大切にし、仏教は祖先とのつながりから離れる出家をします。先祖とのつながりを大切にする儒教の訳語に、祖先とのつながりを断ち切る仏教の言葉を持ってきます。出版当時の昭和八年(西暦千九百三十三年)頃の人々を驚かしました。賛否両論でした。これは『中国聖賢のことば』の巻末にまとめた形で書いてあります。八佾第三の全文を通して読めば伊與田訳が正統であるのは疑いようがありません。他方、各文の抜粋で妙訳をする五十沢氏の訳も中々味わい深いものです。

 如何でしたでしょうか。両先生のお立場が明確であり、含蓄があります。拙い補足を付けました。『論語』をお読みになるきっかけになれば幸いです。

 深くお知りになりたい方は、五十沢二郎著『中国聖賢のことば』 講談社学術文庫 と 伊與田學著『現代訳 仮名論語 拡大版』 論語普及会 をご覧下さい。
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