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哲学5-1 「私」とは何か 善と魂

 皆様、こんにちは。

 哲学の講義も早、5回目になりました。もう三分の一が終わりました。速いような、遅いような、気がしてきました。これまでの講義を振り返れば、日本の善を充分にお話しできました。もちろん、奥深いもので、もっと語りたいですが。逆に、もう三分の一が終わり、後10回しかできないのか、という期限に追われている気分にもなっています。心掛けているのは、学生の皆さんい分かるように、かつ難しさもありつつ(対機説法)、と同時に、核心部分はしっかり伝える、です。昨年の学生アンケートで初めて、「黒板の文字が見づらい」以外で、平均より下が出ました。「難しい」というのです。事例を挙げるだけ、比較検討だけ、にして核心を話さないことも出来でしょう。しかし、それはやっぱりしてはならない、という心の声がします。学生の皆さんが社会に出て、家庭を持ち、死を間近にして、もしかしたらその意味が解るかもしれない、という期待を込めています。何故なら、真・善・美は私達の日常生活に満ち溢れているからです。宿題を出しましたが、やっぱり私が感動したもの、としました。日常に満ち溢れた真・善・美をすくい取ってほしいからです。明日は第6回の講義をすることが出来ます。学生の皆さんが出席をしてくれるので、本当に有り難いです。

 それでは第5回目の講義を残していきます。

 講義連絡

配布プリント B4 2枚
:『語り継ぎたい 美しい日本人の物語』 占部賢志著 第八話 シベリアの凍土にさまよう孤児を救え 128-143頁

回覧本
:『語り継ぎたい 美しい日本人の物語』 占部賢志著 
:平成24年度「浜松市建国記念の日奉祝式典」でお話をお聞きして感動しました。

宿題
:『語り継ぎたい 美しい日本人の物語』 占部賢志著 を読み、問1から問7まで答えなさい。
詳細:「哲学第1回宿題レポート 11月5日まで」
:http://takagikenziro.blog.fc2.com/blog-entry-401.html


 --講義内容--

 今回の内容は、真・善・美を個人として考えることです。これまでは真・善・美は日本社会と西欧社会、という社会で考えてきました。これを個人の範疇にして考えてみます。そこで出てくるのは、「他人との比較で出てくる個人」と「その人だけで出てくる個人(本質)」ということです。哲学用語で置き換えれば、「表象(ひょうしょう)」と「本質」になります。真・善・美は「本質」です。時代や文化や地域で変わらない、という前提です。
 例えば、日本人の中で明るい性格の人が、イタリア人の中に入れば目立たない暗い性格になります。というのもイタリア人の方がお喋りで、軽口だからです(一般的なイメージですが)。このように周りの環境で、その人の性格が決まります。私達は日常生活の中で「私って暗い」というのを「本質」と勘違いしていないでしょうか。心理学の研究書には記されています。これらの話を、日常生活で良くする「私の自己紹介」をきっかけにして、真・善・美まで行きたいと思います。

 それでは昨年度の哲学2-1を元にしながら述べていきます。

ー「私」とは何か? を問う出発点 

 ズバリ、思春期です。

 思春期とは性行為を考える時期のことです。性行為は「自分と異質で対等な存在」を認めないと生じません。では「自分と異質で対等な存在とは?」と考えると、同時に「私」とは何か?が出てくるのです。小学校低学年までの漫画やアニメを見て下さい。自分が善、相手が悪、という構図が変わりません。そして自分は何時も善なのです。アンパンマンやウルトラマンなどはその典型です。中二病はその転換を上手く指しています。他方、それでは上手く行かなくなります。ただ、思春期に上手に受け入れない場合が出てきます。そうすると性行為の対象だけれども、「自分に従属し劣る存在」を求めるようになります。これがペドフィリア(いわゆるロリコン)です。性的対象だけれども、自分の言うことを何でも聴き、そして未熟な存在を求めるのです。
 これと同じことが日常生活のコミュニケーションでも起こります。簡単に言えば、「金を払うか受け取るか」、「自分が上か下か」ですか人間関係を図れないという人です。立場が変わるとびっくりするほど、横柄で傲慢な口をきく人がいます。「客なんだから言うことを聞け」という人もいます。こうした人は「自分と異質で対等な存在」を認めがたい人なのではないでしょうか。昨年度の講義録を引用していきます。

皆さんは中学校から高校にかけて「私とは何だろう?」と考えたことはないですか? 「私が死んじゃったらどうなるんだろう」とか「宇宙の果てはどうなっているんだろう?」とか「その宇宙は私が死んだらどうなるんだろう」とかを考えたことはないですか? 
早い人は6歳ぐらいで考えるようですが、これを考える時期がくるんです。それは思春期です。思春ですから「春を思う」つまり、「性を思う時期」のことです。今までは「この世界の中で自分が正しい、親が正しい、そういう正しいという属性の中で上か下か」を考える世界にいました。性が出てきたら、自分と対等の存在、しかも、自分とどうやら違う性質の存在、つまり、異性が出てくる訳です。そうするとそれをどう考えるかが出てきます。その返し刀(反面として)として「自分とは何か?」という問が出てきます。
今、インターネットで中二病といわれていますが、その一歩手前ぐらいの段階です。中二病は自分とは「どうやら自分の正しさで思い通り行かない存在があるようだ。しかし、現在の自分ではなんともならない。だから自分に空想的な、超絶的な、力がある。その空想的な力は、アニメや漫画や小説など自分で考え出した力ではない。そういう力を創造する力がないもないのです。」つまり、中二病とは「己の無力さ、あるいは己への不安や至らなさへの気づきが根本にある」のです。同時に相手が自分より力が下、あるいは上という上下の関係しかない訳です。あるいは正しいか正しくないかしかないわけです。
思春期の春を想う、性を想うとは、自分とは対等な別の存在で、どうやら正しい基準が違う(判らない)存在と向かい合うことです。そういう意味で中二病は一歩手前ぐらいの段階と言いました。自分と異質で対等な存在を求めて行く、それをどうしたら良いか、これは中々難しい問題です。「結婚とは人生の墓場」という諺がありますが、この難しさを巧く表した諺でしょう。大人になると、地域社会の人、職場の人、親類縁者など沢山の対等な存在や異質な存在の人々との関係を作ることになります。
ですから、社会全体でどのような関係が善いのか、という基準を設定することになるのです。智慧、がこうして生み出されてきたのです。

―智慧から私
ですから、智慧とは社会、文化、環境、歴史などが生み出したものなのです。この智慧から「私というものを考えよう」というのが今日です。「私とは何か」は非常に難しいな、と想われるかもしれません。もちろん、難しく述べることは出来るのですが、今の流れで判りやすく述べていきましょう。
「私とは何か?」を考える時、それは対等で異質な他人がいるのです。もしこの世界に私しかいなかったら、私を考える必要はありません。私を考えることはなかったでしょう。赤ちゃん時、お腹が減ったら泣けばいい。汚れたら泣けばいいのです。欲望だけの世界に正しいも正しくないもない。私とは何かを考える必要もないのです。
 では目の前に話を戻しましょう。今横に座っている人と比べて、自分の、自分だけのものは何ですか? 横の人が持っていなくて自分だけが持っているものは何ですか?を考えてみて下さい。ありますか?ありませんか? 自分だけのものはあるのかな?がつまり私とは何かを問いの出発点があります。

問1 自己紹介をして下さい(高木に向けて) 3行位

 自己紹介は小学校や中学校や高校などの最初ですると想いますので、したことがない人はいないと想います。で対象は横の人でも良いのですが高木にしてみます。3行ぐらい書いてみて下さい。特別なことを書かなくて良いです。普段の生活の中から哲学へつなげたいですから。

 2人の学生に前に出てきてもらって自己紹介をしてもらいました。

 敬意を込めて拍手をしました。ここで終わってしまうと哲学ではないですね。では次に、問1の自己紹介から要素を書き出してください。

問2 その自己紹介を要素にして下さい。

 要素にする、とは、スーパーのバイトは、バイト(仕事)に置き換えることです。実名は名前、とし、具体的な住所は住所、大学などは所属として下さい。つまり、概念化することです。質問はないですか? では次に、その要素を深めてみましょう。

問3 その要素が変わるとあなたは変わりますか? (その要素はあなたの本質ですか?)

 要素が変わるとあなたが変わりますか?というのを説明します。たまたまですが、10月17日に引越しをします。住所という要素が変わる訳です。では住所という要素が変わったら私は変わるでしょうか? つまり、引っ越す前の自分と引っ越した後の自分は異なる人間になっているのでしょうか? 私の名前は高木健治郎です。日本では9割以上の女性が苗字を変えるのですが、では結婚した女性は結婚前と違う人間でしょうか? そのままですね。ですからいいえ、です。

住所→いいえ
氏名→いいえ

9月27日で40歳になったのですが、年齢が変わっても私は変わっていませんから、年齢もいいえ。バイトを辞めても違う人間になる訳ではないので、いいえです。

年齢→いいえ
仕事→いいえ

こう考えると趣味、将来の夢なども同じです。私は幼稚園の時「将棋の先生」が将来の夢でした。野球選手、物理学者などに夢は変わりました。

趣味→いいえ
将来の夢→いいえ

 ここからが大事です。では、右に挙げた要素(氏名、仕事、夢など)は変わったとしても私は変わらないのですから、私の本質(私だけのもの、私とは何か?の答え)ではない、ことが判ります。仕事が変わっても年齢が変わっても、私はずーっと残っている、私は変わらないのです。
 私の中にある私でしかないもの、私そのもの、本当の私ではない、のが判って来ました。

 もう少し別の言い方をしますと、住所とか明るいとか氏名とかは他人と比べるものです。私がただ1人しかいなければ必要ないものです。私1人しかいなければ住所は必要ないものです。他人が私を認識するために住所をつけているのです。氏名だって、私だけ、一人称だけでいいのです。誰々の子供である、ということを間接的に示したり、つながり(信仰や文化や民族など)を示したりして他の人に識別してもらうためにつけるものです。だから、他人との比較の中で出てくるものですから、私にしかないものではないのです。年齢だってそうですね。39歳から40歳になって何が変わるんでしょうか。私自身は連続的に変わっているのです。私自身の実態そのものを現しているわけではないのです。あいさつも他人がいるから挨拶をするのです。欠点も他人と比較するから出てきます。「僕って暗い人間だなぁ」と想っていても、暗い人間だけの中に入ったら実は明るい方になることがあります。この学校の中で派手でもバイト先に行けば地味(じみ)ということもあります。逆もあります。
 環境によって、比較によって出てくるものは出てくるものです。表面的なものです。では私とは何ですか? 私の本質とは何ですか?
 こうやって迫っていく、迫っていく行き方が智慧なのです。色んな人が凄い苦しんで「私しかないものってなんだろう。私しかないものってなんだろう」って出てきたのです。では問にいきます。

問4 あなたの本質とは何ですか?

 その際に気をつけて欲しいのは「他人と比べる必要のないもの」です。私だけのもの、です。前に出て板書してもらいました(4人ずつ)。前回のプリントでなるほどと感心する意見や面白い意見があり、他の人の意見を見られて良かった、という感想もありましたので、今後も学生の皆さんの意見を板書してもらいたいと考えています。皆さん、いいなぁ、と想う意見があれば写してください。その際に写した人の名前を書いてください。

 学生の意見:信念、好奇心、なまけぐせ、体

それぞれ深い意見です。信念、前回のことを意識してくれたのかな、と想いますが、信念、その通りです。好奇心これもいいですね。なまけぐせ、よくわかります。自省的でいいですね。なまけぐせがない、と想っている人がいるでしょうか。体ですね、これば物質性ということでしょう。深いですね。

―自然科学からの私の本質
 色んな答えがこれまでに出てきたんです。どうしてか、というと人間は肉親を失うからです。大切な人を失うからです。そうすると、大切な人がいなくなってしまった時、つまり物質のつながりが無くなってしまった時、全部なくなってしまうのか? これは現在の自然科学の考え方です。つまり、私の本質というものは物質的なものに依存していて、物質が無くなったら、霧散してしまったらあの人は全くなくなってしまう、という考え方です。
ですが自然科学の考え方にも限界や使用範囲があります。「生命とは何か?」という定義をきちっと二分法で区切ることが出来ないでいます。ウィルスは生命なのか? 全く他の原子と結びついていない状態から、高度で複雑な生物の状態は区別が出来ませんが、ではどこが境界なのか、という基準はよく変わっています。人間の肉体を物質にしてぎゅっと縮めると小指の先より小さくなります。物質性でみると私はそのぐらいですが、ではどうして自己再現性や自己生産性(生殖活動による遺伝子複製)をもつのか、自然科学の方法では判りません。つまり生命とは何か?も判りません。
ですから、「物質が無くなったら私が無くなるんだ」という考え方は限界がある、ということです。理系の皆さんには是非とも頭に留めておいて欲しい話です。ここに一定の限界がある、それで破綻するということではないのですが、一定の限界があるということを知って欲しいのです。では、このように考えに立つと、「生命とは何か?」と「私とは何か?」は、「わからない」というのが答えになります。
問4の自然科学の立場から答えると「判りません」ということになります。

―智慧として私の本質 3つ
 けれども、智慧、昔の人々はどう考えてきたのか?という蓄積がありますので、それを聞いてもらいたいと思います。

① 「ありません」 :私とは関係性の中で生じただけのもの :私の本質はありません
私とは親との関係性によって生じたもの。私が産まれたかったから産まれてきた訳ではない。自分が明るい暗い、性格とか夢、信念などは親などの環境、小学校中学校の経験を経てきたから、たまたま出てきただけです。つまり、自分の信念や好奇心もその環境にいたからだと考えます。
これは仏教思想です。縁起という言葉は誤解されています。「縁起がいいね」というのは誤解された言い方です。本来の意味は「物事は縁起によって生じる」と言い方をします。「因縁生縁」は、因が直接原因、縁が間接原因を指します。全てのものは、直接原因と間接原因で生じるのであって、私の固有の本質がある、とは考えないのです。例えば、芽が出る、という結果は、種という直接原因と、水分や土という間接原因によって生じると考えます。最近は、土もいらない栽培方法が出て来ました。静岡県は先進地域のようです。お米やレタスなどが出来ています。凄い考え方ですね、徹底しています。
どうですか、皆さん思い当たる節はありますか? 
例えば僕がこんな性格になったのは、なりたい、と思ってなったからではなくて、親や小学校や中学校の経験から出てきた、というのです。僕は小学校の2年の時に転校していじめられました。「やーい東京からきたー」と言って。神奈川県に行った時でした。中学校2年生の時に静岡市に引っ越しました。いじめられはしませんでしたけれど、引っ込み思案になってしまった。やっぱり転校などの間接的な要因でこんな性格になったのかな、と思うのです。これを強く推し進めると、例えばスマートフォンとか電話とかで依存症っぽい人いますよね。それは本人が悪いんだ、ではなく、スマートフォンなどの道具があるから悪いんだ、になります。アルコール依存症もお酒があるから悪いんだ、その人は悪くないんだ、という考え方になってしまいます。ではどうしてそのように考えるかを見てみましょう。
 仏教の最終的な目標は、縁起を断ち切ることにあります。この世界との関わりには苦しみがあります。四苦八苦といいますが、生きること、老いること、病気になること、死ぬことに苦しみがあります。そうした関係性を断ち切ることが仏教の目標なのです。時間があれば詳しくお話したいです。

② あります :魂にある。肉体(欲)や精神(好みなど)にはない。魂が私の本質である。
例えば死んだ後、魂だけが残って、肉体や精神の穢れの部分を捨てて清らかになって輪廻転生を繰り返す、と古代ギリシャでは考えます。日本でも富士山、不死山ですが、死後、肉体や精神の穢れが取れた魂になるとズーっと山の上に登っていけるのです。穢れの取れない、つまり「まだ生きたい」などの欲や「あの人に復讐したい」などの肉体や精神の穢れと魂がついている状態では、富士山の上の方に登っていけないのです。日本では呪縛霊などといわれたりします。だから、祟(たた)りや呪いなどは穢れを払うと綺麗な魂だけになって浄化すると考えるのです。西欧では魂が抜け出ている、と考えるのでゾンビという考え方が出てきますが、魂は地上に残らないから肉体だけ、の存在者を考えるのです。対して日本ではトイレの花子さんや貞子のような苦しみを持った存在者を考えるのです。
人間とは、3段階あるのだ、と考えているのが判ります。日本では、例えば私は魚が好きだけれど母親はお肉が好き、という好み(精神)は遺伝しない。他方、大切なもの(善)だけは親から子に伝わる。「人に優しくしなさい」とか「嘘をついてはいけませんよ」という善だけは伝わる。それが行動に結びつくかどうかは判りませんが、そうした善なるものだけが伝えられるし、どう伝えるかという教育論にも発展しています。
また、これを死後について考えると、私は永遠に死なない、という考えになります。肉体は死にますし、先ほどのお魚が好き、とかお肉が好きなどは肉体と共になくなってしまうのだけれど、善なるものだけが何度も生まれ変わっている、と考えるのです。
何か質問ありますか?

③ あります :肉体も精神も魂も一体です。死後も同じ体や精神(好み)や魂を持つ
例えば、小学校から神奈川県にいました。湘南と言われる場所で暴走族の多い場所でした。漫画でも「湘南爆走族」というのがあります。僕は直接知らないんですが、先輩の先輩でバイク事故で亡くなった人がいました。無免で運転していて自動車と事故を起こしました、15,6歳でしょうか。その人がタバコが好きだったから、といってお墓にタバコを1カートンお供えするんです。死んだ後も、タバコが好きだった、あんまりよくないですけれども、好みが残る、と考えるのです。おじいちゃんおばあちゃんが亡くなった後、あのおばあちゃんはカステラが好きだったな、とお仏壇にカステラをお供えするのです。それは死後も肉体も精神(好み)も魂も一体だから残るのだ、という考え方なのです。②は削げ落ちますよ、というのに対して③は残りますと考えます。

―魂から観た日本の特異性
 日本は人口規模からして唯一でしょうが、②と③が同じくらいの割合で融合しているのです。珍しい国なのです。そうするとこの話をすると死んだ後どうなるの?とすると宗教戦争が起こります。鎌倉時代に起こりました。だから、室町時代のお茶の作法に「宗教(宗派)の話はしないようにしましょう」というのが残っています。宗教の話をすると争いになるからです。ヨーロッパよりも数百年早いのです。ヨーロッパでは4,5百年後に1000万人とか3000万人とかの殺し合いをしてしまいました。鎌倉時代の智慧で日本では宗教の話はあんまりしませんね。どうしてかというと、ごちゃごちゃになっているから、宗教の話をしても良く判らないよね、となってしまうのです。宗教がない、んじゃなくて、ごちゃごちゃで判らないのです。でも、言われてみれば、ああそう言えば、おばあちゃんがカステラ好きだったからカステラあげるよね、とか富士山に行ったら、ああそうか、呪いとかあるよね、樹海とかあるよね、というのが肉体感覚としてあるのです。アニミズムなどは大体そうです。日本では②と③が確実にあるのが解りますよね。ヨーロッパでは②だけ、インドなどでは①だけになります。日本では同じ割合でミックスされています。
ちなみに伊勢の神宮(正式名称は神宮)はですね、1300万人お参りするそうです。1年間で1300万人といえば10人に1人ですね。この割合は世界最大の宗教参拝ですよ。世界最大の宗教の聖地の1つなんですよ。ものすごいですね。宗教行為の世界最大の行為を日本がやっているんですよ、それで無宗教だって言っているんです(笑)  うちのおとーちゃんかーちゃんもいきましたけど、「神道信じてるの?」って聞いたら、おとーちゃんは神道信じていますが、おかーちゃんは「ん、別に」。「なんで(神宮に)いくの?」って聞くと「なんかいーじゃん。なんかいーじゃん」って言うんですよ。ミックスしているんです。これは日本人の智慧だと思います。

こんな所です。では、

問5 最も共感するのは①~③のどれですか。

 皆さんの中でなるほど、と思ったのはどれですか。納得できたのはどれですか。共感ですから信念ではなくてOKです。

ちょっと①から③を応用してみましょう。
あの人は優しい人だな、と日常生活では普通に言うでしょう。あの人は可愛げのある人だな、とかちょっととっつきにくい、とか言うでしょう。だけどよく考えてみて下さい。元々優しいという性格の人っているんでしょうか?
「あなた優しいよね」と言われて僕もちょっと戸惑うのですけれども、「僕優しいのかなぁ?」と本当に私は優しい性格なのかなぁ?と思うのです。
① だと、そんなことはありません、たまたまそういう経験を経てきて、たまたまそういう環境、親や友人などの中に居たから優しい行動をとっているだけであって、例えばその人が酷い体験をしたら、親を目の前で殺されてしまった、とか好きな人が目の前で亡くなってしまった、とかペットが死んでしまったとしたら、その人の性格は変わってしまうんです、というのが①の考え方です。説得力があると思います。
② はあるんですよ、それは魂がそのまま表にすっと出ている人と考えます。つまり、肉体の欲望とか自分の好みとかが表に出ずに魂という善が表に出ている人と考えます。自分のことを聞いてほしい、とかおしゃべりだけしたいとか、こいつのことを利用してやろうとか得したいとかそういうのが抑えられている人が、善い人です。人は元々もっているものが善いもの(魂)ですからこんな風に考えます。なるほどな、と思います。
③ は色々あるんですが、1つ挙げれば肉体や精神や魂が一体であれば、人とはそもそも不完全なものだとなります。そうなると優しさはあなたの目の前では優しいかもしれないが、そんなに完全に出来ないんだから、家に帰ったら家族には厳しい人かもしないですよ。人間はどこかで息抜きをしないといけないですからね、と考えるのです。①や②には息抜きという考え方は基本的にはないのです。
どれが皆さんの考え方に近いでしょうか。


―まとめ

 それではまとめに入ります。

「私とは何か」は自然科学としては判らない
過去の智慧としては
① ありません      [初期の仏教]
② あります。魂です  [キリスト教、イスラム教、修験道、後期仏教]
③ あります。肉体も精神も魂も一体です。 [神道]

 僕が考えるのはこういう問題を考えるときに、大切だと考えるのは、2つ以上、3つ以上の立場から考えることが大切である、という点です。端的に言うと「公平」です。学問の世界ですから、宗教の世界ではないですから、ちなみに私はどこの宗教教団にも属していませんし、今後も属すつもりはありません。キリスト教系も仏教系も神道系もです。実家のお墓は10年以上、お墓参り行っていませんし、坊主の話も聞いていません。どうしてかというと、「ああ、なんだあの先生は仏教徒だからいうのか」とか誤解されたくないからです。大切なのは三方から考えるということです。これが学問だと思うのです。でも、宗教、宗教教団としてはですね、やっぱり1つから考えてもらわないと困る。やっぱり神様はこういう存在ですよ、と信じてもらわないと困る。いや、こっちの考え方もある、あっちの考え方もある、となっては、困っちゃう。

―反証可能性
 これが実は、三方から考えると反対の立場から考えることになります。つまり、私の本質はありません、という立場の反対側、あります、という立場から考えることが大切である、ということです。反対の立場の可能性もあるんだな、あるいは反対の可能性はないかな?と探すことが大切なんだ、ということです。私が勉強しているカール・ポパーは反対の可能性、「反証可能性があることが学問(科学)なんだ」と言いました。この反証可能性を洗練していったのが自然科学なんだ、と考えるのです。
ですから、自然科学というのは、実験して失敗したら、はっきりするでしょう。けれど、人文科学や社会科学では、例えばTPPや消費税などで実験してみて失敗したら、「いやあれはアメリカが邪魔したから失敗したんだ」や「いや日本の国内がこうだったから」と言い訳できるんです。実験して失敗したのがはっきりと出来るのが自然科。けれど、社会科学などははっきりとできない。言い逃れできるからです。この辺は後々の講義で詳しく述べます。

―「私とは何か」が判らないことが解る
それから、「私とは何か?」ということが判らないことが解ってもらえれば、今日は良かったかな、と思います。つまり、「私とは何か?」ということを10年、20年ずーっと考えていっても、結局、人類の中で1つの合意、1つの答えが導き出せない、んだ、ということです。人間とは永遠に生きられませんから、「私とは何か」という問題は、自分の中で、んーとなんと言うのかなぁ、固めて、目の前の問題を見ていかないといけないだ、という性質の問題だと思います。

問6 感想で一番良かった所(分ったところ)、一番悪かった所(分からなかった所)
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