エッセイ「【歴史】仁徳天皇と始皇帝」

 「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した原稿です。
  読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。
  以下本文です。

 前号では『論語』が書かれた時代の人々の住む場所を書きました。今号では続けて、どのような社会環境だったのか、を書いていきたいと思います。

『論語』と鉄
 ご存知の通り、孔子の時代は諸子百家と言われるくらい山ほど多くの思想家が出てきました。その根本原因の一つが「鉄器の普及」にあります。鉄器の普及によって、農業の生産が向上、手工業や商業なども進歩していきました。これらの生産性の向上が、豊かな領地を持つ領主(大夫)の軍事力に結び付きました。その結果、領主達を統治していた王様は、相対的に弱くなり、支配していた領主達に殺されたり、地位を奪われることなどが頻発してきました。
 古代社会に官僚制はありません。現代のように強力な官僚(霞が関)によって明確に税金を取り立てることは不可能だったのです。ですから、王様の取り立てる税金は、安いもの(弱いもの)でした。それでも、生産性が低いときは安い税金の方(王様)が収入が多かったのです。しかし、全体の生産性が高くなると、王様の収入が相対的に低くなってしまいました。
 ちなみに、春秋時代から戦国時代に切り替わる理由は、領主(大夫)が王様(諸侯)になったからです。それまでも、事実として領主が王様を押しのけて王の座につくことはありました。それが初めて、周王室が領主を王様として正式に認めました。これが戦国時代の始まりです。
 周王室とはそれまで支那(シナ:中国)の正統性を支えてきた存在者です。日本で言えば皇室に近いでしょうか。周王室は領土が狭く軍事力はないけれども諸侯が尊敬し一つの支配的価値の根拠になっていました。この周王室を頂点として、その下に諸侯(王様)、その下に大夫(領主)という秩序があったのですが、これを周王室が正式に壊してしまったのですから、戦国時代になったと言う訳です。千年近い秩序を捨てて何でもあり、つまり、力が強い奴は何をしてもいい時代になったのです。ですから、戦国時代、と呼ばれます。具体的な国名を挙げます。晋(シン)という大国が、三人の大夫(領主)によって五十年以上分割されていきます。この三人の領主が作った国が、趙(チョウ)、韓(カン)、魏(ギ)です。孔子の死後七十年以上過ぎていましたが、孔子の生存している時代から、王様を領主が下剋上することが起きていました。ちなみに、孔子自身もその手助けをしています。
 生産性の向上はもう一つの効果を生みます。生産性の向上で余剰生産が多く発生し、農業生産に従事する人数が少なくて済むようになります。余った人々が手工業や商業を発展させますが、他にも頭で考える人々、つまり思想家をも生み出します。孔子も墨子も自分達で農作業を行っていません。こうした人々を養えるだけの生産性の向上があったのです。
 例えば、春秋時代には馬を車につないだ二輪馬車戦車が主流でした。しかし、手工業や商業の発展で巨大な弓兵器(弩:ど)が登場すると二輪馬車戦車は姿を消します。二輪馬車戦車が敵に到達する前に大量の矢の良い的になってしまうからです。代わりに同じ武器や装備を身につけた歩兵や騎兵が発達し軍団同士の戦い、つまり、大規模戦争が起こるようになります。大規模な人数の動員は余剰生産の結果可能な行為です。春秋時代の最大の戦争は三万人、戦国時代には六十万人を超えるようになります。
 同時に、大規模動員が出来ない小国はどんどん大国に併呑(へいどん)されていきます。戦国の七雄と言われる七カ国となり、最後には秦の統一に結び付きます。
 こうした数十、数百の大小様々な国々が、一国にまとまっていくには鉄器の発展がありました。これは日本も同様ですし、他の多くの地域で時代差はあれ、同じような現象が起こっています。
 『論語』の時代の人々は、生産性の向上によって社会全体が進展する激動の時代を生きていたのです。

仁徳天皇と始皇帝と鉄器
 始皇帝が、秦の第三十一代王として西暦紀元前二百二十一年に支那を統一しました。「支那」とは「秦」の西欧読みです。秦の国は周王室から紀元前七百七十年に諸侯に列せられています(認められています)。そこから五百年以上の時を経て、支那を統一しました。秦には九代王の穆(ボク)公が、前六百二十三年に西戎(せいじゅう:支那の西方の異民族地域)の覇者となりました。他にも名君が出ています。また、初の法治国家を作り上げた商鞅(しょうおう:前三百五十九年)など、名臣にも恵まれていました。
 しかしながら、秦が支那を統一出来た最大の理由は、発展した鉄器を用いて大規模灌漑などの治水を行い、農業生産を格段に向上させたからでした。それにより大規模な軍団で各地を併呑していきました。数十万の軍団を三千㌔も行軍させていますから、膨大な余剰生産があったのが判ります。
 日本でも同じです。仁徳天皇(西暦五世紀前半)は、日本で初めての大規模灌漑などの治水を行っています。現在の大阪府寝屋川市には、茨田(まんだの)堤が残っています。始皇帝と同じく仁徳天皇は「土地が広い割に耕作地が狭いこと、絶えず河川の氾濫などで人口が増えないこと」を憂いていました。他にも現在の京都府、奈良市、大阪市など灌漑用水を引き、飢饉対策に食料保存の建物を設置し、大阪府で広大な田畑の開墾を行いました。仁徳天皇も始皇帝も鉄器の発展による農業生産を拡大させた点で一致しています。

仁徳天皇と始皇帝の違い
 仁徳天皇と始皇帝はその後の政策が異なりました。政策とは余剰生産の利用方法です。現在でも政策とは金銭の使い方を指します。
 始皇帝は支那を統一後、余剰生産を万里の長城や皇帝専用の道路建設などに費やし、商業や手工業や農業生産の拡充には使用しませんでした。始皇帝は、余剰生産の拡大で支那を統一しましたが、統一後は余剰生産を減らす政策ばかりを取り、滅んでしまいます。巨大で無駄な建築、生産を最も減らす死刑の乱発です。
 万里の長城は、西方や西北の騎馬民族(満州人や蒙古人)の侵略を防ぐために建設されました。支那を統一した強大な始皇帝でさえ、満州人や蒙古人に及ばなかった証(あかし)です。秦は蒙古人に最も西で隣接する国です。秦の始皇帝の恐怖が万里の長城建設へと向かわせたのです。しかし、この建物は何ら新しい生産に寄与しませんでした。さらに始皇帝は、巨大な陵墓、つまり自分専用の墓を作らせ、自分専用の巨大な宮殿を幾つも造営していきます。これに対する怨嗟(えんさ)の声が出てくると、非常に厳しい範囲の死刑を実行します。
 死刑については有名な話があります。ある村に万里の長城などの建設現場に「二十名の若者を連れていくように」との命令が下ります。それを連れていく役人と二十名の若者が万里の長城に全員到達せず、途中一人でも欠けてしまうと、役人一名と残りの若者十九名は全員死刑になるのです。何百キロの旅の途中、病気で一名が亡くなった場合でも死刑になります。この法律は厳格に施行されました。ですから、役人も若者も反乱を起こすようになります。そのため、秦は統一後僅(わず)か十五年で滅びてしまいます。

 対して、仁徳天皇は余剰生産を、さらなる余剰生産の拡大へと結びつけようとします。巨大で無駄な建築は一切せず、死刑の乱発もなかったようです。
 「民のかまど」という逸話があります。この逸話を余剰生産の視点から読んでみたいと思います。

 『数々の大規模灌漑で税金をとり、民草(人々)が疲弊してしまった。仁徳天皇は、夕刻に民草の家々を眺められて気が付かれた。民草の家々から煙(けぶり)が上がっていないのは、煮炊きする食べ物がないくらい貧しいからである、と。そして三年間の無税をお決めになる。御所の補修、衣類や履物を新しくするのを控えられ、食事も品数を少なくされた。雨もりが酷く、寝転がると夜は星空が見えるほどだったと言う。そして三年が過ぎる。仁徳天皇は「私は豊かになった」と仰(おっしゃ)った。皇后陛下が「なぜでしょうか」と問われると、「民が豊かだから私は豊かなのである」とお答えになった。そしてさらに三年の無税を決められる。六年の無税後、民は命令されるのではなく、率先して御所の補修などを行った。』

 以上が「民のかまど」の粗筋です。余剰生産の視点から考えると、民が豊かになったのが判ります。当初は夕ご飯を食べることも出来なかった民が、六年の無税を経て、自ら進んで御所の補修を行う程、豊かになったのです。民草(人々)が余剰生産を十分に受け取った、という証拠です。大規模灌漑の後、農民に余剰生産を全て回すことで、民は豊かになりました。この豊かさは、各田畑の整備や農業器具の充足などにつなげられます。それがさらなる余剰生産を産むのです。
 この大規模灌漑などの治水整備後に無税や優遇政策を行い、余剰生産を増やすのは、その後の国史にも度々登場しますし、諸外国でも成功例として語られています。「民のかまど」は、皇室と民草(人々)との深い絆(きずな)の話であると同時に、農業生産の拡大という話しでもあるのです。

世界最大のお墓は
 仁徳天皇と始皇帝の余剰生産を得た後の政策の違いについて見てきました。それが明確な形で現れたのが、お墓です。
 世界最大のお墓は、仁徳天皇陵です。全長四百八十六㍍という、ちょっと想像出来ない程の大きさです。これはエジプトのピラミッド(クフ王)の二百三十㍍のほぼ二倍の長さです。幅は同じ。始皇帝陵の三百五十㍍の約一・四倍の長さです。
 当時の日本の人口は始皇帝時代の支那全土の人口の数十分の一だったでしょう。軍団の動員数からすれば数百分の一以下でした。エジプトも同様に数百分の一以下でした。古代の人口の推計は困難なのですが、軍団の動員数から推測すれば、仁徳天皇陵が世界最大のお墓であることは、目を白黒させるほどの驚きです。
 ここからは特に私の考えになります。仁徳天皇陵は単に土が盛ってあり、堀があるだけの単純な形です。現在でも皇室が存続しているので考古学上の調査は出来ませんが、内部に巨大な建造物があるとは考え難いのです。
 対してピラミッドはご存じの通り、極めて精巧な石積みや内部構造を有しており、高度な技術の結晶です。スフィンクス像などもその典型例です。秦の始皇帝陵も『史記』にある水銀(当時最も高価な金属)の川、兵馬俑(へいばよう)という精巧な八千人以上の人間像などがあり、高度な技術が見られます。高度な技術者を支えるための、あるいは巨大な造営を行うための余剰生産は、どれほど膨大だったのでしょうか。仁徳天皇陵の余剰生産を遥(はる)かに上回っています。現在でも、土を盛るだけの公園の造営費は、そこに巨大なドーム球場やビル群などを作る造営費の数十分の一、数百分の一で済みます。
 つまり、生産力ではエジプトや秦が完全に上回っています。しかしながら、世界最大の墓になったのには、民草の感謝の行動が大きいのではないでしょうか。先ほどの民が自ら進んで御所を修理したことから推測されます。また、仁徳天皇と同じく富国を実践された明治天皇がいますが、明治天皇の崩御後、民が自ら進んで、明治神宮を造営します。草木一本に及ぶまで民間の喜捨と奉仕で造営されるのです。
 最後にもう一点、民草に特別な技術はありません。ですから、土を掘り、土を高くするくらいしか出来ないのです。しかしながら、その参加人数が多く、気持ちが込められているために結果として世界最大となったのだと推察されます。
 土を掘り、土を盛るだけの武骨な仁徳天皇陵こそが、日本の誇りであると考えます。

仁徳天皇と『論語』
 孔子の目指した秩序は、始皇帝によって完全に打ち砕かれました。その百年後、漢の武帝によって孔子の儒教は統治の学問として、新しい息吹に目覚めていきます。それは現実の政治に関わりのない、未来の予言の学問として採用されます。そこに大きな役割を果たすのが司馬遷(しばせん)の『史記』です。
 徳の高い君主と、君主を敬愛し付き従う人々という孔子の政治の理想は支那では現実味を失ってしまうのです。それが現代まで続いています。
 しかしながら、仁徳天皇の「民のかまど」と逸話と本文の仁徳天皇陵の解釈は、「徳の高い君主と、君主を敬愛し付き従う人々」という孔子の政治そのもののように思われてなりません。如何でしょうか。
 孔子の理想を完全に打ち砕いた始皇帝とそれを現実に行った仁徳天皇という差異は、現代の国際政治を生きる私達に新しい視座を与えてくれると思います。

参考
金谷治責任編集 『世界の名著十 諸子百家』
貝塚茂樹責任編集 『世界の名著十一 司馬遷』
堺市HP 「世界三大墳墓の大きさの比較」:
https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/sei/sandaifunbo.html
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