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エッセイ「【随筆】子育てで大切にしていること」

  「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した校正前原稿です。
  読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。
  以下本文です。


「子育てが厳しすぎる」

「ひやひやしている、子供が可哀想」

「大声を出すと私がびっくりする」

厳しい子育て
 私の子育てに対する感想を並べてみた。母親、妹、かみさんなどの声は、どれも「厳しい」と言う。しかし、私は自分の子育てを変えようとは思わない。
 十分会話が出来る四歳になった息子の声を聴いてみよう。毎夜、二歳の妹と二人だけで寝る。隣の部屋に私が居て、何かあれば息子が報告に来てくれる。「まなちゃん(妹)がとっくん(息子)の頭を叩(たた)くんだけれど、注意しても、ごめんね、って言わないよ」という報告ばかり。息子は殴り返さないで報告に来てくれる。

ありがとうの子育て
 昨夜(平成二十六年八月十四日)、寝る前の歯磨きの時、息子が、

 「おとーちゃん、今日も元気でいてくれてありがとう」

 と何の前触れもなく言った。
 「こちらこそありがとう。とっくん元気でいてくれて。おとーちゃんは嬉しいよ」
 と返した。ここ一か月は毎夜、息子が自分で考えて言ってくれる。次は言葉が覚束(おぼつか)ない二歳の娘の歯磨きになる。どちらが先に歯磨きか、の順番は、三人で一緒に入ったお風呂から上がって、息子と私が競争した結果による。どちらが先に寝巻を着るか、の競争である。息子が遅ければ息子が先に歯磨き、という風になっている。
 二歳の娘は、「まなちゃん、おいで」というとゴロンと布団に寝っころがって「あー」っと口を開けるようになった。そこで昨日も一言。

 「とぉーたん、きょーも、あぃあとー」

 「こちらこそ、まなちゃん、ありがとう。今日も元気な顔が見れて嬉しいよ」

 と返す。おにーちゃんの背中を見て育っている。
 歯磨きが終わり、時折、一回だけかくれんぼをしてから布団に二人が横たわる。電気を消そうとすると、「おとーちゃん、今日もありがとう」と息子がもう一回言ってくれた。こちらも「とっくんもありがとね」と返す。
 これが昨夜の出来事である。

厳しい理由と言葉で伝える理由
 私は息子、娘の教育に厳しい。大声は出すし、殴るし、出来なければ強制する。もちろん、殴る、といっても力一杯殴ることはない。頭を拳(こぶし)ゴツンとする場合でも、痛さが伝わる最も弱い力にしている。要は「悪いことは悪い」が教えられれば良いので、手加減をしている。
 他方、きちんと言葉で気持ちを伝えることにしている。
 まず、子供の目を見て「とっくんのことは大好きだよ」と言う。最初は恥ずかしかったけれど慣れた。「今日も元気でいてくれてありがとう」と言う。「ちゃんとご飯を食べられて偉いね。頑張ったね」と言う。
 寝る前に息子、娘が「ありがとう」と言うようになったのは、私が二人に言葉で伝えて来てから一ヶ月もしない内であった。もちろんその前には、「おかーちゃん、今日も元気でありがとう」や「おかーちゃん、ありがとう」とことあるごとに言ってきた。

 殴る場合もきちんと伝えることにしている。今朝、ご飯の時に息子を殴った。殴った後で、
 「どうして殴られたか、分かる?」
 と大声で聞いた。半べそをかきながら
 「ごはんの時、遊んだから」
 と息子は答えた。
 「そうだね、それもあるね。他にもあるよ。人のタオルを勝手に取った。タオルで人の顔をぶつけたこと、そしてぶつけた後に嗤(わら)ったこと。三つあったから殴られたね。分った?」
 「わかった」
 というやり取りがあった。息子はきちんと自分で考えられるようになったので「ダメなものはダメ」から、理由を説明するようにしてきている。

殴る際の条件
 子供を殴ることは民法では親の監護権(監督と保護)として認められている行為である。民
              -------------------------------
法八百二十二条 懲戒 に「親権を行う者は、第八百二十条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる。」とある。がしかし、現在の民法は不備も大きい。「教育に必要な範囲内」とは何か、監護とは何かが明確ではないのである。裁判所の判例も不明確で「殴れば虐待」という風潮がある。つまり、

 「どういう時に子供を殴って良いか。
 どういう時に子供を殴って悪いか。」

 が明確でない。私は児童相談所による国民の権利侵害で戦っておられる松島ご夫妻に教えて頂いた言葉を胸にしている。

 「子供を殴って良いのは、子供の利益になる時だけ
 子供を殴って悪いのは、親の利益になる時など」

 私の考えを書いていきたい。「子供の利益になる」というのは、「子供が大人になった時にきちっとした社会のルールを守れること」を指す。「食べ物をきちんと座って食べること」が出来なければ、到底、普通の大人として扱われない。きちっと座って食べない時、つまりこれを教える際に、子供を殴ることは許される。「嘘をつく」や「物を取る」なども同じである。「人の迷惑を掛けない」というのが出来なければ、社会で仕事をし、自立した生活を送ることが出来なくなる。親は子供を守り教育しなければならない(監護)。監護にはこのしつけが含まれている。
 他方、親が子供を殴っていけない場合がある。それは親の利益になる場合である。
 例えば、親が誰かに文句を言われてムカムカしている場合、子供を殴ることは許されない。同様に「今日は暑いからちょこまか走り回っている子供はイライラする」と思って殴ると、心がスカッとする。しかし、スカッとして気持ちが落ち着くこと(利益)を得るのは親である。
 この場合、子供は理由もなく殴られてムカッとする(子の不利益になる)。これはいけない。私は子供の頃、よくこの想いをした。当時は、子供の教育などと口やかましいことは言わなかったので普通であったかもしれないが、私は自分の尊厳が甚(いた)く傷ついた。子供にその思いをさせたくはない。頑張っている。

私が殴る際の三つの条件
 子供を殴る際の基本的要件は松島ご夫妻に教えて頂いた。さらに、私は私の殴る際の三つの条件を付けた。

 ①三回、言葉で説明して聴かない場合
 ②行為の否定はするが、人格否定をしない
 ③後で叱(しか)らない

①三回、言葉で説明して聴かない場合
 「①三回、言葉で説明して聴かない場合
 を守ることは、中々手強(てごわ)い。子供はすぐに、チョコマカチョコマカ、いたずらをする。これを書いている後ろで、布団のシーツを剥(はが)し、階段に投げ捨てた。寝る前に読む絵本や漫画なども一緒に。いたずらを見ると直ぐに「こらー」と拳骨(げんこつ)でゴツンとしたくなるが、我慢、我慢。いきなりでは子供が可哀想である。我慢することで親の私も忍耐強くなった気がする。子供と一緒に成長する。
 注意して一回目、二回目の内に「はい」と言えるように少しだけなった。一回目、二回目の内に、脳の中に言葉が入る時間が持てるようになったのだろう。
 子供というのは、脳内が大人のように完成していない。だから、耳から声の音だけは入っていても、声の意味内容を理解していないことが当然ながらある。子供からしたら、脳の中に意味が入っていないのに拳骨がゴツン!ときたらたまったものではない。何の前触れもなく、何も注意を受けていないのに殴られた、と想うのである。これが続くと、「私は殴られて当然の存在」と考えてしまうかもしれない。
 他方、親からすれば言葉で注意したから「子供は親の言うことを無視した」と想うのである。すると、「子供のしつけが出来ないダメな親」とか「あの子は親の言うことを聴かない」と余計にイライラしてしまうかもしれない。あるいは「子供なんて悪戯(いたずら)するもの。いちいち怒ってもしょうがない」と何でも許してしまうかもしれない。そういう実例を私は見たり聴いたりしていて、私はどうしたら良いか?と考えてきた。そして「①三回、言葉で説明して聴かない場合」にだけ殴ることにした。
 実例を聞いて、私は親のしつけのトラブルの根本には子供が親と同じ言葉の理解力がある、という考えがある、と思った。これを前提にすると不幸につながりかねない。もしかしたら、親子だけでなく男女や友人関係なども同じかもしれない。
 
②行為の否定はするが、人格否定をしない
 「②行為の否定はするが、人格否定をしない」は、最初、難しかった。①と同じく「言うは易(やす)し行うは難(かた)し」である。行為の否定とは、食べ物をこぼした場合にだけ「こぼしてはいけません」と言うだけのことである。行為の否定であるから、親である私が「物をこぼした場合」も「ごめんなさい」と謝る。いけない行為は誰がしてもいけないのである。
 対して人格否定とは、その人がすれば全ていけない、ということである。「とっくん(息子)がすれば」全て悪いことになる。そんなことがあるのか?と想うかもしれないが、案外日常生活に溢(あふ)れている。

 「お前は昔から料理が下手だったよな」
 「昔から不器用だもんな、止めておきな」

 というのは人格否定である。元々料理の得意な人などいない。産まれた時は全員赤ちゃんで、何もできない。そこから訓練をして徐々に上手くなっていくのである。訓練による上達を認めず、「お前」という人格で否定をする。他の例として「長男なんだから責任感があるよね」というのも人格否定に通じるものがある。長男だから責任感があるのではなく、責任感を持つように訓練されたから責任感が出てくるのである。赤ちゃんに他人を思いやることなど出来ない。そこから人は訓練を積み重ねていくのである。先月の「ふじの友」に『孟子』があり、四端(四つの心)を伸ばすのが大切である、と書いてあった。「最初から立派な人はいない。だから訓練で伸ばすのが大切」と『孟子』は言っている。同じ意味である。先人は偉大である。
 息子だろうが娘だろうが「お母さんを大切にする行為」をすれば誉める。「あなたはいつも優しい子だから、今回も出来るでしょ? どうしてしないの?」とは言わない。行為だけ肯定と否定をする。そのセリフ、日常に当たり前のように転がっていないだろうか。
 だからだろうか、人格否定をしないというのは大変である。親がちーーっとも楽が出来ない。「お母さんを大切にする行為」の前に親も子供も対等だからである。「お父さんはしても良いんだよ。子供はしちゃダメだよ」とは言えない。たばこやお酒などの場合はきちんと説明をしなければならない。さらに、親が頑張って「お母さんを大切にする行為」を積み重ねないと、そもそもしつけにならない。むしろ親の方が頑張らないといけない。家(うち)では「お母さんに言われたら「はい」」と返事することになっている。だからまず、父親の私が「はい」と言わなければならない。

 おかーさんが「お風呂に入ったら?」→私は「はい」
 疲れていてもお風呂が嫌いでも「はい」
 「少し汗臭いかも」→「はい」
 と言って着替え
 「ご飯作って」→「はい」
 遊んでいても仕事をしていても「はい」

 という具合である。かみさんは賢いので私が「はい」と返事するのをよく理解してくれている。必要な場合だけ、言ってくれる。助かっている。
 
③後で叱(しか)らない
 これが一番、親として成長したかもしれない。しつけで最も厳しくしているのはご飯の時である。「ご飯前に茶碗を運ぶなどのお手伝いをすること」、「きちんと座ること(膝(ひざ)を立てない)」、「残さないこと」、「頂きますとごちそうさまの挨拶をすること」、「お箸で遊ばないこと」などなどがある。大人並みの礼儀を求める。他方、お風呂では叱らない。部屋で遊んでいる時も、怪我をしないなどの場合を除き、大分ゆるやかな感じである。
 例えば、昨日の朝ご飯、夕ご飯できちんと席に座らなかった。今朝も同様だった。その際に

 「また、座っていない。昨日の朝も夜もきちんと座っていなかったでしょう。ダメだね」

 とは言わない。昨日叱ったらそれでおしまい。後で叱らない。その時叱って「ごめんなさい」と言えばもうおしまいにする。つまり、

 「きちんと座って!」

 と一言だけ。座ったらニコニコと話をする。だから、息子も娘も大声で叱られた後、「ごめんなさい」や「はい」と言えば済むことを知っている。いくら大きな声の後であっても、殴られた後であっても、直ぐにケロッとして笑顔になる。イジイジしない。笑顔になって、またいたずらをするのだけれども。何回繰り返しても何十回繰り返しても、その都度叱ってお終いにする。決して「あの時もその時も遊んでいたから、お前は遊ぶのが好きでダメだね」とは言わないようにしている。
 こんな風にしていくと親の方も何だか明るくなれる。しつけが私に返ってくる。私自身の人格を自分自身で否定しなくなる。「私はダメな人間だ」と自分自身で否定していたのに気が付いてきた。

 「なになにが出来ないから私(の人格)はダメだ」

 というのは行為否定を人格否定に置き換えているのである。

 「勉強できないから私はダメだ」
 「目標の大学に行けなかったから私はダメだ」
 「結婚できないから私はダメだ」
 「満足な仕事が出来ないから私はダメだ」
 「家族と仲良くできないから私はダメだ」

 全て行為否定を人格否定に置き換えている言葉である。この癖は私の人生に大きな影響を与えてきたのにも気がついた。その癖を子育てで気がつき、向き合えるようになった気がする。

 子育ては、同時に私を育てる行為だと実感している今日この頃である。

 話は飛ぶが、戦国武将の斎藤道三の家紋や色々な日本の思想の本を読み沢山お話を聴き、「水」を尊敬するようになった。生命のない無機物「水」を尊敬する理由を述べたい。
 「水は岩や細い間でも自分自身の形を、するり、と変えて通っていく。自分自身の形を変えず水が溜まれば濁(にご)り、腐(くさ)る。」
 人も同じではないだろうか。人生の長い旅では、必ず大きな岩や細い隙間(すきま)のような障害にぶち当たる。その際に、自分自身の形を変えるのを嫌がったり、自己否定をしたりすれば濁り、腐る。自分自身を変えるのは正直しんどいが、変わることで次の流れに清々(すがすが)しく入っていく。人間は自分自身を変える際に苦痛や悩みを伴う。しかし、水はいとも簡単にやってのける。だから尊敬するのである。子育てもこの様でありたい。
 子育てでは、こんなことを大切にしている。

       高木 健治郎
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