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エッセイ「【随筆】東京嫌いだった私」

  「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した校正前原稿です。
 読みにくい箇所・誤字脱字あると思いますが、目を通して下されば幸いです。
  以下本文です。


 東京はあまり好きではない。
 何かの用事で東京行きを考えるだけで、モヤモヤとした塊が心に浮かんでくる。どうしても行く必要があるならば、モヤモヤに水を掛けて発散させる。必要がないならば、何とか行かない手立てを考える。叔父や叔母、妹夫婦も住んでいるが、遠方の父方の広島県尾道、母方の岩手県金ヶ崎の方が、心が軽い。

 それでも、出生から小学校二年の夏までと、大学時代六年間住んでいたのだから、不思議なものだ。
 きっかけは何だったか・・・
 幼少の頃を振り返ってみる。理由は色々とあるが二つに分けられるようである。一つは東京の人口の多さからくる生活しにくさである。五歳から、年子の妹を連れて電車(総武線)に乗り四つ先の駅のプールまで通っていた。満員電車になると大人のお尻が目の前に来て私を圧迫する。オナラなどされた日のはたまったものではない。さらに、そのお尻が、あるいはビジネスバッグが私達の体を押した。妹の手を握り、ひたすら早く、速く四つ目の新大久保に着くのを願った。この生活のしにくさは、次回に大学時代の思い出と合わせて書いてみたい。
 もう一つは、東京が世界の中で占める位置から来る息苦しさ、不条理さである。硬い表現で「不条理さ」と書いたが、実感としてはオドロオドロしさが加わる。幽霊とは残念ながら存在しないと判ってはいるのだけれど、「呪われた街東京」と想うほど、幼少時の私は激しく恐ろしさを東京から叩きつけられた。
 私は岩手県金ヶ崎町で産まれた。岩手県の丁度中央に位置し、東北本線沿いではあるが、JRになって直ぐに無人駅になるほど農業が盛んな街の小さな金ヶ崎病院だった。大人になって一度だけ出産した部屋を見たが、温かさが感じられた。駅前には電話ボックスしかなく、自動販売機さえなかった。出生から三カ月くらいで東京の総武沿線の阿佐ヶ谷駅に戻ってきた。ゴミゴミとして臭く、道路には黒い塊がこびりついている街だった。部屋は家族四人で六畳一部屋。二階建ての木造のアパートの一階、窓の外は直ぐに小学校の体育館で日当たりが悪い。私はアトピーや汗疹(あせも)に悩まされていたと言う。母は私を九月に出産して四月から大学、その後大学院に進学した。労働していないので保育園に入り難くて苦労したそうだが、零(れい)歳から入ることが出来た。二歳までに予防接種が必要な病気は全て掛った、という。保育園で熱をもらうのと私自身の体質が弱いので一カ月に一回は三八度を超える高熱を出した。どうしても都合がつかない時は、同じ総武線沿いの大学の講義に連れて行ったそうである。私が大学の非常勤になった時、両親は「幼い時から大学の講義を聞いたからだ」などと言った。
 私は家から三百メートルもない保育園に通ったが、記憶があるのが三歳くらいからである。最初の記憶は一歳半から二歳くらい、父の左手に乗って月を見ている。「健治郎は月を見ると泣きやむなぁ」という台詞が記憶についているが、後付けかもしれない。
 もう少し、幼い頃を思い出してみたい。
 保育園は楽しい場所ではなかった。三歳四歳の時に既に人見知りで、私は友達と話すのが苦手という意識をはっきり持っていた。そして「どうして話しかけられないのだろう、私だけ?」という意識もあった。であるから自由に遊ぶ時間では何もすることがない。家にはおもちゃが殆ど無かったから、おもちゃ遊びは楽しかった。一人で遊べるおもちゃと言えば、ブロックしかない。私はずーっとブロックをしていた。ブロックしかなかった、のかもしれない。現在もブロックが好きで、時々、甥っ子達に作ってあげることもある。年子の妹は保育園に入れなくて、保母さんの所に預けられた。美味しそうなおやつをもらったことを両親が話しているのが羨(うらや)ましかったし、何より保母さんと一対一で広い場所を使って遊べるのが羨ましかった。その後、妹は幼稚園に入り、綺麗な場所に移った。妹は発育も良く明るく利発であった。
妹の発育の良さは色々な所に表れていた。一歳半上の私よりも先に色々と始めた。ローラスケートに乗ったのも、自転車に乗ったのも、補助輪を外したのも、水泳を始めたのも妹が先である。東京から神奈川県茅ケ崎市に移ってからも公文などを妹が先に始めている。私はそれに続いただけである。両親は当時の私について「大人しい育てやすい子だった」と言っている。
父親は失業の憂き目にあい、母親の大学の学費などもあり家は貧乏だった。子供服を買ってもらった記憶がない。「服を買ってほしい」と言った記憶がない。玩具だけは「ミニカーを買ったほしい」と何度かは言った記憶がある。それも私自身の中で大分葛藤(かっとう)があった後に「やっと言えた」という気分だった。「ミニカー買ってやろうか?」と言われ、もじもじしている子供だった。
四歳頃、家から百m程離れた、六畳、四畳、台所の三階建アパートの一階に引っ越した。部屋にお日様が降り注いでびっくりした。なんて綺麗で広い家になったのだろう、と嬉しくなった。振り返ると、この頃から自意識過剰な私が出てくる。まず、引越しの時、大きな荷物を運ぼうとすると「健(けん)はまだ小さいからいいよ」と言われてムッとしたのを覚えている。「もう大人として扱って欲しい」と想ったのだ。四,五歳の子供である。三階建のアパートの階段の外側の柱を伝って一階まで降りることを何度も繰り返した。落ちれば即死、重傷は免(まぬが)れないのに、自分の力を示したかったのだろう。両親は注意はしたが見逃してくれた。家出をしたくなったのも五歳頃からである。父親は私を良く殴ったので反発したのが主な原因だった。「こんな家にいられるか!」と息巻いても行く場所はなかった。帰宅時間がまちまちなフリーターの父が帰ってくる。玄関を開けると気分が悪い日は直ぐに解って、「ああ、今日は殴られるなぁ」と思う。家の中の空気がピリピリして、ついに殴られるのだ。妹は殆ど殴られなかった。
後年、父親が長男で、母親(私のおばあちゃん)を幼少時に亡くし、父親も二五歳に亡くし、しかもあまり愛されていなかった、というのを知った。子供の接し方を知らないで育ってきたのである。あるいは殴られて育てられてきたのだった。家出病は六歳まで続く。いつものように三十分くらいして家に帰ると母親が大泣きをしていて、その姿をみた私は泣いてしまった(恥ずかしかったが)。「もう家出するとは言わない」と母親に誓ったのである。高校二年生になって、家出がしたくなった時、この誓いを思い出した。
そんな父だったが、時々、朝早い散歩に連れて行ってくれた。何を話していたかは覚えていないが、何か話しかけてくれたのかもしれない。父は香港に留学していてバスガイドのアルバイトをしていて、岩手からのツアーに空きが出て参加した母をナンパしたのである。香港は当時も、中国共産党の虐殺から逃げてきた人々が集まっていた。父は、反共産主義者で「中国人とは仲良くすれば良いが、中国共産党とは仲良くしない方が良い」というのが口癖だった。学生運動に反対していたことを誇りに考えていた。
父やTVなどからであろう、私は「核戦争」を知っていた。五歳になった私は、その核戦争に「不条理さ」を感じ取ったのである。新しいアパート前の細い道路で、「なんでこんなに人間は馬鹿で愚かなのだろうか」と嘆(なげ)いた。「どうしたらいいのだろうか?」と苦しみ悶(もだ)え、独り言を呟(つぶや)いたのを記憶している。「その愚かな人間から私が産まれ、そして親に頼らないと私は生きていけない」とも呟いた。
 核戦争の「不条理さ」とは、「私がどんなに善い行いを積み重ねても、例えば毎日親の手伝いをし妹の面倒を見ても、核兵器が飛んできたら私の住む場所、アパート、両親、妹、保育園、友達、公園が全てなくなってしまうこと」であり、逆に「私がどんなに悪いことを、例えば近くの駄菓子屋で大好きで高いサラミのお菓子(三十円)のを盗む、や家出をしても、存在し続けること」があるのである。簡潔に言えば、
「私の全ての生存を全く知らない人が決める。しかも私に全く関心もない人々が」という「不条理さ」なのである。
 核戦争が起これば、東京は真っ先にソ連の核兵器が飛んできて滅びてしまう場所だった。新宿から五つしか離れていない阿佐ヶ谷は、そういう場所だったのである。
東京が私にとってオドロオドロしい「呪われた街東京」というイメージになった瞬間である。ゴミゴミとした街は途端に薄汚れた闇を感じるようになった。対して農業しかない岩手県金ヶ崎町は、私が産まれた場所、という気分からも、何やらホッと出来る場所になった。東京が世界の中で占める位置から来る息苦しさ、不条理さ、とはこういう意味である。
 「不条理さ」を叩きつけられた私は必死に考えた。考えて出た答えが「全ての人間が私になればよい。私のように考えればよい」という六歳の出すことの出来る精一杯の答えだった。自意識過剰で人見知りで発育の悪い私はこんな風に考えたのである。母に一度だけ言ったが「へー、あんたそんなこと考えているの? お父さんの影響かねぇ」と言われた。二十歳頃に確認したら「そんなこと言ったっけ?」と忘れられていた。
 この原体験が現在の私の根底にある。他方、二五歳を過ぎるまで忘れていた。「どうして研究をするのか、個人の体験を元に書いてきなさい」というレポートが出て、やっと思い出したのである。それまでは、綺麗さっぱり忘れていた。
 私が理系の大学に進んだのも「核の原理を知りたかった」のも、大学院で科学哲学に転じたのも「核兵器と社会の関係を考えたかった」のも、現在、福島原子力災害を取り上げているのも、この原体験に結び付く。綺麗さっぱり忘れていたが、一本の線で結び付いていた。
 また、二十歳に時に「人生の中で得たいもの」として真剣に考えた。「美しい異性、莫大な富、大きな家、万人からの尊敬と名声」ではなく「個人の興味関心」と割り切ったのも、核兵器が来れば全て吹き飛ぶから、と考えたからであろう。当時、ビジネスプランとして①「東南アジアで日本の漫画を販売する(利益は全て現地の土地購入に当てる)」、②「広大な山林の中に末期がんを含めた終末介護とお墓を合わせた施設を建てる(現在も介護の根本問題は「亡くなる場所とお墓が別々」な点である)」を考えていた。政治家の道も考えたことさえあった。けれども私は、「心だけは誰にも奪えない」という言葉に共感して、「個人の興味関心」に舵を切った。病弱で熱でうなされている時、私には想像だけが出来た、という体験も関係しているかもしれない。大学院進学を迷ったのも、「どうせ勉強するのは自分だから、学歴が欲しい訳ではない」という考え方を持っていたからである。学歴など仏陀もイエスも孔子も持っていない、と考えていた。
 そして、北朝鮮による拉致事件を大学の時に聴き、激しく憤(いきどお)ったのは、その「不条理さ」からである。どうして当人の意志に関わりなく、生命を奪われることが許されるのか、どうして日本国政府は日本国民を守らないのか、理系の勉強に興味を失う大きな原因の一つとなった。
 その後、「個人の興味関心」に引っ張られて色々なことをしてきた。だから、「流れ流れて、流されて現在の私がある」と考えていたけれども、二五歳の体験から私の人生を振り返ってみると、一本の線でつながっていたのだった。不思議さを感じた。その一本の線は、自意識過剰な五歳の私に遡(さかのぼ)れる。原点があった。その後、私は学問上の興味を満たす気づきがあり、またフラフラとしだすのではあるが、原点から伸びる一本の線上から離れないでいる。そのことを知り、少しだけ苦手意識が薄らいだ。
 コーラを飲んだことがないのも、自分で髪の毛を二十歳から切っているのも、一五年間の一人暮らしでTVがなかったなども自意識過剰な私を出発点にしている。多くの人にとっては「どこで髪を切るか」はどうでも良いことなのに、意識して拘(こだわ)ってしまうのである。
 不惑(ふわく:四十歳)になろうという私であるが、現在でも東京は好きではない。好んで行きたいとは思わない。六月も講演会を聴きにいくのだけれど、なるべく早く戻ってきたい。二十歳、二五歳、三十歳ぐらいの時に、東京の阿佐ヶ谷に兄弟と共に行った。日の当らないボロアパートも、広かった記憶のあるアパートも両方建っていた。両方、何倍にも縮んでいた。
 東京はあまり好きではない。
 けれど、時々、その、気になってしまう。
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