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 エッセイ「年老いて善かったこと」

「富士論語を楽しむ会」の同人誌に投稿した原稿です。
以下本文です。


 「ああ、よかった」と呟(つぶや)いて、独りの家に帰る豊かさよ

 短歌風に現在の実感をまとめてみました。
白木蓮の嫋(たお)やかで優美な花弁が散りゆくと、夜風が春の暖かさに包まれるようになります。前回のふじの友「車と遠かった私」で自動車学校に通いだしたことを書きました。その帰り道の実感です。
「ああ、よかった」の「よかった」を今号で書いていきたいと思います。

昨日(三月二十八日)の自動車技能実習は最悪の出来でした。技能実習とは自動車教習所内で横に教官が乗り自分が実際に運転することです。カーブでの侵入スピードが速い、エンジンストップを三回もする、アクセルを踏みすぎる、半クラッチが前半上手くいかない、などなど過去最低の技能実習でした。
正直に言えば、最初から最後まで教官の態度にカチン、と来ていました。ボソボソ喋(しゃべる)る。猫背、目を合わさない、偉そうで指示が遅い、最初の説明と実際の運転時の指示が違う、運転中に気の散るような行為、書類を取り出す、書くや話しかける?独り言をするのです。他の実習生の危険車両が居ても何も指示をしないこともありました。
しかし、途中から「これは私のせいだ。教官のせいにしてはならない」という心の声が聞こえてきました。
私は一昨日(三月二十七日)の技能実習の予約をキャンセルする程、体調が悪かったのです。食あたりだと思います。それ以前の不摂生と「日本女性の素晴らしさを知ろう」の講演の疲労と相まって体調を崩しました。私はすぐに高熱を出すので四十度が二日続きました。
普段よりは気合を入れて臨(のぞ)んだ一回目の教習はよく褒めてくれる教官で、過去最高の出来でした。二回目の教習が、先ほど述べた通りの最悪の出来でした。
帰り道、運転する自転車がフラフラするのを感じました。また、汗をびっしょりとかいているのが夜風に晒(さら)されて気づきました。感情は教官に責任を転嫁したくてしかたありませんでしたが、私は自分の体調管理の甘さに全ての原因がある、と断言しました。そして心の中で其の教官にお詫びしました。それでも気持ちが治まらないので、実際に声に出して「今日の運転の責任は全て私にある。教官には私の危ない運転に付き合わせてしまって申し訳ありませんでした。実際に運転免許をもらうことを考えれば、有り難い指摘でした。」と言いました。
家に帰るとかみさんが「お疲れ様でした。大丈夫だった?」と言ってくれたので、ほっと一安心。「今日は最高と最悪だったよ」というと
「教官と合わないってのもあるんじゃないの?」と見抜かれていました。「いやいやいや」と言葉では言いつつ・・・
 こうしたホッとした時の判断がぶれないようになってきたと感じます。若い時分は、ついつい愚痴をこぼしてしまいます。酒でも入れば悪口のオンパレード。心の中では「言い過ぎだ」と思いながらも、相手を誹謗してしまう。年老いて少しだけ判断がぶれないようになりました。孔子はこの心境を的確に言葉にしています。四十歳を不惑と命名しました。孔子、「畏るべし」です。
 
教える立場での不明
もう少し長い時間を掛けて、私の不明を実感したことがあります。教えられる立場ではなく私が教える側に立った時のことです。
 私は、大学で中学と高校の理科教員免許状を取得したものの教員になるつもりはありませんでした。教育実習に母校静岡東高校に行った時に、担当の先生や学生の皆さんに本当に善くしてもらいました。二〇名程の実習生の半分程は教員採用試験を受けており、さらに、実習終了後には「企業よりも教員を」と口にする人も出てきました。一つの大きな教室が教育実習生室に割り当てられており、自然と「教員の良さや教員を目指すかどうか」の話が出てきていました。教育実習生室では実習生同士、あるいは学生と実習生がよくお喋りをしていました。私は爪弾(つまはじ)きではないけれど積極的に関わらない立場にいました。授業が終われば直ぐに帰る。あるいは用務員さんの部屋に行って休む。用務員さんは長年、所属していたハンドボール部の指導をしてくれた人です。用務員さんに言われれば部活に顔を出して指導するが、積極的に参加しない。そんな態度でも、やはり聴かれました「将来教員になりたい?」と。私は「なつもりは全くない」と静かに答えました。みな軽く驚きました。全員が全員「なりたいけど、でも難しいよね」という答えか、「なりたいから頑張る」か「頑張ってきた」だったのでう。なりたい、の本気度を競っていたのです。理由を聞かれ
「高校の教員はコーチに過ぎない。教科書は自分で選べない。そして殆ど同じ内容。教え方を学生に合わせるだけ。でも運動部活の顧問はやりたい。私は自分で教科書を選びたいし出来たら書きたい。だから高校の教員にはならない。そしてそこに注目している自分には向いていない。」
と答えました。なるほど、という顔は少なく、「へー」とか「そうなんだ」という言葉のような顔が並びました。
 実習終了後、教員が全ての実習生を集めて同じことを聞いてきた時も同じやり取りをしました。その時、ある四十前の先生が
「そうだよね、向いてない職に就くもんじゃないよ。俺なんてね、むいてねーむいてねーって思って十年以上やってきちゃったもんな。もどりてーよ。やりなおしてーよー・・・」
と言うと、他の先生が
「折角教員になりたいって言っている人が多いまで、そんなこと言わないでくださいよ~」
と和やかな語尾で仰ってくれました。

 私は自分が高校で教えることに消極的だったのです。ですが、あるきっかけで教えるようになって大切なことを学生から貰いました。
 その話の前に少し補足をします。先ほどのやり取りを一読すると全くやる気のない実習生だった、と思われるかもしれませんが、有り難いことに一定の評価を頂きました。
 私は授業一時間に対して予習は三時間までと決めていました。他の教育実習生は一時間の授業のために六時間も七時間も研究していました。私は実際に教員になった時の状態を思い浮かべてみました。すると、授業の予習に使える時間は精々三時間だと想ったのです。他の時間は学生と交流したり指導したり、部活や学校内の事務仕事をするために確保しないとならないと考えました。
 私は同じ場所を二クラスに教えていましたから、予習の時間は一時間程度でした。授業が終わって直ぐに家に帰れました。他の実習生は夜の八時九時まで残る、とか、朝五時に起きている、とかの話をしていました。きちんと教えるには予習で得る知識だけでなく学生との間合いを計るなどの経験が絶対に必要になります。私は授業中、それらを気にしながら授業していました。とはいえ、生来の上り症で、担当するクラスの教壇に立ち上がっただけで全身から汗が噴出(ふきだ)しました。一、二分最初の挨拶をしただけで、肌着とYシャツがびしょびしょになり、青いYシャツの色が深くなっていました。教育実習中は一回の授業をすると緊張して汗をかき、青色のYシャツが深い青色に変わりました。最近はそういうこともありませんから、少しは経験を積んだと言えるでしょうか。
 また、知識不足経験不足の私が高校生を教えるのは避けられません。ここの負の部分を何かの正の部分で補いたいと考えました。担当する先生に相談すると「大学生活の話がいいと想います」との返答がありました。私は事前に準備した話題をノート一冊にまとめていましたから、その話と大学生活の話を、朝の朝礼と帰りの朝礼の時に五分ほどにまとめて話をしました。ロングホームルーム(六十五分)では、五分で話せない話を沢山しました。日本猿のボスが「お」と発し、部下は目上に「あ」と発する話などです。これらのお陰でしょうか、最後にクラス全員から抱えきれないほどの花束を貰いました。全員からの色紙も頂きました。二十名程の実習生で花束をもらったのは五名前後、色紙は三名前後でしたから、評価されたのだと想います。

 その後、私は大阪の大学院に行きますが、大阪での非常勤の口はなく、父親の口利きで静岡産業大学で非常勤の口を得ます。その面接で挨拶に行った時に「高校の物理の先生を探している」と言われ、使うことのないと思っていた理科の教員免許が役にたったのです。
 最初は大学の講義を大切にして予習をしていたのですが、高校では化学だけをやっていたのもあり案外物理に手間取りました。教えだすと教育実習で評価された五分の話が受けました。それで高校生との会話が増え、放課後に話したい、質問したい、という学生が増えていきました。大学の予習よりも高校に費やす時間が増えていきました。テストの前は質問したい、という学生が溢れ、テスト一週間前は放課後三時半から七時過ぎまで毎日学生が質問に来てくれました。私への質問を待つ学生が教室で待っていてくれる状態が続いたのです。高校の非常勤は授業だけを教えれば良いのであって、これは全く給料に入っていません。最初の数ヶ月は悩みましたが、「一旦引き受けた仕事は最後までやり遂げたい。それが採用してくれた人への恩返しになる」と決断しました。
 その決断があったからか、私は教育実習では得られない満足を学生からもらいました。
「あなたは善い人ですよ」
という感覚です。このような恥ずかしい言葉を言われたことはありません。しかし、言葉の裏側にそれが感じられるのです。私は両親の感情が激しく、殴られることもよくあったので、自分に自信がもてないで来ました。ましてや他人から肯定されるという実感があっても、それは「私が良い結果を出したから」と感じていました。「悪い結果を出したら駄目である」の裏返しを恐れていました。けれども、高校生達は「あなたは善い人ですよ」と無条件で肯定してくれていると私には感じられました。有り難いことです。その実感が私に自信を与えてくれるようになりました。ひねくれた、あるいは斜に構えていた私自身に「相手の言うことを素直に受け取る」という面を加えてくれるようになりました。
 教育ではまず先生が学生を信用し、学生が先生を信用することから始まります。講義形式の大学の講義では得られないこうした教育の良さを高校の物理教員に就くことで得ることが出来たのです。
 ただ、一、二年を過ぎる頃から別の悩みが出てきました。高校の講師に費やす時間が膨大になってきて、論文が書けなくなっていたのです。言い訳になりますが、私は不器用で一つのことをジーっと考え続けないと考えがまとまらない性質です。どうにもその時間が取れませんでした。
例えば、週に五日、一日当たり三時間の授業があると昼前には学校に行き、帰宅して八時過ぎになります。お昼休みに学生が講師室に遊びに来て「高木先生は?」と聞きます。それを聞かれた先生が私に教えてくれる。ここで二つの道に分かれます。「授業に関係ないしお金も関係ないから昼休みに行かない」と「学生が着てくれるなら昼休みに行く」と。私は決断したのですから後者を取りました。学生に悩みを聞けば真剣に悩む。また、学生から質問が出るのは私の教え方が不十分だから、と物理の勉強を続けます。自分で試験対策プリントや単元別のまとめのプリント、例えば単位だけを載せたプリントの作成をし、自主的に放課後の小テストを実行し、出来ない学生は決して帰さないで続けるなどをしました。もちろん、給料にはなりません。実家暮らしでしたから何とか食べてはいけましたが、「これでいいのだろうか?」という疑問は常に追っかけて来ました。
それでも「思想は本を読みだけでは不十分である」と何とか疑問を不安を心の奥底に押し込んで押し込んで続けていきました。こういう風に押し込む訓練を続けていくのに迷いは生じ続けました。この押し込む訓練を重ねられたことが、自動車学校の教官への感謝という判断に迷わなくなったことにつながっていると感じています。年老いて善かったこと、とはこの一事です。「善きことには金銭や名誉などを投げ打っても良い」という判断です。まだまだ不十分ではありますが、糸口くらいは見えてきました。

ここで本文の内容は終了ですが、高校を退職するまでの顛末を書き加えます。
その後も学生が沢山来てくれるようになり、お昼休みはお昼ご飯が食べられなくなりました。授業が終わって講師室に行くと高校生がお話に来てくれているのです。その話をしているとその内にお昼ご飯を食べた学生が話しに来てくれます。お昼休みに数人が来てくれます。その前は高校生と体育館で一緒にバスケットをしていましたが、お話をしたいという学生が増えてお昼休みは教室にいるようにしました。また、保健室にも行きたくないという学生が来てくれる年もありました。すると、その学生が登校してくる時間、朝の登校時間より数十分後の時間には講師室にいなければなりません。お昼前ではなく朝から放課後までになりました。授業のない時間には幾つか世間話をしたりしました。放課後はテスト前でなくても学生が来てくれるようになりました。私は質問に来てしっかり勉強した学生には飴の入った缶を差し出していました。飴の入った缶から一つ何でも持っていって良いのです。パイン飴やいちごみるく飴などなどです。その飴を目当てにやってくる学生も多くいました。また、物理以外にも小論指導や他の物理の先生に質問しにくいというので担当していない学生もきました。東大京大を目指す問題集の質問だけを週に一回くる学生もいました。
他の先生方で「高校の先生にならないのですか?」や「高木先生が担任になったらどんなクラス運営をするか見てみたい」などとおっしゃって下さる方が出てくるようになりました。私は相変わらず教育実習の時の台詞を繰り返しました。なのに、大学の方は疎かになっていました。
その後、転機が思いがけない形で訪れました。高校が移転する、というのです。移転に伴い高校の規模を縮小し、学校で教える方針も転換するというのです。その説明会が非常勤に向けてありました。簡単に言えば非常勤の人数を減らす、というお話です。私は自分が一生懸命やっているのは高校の常勤になりたいからではありませんでしたから、翌々日校長先生にお逢いしに行って退職する旨を伝えました。温かい言葉を掛けて下さいました。感謝を持って高校を辞めました。
そのまま続けていたらどうなっていたことでしょうか。とはいえ、現在は留学生主体の専門学校でパソコンやビジネスや数学を教えているのですから、あまり変わりないかもしれません。ただ、私の心の鍛錬の場として、あるいは自分に自信を与えてくれる学生に出逢えた場として感謝しております。
担任でもない講師の先生だった私に、現在でも声を掛けてくれる卒業生がいて、時々、食事に行きます。涙が出るほど嬉しいです。また、磯田道史著『無私の日本人』の中根東里の話を読んで、感じ入る所がありました。有り難いことです。

私の個人的な話ばかりでしたが、何かしらお役に立てたのなら幸いです。お読み下さり有り難う御座いました。

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