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哲学15-1 より善く生きるとは

 皆様、こんにちは。
 講義最終回を迎えました。なんとか無事に迎えられ、学生の皆さんが静粛に聴いてくれたこと、一生懸命レポートを講義を受けてくれたことに感謝します。随分善い刺激をもらいました。日本で最も寒い2週間、大寒を迎え風邪をひいていないか、と心配しています。一期一会の言葉通り、二度と戻らない時間が終わったことに感慨深いです。哲学の講義を行ってみて、改めて日本人であること、を意識しました。哲学の講義を受けて見て、「日本人であることを実感した」との感想が2割を超えていました。同じ想いだったようです。
 最初に意識して読んだ哲学書、ニーチェ著『悲劇の誕生』は大学時代に読みました。予習の段階で懐かしく想い出すとともに、あの時の自分にどのような講義をすれば良いのか、を考えて講義案を作りました。今年の学生さんの手ごたえを基に、設定する学生像を修正する予定ですが、大学時代はとにかく苦しい、という想いがありました。その苦しさの中なら自分の道を選ばなければなりません。そんな時に何かの手助けになれば、と思い、メインテーマを「より善く生きるとは」にしました。今回のテーマです。富士市で「富士論語を楽しむ会」を仲間とやっています。その同人誌「ふじの友」の今月号に「大学院に進学する私」を書きました。大学時代の苦しさの中から何とか生きようとした様子を書きました。ご希望があれば公開します。これらの行動は、哲学の講義をきっかけに大学時代を想い出すという一連の心の動きによってです。ふと、人生の中で、自分の生き方を振り返る時間を得られました。幸せなことです。
 この講義が、皆さんの人生を振り返るきっかけになったり、未来を考える手がかりになれば幸いです。それでは講義内容に移ります。
 

-講義内容-

 -本日の問題
問1 手を離さなかった母親Aの立場になって、大岡さまに反論して下さい。(大岡裁判 2人の母)
問2 手を離さなかった母親Aと手を離した母親B(大岡さま)のどちらが正しいですか。
問3 医者の立場で、統計上6か月が平均値が最も高い場合、余命何カ月と言うのが良いですか? 日本と西欧で
問4 死亡した赤子を背負った母親が駅前でさまよっています。「この子を助ける薬を作って下さい」と半狂乱に叫んでいます。人通りの多い駅まであなたはどうしたいですか? 

 -問題の解答例(それぞれ
問1(ひろさちや氏) 
「いいえ、ちがいます。大岡さまは男だから母親の気持ちが判らないのです。実の母であれば、我が子が泣こうが叫ぼうが、たとえ片腕になっても他人にはやりたくないものです。でも他人なら、いくら遺産があっても片腕の子供は育てたくないものです。手を離したものが偽物なのです!」
問2(ひろさちや氏)「どちらと決められない。人間には判らない範囲がある。」
問2(高木)「どちらも正しい。カントの言うように人間の理性は矛盾するものであるから、どちらかには決められない
問3(高木) 日本:余命3カ月 「死は人の努力でなんとかなる」西欧:余命6カ月 「死は人の努力でなんとかならない」
問4 肯定:「作ってあげますよ」→行動:「ただし、材料を自分で取ってきてください。ただし死者の出たことのない家から」→気づき:「(自ら気がつかせる)死者に触れない人はいない」


-より善く生きるとは

 最終回です。シラバス通り「より善く生きるとは」です。これまでの14回で哲学の知識がつきました。それで終わりではありません。哲学とは「より善く生きること」の智慧を身につけて欲しい、と最初に言いました。智慧、はどうしたらよいのか、の話が出来ます。そのために、これまでの哲学の講義をざっとまとめます。

○日本の思想:自然的存在論 - 皇室を中心として真・善・美が決まっている(2,3,4回)=来歴
              -欠点 「なりゆき任せ」と「不明確な基準」
              -欠点 自国の基準を知ろうとしない 

 哲学の講義を受けてきて、自分の考え方はイデア的存在論ではなく日本の考え方だ、と判ってくれれば嬉しいです。それだけで哲学の知識が身に着いたのですし、今後の生き方を考える上で重要な足がかりになるからです。それから「私とは何か?」という問いの1つの答えになるとも思います。逆でもまた、嬉しいです。それでは具体的に述べていきます。
 白で祓い清める、というのが『古事記』の思想です。同じ白でもそれぞれの思想が違うのは言うまでもありません。お正月でしめ縄は「白」、それはご先祖様(死者)と相対する時の色です。私が高校の先生だった時、卒業式にはほぼ黒のスーツに白地に少し模様の入ったネクタイを締めていました。儒教の格好が気持ちを表すのが基準です。校長先生や担任の先生やご両親と同じ服を着る、という行為を少し外すためです。服装は「なりゆき任せ」や「不明確な基準」ではなく実は決まっているものなのです。これも1つの生きる智慧です。こうした基準は、この世だけを考えているかもしれません。というのも、お正月やお祭り、非日常の行事などは、ただ、のぺーっと日常の連続にメリハリをつけるための行事だから、という側面が強いからです。この様に、この世しかない自然的存在論の中に、日々を大切にする智慧があるのです。
 次は欠点です。「なりゆき任せ」や「不明確な基準」は「おごれるものは久しからず」のレポートで説明しました。どういう者、どういう行為が「驕る」に当たるのか、が不明確ですし、なりゆき任せなのです。また、白が儒教に基づく色であるにも関わらず、「みんながやっているから」と「空気を読み」、黒いスーツを葬式に着るようになりました。
 欠点2です。最初に「日本は出来て何年目ですか?」という質問をしました。殆どの人が知りませんでした。自分の誕生日は知っているのに自分の国の誕生日は知らない。日本国がなければ日本人は続いてこなかったのにも関わらず、です。なんで日本はお正月に白を使うの? 知らないよ。日本人にとって皇室とか天皇とかは何? 知らないよ。これは欠点です。

○西欧の思想:イデア的存在論 -理想を設定して真・善・美を大切にして行動できる
               -欠点 「思い込み」
               -欠点 自国の基準(哲学、キリスト教)を相手に押し付ける

 自然科学の成立で説明したように、理想の設定によって物質科学の原理の探求の動機になりました。他にも目標を明確に設定して「なりゆき任せ」にならない、という素晴らしい点があります。他方、ニーチェの言ったように哲学は「思い込み」に過ぎません。その「思い込み」を相手に押し付ける欠点があります。皆さんの友達でも思い込みの強い人は、「自分がよいもの」を相手に勧めるでしょう。「これいいよ。これいいよ。なんでこれしないの?」と押し付けます。国でやると他国や他民族に自分の宗教や技術や思想を押し付けるのです。フセインのイラクにアメリカが戦争を(宣戦布告なしで)仕掛ける時に、「神の自由を広げるために戦う」と言いました。「キリスト教の神の押し付け」なのです。「俺らは正しいんだよ! だから黙って戦争仕掛けるんだ! 黙って戦争仕掛けても良いんだ!」というのです。ちなみに、真珠湾攻撃の前にアメリカが戦闘行為を仕掛けていましたから、日本が宣戦布告なしに戦闘行為を行ったことは、国際法上全く非難される行為ではありません。ただ、教育機関でそのように取り扱われていることがあります。
 
○2つの思想に共通するのは

 西欧と日本の思想を比較しました。どちらが優れている劣っている、善い悪いではなくて、共通する点を探してみましょう。そこに「より善く生きるとは」が現れます。

○「より善く生きるとは」:「公益(愛国)のために生きることが、人間のより善い生き方である」

 敗戦後左翼のような単純な「戦争反対」は国際政治上のイデオロギーに過ぎないとはっきりしているのですから、それは説明の対象から外せます。そうすると、地球全体のため=公益のため、という視点が崩れることになります。「二酸化炭素排出による地球温暖化説」が米ソ冷戦構造に基づく国際政治上のイデオロギーに過ぎなかったように、地球全体のため=公益のため、という視点が成り立たないのです。しかしながら、自分の利益だけの生き方が、民主政治を衆愚政治にしてしまうことを説明してきました。以下の図で右側に行くことがより公益に適い「より善く生きること」になるのです。

 私⇒ペット⇒家族⇒地域⇒国
 
 この実例として、哲学者のソクラテス、プラトンやヘーゲルなどでも話をしました。彼らはみな、自分の国や仲間を思うことから出発していたのです。ちなみに、「愛国」も読み方は「くにをおも(愛)う」と書きました。日本が白村江の戦いで唐に敗れた後(最初の敗戦です)、唐が日本を攻める、との情報が支那にいた日本人の耳に入りました。ある人が「自分を奴隷として売れば金になるから、その金で帰国して祖国の危機を伝えてくれ」と言ったのです。日本では九州をはじめ瀬戸内海に防衛体制を敷き、首都を移してまで対応しました。ある人は30年を過ぎてやっと帰国した時、当時の天皇陛下から「くにをおもう」とのお言葉を頂戴したのです。「愛国」の言葉はここから出ています。
占部賢志『語り継ぎたい 美しい日本人の物語』 

 プラトンがイデア論を提出したのも、この愛国心からでした。「自分の国に足りないのは何であろう」、「自分の国はどうしたら善くなるだろうか?」という意識です。キリスト教に頼ろうとした西欧の人々も同じです。西欧では異端とはされましたがローマ・カトリック(キリスト)教だけが共通項目でした。西欧の人々を善くするには「みんなを創った神様を信じれば善くなるのだ。そのためには神様はどういう存在、どうすれば認識できるのだろうか。」という問題意識から出発したのです。それが愛国心です。理性の限界を主張したカントでさえ、最後には神様を持ち出してきます。なぜならその根底には、「みんなを創った神様を信じれば善くなるのだ。そのためには神様はどういう存在、どうすれば認識できるのだろうか。」という問題意識があるからです。哲学の究極の目的は、公益のために、です。
 図の説明に行きましょう。自分は自分の意のままに動かすことができます。ペットは餌を与えている限りは自分の意に沿うように行動します。犬や馬などはその典型です。自分と違う考え方を持つ最も近い存在者は家族です。血縁や日常経験なども違う人々が集まり社会へと広がっていきます。国家(nation states)の成立していると考え難い地域もあります。例えば、メキシコやコロンビアでは麻薬カルテルが国家の50%以上を牛耳っています。メキシコはコロンビアに替わってアメリカに麻薬を輸出するようになり、1年間に1万人前後が殺されています。リビアや中東などにも同様の地域があります。
 皆さんが、この哲学の講義を聴くのは、「大学に入って高い成績をとって就職して、良い給料をもらって楽をするためだ」という側面があります。それで良いんです。が、「より善く生きるとは」を考えると、それだけではなく「大学に入ってより勉強して多くの人々の役に立つ仕事がしたい」という側面を考えて欲しいのです。「親が苦労して学費を出してくれるのだから、恩返しがしたい」も同様です。
 以上が、思想が違うところで共通しているのです。日本国建国の2674年前から、古代ギリシャの約2500年前から共通しているのです。

-お正月がなぜ1月1日お祝いなのか

 昭和天皇陛下は偉大でした。この四方拝を大東亜戦争中でも続けられたからです。エジプトのムバラク大統領は自分の身に危険が及びそうになった時、行方をくらましました。イラク戦争でフセイン大統領も同様です。しかし、日本ではB29の大空襲がやってくると判っているのに、昭和天皇陛下は帝都東京から疎開遊ばされませんでした。元日に空襲警報が出てもなお、四方拝を遊ばされようとなさったのです。近習はそれを止めたそうですが、当日に遊ばされました。陛下の肉体の心配よりも日本国の国民とその伝統を大切にされたのです。ただ単純に23時59分が24時00分になっただけではないのです。これが日本の来歴であり、真・善・美なのです。略しますが続けて皇位継承が魂の継承であることを説明しました。
加瀬英明 著『昭和天皇 三十二の佳話 天気予報と空襲警報下の四方拝』


-環境から考察する

 以上の「公益(愛国)のために生きることが、人間のより善い生き方である」を地理、社会、歴史などから振り返ってみましょう。これらを無視して語るのは、学問上の意味がないからです。

      騎馬民族      自然(生産性)    宗教の発生地
○日本   遠い        豊か        はい    の条件で皇室制度を支えてきた

○支那   近い        豊か        はい    の条件で支配層の上下で支えてきた

○西欧   近い        貧しい       いいえ   の条件で

―日本の環境

 騎馬民族はユーラシア大陸を暴れまわり、交通や交易を盛んにすると同時に色々な文化をまぜながら、多くの国々を滅ぼしてきました。日本は自然が豊か、つまり生産性が高い動植物があり、ある程度の規模の人口を有する条件と島国という地理的条件で2千年以上の被支配を受けなかったのです。また、石や木や山を崇拝する道(後に修験道、富士山信仰など)、随神(かんながら)の道などの宗教(宗門)の発生地でした。対して支那は騎馬民族の支配地に近く何度も被支配を経験しました。現在の言語学では漢語や漢人が4千年前後の歴史で、色々な言語の雑種であると言われています。他方、日本語は1万年前後の歴史を持っています。日本国の歴史は神話につながる世界最古の国家です。しかしながら、古いから善い、とか日本は偉大な国家である、という考えは学問的ではありません。最初の頃に説明したように、それは以上の地理、社会、歴史の条件が重ならなければ成立しなかったのです。たまたまこうした条件がそろったことを、真・善・美など時代や地域を越えようとするものと混同してはならないのです。もちろん、物語を来歴にした過去の日本人への経緯は忘れてはならないのです。他方、この講義はナショナリズムを煽(あお)る講義でもないのです。

-支那の環境

 支那に行きます。念のためもう1度述べておきます。「支那」とは「秦の始皇帝」の「秦」の音がヨーロッパに行き「China」となりました。それが日本に入ってきて「支那」という言葉を当てただけなのです。日本では「唐(から)」などと言われていました。「唐いも」や「唐草模様」などもありますし、他にも色々な呼び方があります。支那では、王朝が夏(か)、殷(いん)、周と移りました。周王室は権力を放棄して権威のみの国家になっていましたが、「秦」によって崩壊しました。その後は、騎馬民族を含めて、何十回もぐるぐると支配地域が入れ替わりました。現在でも支那大陸は豊かな大地です。夏王朝よりも前に長江流域に稲作が盛んであった考古学的発見が1970年以降に出てきています。宗教の発生地でもあり、道教や儒教などが挙げられます。漢語でも話をしましたが、多くの民族の流入を受け入れて深い文化層を持ち、雑種性を帯びています。その文化的同一性を背景にして、権力闘争に敏感な地域となりました。大東亜戦争前の支那事変でも、国民党、共産党など大体4つに分かれてそれぞれ外国の勢力を引き入れて権力闘争を行っていました。日本もある支那人政権を支持していましたが、英米の支持する国民党、国民党と大日本帝国を戦わせたいロシアを引き入れた共産党に乗せられてしまいます。支那事変以降の大日本帝国の失敗の一因は、支那人の権力闘争のすさまじさを甘く見ていた点にあると考えています。現在も、上海系と北京系のどちらが権力を握るかで大いにもめています。
 
-西欧の環境

 西欧は、キリスト教の発生地から大分遠いです。しかも、キリスト教を最初に国教化したのは、コンスタンティノープル(現イスタンブール)ですから、宗教の中心地になったことさえありません。正統なキリスト教はその後、ローマ・カトリックを「キリスト教とは認めない」と破門してしまいます。つまり、宗教の発生地、宗教の正当性から遠い地域が西欧社会でした。さらに、ゲルマン系の西欧人に布教していく段階でローマ・カトリックは、「モーセの十戒」という神から授けられた大切な言葉を捨てることにします。簡単に言うと「偶像崇拝の禁止」を破るのです。ローマ・カトリックの教会には現在でも「イエスが十字にかけられた像」がありますが、あのようの像として祭ってはならない、と神が言ったのです。前回クリスマスの祝い方で述べたように、ゲルマン系などの自然崇拝を取り入れていくことでローマ・カトリックは布教地域を増やしていきます。十字軍などで戦争で征服させるのを推奨するなどもあります。建築様式であればゴチック教会などにも自然崇拝と正統なキリスト教の融合が観て取れます。「なりゆき任せ」や「不明確な基準」の日本人なら「そんなにかたっ苦しく考えなくても」と考えるかもしれませんが、「神を信じられることが救いである」という唯一神教からすれば神の言葉は絶対です。それを裏切ってしまったのです。ですから、西欧人は、「宗教によらない理想の設定」が大問題になりました。「より善く生きること」とはどういう「理想の設定」によって成し遂げられるのか、という大問題になりました。それゆえ、難解にならざるをえません。日本人のように、「なぜお正月に白を使うのか」や「皇室と日本人の関わり」など気にしない人々からすれば、「理想の問題設定」という捉え方が難解になるのです。私達日本人は自分たちの歴史を勉強すれば、見習うべき手本に溢れています。
 
-3つそれぞれの智慧を吸収して欲しい

 日本、支那、西欧それぞれの地域の環境によってものの捉え方や考え方に違いが出てきます。それぞれの地域で生き方の智慧が違っています。どれが上か下かではなく、それぞれ来歴なのであって、それぞれの智慧を吸収して欲しい、というのが「より善く生きることとは」の答えになると思います。
 さて、それではこの続きですが、予習段階でいくつか案が浮かんでは消えていって最後の1つに残ったものとします。以下の本を参考にしつつ、哲学の講義内容を加えていきます。

ひろさちや 『どの宗教が役に立つか』 新潮選書  1000円+税

―大岡裁判 2人の母親

話の筋: 1人の子供を2人の母親が争う。大岡さまが子供の手を2人の母親にひっぱらせ、片方の母親が手を離す。その時、大岡さまは「本当の母親なら痛がっている我が子の手を離すはずだ」と、手を離した母親を母親とする。

-問題1 手を離さなかった母親Aの立場になって、大岡さまに反論して下さい。

-解答例(ひろさちや氏) 本文を「お奉行様⇒大岡さま」など差し替え、要約します。

「いいえ、ちがいます。大岡さまは男だから母親の気持ちが判らないのです。実の母であれば、我が子が泣こうが叫ぼうが、たとえ片腕になっても他人にはやりたくないものです。でも他人なら、いくら遺産があっても片腕の子供は育てたくないものです。手を離したものが偽物なのです!」

-問題2 手を離さなかった母親Aと手を離した母親B(大岡さま)のどちらが正しいですか。

―解答例(ひろさちや氏)

「どちらと決められない。人間には判らない範囲がある。」

-解答例(高木) 

「どちらも正しい。カントの言うように人間の理性は矛盾するものであるから、どちらかには決められない」

 皆さんも友達同士で同じことがありませんか。仲良し3人グループで、友人Aから友人Bの悪口を聞いたとします。なるほど、それはBが悪い、と説明に矛盾もなく説得力もあります。次に友人BからAの悪口を聞きます。そうすると、なるほど、それはAの方が誤解しているし、BはAのことを考えた行動であるのが理解できます。では、友人Aと友人Bはどちらが正しいのでしょうか。こういう悩みを持ったことはないでしょうか。
 職場で同僚に職場の悪口を聞いたとします。「仕事を私にばっかり押し付ける」、「完璧を求める」、「残業させようとする」と。次にその上司から話を聞くと「同僚には見所がある。だから厳しくしている」、「厳しいといっても仕事としては会社の外に出れば普通。」、「上司は嫌われるのが仕事で、失敗した責任は俺がとる」と言います。さて、どちらが正しいでしょうか。

 どちらも正しい、というのが正解でしょう。
しかし、日本人は「人が解決する」と考えます。だから、どっちかを「正しい」としなければならなくなってしまうのです。言いかえると「矛盾する点で判断停止することができない」のです。「真実は神の理性にしかない」と人間の理性の限界を設定しないのです。そうして無理やり「正しい」母親を知ろうとして、その結果、「なりゆき任せ」と「不明確な基準」に陥ってしまうのです。実際に、母親Aと母親Bの話を聞いた後、手を離した母親Bが本当の母親である、という日本人に受け入れられている説明は、受け入れ難くなります。どちらか?と言えば「うーん」と迷って、どちらかにするでしょう。それは事実ではなく「みなし」になってしまいます。「みなし」とは事実ではないとしても事実として扱うことを指します。さらに、日本人は「本当の母親」とみなした後も、「本当にこれで良かったのか・・・」とぐちぐちと悩むのです。「神様にお任せすること」が出来ないのです。それは「なりゆき任せ」であり「不明確な基準」だからです。

-嘘は判るのか?

 「人間は嘘をついていたら顔に出る」や「人間は嘘をついた本人が良心で知っている」と考える人がいるかもしれません。しかし、子供を亡くした母親がそのショックから他の子供を自分の本当の子供だ、と信じこむ、という現象がありえます。その際、その母親は「自分が嘘をついていること」を自覚していません。自覚なき嘘に出会うと先ほどの「人間は嘘をついていたら顔に出る」や「人間は嘘をついた本人が良心で知っている」は成り立たなくなるのです。こうなると、どっちが嘘をついているか、は判別できなくなるのです。その際に「神に任せること」が出来ないと問題は解決できなくなります。
 前に学生Cさんから、その友人の学生Dの相談を受けました。Dから嫌がらせや暴言、接触行為に悩んでいる、というのです。Dさん自身には色々と原因があるようですが、CさんはDさんを「これまで仲良くしてくれてきたし、高校の時は明るく真面目な人だったから、なんとか更正させよう」としていました。言いかえれば
自分(人)の努力で他人を変えようとしているのです。しかも、その方法が「Dさんの嫌がらせや暴言はおかしいよ。あなたの言葉は嘘だよ」などという方法でした。こうして自分の言葉の努力で他人を変えようとするのです。しかし、人類の智慧として、相手を否定する言葉で相手の本性を変えようとするのは無駄である、というのがあります。嘘つきに「嘘をついてはいけないよ」と言って変わるでしょうか? 別の例でも説明します。

-刑務所 日本と欧米

日本の刑務所:罪人を更正しようとする =「人の努力で人を変えようとする」:規則正しい生活、手に職
欧米の刑務所:罪人を更正しようとしない=「人の努力で人は変わらない」  :社会に害を与えない

 日本では死後も全員同じ場所に行きます。ですから、罪人も更正しようするのです。しかし、西欧では死後、罪人は地獄へ行って永遠に苦しみます。他人が犯した罪を更正させるのは神の仕事であって、人の仕事ではありません。ですから、刑務所とは動物園の猛獣の檻(おり)と同じであり、社会に害を与えなければいいのです。本当の罰は神が与えて下さるのですから、隔離しておけば良いと考えるのです。「人の努力で人は変えられない」という観方は冷たいようですが、事実をついている所もあります。性犯罪者、特に幼年に対する性犯罪者の再犯率は高く、「人の努力では人は変えられない」という観方を裏付けるかのようです。これらの性犯罪者には発信機を取り付けておく、地域に情報を流すなど数々の試作がありますが、それも再犯率が高いという過去の事実に基づいています。

-講義と「人の努力」

 小中高大学で学生の成績を上げるには、先生と学生の心の触れ合いが大切である。心の触れ合いがあってやる気が出る、という前提で教育論が日本では語られます。しかし、これは日本だからです。その前提に「人の努力で人を変えようとする」のが出来る、という考えがあるのです。しかし、私は東アジアからの留学生に数年接していて、先生と学生の心の交流=「親和性」と学生の出席率や成績=「判断」が、関係しうる学生もいますが、関係しない学生がいることも知りました。当初は大きなショックでしたが彼らの行動を観ていると「親和性」と「判断」は別なのがよく判ります。日本ではメジャーリーグのイチロー選手を成績以上に愛して報道しましたが、ニューヨークヤンキースに移籍すると報道は少なくなりました。それはイチローが「マリナーズのファンが大好き」という「親和性」によって、優勝できない戦力のチームに残るという「判断」を混合したからではないでしょうか。対して、ヤンキースに移籍したのは「マリナーズは愛しているが移籍はする」と「親和性」と「判断」を別々にしたからでしょう。つまり、「ああ、イチローもアメリカ人(ヤンキー)になってしまったか」とがっくりと肩を落としたのでしょう。
 私自身、小学校から大学生まで教えたことがありますが、この「親和性」と「判断」の混同を上手に使うことがあります。また、「私が一生懸命上手に教えればみんな哲学に興味を持ってくれ、授業も頑張って聞いてくれる」という前提で動いています。しかしながら、「寝る学生」が0人に出来るでしょうか? 「携帯をする学生」を0人に出来るでしょうか? 日本人の視点を自覚しつつ、両方の視点を持ってほしいものです。
 恋人や友人を変えようとする、というのも同じかもしれません。私の大学時代の話をしましたが割愛します。

-死について

-問3 医者の立場で、統計上6か月が平均値が最も高い場合、余命何カ月と言うのが良いですか? 日本と西欧で

-解答例(高木)

日本:余命3カ月 「死は人の努力でなんとかなる」 
本人が頑張った。医者が頑張ってくれたから余命が3カ月も伸びた ⇒良い医者だ
西欧:余命6カ月 「死は人の努力でなんとかならない」
   本人の頑張りも医者の頑張りも死には関係がない。6か月で死ぬのは正確な医者だ ⇒良い医者だ

 介護士に「ターミナルケアにおける死」という講義をしていました。介護士とは過酷な仕事です。というのも、介護が必要になった人に接し、さらにその人々が回復する、つまり若いころのように健康に何の不安もない状態になるのはないからです。言うならば「現状維持がベスト」なのです。落ちていくしかない被介護者を何とか落ちていくスピードを遅らせるのが介護士の仕事です。その終わりは死です。対して教員は逆です。哲学の講義で皆さんが1つでも覚えてくれれば成長が観られます。成長しかないのですし、「ああ、判ったよ」という言葉は嬉しいものです。他人の成長の姿は嬉しいものです。言うならば、「現状維持が最も悪い」のが教員の仕事です。
 ですから、介護士になる人々は肉体的ストレスに加えて精神的なストレスが掛かります。一生懸命やればやるほど、終わりの死を迎えた時のショックは大きいのです。その時「死は人の努力でなんとかなる」という風に考えるとさらに強くなります。

「あの時、じーちゃんに、ああやってしてあげていれば、もうちょっと生きられたかなぁ・・・」

という言葉には「死は人の努力で何とかなる(遅らせられる)」という日本人の考え方が入っています。そしてこの考え方は、自身の後悔につながり、自身の反省、批判、否定につながりやすいのです。西欧のように「死は神がお決めになったこと」としてお預けするのも1つの手です。インドではお葬式をきちんとすればきちんと生まれ変われるからお葬式の後、親類は笑顔でニコニコします。これも輪廻転生のシステムにお任せする、ということです。

-日本は「人が解決する」、西欧は「神が解決する」
 この問題は、真・善・美である「人は先祖から生まれる」と「人は神から生まれる」と共通する問題です。

-問4 死亡した赤子を背負った母親が駅前でさまよっています。「この子を助ける薬を作って下さい」と半狂乱に叫んでいます。人通りの多い駅まであなたはどうしたいですか? 

 駅前は、浜松が近いので浜松駅北口の「いえやすくん」像の前でも良いですし、静岡の呉服町通りでも良いです。想像してみて下さい。智慧は日常生活を過ごしていく時にはあまり必要ありませんが、このような異常な状態、異様な光景に出遭った時に必要とされます。

-解答例(ブッダ)

「作ってあげますよ」
 ↓
「ただし、材料を自分で取ってきてください。ただし死者の出たことのない家から」
 ↓
「(自ら気がつかせる)死者に触れない人はいない」

 これを現代の介護の考え方で分析しています。

肯定:「作ってあげますよ」
 ↓
行動:「ただし、材料を自分で取ってきてください。ただし死者の出たことのない家から」
 ↓
気づき:「(自ら気がつかせる)死者に触れない人はいない」

-肯定の意味
 死亡した子供を背負っているのは異常な状態です。その異常な状態の人に「言葉だけの正論」を言うことは極めて難しいです。例えば、風邪を引いている人に「健康になるには運動が良いよ。今からマラソン10キロ走ってきたら」と言ったらどうでしょうか。風邪は異常な状態です。マラソンは健康に良い、は正論です。しかし、それが前後関係から如何に無意味な言葉かは説明するまでもありません。異常な状態の時は、まずその異常な状態で出てくる相手の声を受け止めることです。風邪で喉が痛いのか、お腹が痛いのか、チクチク痛いのか、ガンガン頭がするのか、を聞くのです。そしてそれに逢った言葉をかけてあげるのです。「そうか、痛いんだね。」、「風邪で辛いね」と。

-行動の意味
 次に、本人に行動させる意味は、本人の気付きにつながるからです。肯定や支援は相手を一定満足させるものですが、その満足に溺れることも多々あります。介護でも介護士が被介護者を憐れんで大変だからと、全てやってあげると、被介護者は直ぐに体が動かせなくなり、ぼけやすくなります。長期、過剰な肯定や支援には落とし穴があります。そこで本人に行動させます。
 「からしの実」ですが、現代日本なら醤油でしょうか。異常な母親は「醤油を下さい。」と言います。家の入口ではギョッとしてか、直ぐに分けてくれるでしょう。そこで母親は「そういえば、この家は死者の葬式をしたことがありますか?」と尋ねます。「ええ、実は3年前に事故で・・・」となります。当時のインドは大家族制でどんな家でも死者を出していました。そうやって家々を回っていくと全ての家で「死者を出したことがある」のに気が付いていきます。

―気づきの意味
 そうやって自らの行動を通して、「死が特別ではない」、「死者を出すのは普通である」に気が付いていきます。母親は「どうして自分の子供だけが死ななければならないのか!?」と怒り狂います。その根底には「自分の子供は特別であるはずだ」という思い込みがあるのです。しかし、その「特別である」という思い込みが、思い込みに過ぎないことが見えてくるのです。この場合、「見えてくる」のが大切です。いくら言葉でこれを伝えたとしても、異常な状態の母親の頭の中に深く刻み込まれることはありません。ユリウス・カエサルの言葉を何度も引用してきましたが、これが最後になります。「人はほっとするものを容易に信じる」です。逆に考えれば「自分の感情を邪魔する説明は決して受け入れない」です。「確かに正論だが、言われるとむかつく!」です。そういう場合、本人の自覚を促すか、時期を待つしかないのです。ことばで本人を説得しようというのは、智慧に適っていないのです。

-「より善く生きるとは」のまとめ 気づきの違い
 母親の気づきは、たまたまブッダの意図する気づきと一致しました。しかし、その気づきが、ブッダと一致する必要はありません。その気づきには、ブッダの意図した物語と母親の物語との差があって善いのです。それは今回まとめた日本、支那、西欧の来歴の違いの対等さと同じです。私達はそれぞれの環境の中で物語を来歴にしています。真・善・美とは、あるいは「より善く生きるとは」の答えは、この物語と来歴の繰り返しの中にあります。プラトンのイデア論やヘーゲルの「労働」や皇室の来歴などに共通する点です。この意味で哲学に、思想に終わりはありません。今後も、それぞれの来歴を深めていって欲しいです。このブログがその一助となれば幸いです。

 以上で「哲学」の講義録を終わります。拝読の程、有り難う御座いました。
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了解しました。

平塚洋くん

メールとブログへのコメント拝見しました。
詳しくはメールにて返信しました。平成26年1月27日21時21分現在。

届いていなければまた、ここにコメント下さい。

インフルエンザ大変でした。お大事にして下さい。
プロフィール
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