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哲学13-1 近代哲学とは

 新年、明けましておめでとう御座います。本年も宜しくお願い致します。
講義は12月中旬でしたが、講義録に起こすのが新年となりました。ここで新年のご挨拶を致します。新年、親類との関わりが多くなるのを実感しました。20代の頃には、鬱陶しさや厭々(いやいや)な想いしかありませんでしたが、家族に恵まれると見え方が正反対になりました。
 哲学も同じで、20代は主に宗教(キリスト教)から観ていたのですが、「キリスト教に還元されるのが哲学である」、あるいは「キリスト教がなければ哲学は必要なかった。なぜなら西欧にしかないから」という立場でした。智慧としての意味しかない、論理学は数学に還元できる、などとも考えていました。それが、愛国という言葉を得て、プラトンの叫びやデカルトの疑いなどが、結局、自分の生き方、自分の集団の生き残り方を模索する1つの手段である、という立場が見えて来ました。この点で、現代日本でも大いに意義がある、と考えるようになりました。西欧が周辺から侵略され、侵略者がまた侵略され、農業の生産性が低く、正統なキリスト教から破門され、統一国家を持てず、結局つながりを得る手段がローマ・カトリックしかなかった、という現実があります。であるのに、ローマ・カトリックが腐敗でどうしようもなくなっている、しかし、ローマ・カトリックへの批判は死刑となる、という現実も西欧人に乗りかかりました。その状況下で、自分の生き方を考える、自分の集団の生き方を考える、という叫び、が哲学(近代西欧哲学)と解釈し直したのです。西欧の人々が、神や理性、イデアという現実社会にない概念を求め、ローマ・カトリックの神と調和しようと努力する理由が観えてきたのです。確かに哲学は西欧特有ですが、現代日本で参考になる点が埋まっています。
 現代日本に生きる私は、同じく実践的関心を大切にして、自分の生き方、自分の集団の生き残り方を考えていきたいです。難しい話となりましたが、贅沢三昧のお正月の中でも、この想いはずーっと持ち続けてきました。やっと吐き出せた、という感じなので、勢いがつき、難しくなってしまったのでしょう。講義録はなるべく判り易くを心がけていきます。以上が挨拶です。本年も宜しくお願い致します。


―講義内容―

 -本日の問題

問1 物理学を哲学の立場から述べてみてください。
問2 数字で現さないと存在しないものを5つ挙げて下さい。
問3 どうして現象に数式が使えるのか?


 -問題の解答例(高木)

問1 現象の存在論的原理を探求する学問
問2 パソコン、チョーク、コップ、スーツ、薬
問3 ①蓋然的に一致する (他の数式よりも相対的に一致しているに過ぎない。完全な一致は判らない)
   ②使える範囲で一致する (科学理論は使えるかどうかで判別すべきで使えるから利用しているだけ):道具主義
   ③前提が間違っている (世界が2つある、という考え方が違う。数学もこの世の存在である):日本人
   ④神が理性で世界を創造したから一致する デカルト


-近代哲学とは

 まず最初に「問1 物理学を哲学の立場から述べてみてください。」を書いてみて下さい。これまでの講義で哲学の大まかな説明は終わっています。ただし、プラトンでも述べたように思想の幅の広さや奥深さは、殆ど述べられていません。今日のデカルトでは機械論的宇宙論しか取り上げられず、情念論などの幅の広さを扱えていないのです。その幅の広さが何とも面白く、愛らしくさえあります。出来たら誰か1人、幅の広さを見て欲しいです。半期15回の講義、約22.5時間では語り尽くせない奥深さを、です。
 問題に戻ります。「哲学は理学部や工学部に関係ない」というイメージがありますが、実際には「哲学がなければ大学で理学部や工学部が成立しない」とさえ言えるほどに関係しています。今日説明するのは近代哲学ですが、具体的には「哲学が理学、工学を成立させた理由」なのです。ですから、最初に「哲学」の意味の確認も含めて、問1を出しました。
 学生さんの解答例

:全ての動きのあるものを数字や文字で表して、その存在を明確にする。
:あらゆる現象を数式にしたもの。

 とても素晴らしいですね。ポイントは「数字」、「数式」です。皆さん物理学を学んだ時に必ず「数値(数字)」の関係を「数式」にしました。波の運動を「高い」や「強い」という質ではなく、「何センチ」や「1秒間の回数」などの「数値」で表して「数式」にしました。これがプラトン主義です。

近代哲学のプラトン主義(デカルト):世界のあらゆるものは「数式」で現せる

 哲学13回はこれでお終いです。今日はこれを詳しく述べていくだけです。私の考え自然科学とは「現象や運動を数学的体系で現したもの」です。ちなみに「現れる」は「見えないものが見える」です。「表れる」は「見えるものが隠れていて見える」です。顔の表裏、と言いますが、顔は「見えるものが隠れていて見える」ようになるので、「顔が表れる」です。物理学の数式は「見えないもの」ですが、実験で「現れる」のです。この「現れる」が何時でも常に一定である、というのが「再現性」であり、自然科学の最も大切な方法的要件の1つです。ただし、実験結果から「見えないもの」である物理学の数式を推測するしか人間の知性では出来ないので、それは「蓋然」、あるいは「確率」という性格なのです。そして神が物理学の数式を創造したと仮定するならば(ローマ・カトリック)、神だけが観ることが出来るのです。これは次回述べるカントの主張です。人間の理性では見えることが出来ない、つまり、理性には限界がある、という立場です。そして、理性には限界があるからこそ、物理学の数式の推測には必ず「誤りうる可能性がある」と主張したのがカール・ポパーです。むしろ、「誤りうる可能性を認めるからこそ科学」なのである、と主張しました。私はカール・ポパーの「科学」が一般的用語としての「自然科学(物質科学)」とは全く異なる意味合いであり、用語の範囲が異なると論文で主張しました。カール・ポパーの主張は今回のデカルトと同じくトートロジー(同語反復)、あるいは理論の基礎付けの循環によって成立していると指摘しました。
 このような細かい問題は幾つかありますが、理学、工学との関係に戻りましょう。世界のあらゆるもは「数式」で現せる、という前提によって理学、工学が成り立っているので、近代哲学の重要さを指摘出来ます。では、どうしてそれが出てきたのでしょう。

○ 近代哲学 =   プラトン    +  キリスト教

           世界は2つ       神が世界を創造した(創造神)
           神は完全        神と人をつなぐのは理性(理性神)

 プラトンの「世界は2つ」と「神は完全」+「神が世界を創造した(創造神)」と「神と人をつなぐのは理性(理性神)」が近代哲学、という図式です。

-創造神とは

 「神が世界を創造した(創造神)」というのは、理系ならば容易に想像できるでしょう。人間は原子の組み合わせを換えることが出来ます。それによって水素と酸素から水を作れます。土からガラスや鉄を生み出せます。しかしながら、原子そのものを作りだすことは出来ません。現代の物理学、化学でも作りだせません。ですから、「原子を作りだしたもの(きっかけ)」は人間ではなく何ものかがあると想定できるのです。ビックバン理論では、ビックバン以前の状態を知ることは出来ません。しかし、何ものかによってビックバンが起こったのです。その「原子を作りだしたもの(きっかけ)」を「創造神」とする訳です。この「創造神」は、人間のように人格とは無関係です。もちろん、キリスト教では「創造神」と人格を持つ神様(『聖書』にあるように)とを結びつけます。その結びつけはキリスト教ですが、「創造神」の想定は宗教ではありません。むしろ、プラトンのイデア論に近い考え方です。日本では「なぜ、原子があるんだろう?」とはあまり考えません。けれども、西欧の人はキリスト教への関心から「なぜ、原子があるんだろう?」と考える訳です。イスラム教も含めると世界の7割の人にとって、「創造神」は大きな関心あるテーマの1つなのです。「同じようになぜ人間があるんだろう?」という問題も同じです。

-なぜ、日本人は「なぜ原子があるんだろう?」と考えなのでしょうか?

 と学生の皆さんに聴いてみました。日本人が考えないことを、なぜか?と考えて見るのです。説明不足のせいでしょうか、挙手はありませんでした。答えは簡単で、『古事記』の冒頭に出てきた神様が、創造の原理があるのにも関わらず何も語られていないからです。つまり、「創造という人知を超えたことを語らない」という態度が『古事記』にあるからなのです。『古事記』に精通している人の中には、神様の名前に創造の原理が書かれている、と説明する人がいます。確かに日本語(やまとことば)は、漢字ではなく音に意味を込めていたので、このような解釈に説得力があります。ただ、(大切なのは説明の原理のみが示されながら、)具体化した説明が全くない、ということです。ですから、関心を示さないのでしょう。もちろん、学問的探求として、この問題に切り込む面白い文章が沢山あります。
 まとめますと、「だれが世界を創造したか」は人類の問題である。その人類は社会ごとの物語に支配され、日本では関心を持たれないが、西欧(世界の7割)では関心がもたれている。 

-日曜日は何故お休みか

 他方、『聖書』には、神がどのように創造したか、創造の原理は何か、が書いてあります。日本人も西欧人も同じく、物語に影響を受けていることが良く分ります。以上の文章については数々の補足が必要かもしれませんが、割愛します。1つだけ、ユダヤ教では「神は世界を創造し7日目に休まれた」とあるので、土曜日がお休みです。それを真似たキリスト教では日曜日をお休み、その後イスラム教は金曜日をお休みにしています。これが「世界を創造した神の具体的な説明」によって1週間に1日お休みにする、という具体的な説明なのです。ですから、世界の7割の人はお休みになるたびに物語を確認するのです。しかしながら、日本人は「なぜ、日曜日がお休みなのだろう?」などとは考えないのです。江戸時代にはお休みがお正月とお盆だけでした。こういうと江戸時代の日本人は働くものだったのだ、と思うかもしれませんが、実はそうではありません。江戸で大工、一家4人の生活の記録が残っています。大工は雨が降るとお休みです。これにお正月とお盆やお祭りなどが加わり、年間100日以上はお休みでした。現在のサラリーマンのお休みの日数と同じ程度です。さらに、午前中2時間、午後2~3時間の計4~5時間の労働で一家4人を充分に養っていけました。労働時間は半分くらいだったのです。
 
-理性神

 「なぜ、皆さん勉強で来るのでしょうか?」、「なぜ、先生の言っていることを理解出来るのでしょうか?」そういう問題も日本人は問題としません。理性神とは、理性を持った神様、という意味です。私達が勉強出来るのは、先生の言うことが理解できるのは、神様から理解する力を与えられているから、と考えるのです。つまり、神が私を作り、作る時に理性を与えて下さったから、である、と考えるのです。先取りしますが、世界を数字で理解出来るのも世界を神が数字で作ったから人間が理解出来るのである、と考えたのです。これが近代哲学となります。また後述します。

-デカルト、アリストテレス主義からプラトン主義へ

 アリストテレスとプラトンを比較しながら、デカルトに向かいましょう。

 「物体  ← 人間」

 と観る時に皆さんはどのように観ているでしょうか。アリストテレス主義でしょうか、プラトン主義でしょうか。こういうと難しいですが、身近な例で行きましょう。例えば、講義日はとても冷え込みました。「寒いなぁ」と言えばアリストテレス主義で、最高気温は昨日より4度も低い、と言えばプラトン主義です。下の図にしてみます。「」の上下はそれぞれの観方です。

 アリストテレス主義   熱い 赤い   硬い 重い    と観る
           「机     ←       人間」
 プラトン主義      35度 (255,0,0) 6度 5kg    と観る

 アリストテレス主義は「質」で観ます。その質の変化で観ていきますから、「熱い」、「赤い」、「硬い」、「重い」などの質で述べる訳です。部屋を冷たくすると机も冷たくなった、というのは「熱い」から「冷たい」への「質」の変化です。
 プラトン主義は、数値で表記ます。35度から15度へ移り変わった、と表記します。あくまでも「量」の変化です。赤いに対応する(255,0,0)はRGB表記です。学生さんの挙手で説明をしました。RGBは「RED」、「GREEN」、「BLUE」の頭文字を取りました。光を赤緑青の要素に分解する捉え方です。それぞれ最大値255、最小値0です。例えば、(255,255,255)と赤緑青の全ての光が最大値ですと、「白」になります。それぞれの光が全くない(0,0,0)は「黒」です。赤と緑の中間色、黄色は(255,255,0)、オレンジは(255,153,0)、茶(102,51,0)です。赤と青の中間色である紫(51,51,255)などがあります。このように全ての色を数値で現すのです。コンピュータの基本的な色付けはこのRGBで行われています。私はワードでポップアートや風景画、可愛いキャラクターなどを作る方法を教えていますが、このRGBで色を指定しています。また、Visual Basic(ビジュアルベーシック)というプログラミング言語も教えていますが、同じくRGBで教えています。硬度も6度で表記します。ちなみにダイヤモンドは硬度10度です。以上のことから、

 「物体を数値で現す」

 ことが出来るのですし、現代の日常生活は「物体を数値で現す」ことで成り立っているのです。例えば、このブログはパソコンで書いていますが、全ての文字を、大きさを、横書きなどを全て0と1で表記しています。0と1という数値によって現して初めて成立するのです。スマホや電気ポット、目覚ましなどなども同じです。電車や自動車なども近年では全て電子制御ですから、0と1で成立しているのです。桶狭間の戦いで今川義元は撃たれましたが、現代の気象庁のレーダーがあれば雷雨も予測できたので撃たれませんでした。ではなぜ、戦国時代にパソコンがなかったのか? それは「物体を数値で現す」ことが出来なかったからです。物質上では電気を「物体を数値で現す」ことが出来なかったからです。それでは、逆から観て見ましょう。

-現代の日常生活の根本を支えるプラトン主義


問2 数字で現さないと存在しないものを5つ挙げて下さい。

 例えば、教室の窓の外に見える芝生は、数字で現さなくても存在しています。空や空気もです。補足としての説明。黒板に書くチョークですが、白くするのは、材料の選定や色を数値で現すことで検査しています。これらは全て数値に基づいているので、均一の白いチョークを製品として出すには数字が必要なのです。

学生さんの答え

:時計、コンピュータ、電話、体重計、キーボード、机、時計、ペットボトル、パソコン、電球、地図

 ペットボトルは、キャップの大きさを数値で表記しないと本体とピッタリと閉めることが出来ません。それに大量生産するには生産ラインを作らなければならず、そこには機械化が必要です。機械化には数値化が必須なのです。電気やガスも、電圧や電流などの数値化によってコントロールしている訳です。東日本大震災で震災復興の時、真っ先に電気やガスや水道の復旧が急がれました。それがないと現代の日常生活が成り立たない、という考え方が浸透しているからです。明治時代の三陸海岸大津波では電気やガスがほぼ100%普及しておらず、日常生活が成り立たない、とは考えませんでした。この実例を見ても現代の日常生活をプラトン主義が支えている(飛躍した言い方ですが)と言えるでしょう。現代の日常生活になることを「近代化」と言いますが、それはまさに「プラトン主義化」という側面があります。もちろん他にも色々な要素があります。
 紙や印刷、建物なども数値化によるのは言うまでもありませんから、見渡してみると数値化がこびりついているのです。この点に気がつかないで影響を受けていたりします。

-人間をプラトン主義で観る

 人間を「質」ではなく「量(数値)」で観る観方が広がっています。日常生活にこれだけ数値化が意識しないレベルで入ってきているからです。それを疑いもせずに受け入れている、という点を見つめるのが哲学です。そしてそれが「より善く生きる」ことに繋がります。
 
 「あなたの身長はいくらですか?」
 「体重は何キロですか?」 
 「年収はいくらですか?」

 数字で人を見ています。けれども、それで表現できない点もありますが、それはアリストテレスの言う「質」です。「心が優しい」とか「誠実」とか「性格が合う」とかなんとか。お見合いパーティーで年収を聴くことは当たり前にあるそうですし、女性が「体重何キロ増えて、太っちゃった」というのも数値を元にしています。体重ではなく肌の艶(つや)や肉付きなどの「質」ではないのです。日本に厳然と残っている学歴主義でさえ、偏差値という数値化に基づいて上下関係が決まっています。受験生の受験時の偏差値が大学の評価になるのですから、全く馬鹿馬鹿しいものです。

ー大学の評価の馬鹿馬鹿しさ

○大学はその受験生を大学時代の勉強や体験を通してどれだけ伸ばしたか

 がその大学も能力であり、その大学の評価となるべきであるのに、進学塾等が発表する、受験時の受験生の偏差値だけで決まってしまうのです。それに踊らされて、「いい学生が欲しい」という基準で大学側も学生を採用します。「この学生は私達の大学で大いに伸びそうだ。伸びなさそうだ」ではなく、「偏差値の高い学生」あるいは「小論文が受験時に良く出来ている学生」という基準で採用するのです。ですから、単に社会全体の学歴主義が批判の対象ではなく、大学の内部の基準もまた同じなのです。両方の根源にあるのは、数値化によって人間を、あるいは物を計るというプラトン主義なのです。
 さらに、学問の分野で、根本的に「質」でしか測れない心理学や経済学の分野でさえ「量」で現そうという風潮になっています。心理学で統計心理学などである人を印象値を数字で現してもらい、標準偏差などでその人を表現しようというのです。大学生の授業アンケートでも「数値」が入っていますし、標準偏差や平均などの統計で出しています。これは、「私はこの講義が自分の人生を振り返った」という「質」の答えがすくい取れないのです。経済学も、本来、経済活動は人間の心に基づくのですから、統計経済学が使える範囲は非常に限られているのにも関わらず、幅広く使われています。アベノミクスで明らかになってきたのは、政治が国家経済に大きな影響力を与えるとともに「景気は気から」と言われる点です。「景気は気から」とは経済活動が人間の心に基づくことを端的に示しています。本来は「質」でないと表現できないものを「量」で現そうとしている、という批判があります。

 まとめると、学問の分野でも、アリストテレス主義の「質」とプラトン主義の「量」という区別が有用である、ということです。もう1点、数学の基礎付けに哲学のプラトン主義が使われている、という点です。

-「物体を数値で現す」の学問的出発点

 では、「物体を数値で現す」の学問的出発点はいつなのでしょうか。プラトンは確かに「物体を数値化する」という方向性を示しましたが、学問上に基礎づけた人が居るのです。以下に箇条書きしていきます。

・ケプラー:物体を量的関係で捉える立場を確立      :天体の運動
・ガリレイ:経験に数学的表現を与える立場を確立     :落下の運動
      実験で数学的表現を確める立場を確立      慣性の法則

 よく天体の運動ではコペルニクスが出て来ますが、「神は単純性を好む」という思い込みで地動説を主張したので、学問的意義は低いです。対してケプラーは先生ティコ・ブラーエの膨大な観測データを基にして、つまり事実を基にして3つの法則を提唱しました。第2法則(面積速度一定の法則)と第3法則(調和の法則)「惑星の公転周期の2乗は、軌道の長半径の3乗に比例する」は、「物体を数値で現す」ことを確立しました。また、ケプラーの3法則はニュートンの万有引力の法則の基礎も提供しています。

 ガリレイは2つの大きな立場を確立しました。観測データに続いて、日常経験などに数学的表現を与えようとしました。このように言うと難しく感じるかもしれませんが、中学校の理科で習っています。落下の運動ですから、以下の式になります。

落下距離  =  速さ  × 時間
  X   =  V    × T

 です。ただし、ガリレイは時間の2乗に比例すると主張しました。重要な点は、質料、つまり「重さ」に比例しないという点です。アリストテレス主義では落下距離は「重さ」に関係すると言われていたのです(ただ、功績はシモン・ステヴィン)。色々と細かい議論は科学哲学や科学史の講義に譲りますが、「物体が数値で現す」ということを日常経験や実験で確かめようとした点です。他に、ガリレイは光の速度を計ろうとしました。夜に2つの山に登り、片方のランプの幕を取って光を相手に発し、相手は見えたら幕を取る、という光の往復時間を計測しようとしました。この実験は光の速さが速すぎて失敗しています。何せ光は1秒間に地球7周半もする速さなのです。
 以上の3つの立場によって、「物体を数値で現す」、「経験を数値で現す」、「数値を実験で確かめる」などの学問的出発点を確立しました。この出発点に基づいて、近代科学が発展していきます。それは面白いのですが、哲学の方に戻りましょう。それは、「どうしてそれが可能なのか?」という点です。

-どうして「物体を数値で現す」ことが出来るのか?

問3 どうして現象に数式が使えるのか(どうして「物体を数値で現す」ことが出来るのか?)

 「どうして「物体を数値で現す」ことが出来るのか?」と聴かれると、中々難しい問題です。何の手がかりもなしに子の問題を解ける人はいるのでしょうか。「物体を数値で現す」という方向を示したのがプラトンですから、その問題設定を足掛かりにしましょう。プラトンは世界を2つに分けました。

 イデア       ―   この世

 数学        ―   物体
触れられないもの   ―   触れられるもの
存在しないもの    ―   存在するもの
精神的なもの     ―   肉体的なもの

 問いを置きかえるならば、「どうして数学と物体は一致するのか?」や「触れられないものと触れられるものは一致するのか?」や「精神的なものが肉体的なのもに使えるのか?」になります。この講義ではユークリッド幾何学と運動方程式で説明してきましたから、それを使いましょう。

 ユークリッド幾何学では、イデアは完璧な三角形を意味します。そして「線は幅の無い点が無限に集まったもの」などこの世には存在しないという前提の存在です。しかし、人間はこのこの世には存在しない前提のもの(イデア)を理解して使えます。使えるのですが、この世に存在しないものをこの世に存在するものに当てはめられるのでしょうか。当てはめてよいのでしょうか。
 運動方程式F=MA (F:力、M:質料、A:加速度) は、「幅の無い物体」でしか成り立ちません。幅があると回転が生じるからです。幅の無い物体が質量があるのですから、この世いは存在しません。しかし、私達人間は理解して使えるのです。中学校の理科で現代日本では習い多くの学生が使いこなして問題を解いています。
 海の波でも良いでしょう。あの海岸に打ち寄せる波をどうして数式で現せるのでしょうか。どうして現して良いのでしょうか。
 以上のように、数学は理解できるし完璧なもの、それを現象という不完全なもの(1つ1つ違うもの)に一致する(使えるのか)?という問いが出て来ます。

 では、なぜ一致するのか? 現代の日本人の多くは、あるいは何人かの科学哲学者は「蓋然的(だいたい)な一致である」という答えです。一致することを証明出来ないが、実験したら一致していたからそれでよい、という考え方です。高木もです。あるいは、確率的に、という答えもあります。先ほどのコペルニクスならば、「神は単純性を好む」から「単純な数式である筈だ」と言うでしょう。

 もう少し説明してみましょう。

 小学校1,2年生の時に、「りんごが1個、みかんが1個ありました。足したら何個ですか?」という問題があるとします。「答えは2個」です。けれども、「りんごが1個」と「みかんが1個」ですが、それぞれば「別の質」のものです。「別の質」のものを「量」に置き換えていいの?という問いが出て来ます。これまで述べてきたように「質」を「量」に置き換えていいの?という問題です。コンピュータシュミレーションが地球の実際の状態と対応している、とするから「二酸化炭素による地球温暖化がある」と言えるのです。では、どうしてコンピュータシュミレーションが対応しているのでしょうか? 原発が安いというのもコンピュータシュミレーションしたら安いからです。実際に発電量を計ってみたら高いのです。それでも、コンピュータシュミレーションの方だけを言ってきたのです。コンピュータや理系の人々は、この問題を考えなければならない、問題でもあります。

学生さんの答え

:仮定(定義や前提条件)の捉え方で出てくる
:人々が数学を信じているから

 私の予測する答え(先ほど述べましたが)
①蓋然的に一致する (他の数式よりも相対的に一致しているに過ぎない。完全な一致は判らない)
②使える範囲で一致する (科学理論は使えるかどうかで判別すべきで使えるから利用しているだけ):道具主義
③前提が間違っている (世界が2つある、という考え方が違う。数学もこの世の存在である):日本人
④神が理性で世界を創造したから一致する デカルト

 ④が近代哲学ですので、詳しく説明していきます。

―デカルトの答え 近代哲学

 デカルト:神が世界を理性で創った。その神の理性が人間に与えられているから、創られた物体と理性(原理)は一致する。

 ここに講義の最初で述べたキリスト教の理性神、創造神、プラトンの2世界説、イデアの完全性があるのです。デカルトはこの理性として普遍数学の確立を目指しました。この世界の全てを遍(あまね)く数学で取り扱う、という意味での普遍数学です。その背景にキリスト教の信仰とプラトンがあるのはこれまでの説明の通りです。ただ、当時のローマ・カトリックはアリストテレス主義に染まっていたので、プラトン主義を取ることは危険であり、ある修道会の人と話して後ろ盾を得ていたようです。他方、堂々と発表しなかったという点も付け加えておきます。
 デカルトの功績は、デカルト空間と言われるように、中学校の数学で習う、XY平面があります。X軸とY軸を交差させた平面で運動や図形を書きしるす、というものです。直線をY=AX+Bと表現するものです。これによってデカルトは世界を数学によって表現しようとしたのです。この流れは、解析幾何学などに繋がっていき、テーラー展開やマクローリン展開などに広がります。これは全ての曲線などは、関数の近似値として表記できる、と考えるものです。

―近代哲学の難解さ、日本人における

 いきなり、近代哲学、現代哲学から読みだすと全く意味が判らないことになります。何故なら、「神が世界を創った」などと無意識で日本人が受け入れてないからです。さらには「理性の絶対さ」や2世界説なども前提となっているからです。日本人のキリスト教は日本化されています。高校などの教科書で「徳川幕府はイエスやマリアの絵を踏ませてキリスト教かどうがを試した」と書いてあります。キリスト教を理解してるのなら、イエスやマリアの絵を踏んでも構わないのです。どんどん踏むべきです。何故なら、キリスト教は神や神の子を絵に描くことを禁止しているからです(モーセの十戒)。しかし、日本人は日本人の思想でキリスト教を歪曲してしまったのです。この踏み絵のキリスト教は江戸時代を隠れ切支丹として生き延び、明治時代になってローマ法王に「生き延びました」と報告に行ったら、「キリスト教ではないよ」と言われてしまいました。このように、キリスト教を理解して信仰していた人々でさえ、キリスト教を無意識の内に取り入れることが難解だったのです。いわんや、キリスト教にあまり関心のない、あるいは高校生や大学生ではキリスト教の前提であり、「神が世界を創った」や「理性の絶対さ」などを正確に理解するのは難解なのです。
 キリスト教の神は理性的存在で善い面だけを持っているのですが、日本の神様は善い面と悪い面の両面を持っています。あるいは善い悪いが一体となった考え方を持っているのです。この辺りが難しい点です。また、デカルトを宗教から観て見ると、以下のようになります。

○近代哲学では、哲学、科学、宗教が一体となっている

 この点については知識として知っておいてもらえれば、と思います。他方、智慧として理解して欲しいのは、

○世界を数式で記述したい

 という点です。それが宗教的動機であったとしても、西欧の人々が自分たちの生きる基準として、生きる智慧として求めて体系化していったのです。その流れの中で近代科学が出てきた、という点です。もう少し踏み込むと、物質科学の原理(F=MAなど)を探し求めることが、「神はどこにいるのか?」、「神とは何か?」、「神に造られた私とは何か?」とつながっていたのです。どこまでも数字で現していこうという衝動があったのです。それによってデカルトで「物体を数値で現す」ことをやったのです。

―日本の技術者の凄さ 数字で現さない

 対して日本人の技術者は全てを数字で現そうとはしません。「長年の経験」とか「職人の勘(かん)」などと言われます。京都の職人の動きを三次元で取り込み動きを解析するTV番組を見たことがありましたが、これは西欧的手法です。しかし、その手法でさえ、最終的な質を保証する部分まで解析するに至りませんでした。なのですが、日本では伝統的な手法(TVでは漆塗でした)を伝えてきたのです。ここが日本の技術者の凄さがあるのです。
 数字で現せないからこそ、日本でしかできないもの、日本だけが世界最高の品質であるもの、が生み出せるのです。数字で現せたら、人件費の安い地域に容易に移転できるからです。そうなると後はクリエイト(創造)しか、富を生み出せるものがなくなってしまいます。最近年では液晶の技術は日本に来て大々的に進歩しました(特許はアメリカ)。小型の充電池はスマートフォンなどに使われていますし、緩まないネジなどもあります。

―方法的懐疑

 デカルトの有名な「方法的懐疑」があります。これは今まで述べてきたように「物体は数値で現せる」のための手段です。学生の皆さんも人生の中で方法的懐疑を行っても良いかもしれません。「自分の親は自分よりも早く死ぬか遅く死ぬかで言えば、遅く死ぬ方が確率上少ない」ので「働かなければいけない」などです。親の存在を「疑ってみる」というのです。私の世代はバブルの余韻が残っていましたから「日本企業がつぶれる」など「疑ってみる」ことさえしませんでした。だから公務員になるのは好まれませんでした。倒産しないので公務員も企業も同じだったのです。現在は「ブラック企業はつぶれやすいから、企業が倒産するかどうか疑わないといけない」となったのです。同じように色々と「疑ってみる」のも大切でしょう。ゼミに入る時に「この先生大丈夫なのか?」と疑ってみるのです。

 方法的懐疑ですが、「方法」を決めて「疑ってみる」という意味です。その方法は「疑わしいものは全否定する」というルールです。そして以下のようにしました。

①外界を疑ってみる。太陽とか犬とか・ ・・・・人によって違うし怪しい  ⇒全否定
②肉体的なものを疑ってみる。色とか暑いとか・・どうも同じではない怪しい ⇒全否定
③理性(数学)的なものも疑ってみる・・・・・・・どうも怪しい       ⇒全否定

 疑ってみると全てが疑える。だから全否定になった。
その状態で「疑えないものは無いか?」と考えてみた。
すると、「疑っている私が存在する」のだけは確かだった。否定できなかった。

 だから、「疑っている私が存在する」を成り立たせている、「明晰判明な認識」が疑えないし、否定できない。逆に寝ぼけている私は「明晰判明な認識」がない。

 そして、ここからがデカルトの本領発揮ですし、日本人には不思議な所ですが、「明晰判明な認識」とは「神」であり、「神」から与えられた精神的なもの、生得的なもの、となります。デカルトは順番を入れ替えたのです。

言いたいこと: 神⇒理性(明晰判明な認識)⇒私
方法的懐疑 : 神←理性(明晰判明な認識)←私

 具体的な説明では、赤いチョークを取り挙げました。朱色のチョークと赤いチョークを2本上げて、朱色のチョークを「赤いですか?」と聴きました。赤いと手を挙げた学生さんが3割、赤くないと挙げた学生さんが4割でした。このように色は人によって違ってくるので疑いがあるのです。デカルトはこういう色を全否定しました。他に、戦争や交通事故で手を失った人が、無い手が痒(かゆ)い、という感覚を持つそうです。感覚も全否定になります。デカルトは戦争中に冬で休戦している時に方法的懐疑をしたのです。少し付け加えると、デカルトはある王室の女王に朝5時から講義を行っていてコロンとなくなってしまったそうです。朝寝の習慣があるデカルトには強いストレスだったのでしょう。

―近代哲学と近代科学の違い

 「イデア(数学)  ⇒   物体」

 が哲学の原理として示されました。物理学の原理とは全く違う原理ですが、原理と呼びます。

 「数学化していく物体」を探求するのが近代科学
 「数学から観るイデア」を探求するのが近代哲学

 と分かれたのです。
科学哲学の分野で一般的に言われるのは、この近代科学と近代哲学をごちゃ混ぜにする議論です。プラトン主義がなければ近代科学が出てこなかったでしょう。しかし、プラトン主義を理解しなければ近代科学が理解できない、という議論や、西欧が近代科学を生み出したから優れている、という議論は誤っていると高木は考えています。しかし、文系の人々でそういう人々がいるのも事実です。これに対しては、「では、日本人はプラトン主義を理解していないけれども、自然科学で画期的な発見を行っている」、「では、日本人には自然科学が充分に理解できていないのですか?」という反論があります。もう整理すれば、

 「物体を数値で現す」

 とは宗教的動機であって、その結果は誰でもが利用できる、という言い方になります。サンピエトロ寺院は宗教的動機によって装飾されていますが、その美しさはローマ・カトリック以外の人々も感動を呼び起こしますし、中に入って休憩することも出来るのです。

 ローマ・カトリックにおけるプラトン主義とアリストテレス主義は今回は割愛します。

 以上です。

 
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