論文「人間のあり様としてのネット社会」

人間のあり様としてのネット社会

高木 健治郎

Internet society in a form of human being

Kenziro TAKAGI

Abstract
The penetration rate of cellular phones, personal computers and other mobile devices have reached almost 100% in Japan, and their lives are connected with Internet on daily basis. It shows a part of the transitions that this society has been going through since the late 20th century, which is a change of focus on the heavy industry to development of the information society.
Internet society is generated by the development of information technology, and its unique space where the general public can have access to various communication services is called “Cyburbia (the suburb of internet society)”. Prominent example for this is “MIXI” the Japan’s largest SNS (social network service), and Twitter, Personal Blogs, and Niko-Niko Douga. Along with analysis on the current conditions of “Cyburbia”, the comparisons and common communication perspectives between “real” and “Cyburbia” world are introduced with examples. I believe that “Internet society in a form of human being” would appear. Furthermore, I point out differences between my perspectives and conventional and prejudiced interpretation as a cause for emerging “Internet society in a form of human being”. Lastly, I’d like to indicate a fresh view to breeze into today’s Internet society as well as the entire Japan.

1. はじめに
本論は、「人間のあり様としてのネット社会」を書き出すのを目的としている。なぜなら、ネット社会はこれまでの数々の経緯から対象範囲が偏った解釈がなされてきている。対象範囲の偏った解釈とは、技術論に基づいた楽観主義的解釈や社会心理学的観点に基づいた悲観論的解釈などを指す。ネット社会に深く関わるがゆえに批判されている人々がいる。彼らはネット社会が日常社会と異なった本質を持っている、あるいはネット社会に関わると影響される、という解釈に基づいて批判される。本論は、ネット社会に関わったとしても人間のあり様は変わらない、という立場に立ちたい。
携帯電話やパーソナルコンピュータやモバイルが日本人のほぼ100%に普及し、私たちは日々ネット社会に関わるようになった。20世紀後半から日本社会が重工業社会から情報社会 へ移行する変化の一部である。ネット社会とは情報技術の発展によってもたらされた社会である。さらに、ネット社会の中でも特に、一般の人々の日常的なやり取り、数々のコミュニケーションの交わされる場所を、「ネット郊外(Cyburbia:サイバービア)」と呼ばれている。その代表例は、日本最大のSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)の「MIXI」や「ツイッター」や「個人ブログ」や「ニコニコ動画」などである。「ネット郊外」の現状を述べつつ、非ネットの、つまり現実の日常的なやり取りや数々のコミュニケーションとの共通点を具体的に挙げたい。そこに「人間のあり様としてのネット社会」が現れてくる。次に、これまでの偏った解釈との相違点を挙げながら、「人間のあり様としてのネット社会」が生じてきた原因も指摘したい。さらに、この立場から現在のネット社会を含めた日本社会に、新しい視点を提示したい。

2. 情報社会におけるネット郊外
 まず、最初に述べておかなければならないのは、「情報社会」、あるいは「情報化社会」という語彙の範囲は限りなく広い点である 。さらに、「情報」という言葉そのものが多義的である。
 通信工学者クロード・シャノンが論文「情報理論(information theory)」で「情報」の数学的記述を行ったが、「情報」が社会学的意味内容へ転用され、あるいはコミュニケーション理論で使用された。この経緯に「情報社会」の多義的な原因がある 。問題は、「どこまで情報か」という点である。例えば、0と1の信号に置き換えられたものを「情報」と呼ぶならば、デジタルカメラの撮影が可能な殆どの物質的事象は「情報」と捉えられる。対して、社会学的に述べられる「経済情報」のような非物質的事象まで含める場合もある。こうした経緯は、他の単語でも見られる。
 以上のような言語範囲の広さを前提として述べてきたい。次に、本論で指す「ネット社会」について述べたい。私たち日本人の実態に注目すれば、携帯電話の普及率が90%を超え、PCの普及率も50%を超えて久しい。2010年11月現在は、ipadなどが現在熾烈な販売合戦を繰り広げている。これらの道具を使ってアクセスする空間を「ネット郊外」と呼びたい。同時に、これに経済活動や公的な活動などの社会性を含めた場合は、「ネット社会」と呼ばれる。「ネット郊外」はネット社会に含まれる一部なのである。
 20世紀中盤から自動車や電車が都会と郊外を分けたように、20世紀後半から携帯やPCはオンライン世界を作り出し、オンラインとオフラインと分けた 。家庭用自動車の普及によって郊外の大型駐車場を完備した大規模店舗で買い物をするようになり、日本全国で駅前の商店街が寂れた。同じく、ネット社会の普及によって実際の店舗を構えないオンライン上の銀行や個人商店やアマゾンなどの大規模店舗を出現させ、買い物ができるようなった。書籍に絞れば紀伊国屋を始め各書店、さらに小規模な各大学の出版会までもがオンラインでの注文を受け付け、実際に購入できるようになった。同様に、オンラインでは場所や活動時間などが限定されていた人々は、何時でもアクセスできる「個人ブログ(Weblog=ウェブでの記録)」やSNSなどを通して場所や活動時間の制約から解放された。日本最大のSNS「MIXI」は、場所や活動時間がズレ、連絡が取りにくくなった中学や高校などの元同級生とのコミュニケートする場として大いに受け入れられた。相手の活動時間を拘束する電話機能よりも何時でも返信が出来るメール機能の利用率が高い。私たちはゆっくりとネット郊外に日常的なコミュニケーションを分散させてきている。この意味でネット郊外は、まさに情報社会が生み出した私たちの生活する場所なのである。

3. 「ネット郊外」に対する2つの解釈
「ネット郊外」について大きく2つの立場がある。その1つが梅田望夫に代表される肯定論である。IT企業の最先端で活躍した梅田氏が目の当たりにした現場や技術的な発展を根拠に論じている。「ウェブ2.0」という標語は2006年のIT業界を一色に染め、経済各紙で特集が組まれるなど社会全体が情報社会に期待をよせる原動力を作った。梅田氏は個人ブログが日本でも2005年(出版時最新のデータ)で500万を超えた例を挙げ、以下のように「ネット郊外」について述べる。
「これまでモノを書いて情報を発信してきた人たちが、いかに『ほんのわずか』であったかということに改めて気づく。そしてその『ほんのわずか』な存在とは、決して選ばれた「ほんのわずか」なのではなく、むしろ成り行きでそうなった『ほんのわずか』なのだ。」
そして高校・大学時代で優秀だった人々を思い出し、彼らの中でモノを書いて発信してきた人が少ないことから、今後、ブログが多くの人々に普及していく効果に期待する。ブログと同じ観点から、パーソナルコンピュータを私有した世代に焦点を当て、経済活動の新たな可能性に言及する。さらにグーグルという会社の方向性を挙げつつ新しい民主主義や知の再編成にも期待を寄せる。子供たちに向けた「これから素晴らしい時代がやってきていて、そういう時代を生きる君たちが心からうらやましい」 という言葉に代表されるような肯定的な評価をネット社会や「ネット郊外」に与える。
もう1つの立場は、「ネット郊外」の現在の姿に着目して、やや否定的な評価を下す立場である。情報社会で多くの情報に個人個人がアクセスできるようになり、真の民主主義が成立する、と考えていたサンスティーンに代表される立場は、ネット社会や「ネット郊外」の現状、つまり、日常的なやり取り、単なる噂話や暇つぶしで過ごしている現状に危惧や危険性を見てとるのである。ユルゲン・ハーバーマスらは、民主主義社会の維持のためには公共の場での市民の対話が大切である、と述べており、その後、ネット社会の可能性と特徴について各論が積み重ねられてきた。ネット社会が普及した現在、ハーバーマスの主張するような成果が得られておらず、サンスティーンは「反対意見へのアクセスを義務化する」 という立場を、同じ問題に対してレッシグは「結果的に民主主義に沿うようにアーキテクチャを設計する」という立場を採って、真の民主主義の実現を計る。また、サンスティーンに詳しい鈴木謙介氏は、ネット社会において、一人一人の情報がデータベースへと登録される点に注目し 、「ネット郊外」の現状について以下のように分析している。
「・・・紙のアドレス帳に友人の住所や電話番号を書き記していくのとは、おそらく質的に異なった時代を招くからだ。そのことについて理解するためには、そもそも電子化されたデータベースが、どのような特性を持っているものなのかについて知らなければならない。・・・(中略)・・・電子化されたデータベースの特徴は、そのデータ構造と、そこから来る検索性の高さにある。・・・(中略)・・・あらゆる友人が、ひとつのデータベースに収められ、フラットに並んでいるというところに意味があるということだ。・・・(中略)・・・これまでにも多くの論者が、若者のやりとりする、往々にして無内容なメッセージについて、時に批判的に語ってきた。曰く、絵文字などで本音を隠した、表面的なメッセージにやりとりが蔓延することによって、若者の友人関係が希薄である、等々。
 そうした説教じみたメール論とは裏腹に、彼らのやりとりする無内容なメッセージは、互いが<繋がりうること>の確認作業として行われる、一種の儀礼だと考えられる。今は特に用はないけれど、いつか何かの機会に連絡を取る必要が生じるかもしれない。そうした<繋がりうること>を確保するための作業として、彼らのメールコミュニケーションは必須のものだと言えるであろう。」
 2つの立場に対してもう1つの立場を本論では提案したい。それは「人間のあり様としてのネット社会」である。これは「ネット社会、あるいはさらに狭い意味での「ネット郊外」は私たちの日常生活の現れである」という立場である。2つの立場と異なる理由はそれぞれあるが、大きくは対象範囲が異なるからである。梅田氏の説明は若い10代の可能性、さらに経済活動やビジネスモデル、技術革新のスピードなどを対象としている。この点において梅田氏の説明は当を得ている。他方、生まれながらに個人所有のパソコンや携帯電話がなかった世代も「ネット郊外」で過ごしている。本論はこうした人々が、「ネット郊外」にもコミュニケーションの場を広げていった理由を探っていきたいのである。
また、サンスティーンに代表される立場は、特定の思想的背景を前提として理解しなければならない。この点で対象範囲が異なる。第二次世界大戦時、ドイツの空爆を防ぐために開発されたシステム、その後ノイマン型PC、冷戦構造の中で生み出されたインターネットなどは軍事目的から創られ利用されてきた。この軍事目的から脱却したい、という思想的背景が込められている。冷戦構造の中で東西両陣営が「官僚主義」という特徴を持ち、それが真の民主主義を抑圧していると考えていた。この両陣営の「官僚主義」を脱却する道具としてサイバースペース、あるいは「ネット郊外(サイバービア)」を使用しようとした。「ニューレフト」や「ヒッピー」などと言われる立場は、シリコンバレーを作り、20世紀後半のパソコンの爆発的普及やインターネットの構築に大きな功績を残している。しかし、日本では特定の政治的思想に賛同してインターネットの普及や利用率が向上した訳ではない。限定された思想の対象範囲ではなく、思想的に中立な、あるいは無色な利便性や経済活動によって普及したのである。本論は利便性や経済活動によって普及した理由を探るという点で、サンスティーンに代表される立場とは目的の対象範囲が異なる。現在の日本の「ネット郊外」には大勢の人が押し寄せている現状は、「マス化(大衆化)」である。こうした点において1.はじめにで「対象範囲が偏った解釈」という表現を使用した。
次に、鈴木氏と大きく異なるのは「『近代化』とは何か」、同時に「『「近代的自我』とは何か(「脱―社会化」された個人が成立するか否か)」という点になる。次章で具体的に「ネット郊外」の利用を挙げながら具体的に述べていきたい。ここでは鈴木氏の先ほどのメールに関する文で一旦、終わりたい。鈴木氏は「そうした説教じみたメール論とは裏腹に、彼らのやりとりする無内容なメッセージは、互いが<繋がりうること>の確認作業として行われる、一種の儀礼だと考えられる。」ことが、ネットワーク上のデータベース化によって生じると考えている。しかし、本論では「やりとりする無内容なメッセージによって、互いが<繋がりうること>を確認する儀式」というのは、情報技術によって作り出されたものではないと考える。普段、私たちがご近所さんや職場の同僚と「お元気ですか?」や「こんにちは」と挨拶を交わすが、そのやりとりする言葉は何かの意見や確固とした理念や思想のぶつけ合いを目的としていない。むしろ、「いい天気ですね」などの言葉は「やりとりする無内容」である方が好まれる場合がある。私たちの日常生活の会話は、友人であることや顔見知りであることを、つまり「互いが<繋がりうること>を確認する儀式」に他ならないのではないだろうか。この点においてネットワーク上のデータベース化は係わり合いがなく、メールを始めとする「ネット郊外」と日常社会は、ツール(道具)が異なるだけなのである。「ネット郊外」また、若者の世代と他の世代の「互いが<繋がりうること>を確認する儀式」の相違があるとするならば、日常生活の実態的な相違の現れではないだろうか。
 
4. 「ネット郊外」の現場
次に、「ネット郊外」と日常生活との関わりを検討するために、「ネット郊外」の具体例を挙げて観ていきたい 。
日本最大のSNSはMIXIで、アカウント数3300万人を超える。当初、MIXIは18歳以上でかつ、招待されて初めて入れる限定性を有し、利用者の殆どは実名であった。限定性を有しながら、中学や高校の顔見知りや友人と卒業後もつながっていられるという日常的な世界の要求を満たすことから爆発的に増えていった(現在は非限定)。イギリスで最初に広がったSNS「フレンズ・リユナイテッド」は、一組の夫婦が学校時代の級友たちの現状を知りたいという好奇心から2000年に立ち上げ、1年で250万人までに急増した。世界最大のSNSのFacebookは5億人を超えており、ハーバード大学の学生の交流が当初の目的で、現在でも本名で登録が行われている。このようにSNSは当初、日常生活の要求に上手に満たすことによって受け容れられていった。
平成22年11月現在、MIXIではSNS上の友人(マイミク)と一緒にゲームが楽しめるようになっている。ネット経由で一般の人々が行うやりとりを「ピアツーピア(P2P)」というが 、:その代表例は「サンシャイン牧場(540万人)や「みんなでケンテイ(539万人)」で、友人と一緒にする方がゲームの結果が良くなるように出来ている。また、主なコンテンツは日記で、友人や他人の日記に感想を書く機能「コメント」やクリックするだけで「いいね」という評価が付けられる機能がある。友人と雑誌や雑談をしながら「それっていいね」や「こう考えるのか?」や「うんうん」などの相槌という日常会話と同じ機能が中心になっている。こうしたコメント機能やクリックによる評価機能はSNSに広く散見され、個人ブログなどでも多くが取り入れている。写真や動画の閲覧サービスなどもありMIXIはネット上で日常会話を代行する機能を取り入れることで会員数を増やしてきた。
ツイッター(twitter)は、もっと狭い場所での会話=独り言に近いものを聞くようなもので、過去に書いたものは殆ど残らない。友人と酒を飲みながら、くだらない話をするような、さらにパーソナルな日常会話をネット郊外に移した機能を有している。津田氏は、ツイッターで実況中継を創始し、その行為が「tsudaる」と本人の名前が付くほどツイッターに詳しい。彼は、ツイッターを「思考や感情をP2Pでゆるやかにつなぐサービス」 と述べている。さらに、特徴である140字という字数制限について「人間の多面性が表現でき、つぶやく人間のパーソナリティを浮き彫りにするプラットフォームにしている」 と述べる。個人ブログやSNSにもリンクしているツイッターは、このように日常会話の機能を場所や時間に捕らわれない範囲に広げることによって爆発的に現在も普及している。また、その広がるスピードの速さから地震情報の拡散などを目的として経済産業省などで積極的に導入されている。
ニコニコ動画は、友人宅でTVを見ながら、あるいは居酒屋で一発芸を見ながら、ワイワイ言い合う、という日常生活をネット郊外に移したと製作者はコメントしている 。YouTubeは、「自作のビデオをネットで簡単に交換しあえるようになったらいいね」 という何気ない会話から始まった。ネット社会以前に、お気に入りの曲を編集して友人に渡したり、お気に入りの本を友人と貸し借りしたり、という「ピアツーピア」がYouTubeの出発点であり、ネット社会を押し広げる原動力になっている 。
以上が、個人ブログ以外の主な「ネット郊外」の場所である。「ネット郊外」も日常生活と同じく、世代や性別、文化的関心などによって加わるコミュニティが異なっている。「ネット郊外」において世代などで利用者が偏るコミュニティの具体例を1つ挙げたい。「クックパッド」という料理のレシピ検索サービスは月間619万人(2009年3月)が利用しているが、一般のユーザーはレシピを検索するたけでなく、投稿して自分のレシピも公開できる。「クックパッド」は30代女性が中心に利用しており、30代女性の4人に1人が利用していると言う 。このように「ネット郊外」では特定の年齢層サービスに集中する現象はしばしば見受けられるが、これは日常社会の人間のあり様の現れの証左となるのではないだろうか。また、ニュースに対して短い感想を一覧できるサービスであるSBM(ソーシャルブックマーク)がある。特定のニュースに関心のある人々が集まって利用する。これもまた「ピアツーピア」によるサービスで、新聞を読みながら友人や職場の人々と語り合うことを「ネット郊外」に移したサービスである。
MIXIが普及した後、ローカルのSNSが登場しつつある。2006年1月には地域限定SNSが13サイトであったが、7ヵ月後には120サイトを超えて、かなりの速度で増加している 。これらの地域限定SNSでは、初期のMIXIのように限定的な招待制度が多く見られ、兵庫県の数千人の会員数を有する「ひょこむ」は、「防災」や行政施策など行政との連携にも乗り出している。こうした地域限定SNSは、現実の日常生活の要望を上手に満たしており、「ネット郊外」と日常生活がよりよく融合している実例である 。現実の日常生活の要求の現われが「ネット郊外」を普及させている実例でもある。本論の検討している「人間のあり様としてのネット社会」の意味は、日常生活が「ネット郊外」、あるいは経済活動などと含めたネット社会の現状を左右し、その人間のあり様に共通点があるという意味である。

5. 「ネット社会」と日常生活の相違点と共通点
日常生活とネット社会には大きな共通点がある。ただし、ネット社会では日常生活では求められがちな、一貫性を持った個人の統一的なアイデンティティが必須ではない。ネット社会の場所、場所によって個人情報が自由に作成可能で、「キャラ的自己モデル」が生れる。この点について、コミュニケーション・モデルを分析する社会学者辻大介氏は、「多元的自我」を模式図化している。「遊びに行く場所によって友人を選ぶこと」が多元的自我の代表例であり、同時に携帯電話の利用率や新しい特徴をもつ若者語の使用頻度に有意な相関を学生調査の上に分析している 。こうした「一貫性を持つ自我」と「多元的自我」の問題や匿名性という幻想などには留意が必要である。
また、これまで述べてきた「ピアツーピア」は、元来、一元的な管理されていないネットワークを指す用語であったが、現在は、ネットを介した一般の人々のやり取りの全てを指す言葉となっている。日常社会では非言語的コミュニケーション要素の多さや一貫した自我の要求、紹介者、社会的地位など個人と個人のコミュニケーションはある程度保障されている。けれども、ネット社会では、メールやテキストなど言語コミュニケーションの場合が殆どで、「キャラ的自我」が作られやすく、また紹介者がないことが多く、そうした直接的なアクセス方法によるトラブルが生じやすい。
社会とテクノロジーに詳しいジェイムス・ハーキンは1996年に事実無根の誤ったメッセージが数百万人に転送された事件を取り上げ、「互いに強く結ばれたグループの人々同士であれば、メッセージを受け渡す前にその意味と信憑性を十分に吟味したかもしれないが、いまや人々は、メッセージをすぐだれかに受け渡したいというサイバネティックス的衝動に駆られて信憑性など野放しの状態になっていた。」 と述べる。しかし、人間は重工業化社会やそれ以前の軽工業や農業社会から、事実の定かではない噂話や都市伝説のように信憑性が疑わしい話を「弱いつながり」を介して伝播させてきている。ハーキンの実例は、ネット社会の特異な現象とは言えないのではないだろうか。
この点を具体的に検討したい。日常社会とネット社会に共通する性質をネット郊外にだけ押し付ける傾向についてである。ネット社会に詳しい荻上チキ氏は、学校裏サイト(荻上氏は「学校勝手サイト」と呼ぶ)での現状を丁寧に調査し分析した後、「それは(ネットいじめ)すでにケータイ自体の問題ではなく、固定化された人間関係をいつまでも『切れない』ことが問題だとわかるだろう。」 と述べている。学校裏サイトそのものが問題なのではなく、学校における関係がネット郊外に移っただけである、と指摘している。学校裏サイトでのいじめは、これまで学校の中で、例えば校舎の裏や空き教室や階段など大人から見えにくかった場所から、「ネット郊外」に移っただけであり、むしろ「ネット郊外」はサーバーに記録が残る分、見えやすいと指摘する。この「ネット郊外」の特徴である記録が残る、それゆえ見えやすい、という点からさらに共通点を探っていきたい。
 日常社会では、大人数の集団になると他の1人1人とのつながりが希薄になる。それによって他者と関係を持ちづらくなり、下部のコミュニティがよく作られる。大企業での同期入社の飲み会や、担任制のクラスがなくなった大学でのサークルや研究ゼミなどである。あるいは県人会など大人数の集団の中では、こうした下部コミュニティがよく作られる。ネット社会でも同様で、MIXIやそれに次ぐGREE(グリー)など大型SNSでは、趣味や出身校、地域、年代、名前などのあらゆる要素で下部のコミュニティが作られている。通常、利用者はこの下部のコミュニティに数多く参加する。また、ニコニコ動画では動画UPLOAD者(動画投稿者)が主となってコミュニティが作られたり、特定の趣味趣向で別のSNSが作られたりしている。前章で述べたコミュニケーションの要素だけではなく、コミュニケーション集団の構築に関しても日常社会とネット社会は共通する性質がある。
現在、TVゲーム機の多くは「ネット社会」に接続している。TVゲームの代表であるWii(ウィー)はショッピングや出前やニュースが利用可能である。PS3やXBOXでは、ネット郊外で友人を作れる。友人になれば、その後「ネット郊外」で待ち合わせをして、共にゲームが可能である。さらに、そのゲームをしている様子を配信するUST(ユーストリーム)がある。ゲームをしない視聴者はコメント機能で会話に参加して楽しむ。子供たちが友達と家に集まり1台のTVゲームでワイワイと遊んでいたものが、ネット郊外で現実に顔を合わせたことがない人と友達になり1つのゲーム世界でワイワイと遊べる。そこには「多元的自我」などの違いはあるにせよ、日常社会の人間のあり様と共通の性質がある。

6. 日常社会と「ネット郊外」の「フィードバック・ループ」という共通点
梅田氏の標語や肯定論が経済各紙で特集が組まれ、社会全体で注目された理由の1つは、「ロングテール」などの新しいビジネスモデルの提示によっている。これまでマーケティングの分野では、「20%の富裕層が、富全体の80%を持っている」という社会調査から、マイナーを数本よりも大ヒットを1本作る方がよいという「パレートの法則」 が認められてきた。GoogleやAmazonのビジネスモデルは「パレートの法則」を打ち破り、これまで売り上げに貢献してこなかったマイナー部分から多く売り上げる「ロングテール」を成功させた 。他に「ターゲット広告」や、あるいは「ターゲット広告」による二次的なビジネスの成功例なども新しいビジネスモデルを提示している。新規のビジネスモデルであるGoogleは、創立13年足らずで収入2兆円、株価時価総額20兆円に迫り、日本最高の株価時価総額を誇るトヨタ自動車など抜いて成功を収めている。
ビジネスの観点からネット社会の特徴は数々挙げられていきているが、本論では人間のあり様から観た日常社会とネット社会を検討していきたい。ネット社会と日常社会の最も大きい共通点は、「フィードバック・ループ(feedback loop)」である。電気システム工学で使用される場合、「フィードバックとは、あるシステムから発生した情報に対して即座に応答しそのシステムに返される情報であり、ループはそれを可能にする取り決め」を意味する。この言葉が社会学的に曖昧に転用され、ネット社会のコミュニケーションの大きな要素として挙げられている 。具体例を挙げれば、SNSにおいて「他人の日記に対して書き込み(あるシステムから発生した情報に対して即座に応答)をし、当人からの返信が書きこまれていくこと(そのシステムに返される情報)」が「フィードバック・ループ」という意味で使用されている。こうした「他人の書き物、言葉、その他の表現に対して当人からの返信が書きこまれる」という要素は、個人ブログでのコメント機能やMIXIで評価「いいね」を付ける機能などに観られる。また、動画に目を向ければ、「動画UPLOAD者に対してコメントをつける」や「動画UPLOAD者のコミュニティの中でコメントをやり取りする」、ツイッターでは「他人のつぶやきに対してつぶやき返す」のが「フィードバック・ループ」であり、数多くのコミュニケーションに見られる。現在、「ネット郊外」で使用される「フィードバック・ループ」は、特段の意味を示さず、双方向的なコミュニケーションという意味とほぼ同じく使用されている。それは本論の柱である「人間のあり様が日常生活でもネット社会でも共通する」ことに新たな視点をもたらす。「日常生活の人間のあり様がネット社会に映し出されている」という視点である。つまり、「日常生活の人間のあり様」を、つまり、日常社会の何気ない挨拶やコミュニケーションをネット社会でも行いたいからではないだろうか。これらが要因となって、電気システム工学の言葉が曖昧に援用されたのではなかろうか。ネット社会、あるいはコミュニケーションの場としての「ネット郊外」では、MIXIやツイッターなどで挙げたように、相手からの情報に対して即座に反応可能なコミュニケーションを前提としている。「おはようございます」という情報に対して即座に反応するのはネット社会でも日常社会でも同じなのである。そしてそれゆえに私たちは「ネット郊外」で過ごすのではないだろうか。
2週間ネット社会にアクセスしないという社会実験をヤフーの研究者が行った。すると、不便さではなくコミュニケーション・ループ(フィードバック・ループ)から締め出された感覚を訴えた人が殆どであった 。また、ネット社会に先駆けて紙面上のSNS『ホール・アース・カタログ』 が1968年に創刊されてきた。購入者は過去の他人の記事について意見を送り、興味を持ちそうな情報やツールを紹介しあった。これも「フィードバック・ループ」のシステムである。ニューレフトやヒッピーの思想を体現したこの試みは、彼らの思想に共感しない人々も巻き込み、アメリカ全土の書店で売られ、創刊から3年で100万部に達した。フィードバック・ループは日常生活から紙面上のSNSへ、そして「ネット郊外」のSNSへと広がったのである。
 他の共通点として挙げられるのは「ネットワーク効果(Networking Effects)」である。通信システムの用語でクリントン大統領(当時)とアル・ゴア副大統領(当時)がスピーチの中で取り入れて有名になった言葉である。1台の電話では接続が0、2台では1、3台では3、4台では6と増えていく。「台数に対して接続が急激に増えていく効果」を「ネットワーク効果」と言う。社会科学者マーク・グラノヴェッターは、社会の仕組みを理解するためにこの「ネットワーク効果」使用した。自然保護運動や地域保全運動などで大切なのは、友人や同僚などの「強いつながり」ではなく、あまり共通点のない、顔見知りや友人の友人といった「弱いつながり」であると指摘した。コミュニティのように「強いつながり」と同様に、社会活動では「弱いつながり」も全く別に大切であると考えてネットワーク効果を援用した 。彼はさらに、貧しい人々は「弱いつながり」をないがしろにし、「強いつながり」を大切にするから幅広い情報にアクセス出来ないと分析する。日常社会で大切なネットワーク効果を生み出す「弱いつながり」は、ネット社会でも重要視されている。SNSや各種ブログでは「お気に入り」や「リンク」という限定された情報へアクセス出来るようになっている。MIXIでは、リンク先としてニコニコ動画やYouTubeなどの動画が直接表示可能となっている。また、逆にニコニコ動画のコミュニティから、動画UPLOAD者への個人ブログや個人作品を掲載したHP、USTへのリンクなども散見される。世界最大のSNS、Facebookでは動画や画像の共有が盛んに行われている。むしろ、動画が画像の共有がFacebookを世界最大のSNSへと押し上げた、という分析もあるくらいである。この分析の是非はあるが、動画や画像を介して本人を紹介し、「弱いつながり」を広げていく点は明確である。
「ネットワーク効果」の観点から日常社会を捉えたい。ビジネスのみならず地域社会の中で、路上や各種会合や商談などにおいて、数々のつながりを介して「弱いつながり」が広がっていく。例えば、初対面の人との名刺交換が挙げられる。本人へのアクセス情報がシンプルに掲載されており、未知の人から既知の人へと押し上げる。名刺は「弱いつながり」を広げていくツールとして考えられる。もう少し身近な例を挙げれば「あの人にこんなことをしてもらった」や「この人はあの辺りに住んでいる人だよ」などの普段交わす何気ない日常会話は、「弱いつながり」を押し上げる行動である。「先日、うちの家内がお世話になったと聞いております。」という言葉が、未知の人から既知の人へと押し上げるのである。また、「ピアツーピア」も「ネットワーク効果」と同様に「弱いつながり」を含んでいる。具体的な内容については前章などで述べてきた通りである。「ピアツーピア」なネット上で一般の人々が交わすコミュニケーションを指す言葉であり、まさに、「ネット郊外」と日常生活に共通する性質と言えよう。
以上のように、電気システム工学で使用されていた「フィードバック・ループ」や、ネットワーク上の言葉であった「ピアツーピア」や、「ネットワーク効果」などの言葉は、意味内容が曖昧に広がってはいるが、現在の「ネット郊外」の特徴を指す言葉なのである。同時に、現実の日常生活と共通する特徴である。これらの共通点こそが、人間のあり様を指している。

7. 人間のあり様としてのネット社会に対する批判について
 ネット社会と日常生活の共通点よりも、むしろネット社会あるいはコミュニケーションに限定した「ネット郊外」に特別な性質があり、重要であるという指摘は、多くの論者によって説かれている。
1950年代のテレビの普及に注目したマーシャル・マクルーハンは、社会はコミュニケーションの内容によってではなく、伝えるメディアの性質そのものによって人間や社会が形作られると考えた。その具体的例として、グーテンベルグは活版印刷技術が本を普及させ、「読書界(public)」を創造したと主張している。さらにハーバーマスらはメディアとその使用が人間形態を決定するという立場を継承した。合庭惇氏は新しいメディアに必要な技術として文字のコード化などを挙げ、「異なる文化や歴史的伝統を背景にした人々が同格でコミュニケーションを行うことを可能にしなければならい」とし、「地球上に生きる人々のもつ『文化の複雑性』に配慮しながら、少数国家による集中を排除したオープンなシステムを維持することが求められている。」 と述べる。このようにメディアや人間や社会へのマクルーハン的捉え方はネット社会への思想的展開を生んでいる。この思想的展開は、メディアそのものの形態が人間や社会に大きく影響を与えるとしており、それゆえ、ネット社会と日常社会の間の相違を強調する根拠となっている。
 今一度、具体的に「ネット郊外」の歴史的変遷を振り返れば、約70年前に端を発する。起源はサイバネティックスで、第2次大戦中にドイツ空軍の爆撃機を撃墜させるための対空砲システム(「フィードバック・ループ」システム)の手段に過ぎなかった。その後、冷戦構造の中で軍事活用される方向へと進む。1960年代末期にはアメリカの反官僚主義的な「ニューレフト」やヒッピー的な運動家たちがSNSの前身を紙面で作り、新しい技術を使って反官僚的な、時に反戦的な思想を体現した。現在、MPU(CPU)の放熱問題やHDの読み込み時間の遅さなどから技術的問題を抱えているが、ハードの進歩によって「ネット郊外」は、現在も拡大し続けている。
 ハーキンは、以上の変遷を振り返り「サイバネティックスのもっとも大きな問題は、人間であることがどういうことかをあまり考慮していない点にある」と述べ、「(爆撃機に対応するために情報ループが必要である。) だが日常生活で情報ループに対応しながら素早く行動しなければならない人(例えば、携帯メールを直ぐに返さなければならない人)などほとんどいない。」 としてマクルーハンや、新しいメディアの可能性を探ったウィーナーを批判する。この批判はマクルーハンの「メディアが人間を規定する」という論に対して「メディアの規定に合わせられるほど人間は強くない」という論であり、現在のネット社会の現実を分析した結論である。さらに、ハーキンは「ネット郊外」に私たちが依存する原因として、日常生活よりも強烈で型破りさに惹かれるからである、と結論づける 。
 こうした経緯を踏まえた上で、本論では「人間のあり様からネット社会」として解釈しなおしたい。ハーキンの主張するように「日常生活で情報ループに対応しながら素早く行動しなければならない人などほとんどいない」けれども、私たちが「ネット郊外」過ごすのはサイバービアの強烈で型破りさに惹かれるからではない。これまで具体的に観てきたように、私たちがネット郊外で過ごすのは、新奇性の高い情報や強烈な刺激だけを追い求めているのではないことは明らかである。サンスティーンからすれば、真の民主主義を実現しえないもどかしさが残るかもしれないが、SNSの広がり方や「フィードバック・ループ」などは、まぎれもなく「人間のあり様として『ネット郊外』と日常生活」の共通点である。インターネットが普及すれば多くの情報に市民がアクセスでき、より多くの真実が明らかになると考えるサンスティーンは、権力の濫用や社会正義の実現を期待していた。政治改革や暴露話などの「新奇性の高い情報や強烈な刺激だけ」を常に求めてはいないのである。現実のネット社会で私たちは、噂話や日々の身の回りの出来事の関わりに多くの時間を費やしている。これは、一般の多くの人々の日常生活が、つまり私たちの現実の日常生活がそのような身の回りの出来事に時間を費やしているからである。インターネットという技術が私たちの本質的なあり様を素晴らしい方向へと変える訳がない、と本論は考える。同様に、私たちのあり様を悪い方向へと導く訳でもない、とも考える。携帯メールという技術が若者を悪い方向へと導く訳ではない、のである。私たちが携帯電話や携帯メールやブログの更新やコメント付けをし、ツイッターにはまるのは、それが日常生活との共通点があるからなのである。
ただ、この指摘が有効なのは、一般の多くの人々が「ネット郊外」にアクセスしている、つまり、「マス化」した場所においてである。「ネット郊外」の人口構成が比較的高い技術レベルを要求された80年代から90年代までは、個々のレベルの高さを要求するサンスティーンの思想的前提が成立可能性を帯びていたであろう。同様に現在でも人口構成を限定することでも可能性を帯びる。また、これらは、多くのネット社会に関する議論に見られるのではないだろうか。鈴木氏はメールに関して「今は特に用はないけれど、いつか何かの機会に連絡を取る必要が生じるかもしれない。そうした<繋がりうること>を確保するための作業として、彼らのメールコミュニケーションは必須のものだと言えるであろう」という指摘をした。この指摘から<脱―社会化>していくことにつながるのか、本論のように「そもそも人間のあり様として当然である」なのかは異なる。その相違は、対象範囲によって原因があると推測される。本論は、現在のネット社会が明らかに「マス化」しており、「そもそも人間のあり様として当然である」と考えるのである。荻上氏のネットいじめに関する詳論と本論が共通するのは、この「マス化」の視座である。この「マス化」から本論とは異なる解釈への地平が開けてくると思われる。
「マス化」という捉え方は、オルテガの『大衆の反逆』によって先駆的に示されており、根本的には近代によって合理化し得ない人間の部分という問題につながっていく 。この点で鈴木氏とは袂を分かつ。本論で使用してきた「人間のあり様」は、オルテガの「人生においては『環境が決定する』というのは誤りである。むしろその逆である。環境とは常に更新するジレンマであり、われわれはその前に立って決断しなければならないのだ。しかも決断するものはわれわれの性格である。以上述べてきたことはすべて、集団的な生にもあてはまる」という言葉から導かれる用語である 。ハーバーマスやサンスティーンらの理想が得られないのは、オルテガの言う「環境」、すなわち技術が「ネット郊外」を決定しえないからである。ネット社会と同じく20世紀前半に「マス化」によって奔流した「大衆」が合理的な行動をとらない、という実情をオルテガは指摘していた。また、この点を踏まえて「ネット社会」の今後について、漸近的な改良を目指したカール・ポパーの「ピースミール社会工学」 をもとに今後、検討していきたい。

8. まとめ
 これまで「人間のあり様としてのネット社会」を様々な面から書き出してきた。まず、ネット社会を捉える立場として2つの立場を述べた。Googleなどネットビジネスの成功と革新的な技術的発展に基づく肯定論、他方、「ネット郊外」の軍事的な利用を転換しようという思想的背景に準拠する広い意味での否定論である。両論共に対象範囲が偏った解釈と考えて本論を提示した。対象範囲が偏った、というのは大勢の一般の人々がネット社会で経済活動を行い、コミュニケーションをしている現状を踏まえている。ネット社会が、あるいはそのコミュニケーションの場としての「ネット郊外」が、軍事目的や反動としての政治目的に限られていた時代、特殊な知識がなければ「ネット郊外」に接続できなかった場合には妥当性を持っている。
 20世紀中盤から自動車や電車が都会と郊外を分けたように、20世紀後半から携帯やPCはオンライン世界を作り出し、オフラインとオフラインを分けた。家庭用自動車の普及によって郊外の大型駐車場を完備した大規模店舗で買い物をするようになり、日本全国で駅前の商店街が寂れた。同じく、ネット社会の普及によって実際の店舗を構えないオンライン上の銀行や個人商店やアマゾンなどの大規模店舗を出現させ、買い物ができるようなった。携帯電話やパーソナルコンピュータが日本人のほぼ100%に普及していく流れを捉え、「ネット郊外」で過ごす時間が増えている現状を把握するためには、新しい観点が必要である。大勢の人々がなだれ込む、いわゆる「マス化」によって生じる観点である。その時、ネット社会を捉えるためには人間のあり様が非常に重要なキーワードになってくる。それを探るため、国内外のSNSやツイッター、動画サイトや動画配信サイトの具体的な現状を取り上げた。さらに、大量に出来たSNSの中から日本ではMIXI、世界ではFacebookが普及した理由として、日常生活の要求を新しい技術で満たすことに焦点を当てた。この点について、Youtubeが創られた動機やヤフーの社会実験など数多く補足した。
これらから浮かび上がってきたのは、「人間のあり様は日常社会もネット社会も変らない」という結論である。両社会の共通点として、「フィードバック・ループ」や「ネットワーク効果」や「ピアツーピア」を提示した。さらに、コミュニティが大きくなれば下部のコミュニティが出来る点などについても共通点として取り上げた。また、シャノンの「情報」、電気システム工学の「フィードバック・ループ」などの言葉が曖昧に社会学へ転用された点についても、日常生活の人間のあり様がネット社会に移っていく過程で生じたのではないか、という指摘も付け加えた。
 最後に、これまでの2つの大きな立場に再び戻り、「人間のあり様としてのネット社会」をさらに詳しく位置づけた。1つにはメディアによって人間や社会が規定されるというマクルーハンらの立場に対して、オルテガのメディアのような環境はむしろ常に更新するジレンマである、という考え方を置いた。この考え方を基本線として、ハーキンの「日常生活では直ぐに情報ループ(例えば携帯メール)を返さなくてもよい」が、「『ネット郊外』に私たちがひきつけられるのは強烈さや型破りな点にある」という議論を紹介した。本論は、「日常生活では直ぐに情報ループ(例えば携帯メール)を返さなくてもよい」が、「『ネット郊外』に私たちがひきつけられるのは日常生活と数多くの共通点にある」と結論づける。
 また、サンスティーンのように「大量の情報に多くの人々がアクセスできるようになり、真の民主主義が実現可能になる」という技術論と思想的背景を持った議論からは、ネット社会の現状が否定的に映る。彼は、「結果的に民主主義に沿うようにアーキテクチャを設計する」と主張してあくまでも設計的な要素に、政治的目的を流し込もうとする。本論の主張、「人間のあり様として日常社会とネット社会が変らない」という観点からすると、真の民主主義を成立させようとするのならば、私たち自身のあり様を変えなければならない。真の民主主義とは優れた制度や革新的な技術だけでは成立しないのである。社会設計の点については、カール・ポパーの「ピースミール社会工学」、すなわち、社会を漸近的改良しようとする方向を参考にしながら、今後検討していきたい。ネット社会におこる様々な問題や事件は、日常生活の私たちのあり様と密接に係わり合いがある。この点は、ネットいじめに詳しい荻上氏の「ネットいじめは学校における関係が「ネット郊外」に移っただけ」という指摘に沿うものである。
 最後に、本論の広がりについて述べたい。「人間のあり様としてのネット社会」という視点は、数々の広がりを持つが、その1つとしてネット社会を通したコミュニケーションが挙げられる。例えば、失業や退職、出産などでこれまでのコミュニケーションの場、あるいはこれまで得ていた情報(ループ)から閉ざされた人々へ、新たなコミュニケーションの場や情報を提供することである。本論で取り上げた地域限定のSNSへの加入、他には再就職情報や公的な子育て情報をSNSで公開するなどである。他の例としては、中学や高校の担任制がなくなった大学などは、「フィードバック・ループ」や「ネットワーク効果」を備えたコミュニティを形成しづらい。こうしたコミュニケーションの場から外れてしまった人々は、導入のすすんでいるスクールカウンセラーにそもそもコンタクトを取ることが難しい。それゆえ、こうしたコミュニケーションの場から外れてしまった人々に、「ネット社会」を行政やNPOや大学などが有効活用して対応策をさらに講じる必要があるのではないだろうか。さらなる課題としたい。
 携帯メールやモバイルに時間を費やす人々を特別視せず、私たちの人間のあり様の1つとして捉えて、積極的な関わりをしていくことが、ネット社会が普及した現在の日本において大切ではないだろうか。
 以上が「人間のあり様としてのネット社会」である。
 


1 「情報社会」を指す用語として「informationized society」ないし「information society」が主に英字新聞などで使用されているが、語源が日本語の「情報化」にある、との指摘がなされている。公文俊平編「『リーディングズ』pp.31-32 また、「情報」の定義付けの難しさは、pp.14-25で述べられている。
2 本論では、情報「化」社会は、ハードの普及と共にソフトの形成がなされていく「過程」、つまり「変化」段階を指す言葉として使用するが、情報社会に該当する。
3 西垣通『ウェブ社会をどう生きるか』 pp.112-117。また、その原因として、一神教的な文化背景と生物と機械の違いを指摘している。
4 ノーバート・ウィーナーは「ニュートンの時間とベルクソンの時間」『サイバネティックス-動物と機械における制御と通信』第2版 p.48で「18,19世紀を蒸気機関とするならば、20世紀は情報と制御の時代である」と述べている。本論は社会に普及という次元に焦点を絞る。
5 梅田望夫『ウェブ進化論』pp.137-138。
6 梅田望夫・茂木 健一郎『フーチャーリスト宣言』。
7 キャス・サンスティーン『インターネットは民主主義の敵か』。
8 鈴木謙介『ウェブ社会の思想』pp.16-17。 
9 鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』pp.121-125。
10 以下、平成22年11月現在の数字である。
11 一元的な管理下にないネットワークを指す言葉であったが、現在はこうした使われ方をしている。ジェイムス・ハーキン『サイバービア』p.124。
12 津田大介『Twitter社会論 ~新たなリアルタイム・ウェブの潮流』p.188。
13 同上p.189。
14 佐々木俊尚『ニコニコ動画が未来を作る』pp.250-254 。
15 室田泰弘『YouTubeはなぜ成功したのか』。
16 他に「多重性:物語が同時に進行する」や「非線形性:物語の統一的なルートもなければ最終的な統一目標が不明確」なども挙げられる。
17 上阪 徹『600万人の女性に支持される「クックパッド」というビジネス』pp.15-18。
18 西垣通 同上p.158。
19 asahi.com(朝日新聞社) 2008年4月14日「広がる地域限定SNS」。
20 辻大介「若者の親子・友人関係とアイデンティティ 16~17歳を対象としたアンケート結果から」。
21 ハーキン 同上pp.132-133。
22 荻上チキ『ネットいじめ ウェブ社会と終わりなき「キャラ戦争」』p.149。また、辻氏の引用に関して荻上氏同著を参照した。
23 ウィルフレド・パレート『一般社会学提要』。
24 梅田望夫『ウェブ進化論-本当の大変化はこれから始まる』第3章や、佐々木俊尚『グーグル-Google、既存のビジネスを破壊する』第4章や、NHKスペシャル取材班『Google革命の衝撃』。
25 ハーキン 同上p.23。また、曖昧な転用は、シャノンの定義した数学的記号としての「情報」を社会学的に転用した場合に酷似している。
26 同上p.28。
27 現在復活し、ネット上で「Whole Earth Catalog」が公開されている。 http://www.wholeearth.com/index.php
28 ネットワーク効果については、ノーバート・ウィーナー『人間機械論 第2版』。
29 合庭惇『情報社会変容―グーテンベルク銀河系の終焉―』pp.99-100。
30 ハーキン 同上pp.288-290。
31 同上p.292。
32 オルテガ『大衆の反逆』 特に7章。
33 オルテガ 同上p.91。
34 KARL R. POPPER the poverty of historicism.


引用文献
1)合庭惇『情報社会変容―グーテンベルク銀河系の終焉―』 産業図書 2003年。
2)ウィルフレド・パレート『一般社会学提要』名古屋大学出版会古典翻訳叢書 1996年。
3)上阪 徹『600万人の女性に支持される「クックパッド」というビジネス』 
角川SSC新書 2009年。
4)梅田望夫『ウェブ進化論-本当の大変化はこれから始まる』 ちくま新書 2006年。
5)梅田望夫・茂木 健一郎『フーチャーリスト宣言』ちくま書房 2007年。
6)NHKスペシャル取材班『Google革命の衝撃』新潮社 2009年。
7)荻上チキ『ネットいじめ ウェブ社会と終わりなき「キャラ戦争」』 PHP新書
 2008年。
8)オルテガ『大衆の反逆』 桑名一博訳 白水社 1999年。
9)キャス・サンスティーン『インターネットは民主主義の敵か』 毎日新聞社 2003年。
10)公文俊平編「『リーディングズ』 NTT出版 2003年。
11)佐々木俊尚『グーグル-Google 既存のビジネスを破壊する』 文春新書 
2006(平成18)年。
12) 佐々木俊尚『ニコニコ動画が未来を作る』 アスキー新書 2009年。
13) ジェイムス・ハーキン『サイバービア』 NHK出版 2009(平成21)年。
14) 鈴木謙介『ウェブ社会の思想』 日本放送出版協会 2009(平成21)年。
15) 鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』 講談社現代新書 2005年。
16) 辻大介「若者の親子・友人関係とアイデンティティ 16~17歳を対象としたアンケート結果から」 『関西大学社会学部紀要』35巻2号 2004年。
17) 津田大介『Twitter社会論 ~新たなリアルタイム・ウェブの潮流』 洋泉社 
2009年。
18) 西垣通『ウェブ社会をどう生きるか』 岩波新書 2007年。
19) ノーバート・ウィーナー「ニュートンの時間とベルクソンの時間」『サイバネティックス-動物と機械における制御と通信』第2版、池原ほか訳 1962年。
20) ノーバート・ウィーナー『人間機械論 第2版』鎮目恭夫・池原止戈夫訳 1979年。
21) 室田泰弘『YouTubeはなぜ成功したのか』 東洋経済新報社 2007年。
22) asahi.com(朝日新聞社) 2008年4月14日「広がる地域限定SNS」。
23) KARL R. POPPER the poverty of historicism: ROUTLEDGE & KEGAN PAUL, London 1960.


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