哲学8-1 ソクラテスの真なる目的とは

 皆様こんにちは。立冬を過ぎてすっかり冬らしい風と雨になってきました。日本の四季は何千年と同じく周っているのが実感できます。この四季の実感が大きな文化を生み出し、思想を生み出してきたことを述べきましたが、今回はさらにそれを否定しようとしたソクラテスの真なる目的に踏み込んでみたいと考えています。よければお付き合いください。
 最初に宿題レポートの解答を挙げ、次に講義内容となります。

 -宿題レポート-

題1 血液型占いに自然科学上(医学上)の根拠がないことを述べよ。次に、根拠がない(真がない)血液型占いが社会で受け入れられている理由を述べよ。

題2 日本は何世紀から「信仰の自由」が保障されていたか。具体的な事例を挙げて説明しなさい。

―宿題の高木の解答(解答例)―

―問1の解答

 血液型占いが自然科学的な根拠ながない理由は、まず、統計的に示されている。心理学上の実験で統計上有意な結果が出ていないのであす。さらに、血液型の要因が環境によって発現していないとの説には、物質上の根拠で反論できる。例えば、南米のある国ではB型が90%を超えている。同時にアフリカの黒人はA型が多い。環境によって発現していないのだとするならば、これらの例では環境による性格の特徴が現れることになる。しかしながら、集団全体の心理学的特徴は、文化や歴史などによって大きく左右されることが知られている。
 また、ABO血液を決定する物質が脳内に入っていないことも大きな補足になるであろう。ABO血液が性格に影響を与える、という考え方はABO血液が脳内に別々の刺激を与えているという暗黙の前提を含んでいる。しかし、これは否定されてしまう。これに対して発現しているかもしれない、あるいは血液脳関門を通じて間接的影響を与えているかもしれない、という説を唱える人もいる。こういう「という可能性があるかもしれない」という論法は、学問的な検討とは言えない。「事実より出発する」というのが学問なのである。「可能性」によって「発見されていない」という事実を否定することは出来ない。
 さらには、ABO型の含まれる免疫系の分類は、数百や数千に及ぶ。これらの内の1つだけが影響を及ぼすという物質科学上の根拠も発見されていない。
 以上のことから、血液型占いは性格に影響を与えるという自然科学上の根拠がない。

 しかし、社会生活では「血液型占いによる性格判断」は受け入れられている。なぜならば、社会コミュニケーション上の道具だからである。天気の話題、血液型占いの話題、星座占いの話題などは、他人との交流を図る際に適切な話題なのである。それは、

①相手の気分を害する可能性が極めて低い 
②当人に責任がない
③万人に該当し、かつ分類数が3以上

 の理由からである。これに反する話題として「結婚」の話題がある。離婚している者は結婚の話題は気分を害する可能性がある。さらに、当人が有責である場合もありえる。このような話題は、他者と親しくなる過程を阻む要素となりえる。「結婚したのに子供はまだ?」などの話題で女性が傷つく、という話はよくある。
 しかし、血液型が何型であろうが、当人の責任ではないし、気分を害する可能性は極めて低い。他者と親しくなる過程で重要なのは会話の内容ではなく、会話しているそのこと自体なのである。「そういえば今日はあの人と話した。明るく話せた」が重要なのである。天気や星座占い、血液型占いもこれに該当する。ご近所さんと家の前で出会い「今日もいい天気ですね~」、「そうですね~」と返すことと同じである。その時に「現在の政権の善い所はどこでしょう?」という会話の内容を問う話題は、不適切な場合が多い。
 私は、外務省主催のある国際会議の手伝いをした。その際、首脳クラスの人々が「音楽や絵画などの話」をするのを不思議に感じた。国益に関する会話が優先されると想っていたからだ。しかし、国益を代表するからこそ、こうした話題が必要になることを理解した。国益は互いに衝突する。だからこそ、片方で争いながらもう片方では人間性という部分で手をつないでいないとならないのである。そうならなければ、国益のぶつかり合いは直ぐに戦争を引き起こす。
 他者と親しくなる過程で重要なのは会話の内容ではなく、会話しているそのこと自体なのである、というのはこうした国際関係でも成立している。
 であるならば、相手から「血液型何型ですか?」と聞かれた場合、相手の意図は「もう少しあなたと仲良くなりたい」という無意識のアピールなのではないだろうか。深読みであろうか。

問2 2673年以前

 日本の皇室が権力から離れて権威になっていった、という歴史を前にお話しました。その物語があります。天照大御神の孫、邇邇芸命(ににぎのみこと)が日本列島に降りて来ました。その時に既に人がいました。出雲大社の人々です。この人々は「権力、武力」で支配をしていました。「うしはく」と言います。これに対して天照大御神の孫、天孫は正統性で支配しようとします。出雲大社の人々は、正統性を持った天孫に国の統治を譲ります。「国譲り神話」として敗戦前は良く知られていました。ですから、皇室は「権力による支配」よりも「権威による正統性の付与」という役割を与えられている、という物語がありました。これが後に日本史(国史)の中で、数々の苦闘と苦難、努力を重ねて日本の来歴になっていくのです(来歴については前に述べています)。もう1つ、国を譲った大国主を皇室は大切にしたのです。ですから、出雲「大」社、

同じく大国主を祭る諏訪「大」社、

に「大」の字がついています。大国主と皇室の祭る神様は別の神様です、当たり前ですが。そして出雲大社では二礼二拍手一礼ではなく、二礼四拍手一礼のように参拝方法も違います(古来はさらに拍手したと言われています)。出雲大社には皇室と同じほど由緒ある家が現在も続いているのです。世界最古の家系と次の家系は日本にあるのです。それは宗門(宗教)が違っても信仰が自由である、という何よりの証拠なのです。
 また、皇室が日本の統治権を得た時、出雲大社の人々を奴隷にしたり、差別したりしなかったのは、当時の世界の歴史の中で驚異的です。ヨーロッパは中世になっても近世になっても、宗教が異なるユダヤ教徒やイスラム教徒を差別していたのです。他宗教に寛容であったイスラムは、ユダヤ教徒に余分な税金を払わせることでこの問題を乗り越えていました。イスラム教の地域が十字軍でローマ・カトリックに支配されると、途端にユダヤ人や他の召集宗教を抑圧していきました。
 しかし、日本では2000年以上前に、「信仰の自由」が保障され、しかも、譲られた恩を忘れなかったのです。その後、仏教が流入してくると、皇室は率先して仏教に帰依しました。多くの天皇陛下は仏教徒となりました。そうした影響もあってか、日本では神様も仏様も同じである、という考え方が定着してきます。日本には来歴として「信仰の自由」を持ったのです。これが日本の歴史です。
 ただし、2点補足する点があります。

―キリスト教禁止?だったのでしょうか?

 戦国時代末期に豊臣秀吉に始まりキリスト教が日本で禁止になりました。その理由を聞いたことがあるでしょうか? 単に「キリスト教禁止になった」だけではないでしょうか。キリスト教は禁止していません。オランダはキリスト教の国です。しかし交易を認めていました。キリスト教が禁止ならオランダとは交易をしていはいけないはずです。
 豊臣秀吉がキリスト教を禁止した理由から行きましょう。戦国時代のキリスト教は日本を支配するためによく研究していて、キリスト教を仏教の一派として紹介しました。比叡山を信長が焼き討ちしたのは、「坊主が武器を持ち、政治に関与してはならない」というのを破ったからです。本願寺という宗教団体が、武器を持ち政治に関与して日本を不安定にしていたのを何とかしたかったのであり、宗教そのものを禁止したのではありません。信長はその後、本願寺を抹殺しなかったのは歴史が教えてくれます。宗教が禁止だったのではなく、宗教団体の行為が反社会的だったからです。信長は日本に平和を取り戻したかったのです。その平和を求める理想に多くの武将がついていきました。
 秀吉も同じです。キリスト教教団は、日本人を信者にした後船に載せて、東南アジアで奴隷として売り払っていました。宗教の力で信者にして奴隷にして売り払う。これはアフリカやインドだけではなく、日本に対しても行っていたのです。ですから、キリスト教が禁止なのではなく、キリスト教教団の反社会的行為が禁止だったのです。

―西欧の信仰の不自由の由来

 当時のキリスト教はローマ・カトリックとプロテスタントが世界中で戦争をしていました。日本はそのどちらの側にも加担したくなかったのですが、どちらの側も当時世界最強の日本軍を味方に引き入れたかったのです。全ヨーロッパの銃の量よりも日本一国の銃の量の方が多かったと言われています。その駆け引きの中で、徳川家康はプロテスタント側にだけ貿易を許します。そしてキリスト教の教団の活動、布教活動を認めませんでした。なぜなら、布教活動は日本人を奴隷化する手段だったからです。世界中でキリスト教は奴隷化に使われていた客観的事実を知っていたのです。奴隷貿易はアフリカだけではなかったのです。日本にも一時来ていたのですが豊臣秀吉や徳川家康という優れた権力者が、それを防いだのです。アフリカでは奴隷貿易に積極的に加担する権力者がいました。他の宗教の人々は奴隷にしてよい、という物語は『聖書』の中にありますが、これを来歴にしたのは西欧特有の事情がありました。特有の事情は破門されたローマ・カトリックなどで述べましたので割愛しますが、そのローマ・カトリック教会が「キリスト教徒以外は人間ではないので奴隷にしてよい。土地も奪って良い」という勅令を発しています。これは1999年まで有効だったのです。同じ物語を持ちながら他のキリスト教会やイスラム教は奴隷をする正義の根拠としなかったのです。
 ここに見られるのは「信仰の自由」ではなく、「信仰による差別」です。これが解消されていくのは、第2次世界大戦を経てからになります。西欧ばかりでしたが、朝鮮半島では高句麗で仏教だけが認められ、道教などは正式には認められず差別されました。儒教を選んだ李氏朝鮮になると仏教は差別されました。寺は壊され仏像は焼かれました。ですから、対馬にその時に仏像がやってきたのです。この仏像は、1つはお寺から、1つは神社から盗まれたものです。仏教と神道の区別さえも問わない、という意味ですから、「信仰の自由」だけでなく、「信仰の融合」さえ起こっていました。

―なぜオランダは交易を認められたか

 少し宗教の話になります。オランダはプロテスタントでした。プロテスタントの特徴は「予定説」です。「予定説」とは、「神に救われるか救われないかは予定されている」という説です。つまり、産まれた瞬間に天国か地獄かが決まっているのです。ですから、ローマ・カトリックのように布教活動に熱心ではありません。そこを理解して徳川家康はオランダに交易のみを認めるのです。簡単に言えばプロテスタントなら日本人を奴隷化しない方だ、という訳です。考えてみれば、フランスやイギリスなどは宗教が違えば同じキリスト教でも殺し合いを数百年続けたのですから、「信仰の自由」があるはずがありません。この1例を取っても日本が「信仰の自由」があったことが判ります。

 もう1点、明治政府で「信仰の自由」が脅かされました。明治時代には「信仰の自由」が脅かされました。日本をより強い国にして西欧列強の植民地主義に対抗しなければならない、と考えて、そのために皇室を中心にしようという力が強くなりました。そのため、神道と仏教を切り離し、仏教を貶(おとし)める政策が取られてしまいました。「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」と言います。神社の中にお寺があり、お寺の中に神社があったのです。これが分離され、仏教寺院などへの圧力を掛けられたのです。仏教のお寺が江戸幕府の戸籍管理をするなどの行政を担っていたなどの理由もあり、明治政府は日本の国史の伝統にない廃仏毀釈を行ってしまったのです。それは皇室が篤(あつ)く仏教に帰依してきた伝統を見ず、権力の中心としての皇室作っていこうという運動でもありました。その後、徐々に権力と皇室は分離していきますが、廃仏毀釈の影響は大きく、現在まで爪あとを残しています。例えば、全国の八幡神社を束ねる宇佐神宮の敷地には大きな空き地があります。神宮寺という神社の中のお寺があった場所です。
 また、アメリカの占領軍は、皇室に関わることを禁止しました。学生の皆さんのレポートでは敗戦後にアメリカが「信仰の自由」をもたらした、かのような内容がありましたが、皇室という日本の伝統文化を否定したのです。これは「信仰の自由」に反する行為です。同時に、「占領軍が被占領国宗教をいじってはならない」という国際法に完全に違反する行為です。最も分かりやすいのは、敗戦前は11月23日は新嘗祭(にいなめまつり)と言い、新米などの豊穣に感謝する日でした。

しかし、それが神道に関わるというので、名前を「勤労感謝の日」としたのです。なぜ、勤労感謝の日が11月23日なのか?と考えなければ判らないようになっています。このようなことは沢山あります。そして日本人はこの問題を見ないように、取り組まないようにしてきました。現在の日本の課題は、これらの問題を放置し続け、アメリカに従属していれば良い、という生き方をしていることです。そしてここに、ソクラテスが問題視した哲学の出発点があるのです。問1は哲学の出発点を聴くという意図がありました。

 以上が問2であり、レポートの高木の解答である。次は講義内容。


 -講義内容-

本日の問題

問1 自分か失敗した時、反省する基準をロゴスとノモスで書いて下さい。
問2 どういう人が社会全体にとって害がある人でしょうか
問3 感想

解答例(高木)

問1 ロゴス「ご先祖様に恥ずかしい」、ノモス「人に嫌われる」
問2 意志薄弱で能力や地位などが高い人
問3 ロゴスとノモスの説明が不適切、不十分でした。


 ―ソクラテスの真なる目的

 血液型と今回の話はつながってくるんですが、そのソクラテスの真なる目的について述べていきましょう。前回のソクラテスは国を愛していて何とか立て直したかった、という話だけを聴くと、ソクラテスは政治家、になってしまいます。政治家だけになってしまいます。政治を変えたいんですから。そこから入ってきましょう。
 ソクラテスの対象は、ソフィスト(知識人)の宣伝やそれに動かされて反省しない民衆やその政治体制でした。ソクラテスの対象はさらに一歩踏み込んだものでした。そこから一歩踏み込んだのです。「ソフィストと民衆の全員が同じ考え方に染まっているから駄目だ」と踏み込んだのです。これは現在の日本でも同じです。

―自然(フュシス)とは(講義中の例「遺伝」などが判りずらかったようで改定しました)

 対象は自然です。詳しく述べていきます。

 自然(フュシス):自(おの)ずから然(しか)るある

:つまり、物質的自然ではありません。心と体、と対比される体=物質的自然ではありません。現在、二酸化炭素排出による地球温暖化説が騒がれていますが(私は偽科学と考えています)、その対象である地球の自然=物質的自然ではありません。

意味:少し難しくなりますが、後で例を出します。
① :「自分によって(自ずから)自分が存在する(然るある)」の意味です。
② :「自分が生成の原因、あるいは運動の原因を自らの内にもつもの」の意味です。
③ :つまり、「本性」、「本質」というものです。それがそれを成り立たせているもの(=自然)です。
 ここから、次の意味も出てきます。
④ :事物一般の本来あるべき意味。一切の存在者の真のあり方

 具体例①
自然(フュシス)=「physis」は、「phyeithai(フユエスタイ)」という動詞から出来ました。動詞の意味は「成る」、「生える」、「生ずる」、「生成する」の意味です。古代ギリシャ人が考えていたのは、「星は自ら生じた」や「四季の移り変わりは、(人間に関わりなく)四季そのもので存在する」と考えたのです。同様に「潮の満ち引き」や「植物の成長枯衰」や「動物の生死」も「潮」や「植物」や「動物」そのものの中に原因があると考えたのです。存在する全ての物が自然の原理によって支配されている、と感じていたのでしょう。

 具体例②
具体例①と反対の例を出してみましょう。二酸化炭素排出による地球温暖化説は、「人間が自然の状態を壊している」という前提で話が進んでいます。これは「地球が自らの内に秘める原因、あるいは運動の原因(=自然)」に反するから悪いのだ、と考えます。つまり、「自然に反するから悪いのだ」という意味です。私が思想的に批判している点はこの点です。では「自然を加工した工作機器、電気、ガス、水道、自動車の全てが悪いことになる。なぜなら人間が創りだしたものは、自然に反するから」である。さらには、「温暖化してなぜ悪いのか?」もあります。「温暖化すれば水分が蒸発して雨が降り耕作地域が増える」かもしれません。地球全体の耕作地域はすでに限界にきており年々僅かに減少しているのです。人口増大に伴う農作物が取れなくなれば、第3次世界大戦の主な原因になるでしょう。「温暖化してなぜ悪いのでしょうか?」という学術的思考は受け付けません。単に「温暖化が悪い」と言っているのです。異常気象が起こる、と言う人がいますが、「異常気象は単に1回2回のことであり、温暖化は平均的な現象」という学問の基礎を理解していません。人間が時々、40℃の高熱を出すことと、体温が平均36度から37度になることは全く違うのです。話が少し横道にそれました。
 私達の体温は平均35-37度にあるのが自然だ、というのは、私達の体の構造が「35-37度になる」という運動を内に持っているから、という意味です。

 具体例③
本性や本質は耳慣れた言葉でしょう。物質の本質は原子です。人間の動きの本性は、その人の心です。目に見える色々な存在者の後ろに、それを生み出し動かすもの=本性や本質がある、という考え方です。その本性や本質を「自然」というのです。もう1度書いてみましょう。「自分が生成の原因、あるいは運動の原因を自らの内にもつもの」。古代ギリシャの星座占いも、星座の本質が私達の社会に影響を与えている、と考えているから出くるものです。血液型占いも、血液型という本質(自然)が私達1人1人の性格に影響を与えていると考えるから成立するのです。

 具体例④
ここからは逆の発想になります。「自然(本質)⇒存在者」が「存在者⇒自然(本質)」となるのです。そのように考えるのが存在者の本質として自然である、と主張します。「そう考えるのが自然だね」や「そうするのは不自然だよ」です。事物一般の本来あるべき姿を指します。
 ある国会議員が天皇陛下に政策批判を書いてある手紙を渡しました。その時、周りの人々は「ギョッ!!」とさせ、顔をこわばらせました。それが不自然だからです。園遊会という政治に関わりのない場であったこと、もう1点天皇陛下に政治上の問題を提起したことです。それが日本社会のおける本来あるべき姿から外れていたので、「そうするのは不自然だよ」と感じたのです。その時、「天皇陛下への政治上の問題提起は請願法によって内閣に提出すべき」だから、ある国会議員の行為にギョッとし、顔をこわばらせたのではないでしょう。私達は、そうした共通に理解している「本来のあるべき姿」を持っているのです。この「本来あるべき姿」が人間世界だけではなく、世界にあてはめるのが「自然(フュシス)」なのです。もう少し説明します。
 ライオンは肉食です。ライオンが肉を食べるのは本来あるべき姿です。ですから、ライオンが肉を食べるのは自然だ、となります。ライオンが石を食べるのは「不自然」なのです。①~③に戻れば「ライオンは肉を食べるように生まれ、肉を食べるように行動している」のが自然となります。まとめると「物質的自然ではなく、人間の感覚に基づく万物一般のあり様が自然(フュシス)」なのです。以上の言葉を踏まえた上で、次の言葉を見てみましょう。

「自然とは、人間や都市国家、神々でさえも同じ(自然の)原理によって支配されていると感じていたのでしょう」

 古代ギリシャ人の感じていた世界が少しだけでも垣間見えたでしょうか。現代の日本でも通じる感覚だと思います。老子「無為自然」や朱子学の「自然」、松尾芭蕉「造化にしたがひ、造化にかへる」、親鸞「自然法爾(じねんほうに)」、安藤昌益「自然真営道」(次回述べます)なども近い感覚です。また、日本の物語が書いてある『古事記』では、2番目3番目に登場する神の御名が「タカミムスヒノカミ」と「カミムスヒノカミ」です。前に国歌「君が代」で「ムスヒ」を説明しました。この「ムス」とは「成る」や「生む」の意味です。2柱(神様は柱で数える)の神で2つの原理で生み出されるのです。最初の神は「時間空間を生み出す神(原理)」です。

―ロゴスとノモス

 自然(フュシス)が万物一般のあり様、ですから、それに沿うことが善になります。それに沿うか沿わないか、の基準があります。ライオンが肉を食べるように秩序=ロゴスがあります。星が北極星を中心にして回転する、という秩序=ロゴスがあります。それぞれの星が1つ1つバラバラに、そしてランダムに動き回る訳ではないのです。四季の移り変わりも、必ず春⇒夏⇒秋⇒冬⇒春となっています。春⇒冬⇒秋⇒春⇒夏というバラバラ、そしてランダムではないのです。その四季の運行に合わせて、植物は花を咲かせ、実を付けます。動物はそれらを食べて生活します。これらには秩序=ロゴスがあります。つまり、

 ロゴス(Logos):自然(フュシス)より生成され運動する存在者が持つ秩序

 多くの意味で使われます。支那や日本では単に「理」や「法」や「理法」などで使われますが、こちらも多義です。先ほど、「自然(フュシス)」が時代や社会を超えていることを述べました。「人は大自然から生まれてきて、大自然に還る」という言葉から、「大自然に従って生きる」が出てきますが、この「従って生きる」が「ロゴス(理法)」に対応するものです。「従って生きる」ことが善である、という意味も出てきます。
 人は人から生まれます。決してライオンや桜からは生まれません。それが「自然(万物一般のあるべき姿)」だからであり、人から人が生まれる、という秩序=ロゴスに従っているからです。人は独りでは生きていけません。ですから、人を愛し、同時に人と争うように秩序=ロゴスがあるのです。しかし、ここから曖昧さが出てきます。

―ロゴスの欠点

 ロゴスに従う、と言いますが、実は欠点が出てきます。ロゴスは曖昧さ、成り行き任せな面があるのです。人を愛し、同時に争う、と言いますが、では「どのように愛したら善いのか?」という目標を決めることが難しくなります。「どのように」や「どうやって行けば善いか」という積極性、計画性などが入り難いのです。なぜなら、どのような状態であっても「それは自然だよね」とか「それは当然だよね」と言ってしまえば、肯定できてしまうからです。ロゴスの欠点は全ての現状を肯定できることです。
 現代日本では電車は正確に時間通り運行されていて世界中から絶賛されています。しかし、日本にいれば「それが自然だよね」や「それは当然だよね」となります。他方、他の国では「正確に時間通りに運行されないことが当たり前」なのです。「それが自然だよね」となるのです。その訳として色々挙げることは出来るでしょう。「荷物の積み込みの仕組みが悪い」とか「電車の職員の給料が低くて職業モラルが低い」とか「そもそも電車はそういう仕組みが前提で運行されている」とかです。こうなると、

「電車が正確に運行される」⇒「それは自然だよね」
「電車が正確に運行されない」⇒「それは自然だよね」

 となってしまうのです。全ては成り行き任せ、現状肯定になってしまう欠点があります。ソクラテスがアテナイのソフィストと民衆全員を、つまり民主政治を根本的に批判したのも、この「成り行き任せ」や「現状肯定」にあったのです。哲学的に言うと、ソクラテスはアテナイの人々の世界観、万物一般のあるべき姿を批判したのだ、ということです。

―ロゴス(理法)と現在の「理性」の意味の違い

 以上のことから、自然(フュシス)の秩序としてのロゴス(理法)は、現在の私達が使っている「計画」や「目標」などとは違うことが判ります。アルバイトや仕事で「売り上げ目標100万円」と計画して、ではどのように仕事を改善するか、という「目標」設定とは異なるのです。「電車は正確に運行される」ように計画しなければならない、というのは理性です。ロゴス(理法)は自然(フュシス)から生じる秩序なのですが、「何が自然なのか?」という定義付けがなく、それゆえロゴスも曖昧なままなのです。古代ギリシャの、あるいは世界中の「自然だよね」という考え方には、このような曖昧さがあるのです。

―現代日本の自然の二重性

 現在の日本でもこのような曖昧さがある一方で、世界一正確な電車の運行が行われています。この点は日本の素晴らしい特徴であると、はっきりと判ってきます。現代の日本人の多くは、「日本を独立国、日本は世界平和に貢献するために強い国にする」と「日本は世界の中で弱い国で良い。軍隊もいらない」という明確な目標で政治家に投票しません。けれども、電車は正確に運行されなければならないという明確な目標を掲げて実行できるのです。ロゴスの二重性が現代日本の特徴なのかもしれません。

―ノモスとは

 ロゴスは自然(フュシス)から生み出される秩序でした。

対してノモス(nomos)は人間世界で生み出されたものです。言い方を替えれば人間だけの特別な性質を指します。人間だけが各自の判断で「ロゴスから逸脱できる」と古代ギリシャの人々は考えたのです。ですから、ノモスとは人間社会に特有なもの、特有な価値判断を指します。ロゴスという自然の秩序から逸脱したものをノモスと言います。ここから、ノモス=仮象(仮の現象)が出てきます。
 「人間は自然から生み出された存在者であるのに、その秩序(ロゴス)から逸脱しているノモスは、仮の現象に過ぎないのだ」というのです。
 人間社会では人間だけの判断基準で価値判断や意味が決定されています。人間社会だけで考えると、有効性や力だけで判断することになります。法律や習慣や制度、民主主義や専制主義なども有効性や力だけで判断するのです。「有効性」や「力」などは曖昧で、当事者によって意味内容が変わりますから、どうしても成り行き任せになってしまいます。これが古代ギリシャの堕落した原因の1つであったでしょう。もう少し具体的に、古代ギリシャでも現代日本でも使われている貨幣、お金でノモスを見ていきます。

―貨幣というノモス

 判りやすい例は、貨幣でしょう。貨幣は人間社会に特有の現象で、互いの信頼によって成立しています。お札が物と交換できる、という幻想によって成立しているのが貨幣です。ですから、大震災や大災害など互いの信頼が崩壊した状態では、お札は物と交換できなくなります。震災時、お札の価値は、火を燃やすくらいしかなく、1万円相当の1週間分の食料に相当しないのです。
しかしながら、人間社会では貨幣が定着すると、貨幣そのものを追求するようになります。「お金はあればあるだけよい」と考えるようになるのですが、ロゴスと対比させると「お金とは所詮、生活していくために便利なものに過ぎない」となるのです。
現代日本で考えてみましょう。「生活していくために便利なもの」ですから、70歳、80歳になっても1000万円、1億円と多額な貯金をしておくのは、お金に執着しているからだ、となるのです(倹約が目的の場合は別として)。あるいは、結婚の時の年収が多ければ多いほど良い、というのもノモスです。例えば私は年間300万円で充分生活できる、相手は350万円の場合、余裕分150万円を入れると年収800万円あれば「生活していくには充分」になります。しかし、800万円よりは2000万円、2000万円よりは1億円の年収が欲しい、と人は、欲しい欲しい、になるのです。
自然界の動物の多くは、生存に必要な餌以上は取ろうとしません。あるいは際限なく、欲しい欲しい、と取ろうとしません。必要以上に、際限なく取ると結局餌が少なくなってしまい、長期の生存確率が低くなってしまうからです(ロゴス)。動物はこのように自然の秩序(ロゴス)に従って生きているのに、人間は際限なく欲しい(ノモス)というのです。そしてこの姿が人間世界だけのものであり、仮の姿に過ぎない=仮象であると考えたのです。人の為の世界です。「偽(にせ)」とは「人の為」と書きますから、同じような思想を共有していたのかもしれません。

―ソクラテスとノモス、全ての指導者を批判した理由

 ソクラテスは、ノモスとロゴスを含めた自然観を否定しました。成り行き任せになってしまうからです。結論は以上ですが、ここからはノモスとソクラテスを見ていきましょう。ソクラテスが無限否定性で民主主義も専制主義も全ての主義を批判したのは、所詮それがノモスだったからです。民主主義も専制主義も所詮人間が作り出した考え方に過ぎません。その人間が作り出した考え方=ノモスでは、駄目だ、というのです。ですから、民主主義も専制主義もどちらも批判の対象となったのです。全ての政治指導者を批判したのは、どの指導者も、フュシスの自然観に基づいた考え方だったからです。民主主義であるか専制主義であるか、は人間の基準、つまり有効であるか、力が伸びたか、という基準で判断していると言うのです。動物には民主主義も専制主義もないのです。その民主主義や専制主義を理由に対立して、島民の全員虐殺などを起こすのは可笑しいことなのです。少しロゴスよりになりましたが、もう少し対立させてみましょう。

―大学のノモスとロゴス

 同じように何も考えない人、何も行動しない人も批判の対象になります。この人々も人間が死ぬ、人間は独りで生きられない、というロゴスを忘れているのです。学生の皆さんは何のために大学に来たのでしょうか? 簡単に単位をとって将来お金を沢山えるためでしょうか? つまり、自分の利益の駄目でしょうか。もちろん子供の世界の内はそれで良いと思います。けれども、人は死ぬのです。そういう風に秩序(ロゴス)が決められているのです。その真なる秩序を忘れて、自分のお金だけを基準に行動して良いのでしょうか。つまり、ロゴスを忘れてノモスだけで良いのでしょうか。ソクラテスの批判したソフィストは、ノモスだけを見るように仕向けた人々でした。
 現代日本で言えば、民主党が選挙で大勝した時、「子供手当て」を目玉にしていました。つまり、「自分にお金をくれるならいい」という判断を日本国民は下した訳です。事業仕分けがありましたが、自民党時代にも経費削減で毎年5000億円かそれ以上削っていました民主党の党首交代を見れば1年程度で自民党よりもくるくると変わっていて強い基盤がないのは明らかでした。民主党が「政治主導」と言いましたが、議員の秘書やブレーンが自民党よりも少ないのも明確でした。けれども、私達日本人は「自分にお金をくれるならいい」という理由、もう1つ「自民党は駄目だから変えてみるか」という理由で政権を民主党に渡したのです。TVは麻生総理と鳩山党首の党首討論を一部しか報道しませんでしたし、内容を歪曲していました。もちろん、マスコミをそのまま信じる点でも日本国民には重い責任があります。しかし、それを反省している日本国民が果たして何割いるでしょうか。

―アベノミクスとロゴス

 アベノミクスも同様です。マスコミでは「給料が上がる上がらない」が主な基準で報じています。自分の利益になるかならないか、だけで報じているのです。他方、アベノミクスが国家の基本であり経済活動よりも優先される安全保障や領土保全に役に立っている点は報じません。判断基準は「国家の利益」ではなく「自分の利益」だけという報道の仕方をするのです。そしてそれに日本国民は相変わらず乗せられているのかもしれません。
 大学に入るのは「自分の利益」であるという行動は、子供時代の考えで良いかもしれません。しかしながら、それは「人間は死ぬ」や「人は独りでは生きていけない」というロゴスを忘れ、ノモス(人間社会の判断基準)だけに染まった考え方なのです。講義でも単に単位がもらえれば良い、ではなく、この1つの講義で1つだけでも何か覚えよう、という姿勢を見に付けて欲しいです。なぜなら時間は有限なのですから。

問1 自分か失敗した時、反省する基準をロゴスとノモスで書いて下さい

ロゴス:「真」=「人は先祖から生まれた」ですから、ロゴスでは「そんなことをしてご先祖様に恥ずかしいよ」です。「死んだ後、おばあちゃんにおじいちゃんに逢った時になんて言うか考えてごらん」という台詞になります。「その行為は自然なの?」と反省するのです。
 
ノモス:「人に嫌われるかどうか」です。「人に嫌われるかどうか」は感情です。感情は揺れ動くものです。「お金損するかなぁ」、「仕事辞めさせられるか」という判断基準です。科学技術者の倫理で大きな問題になっています。

―内部告発のノモスとロゴス

東京電力の中で変なことをやっている。ノモスという自分の利益だけを考えたら、「辞めましょうよ」とか「内部告発すること」は、「仕事辞めさせられる」のが8割です。不利益ですし、日本では内部告発は悪いイメージが付きまといます。ノモスならば決して出来ない行為です。しかし、「僕の生まれた土地が住めなくなる可能性がある」、「日本全体のために良くない」、「技術的に極めて危険である」などのロゴスから考えると内部告発は、肯定されうるのです。「私は死んだ後おじいちゃんやおばあちゃんに顔向けできないから、どうしても内部告発するんだ」という人々もいます。もちとん、怨恨などが原因の場合もあります。ポイントは、「死ぬのは自然なことである」から出発しているかどうかです。

―ロゴスと成功、イチロー選手

 「死ぬ覚悟があると成功をする」ということはよく言われます。イチローがその典型的な例だ、などという話まで聴いたことがあります。しかし、そんなことはありません。その場合の成功とは、イチローが大選手になった、とか野球史に残る偉大な記録を打ち立てたことを指します。それは所詮人間世界の基準でありノモスに過ぎません。「死を覚悟した」→社会的に成功する、というのは可笑しいのです。イチローはオリックス時代日本野球界から嫌われていました。独自の生き方をしていたからです。また他にもイチローのように独自の生き方をして目が出ずにそのまま終わってしまった野球選手が沢山いることでしょう。しかし、その選手たちは「こうした生き方でなければ俺にとって自然ではない」として頑として曲げなかったのでしょう。つまり、それはロゴスです。人には考える脳があり、意志と思いを持つのですから。そして野球選手として大選手になり、野球史に残る偉大な記録を打ち立てなくとも、当人にとって「それが自然であった」、「そうして良かった」ということは出来るのです。ロゴスに触れたからといって社会的成功(ロゴス)を獲得できる、と言えないのです。イチローは偶々だったのです。

―ダイエット、動物と人間のロゴスとノモス

 動物は本能のままに生きています。現在はボノボのように売春やホモセクシャルなどが見つかっていますが、少数です。動物は生殖行動をする時、相手に強さを求めます。

動物:強さを求める:肉体の強さ、生殖能力の強さなど
人間:強さを求めるが時として弱さを求める

 動物が強さを求めるのは、例えばオットセイが雄同士ぶつかり合い勝者が多くの雌を獲得することで判ります。鹿でも雄同士の喧嘩があります。他方人間は、弱さを求めることがあります。現代日本で思いつくのはダイエットです。適度な運動と充分な食事によって肉体的な強さが生じますが、現代日本のダイエットは、体重の数値目標、体型の整形などを目的としています。ダイエットで使われるのは、1つの食品や少数の栄養素だけに注目した栄養補助食品です。それによって体重の数値目標や、体型の整形は保たれるでしょうが(往々にして失敗するとよく聴きますが)、肉体的な強さは低下します。
 若い時は痩せていて中年になれば太るのは当然なのです。なぜなら代謝が変わるからです。けれども、体重の数値目標を若いままで設定すると、中年の肉体には「不自然」な力をかけなければなりません。つまり、ノモス(人間世界の基準、この場合は体重設定など)だけを見て、ロゴス(この場合は人間が老いること)を忘れてしまっているのです。
 体重など人間が「キログラム」を設定した数値に過ぎません。大切なのは肉体的な強さなのです。しかし、人間世界ではロゴスの理論が通らないことが往々にしてあるのです。

―整形、ボディービルダー、見た目の美しさ

整形も同様でしょう。男性ならばボディービルダーも同様でしょう。筋肉の強さを測っていたのですが、筋肉そのものの美しさを競います。油をつけてより美しさを強調するのです。しかし、ボディービルダーの筋肉は、重い物を持ち上げたり、瞬発力を生み出したりする肉体的な強さには通じないのです。こうしたものは所詮人間世界の判断基準で時代や社会によって簡単に変化します。
 中世のヨーロッパは非常に貧しい地域の1つでしたから、庶民は痩せてガリガリでした。ですから、太った女性が美しいとされていたのです。19世紀を過ぎると加工食品が登場し、砂糖や脂肪を大量に使った食品が溢れてきます。すると太った人が増えてくるのです。世界で一番太っている人の割合が多いのがアメリカで、7割にも及びます。ハンバーガーなどのファーストフードを始め、加糖ブドウ糖液が入った飲料や、ピザ、グラタンなどが日常生活に溢れています。そうなると、痩せた女性が美しい、と社会の価値判断が逆転するのです。上流階級では「スプーンを持つ以上の手はいらない」とさえ言われるそうです。
 私はカラー・コーディネーターの2級の資格を取る時、「流行色は2年前以上に決定されている」と聞いて驚きました。現代では流行色でさえ人間が意図的に作り出すのです。そうしないで流行色がクルクル変わると、大量の在庫を抱える、という業界特有の、人間社会の儲けの理由があるからだそうです。服は見た目の美しさを着飾るものに過ぎませんが、沢山お金をかけます。しかし、内面の美しさを磨く努力、肉体の強さを磨く努力はどうでしょうか。私自身の反省も込めて述べたいと思います。「人は死ぬ」というロゴスを基準にいて生きたいものです。
 これらをソクラテスは自然観も含めて否定しました。2500年経ってもソクラテスの名前が出てくるのは、現在にも通じる考え方があるからです。

―人間の付き合い方とロゴス

 私は35歳を過ぎてから積極的に講演や勉強会に行くようになりました。自分でも2つの勉強会に関わっています。そうして色々な人に逢う時に気をつけているのは、ノモスなのかロゴスなのか、ということです。
 「もっと本を売りたいな」とか「もっと多くの人を呼びたいな」とか「もっと講師料が高いといいな」という基準、つまりノモスで考えている人がいます。対して、「私はこの世界に生まれてきたので、お役に立ちたいです」とロゴスで考えている人もいます。この辺りを基準にして人との付き合い方を考えています。ですから、口数を多くする必要もないし、自分の主張を相手に押し付ける必要もありません。そういう風に考えると楽になってきました。聴かれたことには正直に答えます。もちろん、前回の最後に述べたように、相手が理解できるように相手に添うという対機説法は大切にします。

―大東亜戦争とペロポンネーソス戦争の共通点

 アテナイは扇動するソフィストと反省しない民衆による民主主義があり、第2次ペルシャ戦争に勝ち(あるいは、引き分け)でおごり高ぶりました。自分達の行いを反省しなくなり、個人の権利や利益だけを追求する社会になってしまったのです。大日本帝国も同様で、日清・日露戦争に勝ちおごり高ぶり、個人の権利や利益だけを追求する社会になってしまったのです。林平馬著『大國民読本』に描かれています。ソクラテスは何とかしよう、としました。ちなみに「大東亜戦争」と言ってはいけない、とアメリカ占領軍に禁止されました。それは「大東亜」に日本が目指したものが含まれているからです。他の戦争に使われていた「太平洋戦争」を意図的に持ってきて広めたのです。では「大東亜」の意味は何でしょうか。

―「大東亜」とEU

 「大東亜」とは「大きく東の亜細亜(あじあ)」でまとまりましょう、という意味です。現在で言えば、EUです。EUのようにブロック経済を創ってそれぞれの国が対等な国を目指しました。EUでフランス人とドイツ人に人種差別がないように、日本は日本人も、満州人も支那人も朝鮮人も台湾人も人種差別をなくしましょう、と言ったのです。現在なら当たり前でしょう。人種差別はいけないことなのです。しかし、当時、白人は世界中で人種差別をしていたのです。オランダはインドネシアで400年近く支配しましたが、一切の学校教育をしませんでした。徹底して白人の言葉と宗教を押し付けました。日本がインドネシアに行くと現地の人々の言葉を認め独立を手助けしました。日本が負けた後にオランダが再び支配しようと来ましたが、インドネシア人は自分達の手で独立を獲得しました。それは皇軍(日本軍)がインドネシアの人々が独立できるようにと支援していたからです。同時に大東亜戦争に負けた後なのに、インドネシアの独立のために日本人が一緒に戦ったのです。死んだ人々は現在でもインドネシアの独立記念日に慰霊祭が行われます。朝鮮も日清戦争の後、1000年以上の従属国から独立国になりました。独立国になった後、大韓帝国を近代化できずに伊藤博文を暗殺して(ソ連共産党のスパイの可能性が高い)、朝鮮人の強い要望の下に併合しました。アメリカがハワイを併合するのと同じような時期です。そして日本は朝鮮人に日本語を押し付けるのではなく、朝鮮人が数百年以上使っていなかった「ハングル」を探し出してきて、数千もの小学校を作り、義務教育で教えたのです。30数年で識字率は3%から60%を超えるようになったと言われています。
 朝鮮籍の男性と日本人の女性が結婚すれば日本人は朝鮮籍に入ります。日本籍(内地)の日本人男性と朝鮮籍の女性が結婚すれば日本籍に入ります。当時は、白人と被支配民族との結婚は正式な結婚と認められない場合が殆どで、このように法律上も人種差別がないのは日本だけでした。この理想を示したのが「大東亜」という意味なのです。

―世界初の人種差別等撤廃法案を提出した大日本帝国

 パリの講和会議で日本は世界で始めて国際機関に人種差別等撤廃法案を提出しました。この提案に、アメリカ国内の黒人、植民地支配に苦しんでいた黄色人種や黒色人種は希望を抱きます。日本は何度も提出し、ついに議決となります。過半数を獲得したものの議長国であるアメリカは「重要なので全会一致が必要である」と突然言い出し、否決します。もし、人種差別等撤廃法案が可決されれば、直接ではないにしろ、白人が世界の殆どを支配し現地人を奴隷化して人種差別していることの法的根拠が脅かされ、搾取しにくくなるのです。宗教的な根拠がローマ・カトリックから出されているのは前に書いた通りです。また、奴隷化した人種差別を「責任は取らないが罪は認める」とヨーロッパの国々が認めたのは、西暦2000年頃です。それまでは奴隷化した人種差別の罪を認めておらず、「人種差別は良くない」とだけ言っていたのです。 
 大日本帝国の人種差別等撤廃法案や、日露戦争で最強の陸軍を持つ白人国家ロシアを倒した日本は、白人が世界支配を進める上で極めて邪魔な存在になってきました。ですから、食料品等の輸出禁止や武器の制限などあらゆる手段で日本を挑発してきたのです。

―大東亜戦争のおごり、とペロポンネーソス戦争のおごり

 しかしながら、日本国内では日露戦争に勝ち、大正デモクラシーで海外の状況を見ないように、自分の利益だけを考えるようになってしまいました。この点はペロポンネーソス戦争と共通しています。他の点も先に箇条書きで挙げてみます。

A) 国内優先で自国の利益だけを追求するようになった
B) 民が自分の利益だけを考えて世界全体を考えなくなった
C) 自国の民主主義が最高であると海外に押し付けるようになった
D) 理想を追求するだけで外交の柔軟さを欠いた

 A)とB)は説明しました。C) です。日清・日露戦争に勝った日本は、皇室を中心とした民主主義は、(戦争に勝っただけで)世界に通じる正しいことだ、と考えてしまったのです。これは物語と来歴で説明したように、日本のようになれば、あるいは皇室を中心と知れば世界平和がくる、と考えたのです。これは日本のおごりです。現在でも支那大陸にある中華人民共和国は民主主義ではありません。朝鮮半島にある2つの国も完全な専制主義であり、もう1つは司法の独立性が怪しいなど日本とは全く異なる民主主義です。しかし、それらの国々に「いつかは民主主義になるだろう」とおごって考えたのです。
 アテナイと一緒です。アテナイも民主主義だからアテナイは発展した、として他の都市国家に民主主義を押し付けました。民主主義は物語をその人々が試練や苦悩や苦労を重ねてやっと獲得する来歴なのです。ですから、民主主義の形態は異なります。けれども、自国の民主主義を押し付けたのです。
 民主主義とは所詮人間の考えでしかありません。ロゴスではなくノモスなのです。けれども、「民主主義になるのが自然である」という錯覚、ノモスをロゴスに錯覚してしまったのです。大日本帝国はアテナイと同じ失敗をしているのです。

―日本の大きな将来の進路

 では、現在の日本はどのようにしていけば良いのでしょうか。ソクラテスを学ぶ意味は此処にあります。大東亜戦争で日本が思想的に失敗しました。単に技術や組織だけでなく。今後の日本は、皇室を中心とした民主主義を、再びアジアの安定のために押し付けていくべきなのでしょうか。経済外交だけで良いのでしょうか? それとも防衛力としての軍事同盟を結ぶべきなのでしょうか? それとも現在と同じく日本国が自分たちで考えるのを禁止し、アメリカや中国の影響下にあるマスコミの情報で踊らされ続けているだけでいいのでしょうか? あるいは日本が世界最強の軍事力を国家となり、孤立した国家になるべきなのでしょうか(武装中立)? あるいはインドネシア、ネパール、オーストラリアなどに日本軍を駐屯させるべきなのでしょうか?
 現在、日本が集団的自衛権の解釈を見直して、海外派兵しやすくなるように戻しています。朝鮮戦争では自衛隊を海外派兵して戦争に加担しています。また、現在の憲法で核武装できる、という解釈もありました。これらの解釈の戻しは、オーストラリアやフィリピンなどの大東亜戦争の敵国に大歓迎されています。しかしながら、日本の軍事問題を海外の反応を見て決める、という主体性のなさで良いのでしょうか? ソクラテスが「どうやってアテナイは生きていけばいいのか?」という問から出てきます。
 以上の2点が、日本の将来の進路としてソクラテスを考える時に浮かんできます。

―ソクラテス裁判の真なる理由 アルキビアデースと衆愚政治

 先に問いを出します。

問2 どういう人が社会全体にとって害がある人でしょうか

 沢山の正答がありますが、ソクラテスの裁判の事例で見ていきましょう。ペロポンネーソス戦争はアテナイ側とスパルタ側の戦争でした。その中で注目すべき人物がいます。アルキビアデースという人物です。
 名門、知性、美しい肉体、美貌(びぼう)、弁舌、愛嬌、激しい気質で万人に愛されました。『反哲学史』の木田元先生は「しかし、ソクラテスの教えを受けたにもかかわらず、この人にはどこか決定的に駄目なところがあったようです」と書いています。「どこか」を「意志薄弱」の観点から探しにいきましょう。
 25歳で3人の将軍の1人となりました。現在なら官房長官や財務大臣でしょう。25歳ですから凄いことが判ります。功をあせって攻撃を計画し議会も承認します。しかし、前日に酒を飲み神の像を壊します。みんなにおめでとう、と祝ってもらって像を壊してしまったのです。「そんなことはいけない!」と強く言うことが出来なかったのでしょうか。「戦争の後で弁明をします」と言って一旦は外征しますが、途中で連れ戻されます。その後の戦闘には加わらなかったものの、大失敗をして餓死者もだしました。すると追っ手を買収して、敵国のスパルタに逃げ込みます。敵国を強く憎んでいれば決して出来ない行為です。
 すると、祖国アテナイの軍事情報を売って、知性がありますからアテナイを倒す作戦を提案します。これも「このままだとスパルタに何時裏切られるか判らないぞ」と脅されて、意志が弱くて断れなかったのでしょうか。さらに、スパルタの王妃との間に子供をもうけます。眉目秀麗(びもくしゅうれい)で女性にもてたのでしょう。「王妃様、それはいけません」と断れなかったのでしょうか。すると、今度はペルシャに逃げ、アテナイとスパルタの共倒れを策謀します。これも脅されたのでしょうか。さらに、ペルシャから逃げて、アテナイの海軍基地に逃げ込み、弁舌で指揮官になり戦果を挙げてアテナイに帰還します。アテナイ市民もこれを迎えます。さらにアテナイが負けそうになると小アジアに逃げて、最後はスパルタの暗殺者に殺されてしまいます。
 私は木田先生の「どこか」を「意志薄弱」と見ました。つまり、「脅されたり強く出られたりすると断れない」という意志の弱さです。アルキビアデースは名門で知性も美貌もあるので万人に愛されるから、その意志の弱さが多くの人に影響を与えてしまったと考えます。
 ソクラテス裁判の真の理由は、アルキビアデースがペロポンネーソス戦争で拡大させ敗戦に追い込む大きな要因になったのにも関わらず、民衆が反省せずにソクラテスに押し付けたことでした。アルキビアデースがソクラテスの弟子、というだけなのです。表の理由には「青年に害悪を与えた」とあります。しかし、スパルタの王は「過去の戦争責任を問うてはいけない」と宣言しており、直接問うことは出来なかったのです。そしてアルキビアデースを将軍に選出したのも、裏切った彼を向かいいれたのも民衆です。それを反省せずに、誰に責任を押し付けようとしたのです。ユリウス・カエサルの「人はほっとすることを簡単に信じる」という言葉が大きくのしかかってきます。いつも嫌味を言っているソクラテスに責任を押し付ければ、自分達の失敗を見ないですむ、とソクラテスは処刑されたのです。これは典型的な衆愚政治です。
 
―衆愚政治と宮崎勤

 現代の日本でも同様の例があります。少し前ですが、宮崎勤(つとむ)という連続幼女誘拐殺人事件がありました。関東圏での事件で大きく報道されました。彼が逮捕され自宅に報道陣が押しかけると彼の部屋に大量のアダルトビデオのカセットテープがありました。すると、民衆やマスコミは「アダルトビデオがある人は異常になるんだ」というまことしやかなことを言い出しました。そこでアダルトビデオ規制の風潮が出来ました。しかし、アダルトビデオの普及率と性犯罪率の低下には統計的な相関関係があります。因果関係である、ということは出来ませんが、何らかの関係があると推測できます。しかし、これと逆の風潮が出てきたのです。なぜならば「アダルトビデオを規制すれば、今後このような犯罪は起きない」という考え方に民衆がほっとするからです。何か問題が起こると、それが個別事象であったとしても全体の問題として錯覚し、規制すれば何とかなるという構図が出てくるのです。この考え方が民主主義を衆愚政治に貶(おとし)める大きな原因の1つです。
 ちなみに、宮崎勤の裁判では彼のおじいちゃんの死亡が大きな原因として挙げられています。精神鑑定は2つが正反対の答えを出しましています。これを見る限り彼の個人的な環境が大きな原因であることが推測されます。しかしながら、民衆は「人はほっとすることを簡単に信じる」という態度から誤解するのです。警察が絡むマスコミの誤報は松本サリン事件などでも顕著です。
 
―3つの犯罪者のタイプ、再犯率から

 犯罪者には色々なタイプがいますが、再犯率から3つのタイプを見てみます。

A) 自己愛タイプ
 自分優先で周りを下に見るタイプですが、周り人々は自己愛の強さが見えることが多く、再犯になる可能性が高くはありません。雰囲気で「あ、この人ちょっとヤバイ」と察する能力が人間には備わっています。

B)強迫観念タイプ
 見捨てられるのならば裏切ったほうが良い、あるいは裏切って当然だ、と思い込むタイプです。1回の約束のキャンセルで「ああ、あの人は私のことを見捨てた」と思い込み、「捨てられるのならば、これくらしてもいい。あるいは当然だ」と思い込みます。勝手に脳内変換をしてしまうのです。具体例として全都道府県の旅行の話をしましたが割愛します。
 
C)意志薄弱タイプ
 アルキビアデースのタイプです。基本的に従順そうで人当たりがよく、周りから好かれることもあります。その点、A)やB)とは異なります。しかしながら、自分がないため周りに流されやすく、犯罪も誘われると断りきれなくて行ってしまいます。例えば、浮気も相手から誘われると断りきれずに行ってしまう、という具合です。そのことを付き合っている相手に責められると「申し訳なかった」と大反省するのですが、それは怒られたからであって、自分が悪かった、と反省をしません。なぜなら「自分」という意志が弱いからです。ですから、相手の怒りが冷めると責任はどこかえ消えてしまい、誘われると、浮気をしてしまうのです。A)ならば反省せずに「俺はそうしたかったんだ」とか「お前は好きではなかった」などの自己正当化に走ります。
 C)タイプは「自己反省」がないために、罪の意識が薄く再犯率が高くなります。

 学生の皆さんに見分け方を話しました。意志薄弱タイプは日常生活で見分けるのは、遅刻が多いことです。遅刻をしたことを怒ると、その場は「反省します」が、怒りが収まると見ると、また遅刻を繰り返します。自己反省がないのです。また、金銭にルーズなことも挙げられます。大分怒ってせかすと返しますが、「そんなに怒らなくてもいいのに」という一言をいうタイプです。彼にしてみれば「意志が弱い」のですから、「怒ると損」や「怒るほど力を使わないで欲しい」という思考になのでしょう。

―道元と孔子と意志薄弱

 道元が「日常生活の中の動作を大切にした」のは、このような意志薄弱を相手にしていたのではないか、と推測してしまいます。道元と意志薄弱を結びつける言葉は、「習いこれ性となる」=「きちっと習慣はきちっとした性格を作る」という言葉です。
学生の皆さん、是非ともしっかりとした習慣を身に着けて欲しいものです(高木は大分挫折していますが)。

以上です。
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