スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

哲学2-1 「私とは何か」と公平さ


 皆様、こんにちは。

 今日(10月2日)は、真夏が戻ってきたような天気でした。駅前でバスを待っている時、汗が吹き出ましたし、バスの中の気温計は32度を指していました。

 さて、今日もやっていきましょう。
出席リーダーの人数を見ますと前回と同じ数で驚きました。皆さんが書いてくれた感想は8割が「面白かった」や「楽しかった」などで、これほど好評価をもらえてびっくりしました。有り難う御座いました。今後も、身の回りの問題を具体的な例として挙げて行く、というのを続けていきたいと思います。今年度が初めてですから、参考になります。

―連絡事項
 では、講義前に伝えたいことを
① 質問をもらったのは1人だけでしたので、ブログに返信しておきました。今後、内容か深まっていくに従って疑問や意見が出てくるでしょうから、是非ともどうぞ。
② 講義ですが、どなたでも参加してもらってOKです。来週か再来週の内容は他の講義で好評をもらっていますから、是非とも。口だけではなく、私のかみさんが1歳未満の子供を保育所に預けて6回ほど聞きに来たことがあります。学生の皆さんとグループディスカッションもさせてもらいました。東日本大震災の福島原子力事故災害が起こり、急遽シラバスを差し替えて、取り上げた時でした。基本は震災前と後で同じでした。事務の方に聞いたら「先生さえOKならOKですよ。単位は出ませんけど」と仰ってくれました。参考にして下さい。

―講義内容―

 それでは講義に入ります。まず、前回のまとめからです。こういうまとめをする時に、一文で表現する、という癖を付けておくと役立ちます。
前回は、真・善・美(智慧)と日常生活
今回は、「私とは何か」と公平さ
 とまとめられるでしょう。講義を行う本人のまとめですから間違いはないでしょう。

 真・善・美として「人は先祖から生まれる」と「人は神から生まれる」という話をしました。この真は地域によって異なる、という話をしました。具体例として「お墓参り」や「彼岸花」や「茶髪やピアスはなぜ駄目か?」などを挙げました。真・善・美が私達の生活の中にあるんだ、ということをお話しました。簡単にまとめると以上です。
 今回は「私とは何か?」です。皆さんは中学校から高校にかけて「私とは何だろう?」と考えたことはないですか? 「私が死んじゃったらどうなるんだろう」とか「宇宙の果てはどうなっているんだろう?」とか「その宇宙は私が死んだらどうなるんだろう」とかを考えたことはないですか? 
早い人は6歳ぐらいで考えるようですが、これを考える時期がくるんです。それは思春期です。思春ですから「春を思う」つまり、「性を思う時期」のことです。今までは「この世界の中で自分が正しい、親が正しい、そういう正しいという属性の中で上か下か」を考える世界にいました。性が出てきたら、自分と対等の存在、しかも、自分とどうやら違う性質の存在、つまり、異性が出てくる訳です。そうするとそれをどう考えるかが出てきます。その返し刀(反面として)として「自分とは何か?」という問が出てきます。
今、インターネットで中二病といわれていますが、その一歩手前ぐらいの段階です。中二病は自分とは「どうやら自分の正しさで思い通り行かない存在があるようだ。しかし、現在の自分ではなんともならない。だから自分に空想的な、超絶的な、力がある。その空想的な力は、アニメや漫画や小説など自分で考え出した力ではない。そういう力を創造する力がないもないのです。」つまり、中二病とは「己の無力さ、あるいは己への不安や至らなさへの気づきが根本にある」のです。同時に相手が自分より力が下、あるいは上という上下の関係しかない訳です。あるいは正しいか正しくないかしかないわけです。
思春期の春を想う、性を想うとは、自分とは対等な別の存在で、どうやら正しい基準が違う(判らない)存在と向かい合うことです。そういう意味で中二病は一歩手前ぐらいの段階と言いました。自分と異質で対等な存在を求めて行く、それをどうしたら良いか、これは中々難しい問題です。「結婚とは人生の墓場」という諺がありますが、この難しさを巧く表した諺でしょう。大人になると、地域社会の人、職場の人、親類縁者など沢山の対等な存在や異質な存在の人々との関係を作ることになります。
ですから、社会全体でどのような関係が善いのか、という基準を設定することになるのです。智慧、がこうして生み出されてきたのです。

―智慧から私
ですから、智慧とは社会、文化、環境、歴史などが生み出したものなのです。この智慧から「私というものを考えよう」というのが今日です。「私とは何か」は非常に難しいな、と想われるかもしれません。もちろん、難しく述べることは出来るのですが、今の流れで判りやすく述べていきましょう。
「私とは何か?」を考える時、それは対等で異質な他人がいるのです。もしこの世界に私しかいなかったら、私を考える必要はありません。私を考えることはなかったでしょう。赤ちゃん時、お腹が減ったら泣けばいい。汚れたら泣けばいいのです。欲望だけの世界に正しいも正しくないもない。私とは何かを考える必要もないのです。
 では目の前に話を戻しましょう。今横に座っている人と比べて、自分の、自分だけのものは何ですか? 横の人が持っていなくて自分だけが持っているものは何ですか?を考えてみて下さい。ありますか?ありませんか? 自分だけのものはあるのかな?がつまり私とは何かを問いの出発点があります。

問1 自己紹介をして下さい(高木に向けて) 3行位

 自己紹介は小学校や中学校や高校などの最初ですると想いますので、したことがない人はいないと想います。で対象は横の人でも良いのですが高木にしてみます。3行ぐらい書いてみて下さい。特別なことを書かなくて良いです。普段の生活の中から哲学へつなげたいですから。

 2人の学生に前に出てきてもらって自己紹介をしてもらいました。

 敬意を込めて拍手をしました。ここで終わってしまうと哲学ではないですね。では次に、問1の自己紹介から要素を書き出してください。

問2 その自己紹介を要素にして下さい。

 要素にする、とは、スーパーのバイトは、バイト(仕事)に置き換えることです。実名は名前、とし、具体的な住所は住所、大学などは所属として下さい。つまり、概念化することです。質問はないですか? では次に、その要素を深めてみましょう。

問3 その要素が変わるとあなたは変わりますか? (その要素はあなたの本質ですか?)

 要素が変わるとあなたが変わりますか?というのを説明します。たまたまですが、10月17日に引越しをします。住所という要素が変わる訳です。では住所という要素が変わったら私は変わるでしょうか? つまり、引っ越す前の自分と引っ越した後の自分は異なる人間になっているのでしょうか? 私の名前は高木健治郎です。日本では9割以上の女性が苗字を変えるのですが、では結婚した女性は結婚前と違う人間でしょうか? そのままですね。ですからいいえ、です。

住所→いいえ
氏名→いいえ

9月27日で40歳になったのですが、年齢が変わっても私は変わっていませんから、年齢もいいえ。バイトを辞めても違う人間になる訳ではないので、いいえです。

年齢→いいえ
仕事→いいえ

こう考えると趣味、将来の夢なども同じです。私は幼稚園の時「将棋の先生」が将来の夢でした。野球選手、物理学者などに夢は変わりました。

趣味→いいえ
将来の夢→いいえ

 ここからが大事です。では、右に挙げた要素(氏名、仕事、夢など)は変わったとしても私は変わらないのですから、私の本質(私だけのもの、私とは何か?の答え)ではない、ことが判ります。仕事が変わっても年齢が変わっても、私はずーっと残っている、私は変わらないのです。
 私の中にある私でしかないもの、私そのもの、本当の私ではない、のが判って来ました。

 もう少し別の言い方をしますと、住所とか明るいとか氏名とかは他人と比べるものです。私がただ1人しかいなければ必要ないものです。私1人しかいなければ住所は必要ないものです。他人が私を認識するために住所をつけているのです。氏名だって、私だけ、一人称だけでいいのです。誰々の子供である、ということを間接的に示したり、つながり(信仰や文化や民族など)を示したりして他の人に識別してもらうためにつけるものです。だから、他人との比較の中で出てくるものですから、私にしかないものではないのです。年齢だってそうですね。39歳から40歳になって何が変わるんでしょうか。私自身は連続的に変わっているのです。私自身の実態そのものを現しているわけではないのです。あいさつも他人がいるから挨拶をするのです。欠点も他人と比較するから出てきます。「僕って暗い人間だなぁ」と想っていても、暗い人間だけの中に入ったら実は明るい方になることがあります。この学校の中で派手でもバイト先に行けば地味(じみ)ということもあります。逆もあります。
 環境によって、比較によって出てくるものは出てくるものです。表面的なものです。では私とは何ですか? 私の本質とは何ですか?
 こうやって迫っていく、迫っていく行き方が智慧なのです。色んな人が凄い苦しんで「私しかないものってなんだろう。私しかないものってなんだろう」って出てきたのです。では問にいきます。

問4 あなたの本質とは何ですか?

 その際に気をつけて欲しいのは「他人と比べる必要のないもの」です。私だけのもの、です。前に出て板書してもらいました(4人ずつ)。前回のプリントでなるほどと感心する意見や面白い意見があり、他の人の意見を見られて良かった、という感想もありましたので、今後も学生の皆さんの意見を板書してもらいたいと考えています。皆さん、いいなぁ、と想う意見があれば写してください。その際に写した人の名前を書いてください。

 学生の意見:信念、好奇心、なまけぐせ、体

それぞれ深い意見です。信念、前回のことを意識してくれたのかな、と想いますが、信念、その通りです。好奇心これもいいですね。なまけぐせ、よくわかります。自省的でいいですね。なまけぐせがない、と想っている人がいるでしょうか。体ですね、これば物質性ということでしょう。深いですね。

―自然科学からの私の本質
 色んな答えがこれまでに出てきたんです。どうしてか、というと人間は肉親を失うからです。大切な人を失うからです。そうすると、大切な人がいなくなってしまった時、つまり物質のつながりが無くなってしまった時、全部なくなってしまうのか? これは現在の自然科学の考え方です。つまり、私の本質というものは物質的なものに依存していて、物質が無くなったら、霧散してしまったらあの人は全くなくなってしまう、という考え方です。
ですが自然科学の考え方にも限界や使用範囲があります。「生命とは何か?」という定義をきちっと二分法で区切ることが出来ないでいます。ウィルスは生命なのか? 全く他の原子と結びついていない状態から、高度で複雑な生物の状態は区別が出来ませんが、ではどこが境界なのか、という基準はよく変わっています。人間の肉体を物質にしてぎゅっと縮めると小指の先より小さくなります。物質性でみると私はそのぐらいですが、ではどうして自己再現性や自己生産性(生殖活動による遺伝子複製)をもつのか、自然科学の方法では判りません。つまり生命とは何か?も判りません。
ですから、「物質が無くなったら私が無くなるんだ」という考え方は限界がある、ということです。理系の皆さんには是非とも頭に留めておいて欲しい話です。ここに一定の限界がある、それで破綻するということではないのですが、一定の限界があるということを知って欲しいのです。では、このように考えに立つと、「生命とは何か?」と「私とは何か?」は、「わからない」というのが答えになります。
問4の自然科学の立場から答えると「判りません」ということになります。

―智慧として私の本質 3つ
 けれども、智慧、昔の人々はどう考えてきたのか?という蓄積がありますので、それを聞いてもらいたいと思います。

① 「ありません」 :私とは関係性の中で生じただけのもの :私の本質はありません
私とは親との関係性によって生じたもの。私が産まれたかったから産まれてきた訳ではない。自分が明るい暗い、性格とか夢、信念などは親などの環境、小学校中学校の経験を経てきたから、たまたま出てきただけです。つまり、自分の信念や好奇心もその環境にいたからだと考えます。
これは仏教思想です。縁起という言葉は誤解されています。「縁起がいいね」というのは誤解された言い方です。本来の意味は「物事は縁起によって生じる」と言い方をします。「因縁生縁」は、因が直接原因、縁が間接原因を指します。全てのものは、直接原因と間接原因で生じるのであって、私の固有の本質がある、とは考えないのです。例えば、芽が出る、という結果は、種という直接原因と、水分や土という間接原因によって生じると考えます。最近は、土もいらない栽培方法が出て来ました。静岡県は先進地域のようです。お米やレタスなどが出来ています。凄い考え方ですね、徹底しています。
どうですか、皆さん思い当たる節はありますか? 
例えば僕がこんな性格になったのは、なりたい、と思ってなったからではなくて、親や小学校や中学校の経験から出てきた、というのです。僕は小学校の2年の時に転校していじめられました。「やーい東京からきたー」と言って。神奈川県に行った時でした。中学校2年生の時に静岡市に引っ越しました。いじめられはしませんでしたけれど、引っ込み思案になってしまった。やっぱり転校などの間接的な要因でこんな性格になったのかな、と思うのです。これを強く推し進めると、例えばスマートフォンとか電話とかで依存症っぽい人いますよね。それは本人が悪いんだ、ではなく、スマートフォンなどの道具があるから悪いんだ、になります。アルコール依存症もお酒があるから悪いんだ、その人は悪くないんだ、という考え方になってしまいます。ではどうしてそのように考えるかを見てみましょう。
 仏教の最終的な目標は、縁起を断ち切ることにあります。この世界との関わりには苦しみがあります。四苦八苦といいますが、生きること、老いること、病気になること、死ぬことに苦しみがあります。そうした関係性を断ち切ることが仏教の目標なのです。時間があれば詳しくお話したいです。

② あります :魂にある。肉体(欲)や精神(好みなど)にはない。魂が私の本質である。
例えば死んだ後、魂だけが残って、肉体や精神の穢れの部分を捨てて清らかになって輪廻転生を繰り返す、と古代ギリシャでは考えます。日本でも富士山、不死山ですが、死後、肉体や精神の穢れが取れた魂になるとズーっと山の上に登っていけるのです。穢れの取れない、つまり「まだ生きたい」などの欲や「あの人に復讐したい」などの肉体や精神の穢れと魂がついている状態では、富士山の上の方に登っていけないのです。日本では呪縛霊などといわれたりします。だから、祟(たた)りや呪いなどは穢れを払うと綺麗な魂だけになって浄化すると考えるのです。西欧では魂が抜け出ている、と考えるのでゾンビという考え方が出てきますが、魂は地上に残らないから肉体だけ、の存在者を考えるのです。対して日本ではトイレの花子さんや貞子のような苦しみを持った存在者を考えるのです。
人間とは、3段階あるのだ、と考えているのが判ります。日本では、例えば私は魚が好きだけれど母親はお肉が好き、という好み(精神)は遺伝しない。他方、大切なもの(善)だけは親から子に伝わる。「人に優しくしなさい」とか「嘘をついてはいけませんよ」という善だけは伝わる。それが行動に結びつくかどうかは判りませんが、そうした善なるものだけが伝えられるし、どう伝えるかという教育論にも発展しています。
また、これを死後について考えると、私は永遠に死なない、という考えになります。肉体は死にますし、先ほどのお魚が好き、とかお肉が好きなどは肉体と共になくなってしまうのだけれど、善なるものだけが何度も生まれ変わっている、と考えるのです。
何か質問ありますか?

③ あります :肉体も精神も魂も一体です。死後も同じ体や精神(好み)や魂を持つ
例えば、小学校から神奈川県にいました。湘南と言われる場所で暴走族の多い場所でした。漫画でも「湘南爆走族」というのがあります。僕は直接知らないんですが、先輩の先輩でバイク事故で亡くなった人がいました。無免で運転していて自動車と事故を起こしました、15,6歳でしょうか。その人がタバコが好きだったから、といってお墓にタバコを1カートンお供えするんです。死んだ後も、タバコが好きだった、あんまりよくないですけれども、好みが残る、と考えるのです。おじいちゃんおばあちゃんが亡くなった後、あのおばあちゃんはカステラが好きだったな、とお仏壇にカステラをお供えするのです。それは死後も肉体も精神(好み)も魂も一体だから残るのだ、という考え方なのです。②は削げ落ちますよ、というのに対して③は残りますと考えます。

―魂から観た日本の特異性
 日本は人口規模からして唯一でしょうが、②と③が同じくらいの割合で融合しているのです。珍しい国なのです。そうするとこの話をすると死んだ後どうなるの?とすると宗教戦争が起こります。鎌倉時代に起こりました。だから、室町時代のお茶の作法に「宗教(宗派)の話はしないようにしましょう」というのが残っています。宗教の話をすると争いになるからです。ヨーロッパよりも数百年早いのです。ヨーロッパでは4,5百年後に1000万人とか3000万人とかの殺し合いをしてしまいました。鎌倉時代の智慧で日本では宗教の話はあんまりしませんね。どうしてかというと、ごちゃごちゃになっているから、宗教の話をしても良く判らないよね、となってしまうのです。宗教がない、んじゃなくて、ごちゃごちゃで判らないのです。でも、言われてみれば、ああそう言えば、おばあちゃんがカステラ好きだったからカステラあげるよね、とか富士山に行ったら、ああそうか、呪いとかあるよね、樹海とかあるよね、というのが肉体感覚としてあるのです。アニミズムなどは大体そうです。日本では②と③が確実にあるのが解りますよね。ヨーロッパでは②だけ、インドなどでは①だけになります。日本では同じ割合でミックスされています。
ちなみに伊勢の神宮(正式名称は神宮)はですね、1300万人お参りするそうです。1年間で1300万人といえば10人に1人ですね。この割合は世界最大の宗教参拝ですよ。世界最大の宗教の聖地の1つなんですよ。ものすごいですね。宗教行為の世界最大の行為を日本がやっているんですよ、それで無宗教だって言っているんです(笑)  うちのおとーちゃんかーちゃんもいきましたけど、「神道信じてるの?」って聞いたら、おとーちゃんは神道信じていますが、おかーちゃんは「ん、別に」。「なんで(神宮に)いくの?」って聞くと「なんかいーじゃん。なんかいーじゃん」って言うんですよ。ミックスしているんです。これは日本人の智慧だと思います。

こんな所です。では、

問5 最も共感するのは①~③のどれですか。

 皆さんの中でなるほど、と思ったのはどれですか。納得できたのはどれですか。共感ですから信念ではなくてOKです。

ちょっと①から③を応用してみましょう。
あの人は優しい人だな、と日常生活では普通に言うでしょう。あの人は可愛げのある人だな、とかちょっととっつきにくい、とか言うでしょう。だけどよく考えてみて下さい。元々優しいという性格の人っているんでしょうか?
「あなた優しいよね」と言われて僕もちょっと戸惑うのですけれども、「僕優しいのかなぁ?」と本当に私は優しい性格なのかなぁ?と思うのです。
① だと、そんなことはありません、たまたまそういう経験を経てきて、たまたまそういう環境、親や友人などの中に居たから優しい行動をとっているだけであって、例えばその人が酷い体験をしたら、親を目の前で殺されてしまった、とか好きな人が目の前で亡くなってしまった、とかペットが死んでしまったとしたら、その人の性格は変わってしまうんです、というのが①の考え方です。説得力があると思います。
② はあるんですよ、それは魂がそのまま表にすっと出ている人と考えます。つまり、肉体の欲望とか自分の好みとかが表に出ずに魂という善が表に出ている人と考えます。自分のことを聞いてほしい、とかおしゃべりだけしたいとか、こいつのことを利用してやろうとか得したいとかそういうのが抑えられている人が、善い人です。人は元々もっているものが善いもの(魂)ですからこんな風に考えます。なるほどな、と思います。
③ は色々あるんですが、1つ挙げれば肉体や精神や魂が一体であれば、人とはそもそも不完全なものだとなります。そうなると優しさはあなたの目の前では優しいかもしれないが、そんなに完全に出来ないんだから、家に帰ったら家族には厳しい人かもしないですよ。人間はどこかで息抜きをしないといけないですからね、と考えるのです。①や②には息抜きという考え方は基本的にはないのです。
どれが皆さんの考え方に近いでしょうか。

 以上は単なる世間の生き方の知識です。もう少し深めてみましょう。深め方は検討の方法についてです。思考のパターンとして人間はだいたい2つの方法があります。
A) 帰納(きのう):事実から概念を導き出す方法
B) 演繹(えんえき):概念から事実を確かめる方法
 です。
 「あの人は優しい」という概念(説明)があります。事実として「重い物をもってくれた」や「老人に席を譲った」や「辛い時なぐさめてくれた」などがあります。「重い物をもってくれた」などの事実をみて、だから「あの人は優しい」を導く出すのが帰納です。対して、「あの人は優しい」のかな?と考えてその視点であの人の行動をみる。そして優しいことをしていたら、「ああやっぱり優しいんだ」というのが演繹です。ぱっとあの人をみて第一印象で見てみて、そこで行動を見ていく、というのです。この2つの方法がある、のです。
 皆さん、帰納と演繹を聞いたことがある人、手を挙げて下さい。結構いますね。私も大学時代に知っていたんですけれども、その後もう少し深められました。

―哲学の感覚
 帰納は英語で「Induction」で、演繹は「deduction」です。違うのは「in」と「de」だけなんです。後ろの「duction」は共通なんです。「in」とは「中に」という意味です。「de」とは「外に」とか「離れる」という意味です。「into」とか言いますね。日本語では「帰納」と「演繹」が反対語であることが中々わかりませんが英語にするとはっきりします。
 さ、こっからです。僕は勉強していて、「あ、そっかー面白いな」と思ったのはこっからです。「in」は「中に」ですね、帰納法は。つまり、事実から概念の「中に」はいるんです。演繹は概念から「外に」いって事実を見るんです。つまり、概念が大切なんです。概念が基準なんです。この基準をどこに採るかという感覚がヨーロッパの人と日本の人の感覚が違うとおもいますし、この感覚が分からないと哲学というものの、ヨーロッパの人がもっている哲学の肉体感覚が判らないと思います。この「in」と「de」に表現されています。
 客観的な事実が基準であれば私達が目の前で見ている事実が基準であれば、「in」と「de」は反対になるはずです。しかし、事実から出て行くんです。概念が基準なんです。

―「duct」の基本知識
 続いて「duct」も説明しましょう。ここは、私の講義録「哲学のススメ2 「本質の求め方」レジュメ」から引用します。
http://takagikenziro.blog.fc2.com/blog-entry-96.html


英語では「duct:ダクト」、送水管、植物の導管(根から水を運ぶ管)、暗渠(あんきょ:地下に埋設された導水管、排水や下水に利用)の意味です。元々は
ラテン語で「ducere:デューケレ」で、水、家畜、人、商品を別の場所へ導くことです。
不定形なので、例えば過去分子形は「dectum:デクトム」で名詞形の元になったのでしょう(ここだけ調べていません)。1人称は「deco:デコ」、2人称は「decis:デクス」、3人称は「decit:デキット」です。
大まかな意味は、何かを導くこと。「この世界にいる私たち」を理想の世界(神の世界)に導いてくれる、つまり完璧な(神のように)正しい理解に導いてくれる、という意味が込められています。
 
もう少し「duction」を英語で追ってみましょう。
前に「pro」+導く「duce」  →前に出す。生産する。「product」
元、後「re」+導く「duce」  →後ろに導く。減少する。「reduce」
外れて「se」+導く「duce」   →正道から外れる。悪に誘う。「seduce」
共に「con」+導く「duce」  →助ける。貢献する。「conduce」
中に「intro」+導く「duce」  →導きいれる。紹介する。「introduce」
外に「e(ex)」++導く「duce」  →教育する、訓練する「educate」
 最後の「外に導く」=「教育する」が興味深いですね。本来持っている本質を外に出す=教育という考え方が見えます。

―帰納と演繹の欠点

 次に、帰納と演繹を論理から考えてみましょう。言葉は、ギリシャ語で「ロゴス:λογοs(Logos英語表記です)」、論理は「Logic:ロジック」で深いつながりがあるのが表記から理解できます。言葉や論理は、宗教や文化などと深く結びついています。現在の日本では語られない、忘れられているのは少し悲しいことです。
 帰納と演繹、どっちが論理からして確実でしょうか? 「カラスは黒い」を「本質」として具体的に考えてもらいました。(さすがと思ったのですが、考えを聞いた2人とも別の言い方で1)を述べてくれました。)

1)帰納が確実
なぜならば、帰納は、「事実を認識した」後に行われるから。「事実を認識した」段階で、余分なものが排除されている。だから確実。言いかえれば先入観で事実を1回選別しているということです。
 これは、実は身の回りによくあることです。「あの人は優しい人だ」と思う人がいるとします。この人が「優しくない行動を取る(事実)」けれども、「たまたまだよ」と見ないようにしてしまう。あるいは、「何かあったんじゃない?」などでも良いでしょう。それは先入観で「あの人は優しい」と思いこんでいるからです。
同じことが原発でも起こっていました。「原発は絶対に安全」と言う人がいました。「2007年に、新潟県中越沖地震で柏崎刈羽の原発からで放射性物質が漏れました」が、「原発は安全」という先入観を優先するために、「漏れたけど大丈夫」と言いました。これまでは「決して漏れないから安全」でしたが、先入観「原発は安全」を守るために事実を認識しませんでした。
有名なローマの英雄ユリウス・カエサルは、「人は見たいものしか見ない」と言っています。次の8)の答えの先取りになりますが、論理が通じない時は実際にこういう時があります。

2)演繹が確実
演繹が確実、という答え方もあります。それは、帰納が導き出す説明と、演繹が最初に決めてしまう説明の性質が違うからです。10)さらに詳しく知りたい方に、③カール・ポパーの『科学的発見の論理』の原文コピーを見てもらって説明しました。
帰納が導き出す説明は、この世界の限りある事実を集めて導き出す説明です。この世の事実は、数に限りがあります。ですから、「数的に普遍な本質(説明)」なのです。これまでの過去の全てのカラスを調べて黒い、としても未来のカラスは調べていません。そういう点では不十分です。
対して、演繹が最初に決めてしまう説明は、「過去も現在も未来も全て」のカラスが黒い、という説明です。「原理的に普遍な本質(説明)」です。ですから、未来に反論される可能性が出てきます。6)の問題文を見て見ましょう。
帰納:1つ1つ調べていく「求め方」(make an induction from the facts)と
演繹:決めてから調べていく「求め方」(deduced from the general principle)は違う?
 帰納は、「the facts:沢山の事実」から作られるもの、です。
 演繹は、「the general principle:原理」から導かれるもの、です。
ですから、1)帰納が確実とは違う意味で、2)演繹が確実です。ゆえに当然ながら、演繹は反対の証明がされる可能性が出てきます。未来に「このカラスは白い」という可能性が演繹にあります。この可能性を、きちんと認めよう、というのがカール・ポパーの「反証可能性(Falsifiability)」です。さらに、ポパーは「確かめる前に、どうなったら反証なのかを決めておきましょう」という規範を求めます。後から言い逃れ出来ないようにです。物理学の「運動の原理は、F=ma」ですが、他にも沢山ありました。これ以外は全て反対の証明がされて捨てられて来ました。

8)論理が通じないのはどういう時?

 論理が通じないのは、先入観で事実を見ないようにする帰納の場合、反対の証明がされても受け入れない演繹の場合です。先ほどの柏崎刈谷の地震では放射性物質が漏れたので、基準を新しく作って再検査すべきでした。残念でなりません。ただ、免震重要棟を作るなど全く対策をしなかった訳でもありません。免震重要棟が福島原発構内にあり、作業の効率が上がりました。
 話を元に戻しましょう。「私の本質とは何か?」と考える時、自分の先入観で見ていないか? 過去の事実だけで判断していないか? という帰納を考えてみましょう。同じく、後から言い逃れ出来ないようにきちんと反対がされる場合も事前に想定しておきましょう、と言えるでしょう。
 そうすることで、よりよい見方になっていくのではないでしょうか。
 私たちが問題を考える時、本質を見つめる時、求め方も大切にしたいものです。そこを意識していくと、答えの定まった知識を覚える学問にはない良さが見えてくるでしょう。

以上が「哲学のススメ2 「本質の求め方」レジュメ」からの引用でした。文章の調子が異なり違和感を持ったかもしれません。講義よりも内容が踏み込んでいます。それでは講義に戻りましょう。

カエサルの他の言葉に「人はほっとすることを信じる」というのもあります。だから何か事件があって、誰かの責任にして、はい事件解決しましたよ、おしまいです、と信じるというのです。僕らの年代で「宮崎勤」という人がいましたけれど皆さん知っています? 幼女を誘拐してきて殺害しちゃった人です。彼のお家にアダルトビデオが沢山あったから、「アダルトビデオが悪いんだ~!」ってマスコミがバーっと報道しました。その時にアダルトビデオを禁止しろ~!ってやったんです。それで皆安心しました。どうしてか、アダルトビデオを禁止したら宮崎勤のような凶悪な人が出てこないと信じたんです。でも、その後、裁判でおじいちゃんが亡くなって、唯一の味方だったおじいちゃんが亡くなって、精神的に病んできた、というのが明らかになってきました。だけど、人間というのは「アダルトビデオさえ押さえておけば大丈夫だ」と思うとほっとするから信じちゃうんです。同じようなことがないですか?僕らの身の回りで。例えば韓国が悪いんだ、中国が悪いんだ、と言ってほっとしていないですか? 僕らに原因はないですか? オリンピック決まったから、もう安心だ、あるいは消費税8%になっちゃったから、もうお終いだ、って思っていませんか? 現実ってそんなに単純なものではないでしょう。けれど、ほっとするから信じてしまうんです。

―「duct」のイメージとプラトンのイデアのイメージ
 ダクト(duct)は水道管とかトンネルのイメージと言いましたね。ですから向うのヨーロッパの人のイメージは、概念と事実を結ぶ所はトンネルなんです。全部通れないんです。だからさっき②で魂と言いましたね、肉体とか精神とかは通れないんです。魂だけが余分なものが落ちたものだけが戻れるんです。あるいは水道管でぴゅーっと出てきて結びついたものが僕らなんです。ぴゅーと出てきて出来たものが机とか椅子なんです。天国からこの場合は概念の世界ですが、そこから本質がぴゅーっと出てくるんです。では僕らはどうして1人1人性格や顔が違うか、というとこの説明では、肉体とか精神とか余分なもの、この世の余分なものとくっついた時に、錬成した時に、材料の性質によってたまたまそうなっただけ。だから地域によって人の性質が違ったりするでしょう。昔のギリシャの人は地域による人の違いをみて、魂がその土地に降りてきたから、ああ、あの土地の人々はああいう性格なんだ、と考えたのです。魂だけが降りてくるんです。
 この概念の世界に本質があって基準がある、という考え方がプラトンのイデア(idea)です。後の講義で詳しく述べますが、プラトンの大まかな特長ですが、この椅子、椅子の形ですね。それから皆さんが座っている椅子は違う形ですね。けれど、僕らは、椅子と判りますね。ここの1個1個が違うのに、椅子として共通なものとして判るでしょう。どうしてか。魂が生まれる前に天国で完璧な椅子を観てきて覚えているから、つまり、魂が覚えているから椅子だと判るんだ、というのです。僕はこれを聞いた時に、「あー面白いこと考えるなぁ」と想いました。
 今までは、これを見て椅子だね。うん、椅子だね。でも、どうしてこれが椅子って判るんだろう? うーん、何を言っているか解らないなぁ、と思っていたんですけれども。で、この説明を聞いた時に、そうか、概念の世界(天国)が大切なんだ、と知りました。プラトンの考え方だとどうなるか、完璧な人間が天国にいることになります。あるいは魂が覚えていることが大切になります。僕らはそれを忘れているだけになります。それを思い出した人が、さっき②で言いましたね、道徳的に善いことが出来る人なんです。だから私とは何かを磨いていこうとする時にどうすればいいか、というと肉体の欲望や精神の好みを押えていけば、皆善い人になれますよ、と考えるのです。

―道徳と魂
だから授業中、しゃべっている人は肉体の欲に邪魔されているんだなぁ~って考え方です。でも日本人は、日本人のもう1つの考え方はそうじゃないです。肉体と精神と魂が一体ですから、そういう人はそういう人なんだ。死んだ後もそのままなんだよと。だからしょうがない奴はしょうがないんだ、とそのままずっといくんだよと。だから話し合ってなんとか上手くやっていきましょう、と考えるのです。
 相手に変わってもらえるんだ、というのと相手は変わらないんだ、という言うと分りやすいでしょうか。
 恋愛でも相手を変えてあげられる、ちょっと臭い言い方をすると「愛の力で相手を変えてあげよう」と考える人がいます。対して相手は変わらない、けれど上手くやっていくためにどうするかを考えよう、という人がいます。女性でも男性でも相手にどういう態度で行くかが違います。私も最初は相手を変えられる、と思っていましたが、変えられない所があるんだ、という経験をしています(具体的な話はカットします)。人間を見ていく時に、こういう風に相手を考えてみるのも面白いかもしれません。

―私の本質は変えられるのか
 それではテーマに戻ります。他人の問題を考えましたが、次に私の本質は努力や工夫や経験によって変えられるのか? かられないのか? を考えてもらいたいです。今日のテーマは「私とは」ですから。

問6(?) 私の本質は変えられるのか 変えられないのか

 さっき自分の本質は「なまけもの」と言ってくれた人がいましたが、努力によって変えられるのでしょうか。自分のことを「なまけものだ」と思っていない人がいたら本当の怠け者だと思いますが、正直な人だな、とさっき思いました。自分の欠点を考えても問が判りやすくなるかもしれません。(色々な解答がありました) 意識的に変えられるとしたら、何がいるのでしょうかね。努力でしょうか? 環境でしょうか? 私とは何か? の①~③に戻る訳です。

―マシュマロ実験
 問6に対する面白い社会実験があります。スタンフォード大学という大学、ビル・ゲイツなどが出たコンピュータや社会科学などの優れた大学ですが、
―訂正―
ビル・ゲイツはハーバード大学でした。訂正します。Googleの創始者ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンと勘違いしました。
―訂正終了―
 世界のトップ10に入る大学で、日本では東京大学が20位前後です。この大学の行った「マシュマロ実験」がありますが、聞いたことはありますか? 1972年に行われたこの実験は現在も継続中です。ある部屋があって、子供が4歳だと思いますが、そこに子供がいてお菓子が机の上にあります。アメリカではマシュマロが子供の好きなお菓子と考えられているのでマシュマロです。で、大人が部屋にいて「このマシュマロを食べては駄目だよ。帰ってきてマシュマロがあったら、もう1個あげるよ」と言って部屋を出ていきます。で、子供ですから、3分の2は食べちゃいます。残りの3分の1は食べないで我慢できるのです。
 この後どうなるか、というと食べなかった子供は学力テストで日本のセンターテストで100点以上の差がつきます(アメリカの大学進学適性テストで210点)。平均的な偏差値で5から7くらいの差がつきます。食べなかった子供は、医者や弁護士など社会的成功を収める人が多いのです。つまり、食べないという我慢が出来た子供は社会的成功をしていく傾向にあるのです。たけど、食べた子供は、いくらIQ(知能指数)が高くとも、頭が良くてもドラッグをやっちゃったり、ギャンブルをやっちゃったり、社会的地位が下がって行っちゃう。辛い時に自分の欲望をコントロールできた子供はそのまま上に行く、という実験です。現在でも継続中で世界的にも認められている実験です。
私の本質は変えられるのか?というのは全体、つまり全員の平均値では中々変え難い、個人としては変えられると思います。IQ、つまり頭の良さより欲望のコントロールが大事だよ、というのがマシュマロ実験です。この実験を知った時、なるほどな、と思いました。
 僕、留学生を見ていますと、感情のコントロールの仕方が違うんですよ。日本人だと先生と仲良くなったりすると、授業態度が良くなったり出席が良くなるんですよ。でも、留学生、特に東アジアの留学生は違うんですね。僕は、今でも学生とサッカーをやったりするんですけれども、サッカーですごく仲好くなったりするんですけれども、学校で「おー先生サッカー楽しかったね~」なんて言うんですけれども、授業に来ない。僕からすると仲良くなったら普通授業に来るだろう、と思うんですけれども、その辺の感覚が違う。もう、「嫌なものは嫌、仲良くても仲良くなくても」、「向いていないと思ったらやらない」、おーすごいなぁ、と思うんです。日本人なら「あの人が言うのなら・・・」と嫌々やったり、その先生がやっていることに興味を持ったり、好きになったりします。その辺が違うなぁ、と思ったりします。

―まとめ

 それではまとめに入ります。

「私とは何か」は自然科学としては判らない
過去の智慧としては
① ありません
② あります。魂です
③ あります。肉体も精神も魂も一体です。

 僕が考えるのはこういう問題を考えるときに、大切だと考えるのは、2つ以上、3つ以上の立場から考えることが大切である、という点です。端的に言うと「公平」です。学問の世界ですから、宗教の世界ではないですから、ちなみに私はどこの宗教教団にも属していませんし、今後も属すつもりはありません。キリスト教系も仏教系も神道系もです。実家のお墓は10年以上、お墓参り行っていませんし、坊主の話も聞いていません。どうしてかというと、「ああ、なんだあの先生は仏教徒だからいうのか」とか誤解されたくないからです。大切なのは三方から考えるということです。これが学問だと思うのです。でも、宗教、宗教教団としてはですね、やっぱり1つから考えてもらわないと困る。やっぱり神様はこういう存在ですよ、と信じてもらわないと困る。いや、こっちの考え方もある、あっちの考え方もある、となっては、困っちゃう。

―反証可能性
 これが実は、三方から考えると反対の立場から考えることになります。つまり、私の本質はありません、という立場の反対側、あります、という立場から考えることが大切である、ということです。反対の立場の可能性もあるんだな、あるいは反対の可能性はないかな?と探すことが大切なんだ、ということです。私が勉強しているカール・ポパーは反対の可能性、「反証可能性があることが学問(科学)なんだ」と言いました。この反証可能性を洗練していったのが自然科学なんだ、と考えるのです。
ですから、自然科学というのは、実験して失敗したら、はっきりするでしょう。けれど、人文科学や社会科学では、例えばTPPや消費税などで実験してみて失敗したら、「いやあれはアメリカが邪魔したから失敗したんだ」や「いや日本の国内がこうだったから」と言い訳できるんです。実験して失敗したのがはっきりと出来るのが自然科。けれど、社会科学などははっきりとできない。言い逃れできるからです。この辺は後々の講義で詳しく述べます。

―「私とは何か」が判らないことが解る
それから、「私とは何か?」ということが判らないことが解ってもらえれば、今日は良かったかな、と思います。つまり、「私とは何か?」ということを10年、20年ずーっと考えていっても、結局、人類の中で1つの合意、1つの答えが導き出せない、んだ、ということです。人間とは永遠に生きられませんから、「私とは何か」という問題は、自分の中で、んーとなんと言うのかなぁ、固めて、目の前の問題を見ていかないといけないだ、という性質の問題だと思います。

問7 感想
問8 一番印象に残ったこと
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール
哲学(平成28年度)
科学技術者の倫理(平成28年度)
書いたもの(平成28年)
科学技術者の倫理(平成27年度)
哲学(平成27年度)
書いたもの(平成27年)
哲学(平成26年度)
「科学技術者の倫理(平成26年度)
講義録「哲学」
書いたもの(平成26年)
書いたもの(平成25年)
論文(高木健治郎の)
講義録「科学技術者の倫理」(平成25年度)
高木ゼミ『銃・病原菌・鉄』
高木ゼミ全6回『ぼくらの祖国』
教養講座6回分(平成24年度)   講義録21~
講義録「科学技術者の倫理」(平成24年度)     講義録1~15
最新記事
講義録「科学技術者の倫理」(平成23年度)
石上国語教室で行われた講演のレジュメです。哲学が足りなかったのが、福島原発事故の原因の1つではないか、と考えています。

「哲学のススメ2」レジュメ

最新コメント
カテゴリ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。