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講義録15-2 武士道と公共心と倫理

福島原発事故で見えた最大の希望は、「ごく普通の日本人が、「公衆の福利」=自分の利益よりも公共を優先したこと」です。

 「公衆の福利」は、根本に「私心(ししん=自分の利益、欲望を優先)」<「公共心(こうきょうしん=みんなの利益、欲望を優先)」が必要です。

 高木は、「私心(わたくしごころ)」<「公共心(おおやけとともにあるこころ)」と言い換えています。

 「私心(わたくしごころ)」=自分の肉体だけを守ろうとする、つまり、わたくしの肉体から離れない心
 「公共心(おおやけとともにあるこころ)」=公(おおやけ=全員)と共(とも)に“私が”あるという心

 です。公共心は私を失くしてしまうことでなく、私が多くの人、社会にいる全員と共にあるのを大切にする心のことです。人間は大変弱く、愚かで、無知に安住し、自分の信じたいことしか見ないという性質があります。学問が、その性質を乗り越えていく最良の手段であるのは、前の、講義録15-2で書いた通りです。学問以外のアプローチがあります。それが宗教です。イエスやブッダ、さらには孔子、墨子、荀子などは、この人間の大変弱い性質を何とかしようと格闘してきました。イエスやブッダは、人間の愚かさとして無智を挙げました。孔子や孟子は、四季を移り変わらせる天を認めた上で、素直に受け取る心を育てようとしました。荀子は法という客観的基準を作り公平さを確立して愚かさを乗り越えようとしました。
 詳しくは『世界の名著10 諸子百家』 金谷 治責任編集 中央公論社 38-57P 特に51-53Pを 大学図書館所蔵で「080 C64 10」です。

 何れも人間の大変弱い性質と格闘したのです。その点で、高木はこれらの宗教家(思想家)を尊敬しています。
 格闘の方法はそれぞれですが根本には「私心」<「公共心」があります。これが倫理の根本ですし、そして技術者倫理を考える場合に、大切にする点だと思います。繰り返しますが、「私の欲望や利益を捨てる」のではない、と考えています。

 次に、「私心」<「公共心」を成し遂げる方法が問われます。
 「講義録10-2 国際標準と各国標準」 :http://takagikenziro.blog.fc2.com/blog-entry-151.html
 で述べたように、成し遂げる方法はアメリカやヨーロッパなどと同じ標準に合わせていく=国際標準と、各国それぞれの標準がある=各国標準という2つに大きく分れます。

 高木は、昨年度の「講義録6-1 意図の問題 3つの倫理」http://takagikenziro.blog.fc2.com/blog-entry-122.html
で述べたように、技術者倫理では「本性」ではなく「意図」が大切だと考えます。「本性」は「そもそも心の中でどのような性質を持っているか」であり、「意図」は「他人に分かる形で示されたこと」です。少し引用してみます。

 「意図」の問題に入ります。

 その前に、講義では出来ませんでしたが、そもそも「意図」とは何かを示しておきます。

「意図」は幅広くとっていて、人間の心です。当然、欲望や理性の両方を含み、その他、個人の考え、社会で認められた観念を肯定することなども含みます。特別、誰かの哲学者の意図ではなく、意思や意志などもほぼ含むのが「意図」です。

 ですから、社会全般にも、各個人の行動や心にも適応出来ます。

 その上で「意図」は、他人に分かる形で示されたこと、です。自分の頭の中で考えているだけで、口にも行動にも出なければ「意図」ではありません。

 私は、26歳くらいから突然、詩を書くようになりました。
 色々頭の中で想っていましたが、自分で言うのもなんですが、シャイな性格だったので口に出すことはありませんでした。詩を書いて、インターネット上の載せることは、「意図」です。
 西欧の哲学者は、この「意図」ではなく、人間がそもそも心の中でどのような性質を持っているか、などを問題にします。それは「意志」や「理性」や「本性」の問題です。外に出るかどうかはあまり問題ではありません。しかし、「意図」は外に出たものに限られます。

 「意図」にする理由は、技術者倫理の最終目標が、「初期事故予防と再発防止」という外に出る形、実際の具体的な世界での形を目標としているからです。対して倫理全般で問題になるのは、人間の「意志」や「理性」や「本性」という外の問題ではありません。例えば、

「人間は社会全体に行きわたる倫理を作ること、出来るのか?」

などの問いがあります。技術者倫理では

 「倫理を作った上で、実際に守らせることが出来るのか?」

という問いになります。
技術者倫理が倫理全体と違う点を示しています。具体的に言うと「公衆の福利」は実際に社会生活を安全、安心、経済的に豊かさであり、倫理全体の目標とは違うのです。倫理全体は「唯一神の御心に適った生活をするにはどうしたらいいか?」や「理性と欲望のバランスはどこで取れば良いか」などの目標の設定がされてきました。



 意図は、他人に分かる形で示されたこと、ですから、社会全員に分かる形で示される必要があります。世界中の国で倫理より狭い法律が各国によって異なります。倫理より広いマナーや気遣いも各国によって違います。

 法律と倫理ときづかいとマナーの広さについては、本年度「講義録2-2「倫理の立ち位置」とチャレンジャー事故
 :http://takagikenziro.blog.fc2.com/blog-entry-101.html)

 ですから、倫理が社会全員に分かる形で示される場合も各国で違ってくると考えます。ここで、教科書や西欧哲学や倫理が日本にそのまま通用するという国際標準を支持する考え方とは違ってきます。各国の文化や伝統、受け継がれてきた物語や宗教儀式などが違いますが、どのような形式でもどんな昔の方法でも理解できるとは、高木は考えません。

 では、日本で受け継がれてきた「私心(わたくしごころ)」<「公共心(おおやけとともにあるこころ)」はどのようなものがあるのか、を示す必要が出てきます。

 有名なものは、日本では武士道です。
 信長や秀吉の時代、ヨーロッパの宣教師が日本に来て驚いています。

「清潔でウソをつかず、尊敬の念を知っている。世界で一番の国であり、どうしてキリスト教がないのだろうか?」

 現在の日本も世界中から尊敬されているのは「清潔でウソをつかず、他人や他国への尊敬の念を知っている」という点があります。日本人が日露戦争から大東亜戦争で、アジア・アフリカをヨーロッパ人の酷い支配から脱出させてやったんだぞ!と過去の栄光を自慢して、威張っていないからでしょう。500年経っても変わらない日本人の素晴らしさが受け継がれてきているのです。

 ちなみに、「ヨーロッパでは女が男の前を歩くことはないが、日本では女が男の前を歩き、財産も別々だ」なども驚いています。男女平等などとヨーロッパ人が19世紀になって成し遂げる500年以上前に日本では実質的な男女対等でした。どうして現在のように男女の差別があるのでしょうか。500年前は女性の方が優位だったのに。

 ヨーロッパ人は「どうして日本はキリスト教がないのに倫理を守るのか?」と疑問でした。

 この疑問に答えようと英語で「武士道」を紹介したのが新渡戸稲造です。「Bushido: The Soul of Japan」(『武士道』)は、国際社会=ヨーロッパ社会で大変好評で読まれ、新渡戸は国際連盟事務次長という大変高い地位を占めることになりました。

 日本の中で有名なのは、『葉隠(はがくれ)』です。
昨年度の講義録10-3から引用してみます。:http://takagikenziro.blog.fc2.com/blog-entry-40.html


 武士道は『葉隠』に以下のような言葉があります。

 「武士道とは死ぬことと見つけたり」

 この意味は「武士道は死ぬことだ」=「はらきりすることだ」ではありません。そういう風に残念ながら誤解された時期もありましたが、原文を読むと逆の意味だと分かります。「死ぬ」=「自分の利益を捨てること」です。生きていると、欲が出てきます。「今日は疲れたから学校に行きたくない。さぼりたい」や「まあ誰も見ていないからゴミを捨ててもいいじゃないか。今、この汚いの持っていたくないし」や「ウソをついても人をだましても自分が損をしなければいい」や「国民の安全なんてどうでもいい。自分の出世が脅かされなければ」というのが生きていれば誰でも思う事でしょう。私もこういう思いを持ちます。その中で「死ぬこと=自分の利益を捨てること」を説くのが武士道なのです。
 当時は大名に仕えるのが武士の役目でした。ですから適当に大名にお世辞をいう人がいました。それはお殿様に気に入られて「出世する=自分の利益」を目指す人が平和になったら出てきたのです。それを何とかしたい、という人が老人に聞きながら『葉隠』を書きました。この老人は山本常朝さんは一生懸命命がけでお殿様に仕える大切さを教えてくれます。それは

 「お殿様が正しい時は一生懸命仕えなさい。そしてお殿様も人間だから間違える時がある。その時も命をかけて間違いを指摘しなさい。」

 と言うのです。

 以上が引用です。
 そしてこの本が禁止されたり、読んではいけないと言われたのは敗戦によってでした。この内容がどうしていけないのでしょうか? 日本の強さが「武士道」にある、とアメリカが考えたからです。ちなみに、『葉隠』は、「あくびをばれないようにする方法=おでこをナデナデしなさい」とか「恋愛で悩んだらどうしたらいいか」なども載っている楽しい本です。

 さて、先ほどのお殿様への指摘は、まさに「私心(わたくしごころ)」<「公共心(おおやけとともにあるこころ)」です。

 お殿様の間違った判断で、お百姓さんも他の仲間の武士も困るのならば指摘しましょう、ということです。当然、「わたくしごころ」=自分の利益だけ考えれば損な役はしたくないものです。お殿様の機嫌が悪くなり出世も出来なくなり、下手をすると給料が無くなったり殺されることさえありました。そういう危険を冒したくない、と考えるのは当たり前です。と同時に、社会全員と共に私がいるということを忘れないようにしましょう、と言うのです。忘れないからこそ、間違った時は指摘しましょう、と言えるのです。続けて講義録10-3から引用します。


 福島原発事故の後、日本国民が自主的に募金運動や被災地に行ったりと色々な活動をしました。政府の対応は遅くて批判はされましたが、日本国民の多くは、自分の利益<公衆の福利という行動を行った訳です。テキストが禁止されてきたのにも関わらず、しっかりと伝わっていました。しかも、日本の小学校、中学校、高校では道徳、という時間が殆ど実行されていないのではないでしょうか。私の個人的な体験として道徳教育として、教育勅語や武士道を使って、自分の利益<公衆の福利、を教えてもらいませんでした。道徳の時間はあるのに、他の時間に使ったりつぶれたり、ロングホームルーム(LHR)と変わらない時間でした。アメリカも、フランスも、日本以外の先進国はきちんと教えられるのに、日本だけが教えられない。ですからある教育関係の人は

 「もう日本人はどんどん駄目になる。ゆとり教育などしているから日本人は劣化してしまって二流国から三流国に低下する。それが日本の運命だ」

 と道徳が全員にきちんと教えられないことを(私に言わせれば極端に)嘆(なげ)いておられました。
しかし、今回の福島原発以降の日本人の行動は「学校で教えられなくても日本人の心は生きていた」というのを証明しました。現在は「節電」が大きなテーマですが、これは被災地を救いたい、という願いから出発しました。吉村明著『三陸海岸大津波』にあるように震災後は現在よりもひどい有様でした。死体が野犬に食われ、被災地での窃盗で大きな家を建てた人がいたり、暴利をむさぼった商売をした人がいたり、一生狂ったままの人が放置されたりしていました。現在はこの状態よりも格段によい状態です(もちろん人が生活するには十分な環境ではありません)。

 原発の作業員の方々が20代から引退後の60代の人までが士気高くいられたこともその実例です。そしてどうしてか日本のTVや新聞では殆ど流れず、海外のメディアでは流れる自衛隊の人々の姿もその実例です。
 自衛隊の方々は、死体が埋まっている場所はブルドーザーなどの大型重機ではなく、軍手やスコップなどで掘り起こすそうです。それは自衛隊の方々は法律的には死んだら「物」になる死体ではなく、人の心が宿っている「遺体」として扱うからです。ご遺族と対面する時に「なるべく傷のない状態で面会して頂きたい」という心配りから、自らの手が傷ついたり疲れたりするのを引き受けて、軍手やスコップなどで遺体捜索をされるのです。私はこの自衛隊の方々、さらには福島原発事故発生時に最初に現場に入った自衛隊の方々の行動に、「自分の利益<公衆の福利」を観ます。そして広く日本国民が共有していることが最大の希望だと考えています。


 以上で引用終わります。

 日本人が受け継いできた倫理の形、そして現在まで受け継がれていることが見えてきます。この倫理の形を今後も大切にしていきたいものです。
 
 また、福島原発事故以来、日本国政府や歴代の政権、電力会社や原子力安全・保安院、原子力委員会、原子力安全委員会に対する怒りや不満なども、日本人が倫理の形をきちっと持っているから生まれたのではないでしょうか。国会事故調や政府の事故調査委員会などの報告書にも、その倫理の形がきちっと見えている、と高木は考えます。そこに希望もあるのだ、と。その希望を絶やさずに広めていきたい、と考えます。その志の通りの講義が出来たかどうか、良く分りません。学生の皆さんが今後の人生の中で、あるいはこの長たらしい拙(つたな)いブログをお読み下さった読者の皆様のお心の中で答えが出るのでしょう。
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