講義録7-1 3つの観点から分けた倫理

 今回の講義の目的は、技術者倫理に関わる法律、特に製造物責任法(通称、PL法)を述べていきます。その際に、まず、倫理を3つの視点で分けて整理した後に、製造物責任法を見ていきます。

 それでは3つの観点を述べていきます。
倫理は洋の東西を問わず、殆どの地域社会、時代で見受けられます。どのような凄惨な状態になろうとも無くならない、むしろその輝きを増します。地域社会、時代などによって千差万別ですが、3つの観点で切り分けることができます。

 行為者が行為をして結果を生む

 という当たり前の行動を3つの観点で切り分けると以下のようになります。

 「行為者」が「行為」をして「結果」を生む

と言う訳です。つまり、3つの倫理で代表例を後ろにつけます。

:①行為者の視点  から見た倫理 :アリストテレス、孔子、日本人
:②行為の視点   から見た倫理 :カントなど
:③結果の視点   から見た倫理 :デューイ(プラグマティズム)

 ①行為者の視点⇒行為者で判断し善悪
 徳倫理:アリストテレス:よい習慣をもつ人間がよい人格を持つ

 例えば、盗みばかりしている人は、その人の性質が悪くなる と考える。孔子の「習いこれ性となる」と似ていて、良い人間を作り出すのが大切と考える。
 現代日本では、犯罪を犯した人間の近所に行き、普段の生活をTVで放送する。

 「普段から挨拶をしてくれる良い人でしたよ」

という何気ない一言は徳倫理を表している。教え子へのセクハラや盗撮等でつかまるニュースが連日報道されているが、「熱血で明るい先生だったのにショックだ」という一言の裏にも徳倫理の考え方が見て取れる。

 長所:習慣を大切にすることで個人の道徳の完成という長い修練を積める。つまり、長期的な向上や忍耐がある。
 短所:人格の全否定や全肯定になりやすい。

 「はやぶさ」の川口さんを始め多くの人が「日本は再チャレンジ出来ない社会である」と言っている。その要因の1つは、人格の全否定や全肯定にある。1度犯罪を犯した人間は「悪いことをした⇒悪い人格である⇒全否定」となるからである。小泉首相などの活躍で日本では再就職や離職などが当たり前になってきたが、ほんの2,30年前は転職、再就職などは「育ててくれた会社を裏切る⇒悪い人間」という観念があった。現在よりも徳倫理が社会に浸透していたのである。

 植草一秀元早稲田大学大学院教授は、セクハラ癖があったようである。高木が徳倫理を感じたのは、警察に捕まった、という発表だけで、大学院教授を解雇になったことである。刑事罰が下る前、つまり、事実認定の降りる前に、セクハラで解雇になった。セクハラという1回の行動で判断するのではなく、人格で判断するのである。私は日本社会の空気、その根底にある徳倫理に恐怖を感じて、ゾッとした。良く日本は村社会だ、というけれども、見ら人から「あいつはちょっとダメだな」と思われているだけで、何も悪いことをしていないのに、職業や住む場所を奪う可能性があるのである。同時に、この社会要因が、「マイナス思考」を生む要因だとも考えている。自由な発言をすると「あいつはちょっとダメだな」や「空気よんでないやつだから、集まりに呼ぶのを止めよう」などとなる。これが進むと、「ああ、高木の言うことだから信用できないから止めておこう」ということになる。「あの人は信用できるよ。だから大丈夫」というのはこの裏返しで、両方とも「行為者(高木、あの人)」で判断しOK、NOを決めます。「東大だから大丈夫だよ」などと行為者の属性で判断する場合もある。何気ない行動の裏に徳倫理、あるのではないでしょうか。

 色々と書きましたが、「行為者の視点⇒行為者で判断し善悪」です。

②行為の視点:行動+意図で判断し善悪
 義務倫理:カント:自分の望むことが全員に当てはまることが善

 例えば、嘘をつきたいと望む時、嘘をつくのが全員に当てはまるならばOK、当てはまらないならNOということ。こうすると、「誰にも害を与えていないのだから、売春をしてもいいでしょ」などに合理的に反論できる。
 カントの原文は「汝の意志の格率(信条)が、つねに同時に普遍的立法の原理と見なされるように行為せよ」『実践理性批判』
 
 カントの原文の中に、「意志」と「行為」が出て来ます。徳倫理では1つ1つの行動では判断されませんでした。対して義務倫理では、1つ1つの行為で判断されます。すると、この人は良い行動もしているし、悪い行動もしている、と考えられるのです。倫理は善悪をはっきりさせる傾向があります。ユダヤ教を受け継いだキリスト教、特にローマカトリックは、善悪二元論で語ることを好みます。「テロリストは悪だ!」と。「アメリカは正義だ!」と。あるいは「原発は悪だ!」と。「地球温暖化は悪だ!」と。しかし、現実世界は2つで割り切れる程単純でしょうか? 悪いことしかしない人間がいるでしょうか? ですから、義務倫理は

 長所:1つ1つの行動について判断できるので、より現実に即している
 短所:全体の判断が分かりにくくなる。対応が遅れる
   :「意図」によって善悪の判断が変わることがある

 全体の判断が分かりにくくなる。対応が遅れる。というのは、福島原発事故でいうと、菅総理のあの対応はダメ、これは良かった、斑目委員長のこの対応はダメ、あれは良かった・・・となっていくと、じゃあ、原発をどうするのか?という方向性が出てこないことになります。原発は公衆の福利に反するのでしょうか?即しているのでしょうか? 義務倫理では分かりにくくなります。結局判断が遅れ、対応が遅れます。対して徳倫理は、全否定や全肯定の力強さがあり、次に進む力があります。力があることだけが素晴らしい訳ではありません。

 もう1点、「意図」によって善悪の判断が変わることがある。というのを具体的例でいきましょう。
 高木は6時50分か7時か7時10分の電車に乗って大学に向かいます。数人立つくらい込んでいます。この時、ご老人が乗って来た時、席を譲ろうと立ちあがりました。この行為は、社会的に善、とされています。また、真心で「お譲りしたい。座って頂きたい」と思った場合、「行為」と「意図」共に善であり、善となります。
 対して、例えば、
 
 「隣に座っている人が嫌なので離れたかったから、嫌な人をあの老人に押し付けたい」
 「好きな人があそこにいて、自分の得点を挙げたいから、席を譲ろう」

 という「意図」が邪(よこしま)な心や、悪い場合、この行為は、決して善になりません。しかし、同じ行動をして、ご老人が体が楽になることは変わらないのです。「結果」だけでなく「意図」を含めると、「本当にその行動は善なの?」という問いが突き付けられることになります。
 この点は、技術者倫理でもまさに問われました。

 浜岡原発のみ停止要請は、菅総理の支持率獲得のためだろう?

 という問いです。「浜岡原発のみ停止要請」=「行動」だけでなく、「菅総理の支持率獲得」=「意図」も含むと、同じ停止要請が、倫理的に善とはならず、むしろ悪の行動となるのです。この複雑さは、倫理全体にまとわりつく逃れられない欠点のようなものです。昔から

 「自分がされて嫌なことは他人にしてはいけません」

 と言われてきた義務倫理をカントが定式化したことで「行動」と「意図」の問題がはっきりと(高木は)認識できるのです。私はカントは専門家の講義を多少聞いたことがあり、多少本を読んだことがあるくらいで、きちっと理解しているとは言い難いので、正統な解釈ではないかもしれません。
 この「行動」と「意図」の問題は、法律の問題でも出て来ます。続きは後に譲ります。

 色々と書きましたが、「行為者の視点⇒行為者で判断し善悪」です。

③結果の視点:結果で判断し善悪
 帰結倫理:(沢山の人):行為の結果が善なら善、悪なら悪

 先ほどの電車の中で席を譲る例を帰結倫理で観ると、ご老人がにこやかに座って楽になる、となっているので、善となる。「意図」がどのようであるか関係なく、結果で判断する、ことになる。この例で悪は、ご老人を楽にさせようという「意図」や立ちあがるという「行動」があっても、譲る際にぶつかってしまい、老人を倒して怪我をさせてしまったら、悪、という判断を受ける。このようにあくまでも結果で判断する。結果を生み出すのは、「行動」なので、行為と結果を含めて「行動」とするならば、「行動」で判断し善悪、としても良い。ただし、「行動」には通常「意図」が無意識的に含まれる場合があるので、混同しやすく、「結果で判断し善悪」とした。

 長所:人の心という曖昧さが入らず、明確に判断できる。
 短所:誰にとって「善悪」か、が常に問題になる
   :結果判断は利益中心となり倫理の大切さが失われる

 誰にとっての「善悪」か、という問題が常につきまといます。何故なら「絶対的な善」や「絶対的な悪」が想定出来ないからです。先ほどの例で言うと、席を譲った人が気持ちよくなれば善? 周りの人から見て良ければ善? 老人から見て良ければ善? 全ての人から見て善なら善? という問題が出て来ます。これは20世紀になって文化人類学で問われてきた問いもであります。 
 それまで、西欧人は西欧の学問や思想や社会は進歩していて善である、と考えて来ました。これをローマ・カトリックが後押しして

 「未開の人々は人間ではない。地獄に行く存在だから、西欧化してあげるのだ。西欧化ししない人々は殺しても良い」
 
 というお墨付きを与えていました。この場合、西欧人が善悪を判断する基準だった訳です。しかし、20世紀は西欧が没落し始めました。現在、ギリシャが金融危機で破綻のギリギリのラインにいますが、この直接の引き金は、2007年のサブプライムローンでした。また、大東亜戦争後、アジア、アフリカ、東ヨーロッパの国々が独立を果たしました。それ以降、植民地を前提とした西欧社会が没落に向かっていったのです。現在でもイギリスやフランス、アメリカなど旧植民地よりも緩い関係で世界を支配していますが、ロシアも、徐々に崩れつつあります。実際に西欧人=善という考えは、20世紀に入り壊れて来ました。こうした時代背景があり、先のローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、

「未開の人々は人間ではない。地獄に行く存在だから、西欧化してあげるのだ。西欧化ししない人々は殺しても良い」

 について懺悔(ざんげ)しました。平成12年(2000年3月13日)毎日新聞
 同じミサで、ユダヤ人迫害肯定、十字軍でイスラム教への迫害を懺悔したのです。20世紀の最後に総決算をつけておくこと、ユダヤ人迫害や十字軍などは実に1000年近く経ってからのことです。この行動を行ったヨハネ・パウロ2世の知性に深く敬意を私は表します。

 このような現状で、文化人類学は、比較文化人類学へと移行しました。比較する理由は、絶対的な善がない、からです。比較社会学などが出てきたのも、こうした視点に基づいてです。こうした歴史的背景があるので、帰結倫理でも、同じく、絶対的な善がない、という点は問題になるのです。

 次に、「結果判断は利益中心となり倫理の大切さが失われる」に行きます。

 結果は、結果に過ぎません。ですから、必ず解釈が必要になります。あるいは、価値観が1つに限定されます。それゆえに、どこかの集団の解釈、どこかの集団の価値観に限定されることになります。どこかの集団の価値観を、なるばく多くの人々の集団の価値観にしようとすると、それは、人間全員が持っている機能快や共通の金銭ということになっていきます。

 機能快:目が見える機能が与えられて、それを使うことが快である。出産、思考、性交、飲食、交流等々も機能快と考えれられます。

 すると、「講義録4-1費用便益分析」で述べたような、金銭だけで判断する可能性が出て来てしまうのです。「公衆の福利」が金銭だけで判断しては問題が多い、と述べましたが、この帰結倫理の考え方をすると、出て来てしまいます。

 原発で、石油代が高騰して金銭的に損をするから、原発再開するのが「公衆の福利」に適う、という考え方です。

 これは極端な考え方です。しかし、この「公衆の福利」しかない、かのような報道の仕方がされているのは、倫理を帰結倫理、しかも、金銭だけに限っている点において、公平ではありません。例えば、原発が出来て建設が停止された浜岡原発横の石炭発電所は、工事の着工がされているのでしょうか? 石油代の高騰と言っていますが、日本はイランと特別に禁輸措置に配慮する、という風になっています。この価格は市場価格とは異なるはずです。さらに、日本には石油の備蓄は200日分あります。「独立行政法人 石油天然ガス・金属鉱物資源機構」

 http://www.jogmec.go.jp/jogmec_activities/stockpiling_oil/home_stockpiling/index.html

 メタンハイドレートについても情報を公開しています。是非ともどうぞ。
200日あれば、市場価格の上下は30%以上あるでしょう。最大何兆円の損で最小何兆円の損なのでしょう。あるいは得なのでしょうか。そしてその損は、電力会社を変革させる原動力になるのではないでしょうか。であるのにも関わらず、「石油代が高騰して 金銭的に損をするから、原発再開するのが「公衆の福利」に適う、という考え方をするのは、極端です。
 
 しかし、帰結倫理の欠点として、こうした主張に説得性を与えてしまうことがあります。

 以上が3つの倫理です。

 倫理は、宗教教派、文化、時代、社会構造等々から捉えられますが、技術者倫理ですので、「意図」の問題から捉えました。

 次は、製造物責任法(PL法)です。
 


 
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