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講義録5-2 幸福とは何か

 「幸福とは何か」

 というのは考えれば考えるだけ答えが広がる問ではないでしょうか。
平成25年の答えの1つとして、「哲学から元気がでてくる。不安の受け止め方」として講演しました。詳しくは、以下をご覧下さい。
http://takagikenziro.blog.fc2.com/blog-entry-257.html

 また、お薬が人間の幸福を広げた、という意味から「お薬と人間観」として講演しました。詳しくは以下をご覧ください。
http://takagikenziro.blog.fc2.com/blog-entry-265.html

 昨年の講義録には見つけられなかった答えです。来年度はさらに広げられれば嬉しいと考えています。

 さて、技術者倫理から「幸福とは何か」を見ていきましょう。

 「公衆の福利」は、①数値化できない、②統一的説明が出来ない、という特徴があります。

 この「数字で表せないもの」を考える時、2つの考え方があります。
1つは、筆者でもう1つは教員です。対決して学生の皆さんに考えを深めてもらうために敢えて対決させています。

 「数字で表せないもの」は、幸福です。幸福を生み出すために技術がある、という考え方があります。この幸福について、

筆者:ベンサムの「最大多数の最大幸福」を引用します。
   これは全ての関係者に及ぶ影響をすべて計算する、というものです。

   (筆者は「功利主義のように幸福を数量化できない」という批判を挙げています。答えは書いていません。対して教員はベンサムの文章を読むと数量化できないものも幸福に入れていると考えます。その上で)

   ベンサムの「最大多数の最大幸福」 幸福=快楽
     VS
   教員の「幸福」 幸福≒不快 「≒」はニヤイコールで「だいたい同じ」

 ベンサムのいう幸福は、多くの人々(全員は無理)に、なるべく気持ちよく楽しくなってもらう、という考え方です。携帯電話は、私たちが固定電話にわざわざ動かなければならない体の負担を和らげてくれます。さらに、電話の相手と楽しい会話をさせてくれます。椅子は座りやすくしてくれます。このように

 「幸福=心地よさ、気持ちよさ、便利さ」

 (ただし、ベンサムの言うこの考え方は国家を統治するエリートに向けられている点に留意しなければなりません。技術者の生み出す製造物が国家の存亡を左右する時代ですからもしかしたら大切かもしれませんが)

 対して教員は、あるいは殆どの宗教に共通する真理として、

 「幸福=心地悪さ、不快、不便さ」

 である、と主張します。私の個人的な体験から出発します。私は高校時代、お昼はお弁当でした。4人兄弟でしたし正直母親は料理が得意な方ではありませんでしたから、美味しさを考えるとお弁当よりもコンビニや学校の購買でパンを買った方が美味しかったです。また妹は幼かったのでお弁当を持っていく時にしばしば遅れました。不便だった訳です。しかし、私はコンビニや購買よりも母親のお弁当の方が良かったのです。なぜなら、不快や不便でも幸福だからです。
 アメリカでホームステイしている家に1週間行った時、朝ごはんは、箱に入ったコーンフレークにミルクをかけ、オレンジジュースとスクランブルエッグやレンジでチンしたポテトや人参でした。料理はありませんでした。私は「料理しないのですか?」と思わず聞いてしまいました。

 「だって栄養バランスも良くて、便利で簡単じゃない?」

 という答えが返ってきたと思います(私の英語のヒヤリングは壊滅的に悪いので)。お皿は紙皿で残したらそのままゴミ箱へぽい。洗う必要もありません。確かに便利で、簡単で、心地よく、しかも大量に造られる食べ物ばかりだから安いのです。でも、私は日本の母親の料理が食べられることに幸せを感じました。つまり、私がベンサムを批判するのは、「幸福と快楽」は違う、ということです。

 もう少し身近な例に行きましょう。友人の家に遊びに行った時、美味しいお寿司やピザをとってくれるのと、2,3時間もかけて作ってくれた料理(多少味は落ちる。お金は同額)なら、どちらが心を感じるでしょうか? 幸福だと思われますか? 
 私は2,3時間前から考えていてくれた気持ちに幸せを感じます(補足:茶道の一期一会や、お相手の合わせて料理や茶器を選ぶことと同じだと思います)。また、これは私だけの考えではなくイエスやブッダなども言っている幸福です。

 ここで問2 あなたの幸福の基準は何ですか?

 幸福ではなく、幸福の基準、です。ベンサムは「幸福とは快楽である」という基準、私は「幸福とはえてして不快である」という基準を示しました。

 就職を目指す時、将来を考える時、幸福になりたい、というのは1つの基準になります。では、幸福とは何でしょうか? 敢えて対比させて考えてみるのはどうでしょうか?

 補足になりますが、

 「幸福≒不快」

 とするのは殆どの宗教が言っています。むしろ、「幸福≒不快」と言っていない宗教がインチキ宗教という人もいます。ひろさちや、さんは分かりやすく解説してくれる人なので、是非とも読んで欲しいです。

 『どの宗教が役に立つか 』 ひろさちや 新潮選書 1050円

 「幸福≒不快」で有名な話は、旧約聖書のヨブでしょうし、イエスの言葉なら、新約聖書(マタイ19章16-26節)にある、

 「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」

 という言葉でしょう。
 同じく仏教では、釈迦(しゃか)が、王の地位、溢れる財産、美しい妻、可愛い子供を捨てました。快楽が保証されていた地位を捨てた訳です。数々の宗教が、「金の醜さ」、正確に言えば「金に執着する人間の心の醜さ」を述べています。金が無ければ快適な生活は保障されません。貧しい生活は、日常生活の1つ1つが大変になります。つまり不快になります。毎日風呂にも入れず、美味しいもの、安心な場所が得られず、安全なものを食べれず、自己を慰めてくれる物も無くなります。そしてそれを勧めるのです。何故ならそこに心の真の安寧(あんねい)があると、全ての人間が地域や時代を超えて体験してきたからでしょう。

 さて、講義最初の「立夏」と「皐月」に戻りましょう。これは宗教のレベルではなく日本という地域性を持ったレベルの話になります。日本では、奈良平安時代から「自然と共に生きる」や「皆と共に生きること」が幸せである、という幸福観がありました。また、祖先と一体であることが幸せである考え方(後に儒教によって強まりました)、神話から現在まで万世一系の皇室に皆が連なっている、という考え方などの幸福観もあります。

 「おじいちゃん、おばあちゃんのお陰で私達が産まれた。そしてその出発点が天照大御神(アマテラスオオミカミ:お日様)であり、地上の代表が皇室である。だから、天皇陛下皇后陛下は私達全員を代表している。」

 という考え方を日本人はずーっと持ってきたのです。神道は元々「かんながらのみち(随神の道」と言いまして「神様のように生きよう。良い時も悪い時もあるけれど神様のように美しく生きよう、という意味です。かんながらのみち、とは「かみさま、さながら(のよう)に生きること(道)」です。その神様は、山や木や土や水です。山も水も荒れ狂う時があります。お祭りをして、穢れを払って沈めるのが神道の本質です。

 ですから、「自然と共に生きる」や「皆と共に生きる」のが幸せである、という日本の幸福観が出てくるのです。お正月やお盆は「死者=御先祖様=皆と共に生きる」なのでお休みになっています。キリスト教、イスラム教では別にお祭り(鎮魂)ではないのです。

 さて、最後にまとめに入りましょう。

 以上のように、私は、個人の幸福とは不快であり、社会的幸福とは快楽である、としたいと述べました。まだまだ思いつきですが、技術者倫理の目指す公衆の福利は、快楽を追求することにある、と考えます。ベンサムの考えに修正が必要だと考えますが、ベーコンの言う技術の地位はその通りだと、考えるようになりました。

 結論は幸福とはベーコンの考え方と宗教の考え方の両方だと考えてます。そのバランスが崩れているのが現在の日本ではないでしょうか。特に、道徳においてです。これは追々、講義の中で考えていきたいです。
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