東日本大震災後に現れた東京電力社長個人攻撃の大衆心理についての考察



 東日本大震災の一部である福島原子力発電所事故災害、その対応を巡って東京電力社長の個人攻撃が大衆によって行われた。その大衆心理について考察を述べたい。

 他者を理解しようとする場合、対象の経歴や来歴だけを知るだけでは不十分である。履歴書の経歴欄、学歴、職業欄を見ただけで他者を理解しているとは言いがたい。裏面にある「自己アピール」や「趣味」や「特技」と言った他者の自己認識を求めるものである。さらに、面接などで他者を理解して就職の採用を決める。
これは、過去の客観的な来歴と現在の状況や立場だけでは他者を理解しきれず、他者の自己認識を求めるからである。同じ高校に進学し、現在も同じような成績であっても「努力した結果で勝ち取りました」と誇らしげに肯定の自己認識を持つ者と、「あんまり努力せずに適当にやっていたら何とかなった」と意志薄弱さの自己認識を持つ者とを、私達は同一の他者と認識しないのである。であるから、「自己アピール」や面接を通して、他者の自己認識を聞く訳である。
そしてその自己認識には、ある種の「筋」が必要になってくる。「筋」は、アリストテレスの述べるように生まれてから現在まで同一である必要がない。苦難や挫折をバネにして自己認識が転換し前向きになることに、なんら不適当さを感じないのである。その「筋」を知り、私達は他者が過去と現在をどのように認識しているかを知り、さらに未来に向けてどのように対応するかを決定しているものなのである。就職活動のみならず、友人や家族などの私の立場でも同様である。暴言や暴行などの罪を犯した者に対して、単にその行為だけで判断するのではなく、当人の反省具合という自己認識に基づく「筋」を聞き、受け入れるかどうかを判断する。そして就職活動や犯罪などの日常性から離れた場合、危機的状況などには特に求められている。こうした「筋」を求める社会的欲求が私達の中にある。

東日本大震災の被害は100年前の大震災と同じ規模であった。100年に1度、あるいは1000年に1度の大震災は、危機的な状況、つまり日常性から離れている。さらに、原子力発電所が爆発しテレビで動画が流された。それまで「原子力発電所は絶対に安全」という安全神話がややまかり通っていた実情も、非日常性を強めた。
極めて強い非日常性によって、私達はパニックとなった。パニックの際に行うのは普段通りの行動であり、それゆえ、私達は東京電力に「筋」を求めた。日本国政府は客観的事実を伝える会見を順次行ったが、先ほど述べたように「筋」ではない。過去と現在の客観的事実は履歴書の学歴と職業歴に過ぎず、重要ではあるが、自己認識を伝えるものではない。首相官邸は枝野官房長官の会見を行った。技術的な視点から批判されうる枝野官房長官の会見は、「枝野ねろ」という言葉(フレーズ)がついた。それは会見内容という客観的事実ではなく、会見姿勢という枝野官房長官の自己認識への言葉(フレーズ)であった。
対して東京電力は、そうした会見姿勢を見せないままであった。法律に基づかず東京電力内に対策本部を作るなど日本国政府の不手際もあるが、社長、現場の技術者や担当役員等々がどのように今回の事故を自己認識しているか、という姿勢が一切伝えられなかったのである。つまり、東京電力とは何者で、何をしているのか、どのように今回の事故を考えているのか、という「筋」が伝えられなかったのである。さらに、福島原子力発電所内の災害情報が充分に伝えられない、という客観的事実の不足も重なった。これは青山繫晴氏によって多少、補われた。
極めて強い非日常性を受けて大衆は、福島原子力発電所に強い関心を呼び起こされた。その関心は客観的事実に向かわず、東京電力の「筋」を求めるものに結びついた。それが満たされず、東京電力の自己認識を求める欲求は、東京電力社長への個人攻撃へと結びついた。自己認識を求める欲求は、「東京電力社長である個人、への攻撃」ではなく、あくまでも「東京電力の自己認識を発するべき人間への攻撃」へと結びついた。自己認識を求める欲求はあくまでも東京電力全体の「筋」を求める声なのである。それゆえ、「東京電力社長である個人」が退任した後、大衆は個人攻撃を止めたのである。
まとめ、として「東日本大震災後に現れた東京電力社長個人攻撃の大衆心理」は、極めて強い非日常性が大衆に「筋」を求めさせたこと、東京電力がその「筋」を満たさなかったことによって引き起こされたと考える。

現在でも大衆は、意識の底流では東京電力への否定的な感情を持ち続けている。なぜならば、東京電力が過去の客観的事実を踏まえた上で、どのように自らを認識しているか、どのように危機や困難を乗り越えていくか、という「筋」が聞こえて来ないからである。
東京電力は「事故を踏まえて安全を確保していきます」と述べている。しかしながら、この説明は「筋」とは言えないものなのである。ハイデガーは「すべての現存在が、たがいに混入しあって存在している」ような「誰でもない者」を「世人」と言うが、これは社会の中の常識をただ語るだけの存在に過ぎないのである。当人の自己認識ではなく、社会の中で一般的に通用する考えを、あたかも自分の考えであるかのように語る存在なのである。強い非日常性を受けた時、このような社会一般に通用する考えだけを語る「世人」に私達は疑いの目を向けるのである。
就職活動の履歴書に、就職マニュアルの抜粋だけを書き写した学生を私達は信用するだろうか。何度も犯罪を繰り返した人物が「私はひどいことをした。全て私が悪い。反省してやり直したい」と言った時、私達は疑いの目を向けないだろうか。強い非日常性に晒された時、私達が求めるのは、マニュアル化や社会一般に通用するよう類型化されている言葉ではなく、当人個人の自己認識という「筋」なのである。
ハイデガーは「世人」を脱するには、他の誰でもない自己の死を意識した時であると述べ、「先駆的決意」と言う。そこには「独自性」が現れるからであろう。私達が東京電力の社長に聞きたかったのも、東京電力の解体や倒産も意識いた上でどのようにするか、という「先駆的決意」ではなかったのだろうか。

私は、「先駆的決意」には「敗戦後の独占体制を含めた東京電力の「独自性」をどのように再構築していくか」という問いが含まれると考える。そうした問いが東京電力から出されることを切に願っているし、東京電力への信頼回復にとって技術面での安全確保とともに必須だと考える。

参考図書 坂本 多加雄著『象徴天皇制度と日本の来歴』
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

    名前:高木健治郎

書いたもの(平成29年度)
哲学(平成28年度)
科学技術者の倫理(平成28年度)
書いたもの(平成28年)
科学技術者の倫理(平成27年度)
哲学(平成27年度)
書いたもの(平成27年)
哲学(平成26年度)
「科学技術者の倫理(平成26年度)
講義録「哲学」
書いたもの(平成26年)
書いたもの(平成25年)
論文(高木健治郎の)
講義録「科学技術者の倫理」(平成25年度)
高木ゼミ『銃・病原菌・鉄』
高木ゼミ全6回『ぼくらの祖国』
教養講座6回分(平成24年度)   講義録21~
講義録「科学技術者の倫理」(平成24年度)     講義録1~15
最新記事
講義録「科学技術者の倫理」(平成23年度)
石上国語教室で行われた講演のレジュメです。哲学が足りなかったのが、福島原発事故の原因の1つではないか、と考えています。

「哲学のススメ2」レジュメ

最新コメント
カテゴリ